2014.3.16「燃え尽きたエリヤ Ⅰ列王記19:1-8」

 先週は、エリヤがバアルの預言者450人と戦い、天から火を下して勝利したという記事から学びました。しかし、きょうの記事を見ますと、エリヤは一人の怒り狂った女性におじけづいています。全く、別人のようであります。挙句の果て、「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください」と祈っています。あの大預言者エリヤに、そんなことがあるのでしょうか?ヤコブ書5章には「エリヤは、私たちと同じような人であった」と記しています。ということは、大預言者であっても、私たちと同じような弱さがあったということです。なんという慰めでしょうか?

 

1.エリヤの燃え尽き

 アハブは、エリヤがしたすべての事と、預言者たちを剣で皆殺しにしたことをイゼベルに告げました。イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言いました。「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」つまり、「お前も同じように剣で殺してやるから待っていろ!」ということです。普通だったら、エリヤは、負けじと立ち向かうところです。ところがどうでしょう?Ⅰ列王記19:3-4「彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、自分は荒野へ一日の道のりを入って行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「『主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。』」なんということでしょう?天から火を下し、バアルの預言者450人とアシェラの預言者たちを剣で打ち殺した同じ人物だとは思えません。大預言者エリヤがたった一人の怒り狂った女性を恐れて、「もう十分です。死にたいです」とは、一体どういうことなのでしょう? 

 まず、イゼベルのことについてお話したいと思います。イゼベルはシドン人の王エテバアルの娘で、政治的同盟のためにアハブと結婚しました。彼女がバアル礼拝をイスラエルに大々的に持ち込んだ張本人です。今や、エリヤによってバアルの預言者たちが殺されてしまいました。イゼベルは手負いの熊のように、怒り狂っていたのです。しかし、「天から火をくだすことのできる大預言者がなぜ恐れるのか」と思うでしょう?かなり前に、エリヤハウスで「イゼベルの霊」ということを学んだことがあります。エリヤハウス・ミニストリーは、マラキ4:6「彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」から来ています。世の終わりになると、本当の父がいなくなり、家庭が壊れてしまうということが預言されています。エリヤハウスの1つの目的は、父の霊的権威を回復させるということです。しかし、それに対抗するために、イゼベルの霊が出現してくるということです。黙示録2章には、テアテラの教会に対して、こういうことばがあります。黙示録2:20「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。」世の終わりに、エリヤに対抗するようなイゼベルも出現するということです。これは、父の権威に対抗するイゼベルの霊であります。その証拠に、現代は、権威ということを否定するばかりか、男性が女性化しています。しかし、正しい権威はあるのです。旧約聖書に出てくるイゼベルは、バアル信仰をイスラエルに持ち込みました。しかし、アハブは王なのに、彼女のなすがままになっていました。そのため、主の預言者が殺され、国民もバアルに傾いていました。エリヤはバアルの預言者を殺し、民を真の神に向けようとしました。しかし、イゼベルが逆襲したのです。エリヤは一人の女の脅しに、おびえてしまいました。イゼベルの霊を侮ることはできません。今も、イゼベルの霊は、霊的権威とリーダーシップを弱体化するために働いています。

