2014.3.23「二倍の分け前 Ⅱ列王記2:1-9」

きょうは奉仕の原動力についてお話ししたいと思います。私たちには生来の賜物が与えられています。あるものは生まれつき、またあるものは努力して身に付けたものであります。しかし、神様はご自身に仕える者たちのために、霊的な力を与えて下さいます。この霊的な能力がなければ、たとえ生来の賜物が豊かであっても、神様のわざを行なうことはできません。本日、登場しますエリシャはエリヤの後継者として任命されました。しかし、彼は自分自身に霊的な力不足を感じていました。「私もエリヤが持っている神の霊がなければ、預言者としてやってゆけない」と切なる渇きを覚えていました。

 

1.二倍の分け前

 イゼベルによる迫害が続いていたので、預言者たちはいくつかの場所に隠れて住んでいたようです。同時に、そこは預言者スクールのようではなかったかと思われます。エリヤは、彼らがいるべテル、エリコ、ヨルダンを回って歩きました。おそらく、自分がまもなく、天に引き揚げられるので別れを告げるためでしょう。「まもなく先生がいなくなる!」エリシャは霊的な力を授けていただきたいために、べテル、エリコ、ヨルダンとエリヤ先生の「追っかけ」をしました。「追っかけ」といいますのは、お目当ての役者さんの公演場所について行く熱心なファンがやることです。エリシャは紀元前850年頃の最も古い「追っかけ」であります。大和カルバリーの大川先生もひところ、ベニー・ヒンの追っかけをしていたようです。オーランド、トロント、ロス、ハワイ・・・など各所のベニー・ヒンのミラクル聖会に行かれていたようです。そのとき、ベニー・ヒンは日本からはるばる来られている大川先生を見つけ、何度か講壇にお招きしたようです。なぜ、大川先生はお金と時間をかけて、追っかけをしたのでしょう。それは、霊的な賜物をいただいて、日本に持ち帰りたかったからだと思います。大川先生は病を持っている人を見ると、「ああ、なんとか癒して差し上げたい」とものすごい同情心が湧くそうです。さらに先生は聖霊による癒しの賜物を求めて、アルゼンチンやアメリカ、リバイバルの起こっている所に出かけました。

 さて、エリヤがいよいよ、ヨルダンに来たときです。エリヤは「ここにとどまっていなさい」とエリシャを制止しました。それでも彼は、「私は決してあなたから離れません」と食い下がりました。Ⅱ列王記2:7-9節「預言者のともがらのうち五十人が行って、遠く離れて立っていた。ふたりがヨルダン川のほとりに立ったとき、エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打った。すると、水は両側に分かれた。それでふたりはかわいた土の上を渡った。渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。『私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。』すると、エリシャは、『では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように』と言った。」「二つの分け前」は英語の聖書では、let a double potion of your spirit be upon meとなっています。直訳すると「あなたの霊の二倍の分け前が私の上に下りますように」という意味です。旧約の時代、長男は父親から、他の兄弟たちに比べ、二倍の財産を譲り受けることができました。エリシャは後継者として、2つの分け前が欲しかったのです。それは、恩師よりも優れた預言者になりたいという野望からではなく、より困難な時代にあって霊的な力が必要だったからです。また、エリヤが「むずかしい注文をする」と言ったのは、自分ではなく、神様ご自身が決めることだと理解していたからです。まもなく、エリヤはたつまきに乗って天に上って行きました。エリシャがなお追いかけようとしたとき、二人の間に、1台の火の戦車と火の馬たちが現われました。エリシャが「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫んでいる間に、エリヤの姿は見えなくなりました。すると、上からエリヤが着ていた外套がヒラリ、ヒラリと落ちてくるではありませんか。それを受け取ってから、エリシャの上に、エリヤが持っていた神の霊がとどまるようになったのです。

