2014.3.2「神に求めたヨシャパテ Ⅱ歴代誌17:1-6」

 ヨシャパテは、南ユダの四代目の王様です。イスラエルのダビデに次ぐ、善い王様ではないかと思います。現在、多くの国は王制ではなく民主国家であり、大統領や首相が国を治めています。日本も含めて、「このような政治をしたなら神さまの祝福が受けられる」という共通点が記されています。また、国レベルまでいかなくても、教会や個人のあり方においても十分に学ぶところがあります。きょうは、Ⅱ歴代誌17章から20章まで、1章ずつ分けながらお話したいと思います。

1.神に求めたヨシャパテ

 Ⅱ歴代誌17章から、ヨシャパテがした良いわざを見てみたいと思います。17:2「彼はユダにあるすべての城壁のある町々に軍隊を置き、ユダの地と、彼の父アサが攻め取ったエフライムの町々に守備隊を置いた。」国が軍隊を持つことの是非はともかく、国を守ることは大切だと思います。ヨシャパテは攻撃するためではなく、国を守るために城壁の町を作り、守備隊を置きました。私たちも心の中に守りが必要ではないでしょうか?何を見るか、何を聞くか情報を制限することが必要です。現代は情報があふれ過ぎて、不必要なものまで入ってきます。また、どんな仕事をするか、どんな人と付き合うか、どんな教会に属するかも考えなければなりません。当教会は聖書を誤りなき神のことばとして、信じている教会です。メッセージのジョークは霊感されていませんので、少し笑って聞き流してください。また、ヨシャパテは霊的に正しい道を求めました。17:3-4「主はヨシャパテとともにおられた。彼がその先祖ダビデの最初の道に歩んで、バアルに求めず、その父の神に求め、その命令に従って歩み、イスラエルのしわざにならわなかったからである。」北イスラエルは手て造った神々を拝んでいました。しかし、彼はダビデの道を歩み、バアルの神ではなく、真の神さまに求めました。彼は「その命令に従って歩んだ」とありますが、それは律法と命令を守ったということです。9節にありますが、彼はレビ人の中から、リーダーを任命し、主の律法を教えるために町々を巡回させました。その結果、どうなったのでしょう?17:5「そこで、主は、王国を彼の手によって確立された。ユダの人々はみなヨシャパテに贈り物をささげた。彼には、富と誉れが豊かに与えられた。」アーメン。10節以にそのことが具体的に書かれています。17:10-12そこで、【主】の恐れが、ユダの回りの地のすべての王国に臨んだため、ヨシャパテに戦いをしかける者はだれもなかった。また、ペリシテ人の中から、ヨシャパテに贈り物とみつぎの銀を携えて来る者があり、アラビヤ人も、彼のもとに羊の群れ、すなわち、雄羊七千七百頭、雄やぎ七千七百頭を携えて来た。こうして、ヨシャパテはしだいに並みはずれて強大になり、ユダに城塞や倉庫の町々を築いた。」言うことなしという感じです。このように、神さまを第一に求めるならば、祝福が後からついてくるのです。この原則は国家レベルにおいても、個人の生活においても適用できる神の法則です。法則というのは、どの時代、どの国、どんな人にも共通して起こる真理であります。

 続いて、Ⅱ歴代誌18章にはヨシャパテの失敗した出来事について記されています。彼は神さまが憎んでいる北イスラエルと同盟を結びました。歴代誌18:1-2「こうして、ヨシャパテには富と誉れとが豊かに与えられたが、彼はアハブと縁を結んだ。何年かたって後、彼が、サマリヤに下ってアハブのもとに行ったとき、アハブは彼および彼とともにいた民のために、おびただしい羊や牛の群れをほふったうえ、彼を誘い込んで、ラモテ・ギルアデに攻め上らせようとした。」政治においては、他の国と同盟を結ぶことはとても重要かもしれません。南ユダは、父アサの時代に、北イスラエルに責め込まれたことがありました。その理由もあってか、ヨシャパテは北イスラエルのアハブと同盟を結びました。その証として、アハブの娘を自分の息子の嫁にもらいました。このことが後で災いの火種になります。ヨシャパテは、北イスラエルと同盟を結んだために、アラムとの戦争に誘われました。アラムは戦場において、イスラエルの王だけを狙いました。姑息にも、イスラエルの王は普通の兵士に変装していました。なんと、王服を着ていたヨシャパテがアラムに取り囲まれてしまいました。そのとき、ヨシャパテが助けを求めたので、主が彼を助けました。アラムの一人の兵士が何気なく弓を放ちました。その矢がイスラエルの王の首から胸に刺さりました。王は血を流したまま戦車の上で死にました。ヨシャパテは命からがら逃げてきました。

