2014.3.9「火を下したエリヤ Ⅰ列王記17:1-16」

 エリヤは「主は神である」という意味です。ソロモンの後、北と南に王国が分裂しました。北王国のヤラベアムは、自分勝手に神殿を作り、金の子牛を拝ませました。それ以来、北王国には、良い政治を行う王は一人も起こりませんでした。Ⅰ列王記16章後半にその頃の背景が記されています。南ユダのアサ王の第38年、オムリの子アハブが北イスラエルの王になりました。彼は、以前のだれよりも主の前に悪を行いました。最悪の王、アハブは異邦のシドン人のイゼベルを妻にめとりました。彼はイゼベルに言われるまま、バアル信仰を大々的に導入しました。バアルは農壌神であり、性的堕落をもたらす祭儀が組み込まれていました。そこに、突然エリヤが現れ、アハブに主のことばを告げました。

 

1.訓練を受けたエリヤ

 Ⅰ列王記17:1「私の仕えているイスラエルの神、【主】は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」これは、偶像礼拝に対する、主のさばきであります。露も雨も降らなければ、穀物を収穫できないし、家畜も草を食べることができません。当然、エリヤは命を狙われるでしょう。17:2-3「それから、彼に次のような【主】のことばがあった。「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」エリヤは主のことばどおりにしました。するとどうでしょう?烏が朝になると彼のところにパンと肉を運んできました。また、夕方になるとパンと肉を運んできました。エリヤはそれを食べ、川から水を飲みました。烏が人からパンと肉を盗むということは聞いたことがあります。しかし、何かの間違いでしょうか?あの狡猾で自己中の権化の烏が、人に食べ物を持ってくるとはどういうことでしょう?ここで注目すべきことは17:4「私は烏に、そこであなたを養うように命じた」という主のことばです。そうです。全世界を支配しておられる、神さまが烏に「谷川にエリヤという人物がいるから、朝と夕にパンと肉を運べ」と命じたのです。数羽の烏は「カァ」と叫んで、交代、交代に、どこからかパンと肉を見つけて、エリヤのもとに忠実に運んだのです。本当は自分たちで食べたかったのに、エリヤに与えたのです。ちょっと常識では考えられません。「すごいなー」と思います。でも、烏に養われたエリヤはどう思うでしょうか?「俺は、烏に養われているのか?俺は、烏よりも劣るのか?」と思ったのではないでしょうか?これが重要なのです。大預言者エリヤはまず、烏に養われる必要があったのです。

次にどうなったでしょう?Ⅰ列王記17:7 「しかし、しばらくすると、その川がかれた。その地方に雨が降らなかったからである。」命の綱であった、川の水もなくなりました。そこまで、ききんが深刻だったと言うことです。さあ、どうしたら良いでしょう。17:8「すると、彼に次のような【主】のことばがあった。『さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。』」こんどは、烏ではなく、異邦人のやもめを頼れと言うのです。烏もそうですが、やもめも頼りにならない存在ではないでしょうか?そのやもめは、最後のパンを食べて、子どもと一緒に死のうと思っていました。ちょうど、パンを焼くためのたきぎを拾うために出て来ていました。エリヤは彼女に出会って、何と言ったでしょう?「水さしから水を飲ませてください」。さらに、「一口のパンを持ってきてください」と言いました。「人でなし」という言葉は、こういう時に使うのではないでしょうか?やもめと子どもの最後の食事を「私によこせ」と言っているからです。彼女には、かめの中の一握りの粉と、つぼの中にほんの少しの油しかありませんでした。やもめは、言われたとおり、小さなパン菓子を作り、エリヤのところに持っていきました。しかし、どうなったでしょう?Ⅰ列王記17:16「エリヤを通して言われた【主】のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。」パンを作ると、使った分だけ、かめには粉が増えました。また、使った分だけ、つぼの油が増えました。翌日、パンを作ると、使った分だけ、かめには粉が増えました。また、使った分だけ、つぼの油が増えました。次の日も、次の日も、不思議なことが続きました。「いつまでも、なくならなかった」ということです。「そんな馬鹿な?」と言わないでください。これは、主の奇蹟です。アーメン。おそらく、1年以上、雨が降るまで、こういうことが続いたと思われます。やもめと子どもは、エリヤを世話したことによって、自分たちも生き延びることができたのです。エリヤはこのあと天から火をくだす奇跡を行います。神さまは御自分が用いようとする人には、必要な訓練をお与えになります。彼は3年半、身を隠していました。ケリテ川のほとりでは烏に養われました。川の水がかれた後は、シドンのやもめのところに身を寄せました。しかし、神さまはエリヤを忘れてはいませんでした。Ⅰ列王記18:1「それから、かなりたって、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。『アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう。』」