 さて、このところから何か思い起こすシーンはありませんでしょうか。そうです。イエス様が天に昇られるとき、弟子たちに「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)と言われました。続編の使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」と言われました。弟子たちは3年半もイエス様から薫陶を受け、十字架と復活の目撃者でもありました。ところが、人々を恐れ、戸を閉じて隠れていました。弟子たちは十字架と復活の知識はありましたが、全く力がありませんでした。そのため、彼らはイエス様が天に引き揚げられてから10日間、聖霊を待ち望みました。ペンテコステの日、約束どおり、「いと高き所から力を着せられた」のです。その日から、弟子たちは、全く別人になり、大胆に福音を語るようになりました。そればかりか、イエス様が行なっていた同じような奇跡も行なうようになりました。エリシャがエリヤに求めたものと、弟子たちが受けたものと同じ聖霊の力であります。カルバリーチャペルのチャックスミスや韓国のチョーヨンギ先生はこのようにおっしゃっています。未信者の人たちにはイエス様はそば(by)にいます。ヨハネ黙示録では「私は戸の外にたってたたいている」と書いてあります。イエス様がすぐそばにいるので、その人がイエス様を救い主として心にお迎えするなら、その人の中に入られます。中は、英語でinであります。人がイエス様を信じると聖霊が内側に住んでくださいます。すべてのクリスチャンは聖霊を内側に宿しています。これは旧約時代にはなかったことで、新約の私たちが受けるすばらしい恵みです。しかし、それだけでは、力がありません。上から(upon)という満たしの経験が必要なのです。先ほど引用しました、使徒1:8は「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき」と書いてあり、upon youとなっています。エリシャもyour spirit be upon meと言いました。つまり、上からというのは油が器に注がれるようなイメージがあります。だから、よく、按手の祈りをしたとき、聖霊に満たされる経験をするのではないかと思います。

ギリシャ語で「賜物」のことをカリスマと言います。第一の意味は、聖霊ご自身が賜物です。第二は、聖霊が下さる霊的な賜物です。賜物つまり、カリスマということばは、この世では、なぜ誤解されているのでしょうか?社会学者のマックス・ウェバーが「カリスマ的支配」と言いました。この場合、特別な能力を持った英雄的な指導者という意味で使われています。そして、キリスト教会では、「カリスマは、危ない邪道的な力」みたいに考えられています。日本のキリスト教会は西洋の合理主義が基盤にありますので、奇跡や癒しは過去のものであると考えています。特に預言の賜物が教会に現れたとき、牧師たちが混乱しました。牧師は自分の地位が脅かされたように思ったのでしょう。また、ペンテコステやカリスマの教会では、霊的な力を持っている人を「神の器である」と敬います。また不思議なことに、聖霊の賜物を持っている先生というのは、魅力があります。大体、聖霊に満たされているのに、人間的には全く魅力がないというのは矛盾しています。でも、これが行き過ぎると、神様よりも人物に目が向けられてしまい、気が付くと大きな躓きを招くことがあるのです。だから、キリスト教会では「カリスマは危ない」と言って、霊的賜物を退けます。それは、まるで、たらいの水と一緒に赤ん坊も捨てることと似ています。「熱物に懲りて、生酢を吹く」という諺もあります。刃物や原子力でも使い方を間違えると、非常に危険です。これと同じようなことが聖霊の力にもあるのではないかと思います。

 では、どのようにしたら良いか。霊的な力と人格とは違うということです。先ほども言いましたが聖霊は、第一に私たちの内側に住んで、私たちを聖めてくださいます。聖霊によって罪や肉から解放されて、栄光から栄光へと変えられるのです。また、聖霊は神さまに奉仕できるように、能力を与える「力の霊」です。使命感だけでは、神さまに仕えることができません。聖霊が下さる賜物は神さまに仕えるためにあります。ですから、品性と力のバランスが必要だということです。クリスチャンであるならば、すでに聖霊が宿っています。しかし、エリシャのように上から力を受け、満たされる必要があります。新約の時代は、聖霊の力は何か特別な人に与えられるものではありません。使徒2:17-18「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する」と書いてあります。「隣人を愛する力をいただきたい」、「罪に打ち勝つ力をいだだきたい」、「神様に仕える能力をいただきたい」。こういうエリシャのような切なる飢え渇きが重要です。神様は「聖霊に満たされなさい」と命じておられます。それは背後に「私が満たしてあげます」という約束があるということです。私たちは息を無意識にしています。息を吸うのと止めるとのどちらが難しいでしょうか。同じように、聖霊は私たちを満たしたいのですから、私たちが抵抗しないで、信仰をもってお迎えすれば良いのです。不思議な体験とか劇的な体験は必要であれば与えられます。しかし、そういう体験がなくても、「神様の約束に従って、求めました。だから、与えられたと信じます。アーメン。」信仰によって受け取るのです。そうすると、体験があとから与えられます。