 Ⅱ歴代誌19章には、ヨシャパテが悔い改めたことが記されています。ヨシャパテが戦争から帰ってきたとき、予見者からこのように言われました。19:2「悪者を助けるべきでしょうか。あなたは主を憎む者たちを愛して良いのでしょうか。あなたの上に、主の前から怒りがくだります。しかし、あなたは良いことも幾つか見られます。あなたはこの地からアシェラ像を除き去り、心を定めて神を求めて来られました。」このとき、ヨシャパテは心を翻して主に従いました。彼の父アサは、予見者から忠告されたとき、怒りを発して、彼に足かせをかけて拘留しました。両足が病気になっても、主に求めることをしませんでした。しかし、ヨシャパテは悔い改めて、国を正しく治めました。Ⅱ歴代誌19章4節からヨシャパテが行ったことが1つ1つ記されています。彼は、民の中に出ていき、その父祖の神、主に立ち返らせました。また、ユダにあるすべての城壁のある町々にさばきつかさを立て、主を恐れ、正しいさばきをするように命じました。また、エルサレムにおいては、レビ人と祭司あるいは一族のかしらたちの中から、主のさばきと訴訟に携わる者たちを任命しました。ヨシャパテは彼らにも「主を恐れ、忠実に、また全き心をもって、行いなさい。」と警告しました。そして、最後に「勇気を出して実行しなさい。主が善人とともにいますように」と祝福しました。まとめていうなら、王は司たちを任命し、彼らに権威を与え、正しいさばきをするように命じたということです。英語にエンパワリングという言葉があります。日本語では、「権威委譲」とか、「能力付与」などと訳されています。ヨシャパテは一人で国を治めることができません。それでふさわしい長を選び、彼らに、政治、防備、裁判、律法の教育などを任せていったということです。彼らに対して、主を恐れるように警告し、励まし、そして祝福しました。ヨシャパテはダビデやソロモンのようなカリスマ的なリーダーではありませんでしたが、忠実に国を治めた王様でした。

 私たちは前半のメッセージからどのようなことを適用として学ぶべきでしょうか?ヨシャパテの良いところは何だったのでしょうか?Ⅱ歴代誌17から19章までお話しました。また、第二ポイントでは20章からお話します。それら中で、注目すべきことばがあります。それは、ヨシャパテが「神に求めた」「主の助けを求めた」ということです。残念ながら、北イスラエルのアハブと同盟を結ぶときは、神に求めませんでした。だから、失敗を犯してしまいました。20章後半でも再び、北イスラエルと同盟を結び、失敗しました。しかし、他のところでは神に求めたので、神さまの守りと祝福が及びました。彼は神さまからいただいた王としての権威をひとりじめしないで、長たちを選んで分与しました。私たちの信仰生活において、神さまに求めている分野と、神さまに求めていない分野があるのではないでしょうか?でも、「神に求める」とはどういう意味なのでしょうか?箴言3:6-7「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵のある者と思うな。【主】を恐れて、悪から離れよ。」とあります。「どこにおいても、主を認めよ」と例外はないということです。私たちはこの世のことに対しては、頭が切り替わってしまいます。いろんな保険がありますが、「万が一のことがあるから」と言われて、補償を大きくします。医者の診断を絶対的なもののように信じます。多くの医者は責任逃れするために、最悪のことを言います。お金のこととなると、信仰を度返しする人がいます。特に経済的に手腕のある人がそうです。自分の得意分野になると、別のスイッチが入って、主を認めないで、自分の知恵や力でやってしまいます。

本当に私たちは意識しないと、主を忘れ、自分の思いを優先させてしまいます。そのためには、まず手を休めて、祈ることが大切です。いろんな祈りがありますが、重要なことに対しては両手を組みます。これは大変すばらしい形だと思います。「主よ、今、このところでもあなたを認めます。私自身の力には頼りません。どうかあなたが助けてください。私の思いではなく、あなたの思いがなりますように。どうかあなたのみこころが、私の思いを支配しますように。アーメン。」しばし、そのような時間を持つと、思いが切り替わるのではないでしょうか?神さまに求めることは、弱々しいという意味ではありません。むしろ、主の助けを求めながら、主の王道を歩むということです。この世の道が目の前に美しく開かれているかもしれません。あるいは、八方塞がりの時もあるでしょう。しかし、どんな時でも、神さまを求めましょう。そうすると、この世には隠された道が開けてきます。箴言3:6-7「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵のある者と思うな。【主】を恐れて、悪から離れよ。」