エリヤは大きな奇跡を行う前に、3年半の訓練を受けました。どのような訓練でしょうか?Ⅰ列王記16章後半からよく出てくる表現は「主のことば」とか「主のことばのとおりです」。合計6回出てきます。「ケリテ川で烏に養われよ」と言われれば、「主のことばのとおりにしました」。また、「シドンのツァレファテのやもめのろころへ行け」と「主のことば」があれば、それに従いました。主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油がなくなりませんでした。その後、やもめの息子が突然、死にました。やもめは「世話をした私に災いを下して、息子を死なせるのですか」と恨み事を言いました。しかし、エリヤはその子のために祈りました。すると、その子は生き返りました。やもめは「今、あなたが神の人であり、主のことばが真実であることを知りました」と告白しました。エリヤは「主のことばは必ずなる」という、信仰の訓練を受けたのです。こういう信仰の積み重ねが、やがて、天から火を下すことのできる信仰となったのです。私たちはまず、ふだんの生活において、主のことばのとおり生きるという信仰の訓練が必要です。その積み重ねが、やがて大きな信仰へと成長するのです。

2.天から火を下したエリヤ

Ⅰ列王記18:17-19 「アハブがエリヤを見るや、アハブは彼に言った。『これはおまえか。イスラエルを煩わすもの。』エリヤは言った。『私はイスラエルを煩わしません。あなたとあなたの父の家こそそうです。現にあなたがたは【主】の命令を捨て、あなたはバアルのあとについています。さあ、今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエルと、イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者とを集めなさい。』」それから、2つの祭壇がつくられました。1つはバアルのために、もう1つはエリヤが言う主のために、です。それぞれ、牛を切り裂き、たきぎの上に載せます。しかし、火をつけてはいけません。エリヤはこう言いました。Ⅰ列王記18:24「『あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は【主】の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。』民はみな答えて、『それがよい』と言った。」天から祭壇に火を下すことができた方が、まことの神さまだということです。一方は450人のバアルの預言者、他方はエリヤひとりしかいません。そこにいたイスラエルの民は、どっちにつくか迷っていました。まず、バアルの預言者たちが祭壇を作り、たきぎの上に切り裂かれた雄牛を載せました。彼らは朝から真昼まで、「バアルよ。私たちに答えてください」とバアルの名を呼びました。しかし、何の声もなく、答える者もありませんでした。そこで、彼らは自分たちが作った祭壇の周りを踊り回りました。エリヤは彼らをあざけって言いました。ここからは、リビングバイブルを引用したいと思います。「もっと、もっと大声を出せ。そんな声じゃ、お前たちの神には聞こえんぞ。だれかと話し中かもしれんからな。トイレに入っているかもしれんし、旅行中かもしれん。それとも、ぐっすり寝込んでいて、起こしてやる必要があるかもしれんな。」「トイレ」とはものすごく砕けた訳です。彼らはますます大きな声で呼ばわり、剣や槍で血を流すまで自分たちの体を傷つけました。夕暮れ時まで騒ぎましたが、何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もありませんでした。8時間くらいそうしていたのでしょう。あとで、450人のバアルの預言者が剣で殺されますが、疲労困憊の状態で抵抗できなかったと思います。