 では、なぜ、エリヤは彼女を恐れ、自分の死を願ったのでしょうか?それは、鬱と燃え尽きになったからです。ちなみに、鬱と燃え尽きは双子の兄弟です。エリヤはたった一人で、バアルの預言者450人、アシェラの預言者400人と戦いました。大きな声で「主よ。私に答えてください」と祈り求めました。そうしたら、天から火が降ってきました。その後、預言者たちを剣で殺しました。それで終わりではありません。カルメル山の頂上に登って、雨が降るように7度祈りました。そうすると、大雨が降って来ました。その後、エリヤはアハブの馬車の前を走りました。カルメル山からイズレエルまで、約35キロあります。フル・マラソンよりも少し短い距離です。バアルの預言者たちとの壮絶な戦い、必死の祈り、そして35キロ走ったらどうなるでしょうか?肉体的に、心理的に、そして霊的にクタクタだったと思います。そこにイゼベルの恐喝です。世の中に、ヤクザの恐喝でおびえて、夜も寝れない人がたくさんいるのではないでしょうか?エリヤが疲労困憊し、バーンアウトしているときに、イゼベルの恐喝がヒットしたのです。バーンアウトしている人を倒すのは簡単です。ひとこと、刺すような言葉を発すれば良いのです。「しっかりしてよ。それでも父親?」「それでも牧師?」おおー、そのまま倒れてしまうかもしれません。ある大学の心理学博士がこのように言っています。「10年前は2万人ほどだった日本の年間自殺者が、3万8千人へと急増しています。その増加部分の多くが中高年男性です。自殺をした中高年の多くが、本人も気づかないまま、うつ病になっていたようです。以前の日本であれば、中高年男性は職場や家庭内で尊敬されていました。しかし今や終身雇用、年功序列は崩れ、父親としての権威も失墜しました。中高年男性は自殺率と共に犯罪率も高まっています。また失業率と自殺率はこれまでリンクしてきました。社会構造の変化と大不況の中、今日本の中高年男性は危機的状況にあります。自殺する中高年男性は、必死で家を守り、プライドを守ろうとしてがんばり、ポッキリと折れていきます。」 

 ウェイン・コディロ牧師が『あなたが燃え尽きてしまう前に』という本を書いています。ウェイン・コディロ自身も52歳のとき、鬱と燃え尽きになり、3年間ミニストリーを休んだそうです。その本の中に、ウェイン・コディロ牧師の経験と酷似している「先達の証言」がありました。「私は誰よりも先に、自分が燃え尽きかけていることに気づきました。それで周りの人たちに休暇が欲しいと言い続けたのですが、帰ってくる答えはいつも、「今はこれこれのプログラムの最中ですから、あなたがいないと困ります」でした。そしてさまざまなことを私のところに持ってくるのですが、私は判断力に霧がかかったような状態になっており、決断がつきませんでした。私は人と向き合うことを避け始め、ついにはオフィスに行けなくなってしまいました。涙が止まらなくなった私を見て、周りの人々もついに休養の必要を理解してくれました。私が何かの罪を犯したのではないかと疑う人もいましたが、その時の私は自分のことだけで手いっぱいで、他の人のことを考えている余裕はありませんでした。人生のどん底と言ってもいい大変な時期でしたが、今振り返ってみると、何物にも替え難い大切な教訓をその時期に学んだと思います。私は神さまに腹を立てていました。祈りが聞かれていないと感じたからです。いくら答えを求めても与えられず、絶望感でいっぱいでした。教会でも数々の問題が起こり、何故そんなに問題ばかり起こるのだろうと感じていました。毎日、神さまとは何者なんだろうかと言う疑問と格闘し、信じることを諦めそうになっていました。私の理解では、神さまは祈り、断食すれば必ず解決を与えてくれる方だったのです。バーンアウトの初期の頃は、とにかく前進することだけを考えました。その頃は良く「お前ならできる」と自分に言い聞かせた物です。私は混乱していました。何度も何度も、「一体どうしてこうなってしまったんだ?」と自問しました。

 ヤコブが「エリヤは、私たちと同じような人であった」と記しているのは、何と言う慰めでしょうか?あの大預言者エリヤも鬱と燃え尽きになったのです。私たちも多忙な社会において、鬱や燃え尽きになる可能性があるということです。クリスチャンは「霊的には」とか、「信仰によって」と言いがちです。しかし、これは心と肉体の問題です。全部、霊によって解決しようとすると、空回りに終わってしまうかもしれません。私たちは土の器という肉体の中に、宝を持っていることを忘れてはいけません。

 