 

2.二倍の奇蹟

 エリシャはエリヤが行なった同じような奇跡を行なっています。しかし、エリヤが行なわなかった奇跡も数多く行なっています。第一のポイントで「二つの分け前」についてお話ししました。本来は二倍という意味ではないのですが、エリシャはエリヤの二倍の奇跡を行いました。いわゆる「倍返し」であります。後半はその中で2つの出来事を取り上げたいと思います。4章にはやもめとその家族のことが記されています。エリヤのときと、ちょっとだけ違います。預言者の夫が死に、多額の負債を負い、二人の子供を奴隷に売らなければならない、やもめがいました。エリヤは彼女に、空のつぼを持ってくるように命じました。彼女は「家には壷が1つしかありません」と言いました。Ⅱ列王記4:3-7「すると、彼は言った。『外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。家に入ったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。』そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。『もっと器を持って来なさい。』子どもが彼女に、『もう器はありません』と言うと、油は止まった。彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。『行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。』おそらく、壺、何十個分もの油だったでしょう。彼女はそれを売って負債を払うことができました。めでたしめでたしですが、この奇跡で興味深いことがあります。最初の1つの壺から、からの器に次々と注いでいきましたが、からの器がなくなったとき、油が止まったということです。この奇跡をもっと、比ゆ的に解釈できないでしょうか。

かなり前、大川先生がアルゼンチンにいかれたとき、ある講師がこのところからメッセージなさったそうです。最初の1つの壺は聖霊に満たされた人であります。そして空の壺というのは聖霊の満たしを求める人たちです。よく、リバイバルの起こっているところでは、満たしと言わないで「油注ぎ」と言うようです。とにかく、油注ぎを受けたのは自己満足のためではありません。それを他者に与える使命があります。1つの壺から多くのからの壺を満たすことができましたが、からの壺がなくなったときに、油注ぎも止まったということです。それで、講師は「エリシャがからの器を探して持ってきなさい」と命じたように、「あなたがたは受けた以上は、満たされていない人を探してでも、満たして上げなさい」とチャレンジしたそうです。大川先生はそれに非常に感動し、返りの飛行機で、「からの壺をさがして満たす」という歌を作ったそうです。帰国後、大川牧師は按手祈祷を始めました。そして、全国から大和教会に油注ぎや癒しを求めて、来られたようです。ところが、一時期、何かの理由でやめたそうです。しかし、そのときに癒しの奇跡もストップし、自分自身も霊的に枯れてしまったそうです。大川先生がおっしゃるには、「油注ぎを受けた以上は、どんなことがあっても、ミニストリーを続けなければならない」と悟られたそうです。つまり、按手して祈る人自身に何かがあるのではなく、その器を通して、他の人々を祝福するということが重要なのです。聖歌にも「通り良き管として、用いてください」という歌詞があります。主のしもべは、器もしくは通り良き管に徹するべきなのです。重要なのはそこに入っているもの、注がれる聖霊様です。

 このことを普遍的にとらえますと、私たちも神様から与えられた霊的賜物、霊の力を使わなければ、なくなってしまうということです。神様はある人には5タラント、またある人には2タラント、そしてある人には1タラントの賜物を与えました。5タラント与えられた人は2や1の人を見て高慢にならないで、5タラント儲ける責任があります。2タラントは5タラントの人を羨むようなことをしないで自分の2タラントで行なうべきです。ところが聖書には、1タラントの人は、それをふくさに包み、地を掘って埋めてしまったとあります。彼は主人からしこたま怒られ、その1タラントを取り上げられてしまうのです。それでどうなったか?5タラントの人にあげてしまいました。イエス様は「だれでも持っている者は、与えて豊かになり、持たない者は、持っている物までも取り上げられる」とおっしゃいました(マタイ25:29)。「持っている者は、与えて豊かになる」とはすごいことですね。反対に、持たない者…つまり、わずかなものでも使わない人は、持っているわずかなものまでも取り上げられてしまうということです。なんだか不公平のように思われますが、これが天国の法則です。神様に用いられたいと願う人はもっと能力が与えられ、「神様に用いられるなんてまっぴらごめんだ」と言う人からは霊の賜物が取り上げられるということです。本当に恐ろしいことです。なぞなぞみたいですね。「与えれば与えられるもの。使わなければ、なくなる物なーに」。答えは、神様からの賜物であります。