さあ、こんどはエリヤの番です。エリヤも同じ祭壇を築いて、たきぎの上に切り裂いた雄牛を載せました。しかし、それだけではありません。エリヤはわざと燃えにくくするために、たきぎの上に三度も水をかけさせました。また、祭壇の周りに溝を掘らせ、そこにも水を満たしました。私もキャンプ・ファイヤーを何度も見たことがありますが、たきぎに水をかける人はいません。これでは、マッチや着火マンがあっても無理です。預言者エリヤが進み出て、こう祈りました。Ⅰ列王記18:37「私に答えてください。【主】よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、【主】よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」18:37「すると、【主】の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。民はみな、これを見て、ひれ伏し、『【主】こそ神です。【主】こそ神です』と言った。」なんと、いけにえだけではなく、祭壇の石まで焼き尽くし、溝の水もなめ尽してしまいました。おそらく、落雷のように火の玉が下ったのでしょう。その後、エリヤは「バアルの預言者たちを捕えよ。ひとりも逃すな」と、民たちに命じました。エリヤは彼らをキション川に連れて下り、そこで彼らを殺しました。なんという力ある預言者でしょうか。エリヤはイザヤのように文章は残しませんでした。しかし、行動によって「主が神である」ことを教えたのです。エリヤはたった一人で、バアルの預言者450人と、アシェラの預言者400人と戦いました。イスラエルの民は「どっちにつくべきか」迷っていました。しかし、天から火が下って来て、民たちはエリヤの神が本当であることを知りました。私たちはエリヤの情熱と勇気を学ぶ必要があります。私たちのまわりに、神さまを信じない人が99%いようとも、信仰を捨ててはいけません。私たちの神さまは必要とあらば、天から火を下してご自分がまことの神であることを証明してくださるからです。

 

3.大雨を降らせたエリヤ

 Ⅰ列王記18:41以降に、エリヤが祈って大雨を降らせた記事がのっています。エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずき、自分の顔をひざの間にうずめました。一体、どんな格好で祈ったのでしょう?必死に祈ったのでしょう。エリヤは、従者に「さあ、上って行って海のほうを見てくれ」と言いました。従者は「何もありません」と答えました。エリヤは「七たび繰り返すのだ」と言いました。再び、エリヤは顔をひざの間にうずめ祈りました。その後、従者が見に行きました。「何もありません」。また、エリヤは顔をひざの間にうずめ祈りました。その後、従者が見に行きました。「何もありません」。また、エリヤは顔をひざの間にうずめ祈りました。その後、従者が見に行きました。「何もありません」。また、エリヤは顔をひざの間にうずめ祈りました。七度目、従者は「あれ。手の平ほどの小さな雲が海から上っています」と言いました。しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となりました。近くに来ていたアハブ王は、車(馬が引く車)に乗って、避難しました。主の手がエリヤの上にあったので、エリヤは腰をからげて、アハブの前を走って行きました。何というパワーでしょう。

 新約聖書のヤコブ書にエリヤのことがこのように記されています。ヤコブ5:17 「エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」ヤコブは雨が降らないように熱心に祈りました。3年半、雨が降りませんでした。その後、雨が降るように再び祈りました。そうすると雨が降り、地はその実を実らせました。この祈りによる奇跡は、どんなメッセージなのでしょうか?実はバアルは農作物の農壌をもたらす神と考えられていました。この神は雨と霧と露を支配し、カナン人の農耕の鍵を握っているとされていました。しかし、エリヤの神こそ、まことの神であり、雨を3年半留め、また再び雨を降らせました。エリヤはそのことを民たちに証明したのです。でも、その奇跡が起こるために、エリヤは祈る必要がありました。旧約聖書においてエリヤは特別な人物と考えられていました。なぜなら、天から火をくだしたり、雨をとどめたり、また、降らせたりしたからです。現代の科学の力をしても、そんなことは不可能です。天気の予報はできますが、天候を変えることはできません。