 

2.主を賛美したヨシャパテ

Ⅱ歴代誌20章には、敵がユダ王国に攻めて来た時のことが記されています。ヨシャパテはどう対処したのでしょうか?Ⅱ歴代誌20:1-4「この後、モアブ人とアモン人、および彼らに合流したアモン人の一部が、ヨシャパテと戦おうとして攻めて来た。そこで、人々は来て、ヨシャパテに告げて言った。『海の向こうのアラムからおびただしい大軍があなたに向かって攻めて来ました。早くも、彼らはハツァツォン・タマル、すなわちエン・ゲディに来ています。』ヨシャパテは恐れて、ただひたすら【主】に求め、ユダ全国に断食を布告した。ユダの人々は集まって来て、【主】の助けを求めた。すなわち、ユダのすべての町々から人々が出て来て、【主】を求めた。」恐れたヨシャパテは、ひたすら主に求めました。それだけではなく、ユダ全国にも断食を布告し、主に助けを求めさせました。それから、ヨシャパテは主の宮の庭で、みんなの前で祈りました。とても長い祈りです。祈りの内容が20章6節から12節まで記されています。簡単にまとめますと、まず神さまがどんなお方なのか呼びかけています。「あなたの御手には力があり、勢いがあります。だれも、あなたと対抗して、もちこたえうる者はありません」とほめたたえています。次に、現在の状況を述べています。「アモン人とモアブ人、そしてセイル山の人々をご覧ください」と訴えています。最後に「おびたたしい大軍を前にして、私たちとしては、どうして良いか分かりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです」と祈りました。ヨシャパテ一人で、主の前に立ったのではありません。ユダの人々全員、それに彼らの幼子たち、妻たち、子どもたちも共にいました。つまり、ユダの民、総出で、主に求めたのです。普通の王様だったら、「俺に任せろ!」とか言って、勝手に戦うかもしれません。しかし、ヨシャパテは自分の弱さを丸出しにして、祈りました。

そうしたら、どのような主のおことばがあったのでしょう?旧約聖書の時代は、今と違って、神さまと民の間に、預言者がいました。預言者が主から受けたことばを語ります。しかし、新約の時代は、聖霊がおのおのに語ってくださいます。預言者がいないわけではありませんが、多くの場合は、確認を与えるためです。ヨシャパテが民の代表に立って祈ったら、どうなったでしょうか?預言者は「主があなたがたにこう仰せられます。あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから」と言いました。「彼らに向かって、出陣せよ」と命じられましたが、主はどのような戦法をヨシャパテたちに与えたのでしょうか?一般に戦いをする場合は、武装した者が一番前を進みます。しかし、この時は、主を賛美する人たちが彼らよりも前に立って行進しました。Ⅱ歴代誌20:21-23「それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。『主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。』彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。アモン人とモアブ人はセイル山の住民に立ち向かい、これを聖絶し、根絶やしにしたが、セイルの住民を全滅させると、互いに力を出して滅ぼし合った。」ヨシャパテは、兵士よりも聖歌隊を前に進ませました。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」と、彼らが喜びの声、賛美の声を上げ始めたとき、「主は伏兵をもうけて襲わせた」とあります。しかし、「伏兵」とはだれか分かりません。最終的に、彼らは互いに力を出して滅ぼし合いました。同志打ちです。ユダは1つも戦っていません。ただ、聖歌隊が賛美しただけです。ヨシュアたちが城壁の周りをまわって、時の声を上げたとき城壁が崩れました。しかし、聖歌隊の賛美で敵が打ち負かされたという話は、このところしかありません。兵士よりも、聖歌隊を前に出して、戦わせたヨシャパテの信仰をここに見ることができます。いつも、こういう戦いをすべきだとは思いませんが、「この戦いは、神の戦いである」と信じたからです。