もう1つ奇跡的な出来事を引用してメッセージを終えたいと思います。エリシャの時代はイスラエルが北と南に分かれていました。さらに、アラムやシリアと戦いを交えることもあったのです。神の人エリヤがいたので、イスラエルの国が守られたと言っても過言ではありません。あるとき、アラムの王様は自分の国にイスラエルのスパイがいるのではと疑いました。なぜなら、こちらの作戦がイスラエルに筒抜けだからです。すると家来のひとりが言いました。「いいえ、王様。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたの寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです」。王様は「行って、彼をつかまえよ」と馬と戦車と大軍とをそこに送りました。エリシャの召使が、朝早く外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊が町を包囲していました。彼は「ああ、ご主人様。どうしたらよいでしょう」とエリシャに告げました。するとエリシャは、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らと共にいる者よりも多いのだから」と言いました。そして、エリシャは「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにして下さい」と主に祈りました。こんど若者が見てみると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていました。何とすばらしい光景でしょう。天の軍勢がエリシャを守っていたのです。詩篇34:7「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される」とあります。神様は私たちが見えなくても、天の使いをめぐらしておられるのです。そういえば、車とか自転車でヒャッとするときがありますね。子供なんかは特にあぶないですね。間一髪で守られたり、たとえ怪我をしても致命傷にならないのは、天の御使いが守っておられるからでしょう。天国に行ったら、そのビデオを見たいと思います。「ああ、あのときもお世話になっていたのですか。知らなかったとは言えお許しください。どうもありがとうございました」と数々のお礼を述べなければならないでしょう。アラムの王はたった一人を捕まえるために、全軍を遣わしました。ところが、エリシャの回りにはそれ以上の天の御使いがいました。結局、アラムの軍隊は一時的に目が見えなくなり、戦うことができませんでした。

私たちは数に頼もうとします。日本にはクリスチャンが少ないので、政治や教育界に意見を述べることができない。確かにそういうところもあります。しかし、聖書を見ますと、数ではなく、神が共におられるかが問題なようです。ギデオンの時などは、敵が海辺の砂のように数え切れないほどいました。ギデオンには3万2000人いましたが、主が「恐れ、おののく者はみな帰りなさい」といわれました。すると、2万2000人が帰り、1万人が残りました。主は、それでも多すぎると言われ、結局300人になりました。たった300人で10万人以上の敵と戦い、勝利したのです。それは、人間の力ではなく、神様がやったとしか考えられません。今から10数年前、新松戸教会から津村牧師が来られ、聖霊刷新祈祷会を当教会で開いたことがあります。津村先生はいつも、「数ではない。たたった1人でも、神様によって変えられた人がいれば、リバイバルは起こる。エリシャがその例だ」と言われたことがあります。そして、先生は一人一人に時間を取り、祈ってくださいました。私は悪い癖で、すぐ人数を数えてしまいます。アメリカとか韓国の大教会を見てきましたので、少人数じゃ寂しいと感じてしまいます。しかし、数も重要ですが、その前に質が重要です。一人一人がちゃんと神様と結びついているかが問題です。一人一人が神様から与えられた賜物を自覚してそれを生き生きと用いているかです。ペンテコステの日、聖霊が下りましたが、「炎のように分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった」と聖書に書いてあります。「みんなに」とか、「全体に」ではありません。「ひとりひとり」にです。生まれも個性も、考えも、好みも違う、賜物も違う、一人一人の上にとどまったのです。「一人一人が大事だ」ということがそこでもわかります。弁慶と義経がごはん粒から、それぞれ糊を作ったという話があります。弁慶は7つ道具の大きな棒を取り出して、器に入れたごはん粒をまとめて、力まかせにこねたそうです。一時にたくさん糊ができました。しかし、よく見ると、粒が荒っぽくて糊としては使えなかったそうです。一方、牛若丸義経は、ごはん粒を1つ1つ丹念につぶしていったそうです。時間はかかりましたが、彼が作った糊は上等だったというのです。人間をごはん粒に置き換えるのは失礼ですが、神様は十把一絡(じゅっぱひとからげ)のようには取り扱いません。一人一人を高価で尊い存在としてご覧になっています。そして、一人一人を恵みに満たしながら、神の人になるように整えて下さるのです。