 ここで注目すべきことは、エリヤは雨が再び、降るために7度、祈ったということです。7は聖書では完全数です。ですから、エリヤは雨が降るように祈り抜いたということです。7度目に従者が「あれ。手の平ほどの小さな雲が海から上っています」と言いました。本当に小さな雲だったと思いますが、祈りの答えが見えました。エリヤは激しい大雨がやってくることを知りました。しるしが見えたならば、もう祈っていません。私たちも回数はともかく、神さまのしるしが見えるまで、祈り抜く必要があります。私も祈りますが、祈り抜くというところまで行かないときが多くあります。祈りが一方通行で、「きっと届いたと思います」位です。もちろん、どのような祈りであっても神さまは聞いてくださいます。しかし、こういう神さまの奇跡が起こるように祈る祈りは、普通の祈りでは足りないと思います。しるしが見えるまで、祈り抜くということが大事です。私も癒しの祈りを良くしますが、一生懸命になって、目をつぶって祈ってしまいます。私に癒しを伝授してくださった中島先生は、「目をつぶってはいけない、目を開けて祈りなさい」と教えてくださいました。聖霊様がその人に触れているかどうか見ることができるからです。「あ、聖霊様が何かをし始めたな」と分かったら、あとは任せれば良いということです。私たちの生涯で、祈り抜いたという経験がおありでしょうか?

先月、関東コーチングで横田先生がここでメッセージしてくださいました。会堂建築を今年始めることになったそうですが、役員の中に建築士1級の人がいるそうです。その方が、東京オリンピックが決まったので資材が30%上がったと言いました。今、手元に1億円しかありません。もし、それに合わせるとしたら、30%質を落とさなければなりません。横田先生はそういう場合は、飯能市の名栗川上流に祈るために行きます。川のそばにテントを張り、たき火を起こして、祈るわけです。あるときは、テントに泊まるそうです。まあ、熊が出るようなところです。横田先生はマタギに見えるので、熊も怖がるかもしれません。そのとき、祈りに祈りました。そうしたら、神さまが必要を与えてくださるという信仰が来たそうです。つまり、予算で会堂を決めるのではなく、ビジョンで決めるという信仰をいただきました。そのことを役員会に語ったら、みんな「そうしよう」と一致できたそうです。大変励ましを受けましたが、「私は最近、そのような祈りはしていないなー」と反省させられました。なぜ、エリヤは7度もしるしが見えるまで祈ったのでしょう?なぜ、私たちはある場合、祈り抜かなければならないのでしょうか?それは、サタンが私たちの祈りを邪魔しているからです。特に、環境や状況を変えるための祈りは、祈り抜かなければなりません。神さまは第三の天におられます。私たちが住んでいる地上は第一の天です。しかし、その中間の第二の天は霊的な世界です。天使も働いていますが、悪魔も働いています。もし、私たちが「みこころならばお願いします」とか「できたらお願いします」みたいな中途半端な祈りなら、途中でつき飛ばされてしまうでしょう。たとえば、バスケットボールで、だれかがシュートしたとします。しかし、相手側はジャンプして手前でボールを叩き落とそうとします。敵のドリブルやパスを奪うことをインターセプトと言います。追撃機が追撃するときも言うようであります。サタンは神さまと地上の間にいて、私たちの祈りを奪い取ろうとします。もちろん、私たちは霊的には神さまの御座にいます。しかし、奇跡を呼び求めるための祈りは、地上から必死に祈る必要があります。どうしてもそこには、霊的な妨げが伴います。そこで、私たちはサタンの妨げを破って、祈り抜く必要があります。

 使徒パウロはエペソの人たちに、とりなしの祈りの重要性を教えています。とりなしの祈りというのは、その人に代って祈ることです。どうしても、本人の祈りが弱いときがあります。あのパウロですら、自分のために祈ってくださいとお願いしています。エペソ6:18-19「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。」日本は、北イスラエルと同じような偶像の国です。首相自ら、偶像を拝んでいるような国です。また、まことの神さまも、聖書も信じていない日本人は、サタンの思うままになっています。私たちは自分のためだけではなく、教会のため、家族のため、地域社会のため祈る必要があります。神さまは全能のお方ですが、私たちの祈りを通してでなければ、働けない分野があります。世の終わり、エリヤのようにみことばにまっすぐ従う人とエリヤのような祈りが必要です。エリヤはたった一人で戦ったのですから、人数の多さではありません。当時の人々は、火をもって答える神を待っていました。今の人たちも、本当の神さまがいたなら、信じたいと思っているのではないでしょうか。神さまからチャレンジをいただいたら、それにこたえる者となりましょう。エリヤの神は火をもって答える神です。私たちも、エリヤのように祈り抜いて、神さまの奇蹟を体験したいと思います。