そういえば、どこの軍隊にも、軍楽隊(ミリタリーバンド)というものがあるようです。金管楽器や太鼓などの楽器を用いて、行進します。そのなごりなのかもしれません。ヨシャパテが立てた歌い手の中には、聖なる飾り物を着けて賛美する者もいたようです。どんな飾りか分かりませんが、金とか銀の光ものだったのではないでしょうか?昨年のKGCのクリスマス・コンサートでも光りものを着けて歌っていました。賛美は神さまを立ち上がらせ、敵を打ち負かしてくれる絶大な効果があるようです。そういえば、使徒の働き16章にも似たような物語があります。ピリピの暴動に巻き込まれ、パウロとシラスが鞭打たれ、牢にぶち込まれました。普通だったら、「何でこんな目に逢わなけりゃいけないんだ!」とつぶやいたり、嘆くところです。しかし、二人は手かせ足かせを掛けられたにも関わらず、真夜中ごろ、神に祈りつつ賛美の歌を歌いました。「主をほめよ。主をほめよ。主の御名をほめよ」手拍子を打つ度に、「ガチャガチャ」という音がしたのではないでしょうか?他の囚人たちは、「真夜中に歌うなんて、迷惑な奴らだなー」と思ったでしょう。しかし、「何だか元気が出そうな歌だなー」と聞き入っていました。ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動きました。それだけではありません。獄舎のとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまいました。普通の地震ではそんなことが起こらないでしょう。そうです。神さまが地震を起こして、二人を救おうとされたのです。この奇跡によって、看守とその家族が救われました。このところからも、賛美には力があることがわかります。

このことを現代の私たちにどのように適用することができるでしょうか?かなり前に、マーリン・キャロザーズが『賛美の力』という本を書きました。この本の中にヨシャパテのことが書かれていました。「困難な場に直面して、主を賛美することは結構なことであり、良いことです。しかし、馬鹿げたことはやめましょう。神は自ら助ける者を助けられるのです。出て行って、可能な限りは戦い、出来るだけのことはすべきです。そしてあとは神にまかせるのです」と私たちは言うかもしれません。もし、ヨシャパテが変わったことはしない方が良いと決断して、部下に戦うように命令したとすれば、その結果は違っていたのではないでしょうか?その戦いが神の戦いであって、私たちの戦いではないということを受け入れようとしないために私たちの多くは絶えず周囲の状況に負けてしまうのです。敵に対抗できない自分の無力さが分かっている時ですら、私たちは神の力に目を向け、ゆだねることを恐れています。このことが、自分の知性の占めるべき立場を誤らせてしまう点なのです。『私は理解できない。だから、あえて信じることをしない』というわけです。この戦法は、ヨシャパテの知性を動揺させたに違いありません。しかし、ヨシャパテは、知性をもって主により頼み、信頼したのです。」と書いてありました。つまり、「人間の知性では全く愚かに見えても、まず、神さまに信頼し、神さまを賛美しなさい」とこの本は勧めています。実際、本の中には麻薬中毒の兵士が賛美と感謝によって解放された記事とか、自殺を考えていた未婚の母が賛美と感謝によって生きる力が与えられたという記事がいくつも書かれています。ある青年が、大家さんの1室を借りて住んでいました。大家さんには3歳くらいの一人娘がいたのですが、この子が癇癪持ちで、彼がそこに移り住んでからずっと、ほぼ毎晩、泣き叫ぶ声が聞こえくるので彼はそれに悩まされていました。あるとき、彼は「賛美の力」という本に出会いました。その本には「現状のありのままの状態のすべてを感謝すること。神への賛美を通して、神の力がその状況に働き始める」と書いてありました。事実、聖書は神への賛美の言葉であふれています。彼はこう祈りました。「イエス様、大家の娘さんがいつも泣き叫んでいることを感謝します。このことで私が悩まされていることを感謝します。また、このことが働いて私の益になることを信じ、感謝します。すべては主なる神の御手の中にあり、主がなさることはいつも最善なので感謝します。」彼は何日か祈り、そして、そのことについてすっかり忘れていたある日でした。彼と一緒に、下の別の部屋に住んでいた友人が、「そういえば最近、あの子泣かねえよなぁ」と言いました。ここ何週間、彼女が泣いている声が全く聞こえてこなかったので、そのことについてすっかり忘れていたのです。

 どうして、賛美には力があるのでしょう?Ⅱ歴代誌20:22「彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、人々を襲わせた」と書かれていました。私は「伏兵」とは主の御使いであると信じます。私たちが主に向かって賛美すると、主が御使いを私たちのために遣わしてくださるのです。つまり、これは霊的戦いのことを私たちに教えているのです。エペソ6章には「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものである」と書かれています。悪しき霊との戦いにおいては、私たちの知性や力では勝ち目はありません。どんなことでも、ヨシャパテのように、神さまに求める必要があります。そして、私たちの知性では理解しえなくても、現状のありのままの状態のすべてを感謝しましょう。なぜなら、神への賛美を通して、神の力がその状況に働き始めるからです。ヨシャパテのように、いかなる時でも神を求め、主を賛美しましょう。