2.エリヤの回復

 神さまは燃え尽きたエリヤをどのように取り扱われたのでしょうか?神さまは、御使いを遣わしました。Ⅰ列王記19:5-7「彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、『起きて、食べなさい』と言った。彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入ったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。それから、【主】の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから」と言った。」エリヤがケリテ川に身を隠していたとき、主はからすに命じて養わせました。朝と夕に、からすがパンと肉を運んでくれました。その次に主は、ツァレパテのやもめに命じて給仕させました。今度は、天の使いの世話を施しました。沢村五郎と言う人が『聖書人物伝』という本で、エリヤのことを書いています。「天の使いは夜もすがら彼を抱きつつ見守ったであろう。その夜の眠りは、どんなに甘かったことであろうか。天の使いの優しい手ざわりに心地良く目覚めて、まくらもとを見ると、そこにはパンと水が備えられている。エリヤは慈母の膝に目ざめた幼児のように、食べ、かつ飲んだ。そのなごやかな安息の気分は、また彼を眠らせた。主の使いは再び彼を起こして、食べさせ、かつ飲ませた。エリヤの心身は、深い眠りと飲食によって再び爽やかにされたであろう。」アーメン。私も「天の使いの世話を受けたいなー」と思いました。家内は看護師ですが、私は滅多に病気で倒れることがありません。医学を否定するようなことを言って、喧嘩をふっかけることがあります。しかし、強靭な私も10年に1回くらい弱ることがあります。10数年前は、インフルエンザにかかり立てなくなりました。迎えに来たタクシーまで歩けませんでした。昨年の9月は熱中症にかかり、初めて救急車に乗りました。病院で3時間くらい点滴を受けました。この時ばかりは、家内が天使に見えました。

 エリヤはさらに深い神の取扱いを受けるために、40日40夜、歩いて、神の山ホレブに着きました。ホレブというのは、モーセが十戒を受けた同じ山です。主は「エリヤよ。ここで何をしているのか」と仰せられました。Ⅰ列王記19:10-12「エリヤは答えた。『私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。』主は仰せられた。『外に出て、山の上で主の前に立て。』すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。」エリヤは自分の悩みを主の前にさらけだしました。まるで、泣き言のように思えます。それに対して、主は何も答えていません。ただ、「外に出て、山の上で主の前に立て」と仰せられただけです。激しい大風、地震、火という描写は何を想像させるでしょうか?そうです。モーセがシナイ山の頂で経験したことと全く同じです。主が現れたときは、雷と稲妻、火と地震がありました。おそらく、エリヤもそのように自分に語ってくれるだろうと期待したのでしょう。しかし、主は風の中かにも、地震の中にも、火の中にもおられませんでした。火のあとに、かすかな細い声がありました。これは、一体どういうことでしょう?エリヤのこれまでの奉仕は、どちらかと言うと劇的なものでした。たった一人で戦い。天から火を下し、剣でバアルの預言者を切り殺し、大雨を降らせました。その後、イゼベルの恐喝で屈してしまいました。本当に激しい戦いで、霊も心も体もボロボロでした。鬱と燃え尽きの人に、大風や地震、火、あるいは大声で語ってはいけません。か細い命が、消し去られるでしょう。主は、かすかな細い声で語られました。なんという、主のおはからいでしょうか!

 先ほど引用した、エリヤハウスで燃え尽きの癒しについて書かれていました。「中でも第三段階まで燃え尽きが進んでしまった人の場合、神様からの慰めすら冷たい石のようにしか感じられなくなるからである。みことばを読んでも、何の慰めにもならないこともあるだろう。だから祈りも、意味がないように思われることがある。一生懸命、尽して、尽して、奉仕してきた。しかし、最後には見放されたような心境になっているからである。だから、私たちは無条件にサポートするように助けていかなければならない。一緒に過す時間をその人が求めるなら、それはすばらしいことである。一緒に何か、面白い映画に行くことも良いだろう。自分がこれまで背負っていた重荷について忘れられるような映画など。「ゴミ捨て場の犬になりましょう」というのがある。アメリカの犬の中でも、ゴミ捨て場にたむろしているような野良犬は、すごく怖い。「お前たちにとっては、ゴミ溜かもしれないが、俺たちにとっては大事なゴミ捨て場だ」と吼えてくる。私たちも同様に「この人は、燃え尽きて、今は役に立たないような人間に見えるかもしれないが、でも、私たちの大事な友人です」という態度で、私たちはその人を守って行かなければならない。それほどの忠誠心を尽してその人を守ってあげることが大切である。そういう人のことを頭に思い浮かべては涙が出る。多少回復してきて、初めて自分についていろいろなことが見えるようになってくる。自分が苦しんでいることの意味というのが分かるようになってくる。」

 主なる神は、エリヤに具体的な解決策を与えました。第一は、「ダマスコのハザエルに油を注いで、アラムの王とせよ」と命じました。第二は、「ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ」と命じました。第三は、「シャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ」と命じました。エリシャはエリヤの後継者になる人です。預言者の務めは、王や預言者に油を注いで、任命することです。では、だれがアハブ王とイゼベルをさばくのでしょうか?エリシャが任命した王や預言者がさばくと言っています。Ⅰ列王記19:17「ハザエルの剣をのがれる者をエフーが殺し、エフーの剣をのがれる者をエリシャが殺す。」Ⅱ列王記10章に、エフーによって、主がアハブの家について告げられたことが成就したことが記されています。アハブの家は跡形もなく滅ぼされてしまいました。エリヤは「私はたった一人で戦い、たったひとり残りました」と主に告げています。しかし、そうではありませんでした。Ⅰ列王記19:18 「しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」エリヤは全イスラエルが真の神から離れ、バアルを拝んでいると思っていました。「自分には一人も味方がいない」と孤独な戦いを続けていました。しかし、そうではありません。主は、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった7000人を残しておかれました。7000人とは、エリヤの支持者たちです。エリヤは意識していませんでしたが、7000人がエリヤのために祈って支えてくれていたのです。ハレルヤ! 

 7000人とは結構な数ではないでしょうか?日本も宣教が難しい国であると良く言われます。宣教師が何十年も働いても、実が結ばないで、失望のうちに帰国する人がたくさんいます。日本の牧師たちは「自分のところがいかに難しいか」といつくも理由をあげます。「いや、私の方がもっと難しい」と競い合ったりします。しかし、それは違います。主が北イスラエルに、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった7000人を残しておかれました。同じように、この日本にも純粋な信仰をもっている人たちを用意しておられると信じます。実は使徒パウロもローマ11章でこのみことばを引用しています。パウロの時代はユダヤ人がキリストを信じないばかりか、教会を迫害しました。それで、パウロは異邦人のところに福音を伝えました。しかし、どうにかして同胞のユダヤ人が救われないものかと、祈っています。ローマ11:3-5「『主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。』ところが彼に対して何とお答えになりましたか。『バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。』それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。」パウロは、7000人のことを「恵みの選びによって残された者」と言っています。私たちは「ああ、もっと伝道しなければならない」と思います。伝道も大切です。しかし、もっと大切なことは、神さまはこの日本にも、「恵みの選びによって残された者」を備えておられるということです。ギャラップの調査によると、「日本には潜在的なクリスチャンの数が3割いる」というデーターがありました。彼らは「私はクリスチャンです」と、公に告白していません。また、こういう地方教会にもつながっていません。でも、心の中で、「もし、神さまを信じるならキリスト教の神さまだな」と思っているということです。「勝手なこというな!」とギャラップに文句を言いたくなります。しかし、神さまはこの日本にも、「恵みの選びによって残された者」を備えておられるということです。献身者一人が戦っているのではありません。牧師一人が戦っているのでもありません。そうではなく、神さまはバアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者、7000人を用意しておられます。ここにいる私たちは「私はクリスチャンになります」「私はクリスチャンです」と表面に出てきた人たちです。しかし、まだ、日本には表に出て来ていない、潜在的なクリスチャンが大勢いるということです。聞くところによると、創価学会の代表が死んだら(もう死んだという説もありますが)、3分の1がキリスト教会に来るだろうと言われています。彼らの中にも真面目に神さまを求めている人たちがいるのです。「キリストの神さまがこそが本物ではないだろうか?」と教会にやってくるかもしれません。そのとき、私たちは「アーメンその通りです」と彼らを受け入れ、彼らを養育していく責任があります。そのためには、私たちは命がけで、キリストの神さまを信じて、愛している必要があります。せっかく彼らが教会にやって来たのに、「なーんだ。なまぬるい信仰だな」と躓かせてはいけません。肉的にがんばる必要はありませんが、「エリヤの神は私の神」と誇りながら、全身全霊をもって従っていきたいと思います。この日本にも、恵みの選びによって残された者が多数いることを信じましょう。