2014.4.13「十字架上のイエス ヨハネ19:1-7」

 今週は「受難週」と言いまして、イエス様が十字架にかかられたことを覚える週です。金曜日は、受難日、イエス様が十字架にかかられた日です。アメリカでは、受難日をGood Friday、聖金曜日と呼ぶようです。そして、来週の日曜日が「イースター、復活祭」です。一般的に、十字架のことを語るとき、「私たちにどんなにすばらしいものか」とメリットについて語ります。しかし、きょうは、イエス様と父なる神さまから見た十字架について、共に考えたいと思います。

1.拒絶されたイエス

 ヨハネ福音書自体が、受難週の一週間の出来事に集中しています。ヨハネ18章では、イエス様が捕えられ、真夜中に裁判を受けたことが記されています。ヨハネ19章では、イエス様がローマに渡され、死刑を受ける場面になっています。当時、ユダヤはローマに支配されており、勝手に、死刑にすることができませんでした。ローマ総督ピラトはイエス様を何とか救いたいと思いました。しかし、人々はイエス様ではなく、バラバを釈放するように要求しました。ヨハネ19:1「そこで、ピラトはイエスを捕らえて、むち打ちにした。」とあります。ユダヤではその人が死なないように、39回でやめていました。しかし、ローマの場合は限界がありませんでした。ムチの先端が3つに分かれ、動物の骨や金属が編み込まれていました。屈強なローマ兵士が交代、交代で、背中や腹に力いっぱいムチを振り下ろしました。刑を受ける者が簡単に死ねるようにという勝手な温情です。その後、イエス様はローマ兵によって辱めを受けました。当時、「王様ごっこ」というローマ兵の楽しみがあったようです。願い出た人は一日だけ王様になれて、その日は何でもかなえられます。しかし、その日の終わり、殺されるという残酷なゲームです。ローマ兵たちは、ユダヤ人を普段から憎んでいました。なぜなら、どの地方よりも、難しい人たちが住んでいたからです。ユダヤ人の王さまなら、なおさら、いじめがいがあります。だれかが、いばらを摘んできて、それを王冠にしました。笏の代わりに葦の棒、マントの代わりに兵隊のマントを用意しました。おそらく、古いマントは、裏側が紫色に変色してちょうど良かったからでしょう。みんなでイエス様を取り囲み「ユダヤ人の王さま。ばんざい」とからかいました。しまいには、葦の棒を取り上げて、額の上のいばらの冠を突っつきました。つばをかける人、平手でたたく人、さんざんなありさまでした。ゲームに飽きてから、ピラトに渡しました。

 ヨハネ19章4節から16節まで、ピラトとユダヤ人たちとの問答が記されています。ピラトは「私はこの人には罪を認めない」と言いました。しかし、ユダヤ人、特に、祭司長や長老たちは気が狂ったように「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫びました。正気の沙汰とは思えません。しまいには、「カイザルの他には、私たちには王はありません」とまで、言いました。普段は、「主なる神こそが王であり、カイザルなどには仕えるものか」とローマを憎んでいました。ところが、イエス様を十字架で殺せるなら、真実や信仰までもドブに捨てて良いと考えていたのです。教会では日曜日、「使徒信条」を唱えるところがあります。使徒信条には、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と書いてあります。これだと、ポンテオ・ピラトが気の毒です。ユダヤ人たちが十字架につけたのです。むしろ、ポンテオ・ピラトは、罪のないイエス様をなんとか救いたいと願っていました。イエス様はイスラエルの民を救うために、来られたのに、逆に殺されてしまいました。ヨハネ1:11 「この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」イエス様は選民イスラエルから、捨てられてしまったのです。しかし、イエス様は、これまで何度もたとえ話で、そのことを彼らに教えました。ぶどう園のたとえでは、「しもべたちを袋だたきにし、最後にあと取りの息子を殺した」と言われました。そして、「家を建てる者たちが、見捨てた石が、礎の石になった」(マタイ21:42)と教えました。つまり、神の国がユダヤ人から取り上げられ、異邦人に与えられるということです。

 イエス様は、こういう状態を、どう思われたでしょうか?イエス様はある時から、ご自分のことを預言しておられました。マタイ16:21「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」まさしく、エルサレムでユダヤ人たちから多くの苦しみを受け、殺されようとしていました。私だったら、エルサレムではなく、自分を受け入れてくれる他の国に行きたいです。実は、そういう誘惑がイエス様にも来たことがあります。ヨハネ12章に書いてありますが、幾人かのギリシャ人が「先生に、お目にかかりたい」とピリポとアンデレにお願いしました。きっと、ギリシャにお出でくださるよう、お願いに来たのかもしれません。しかし、イエス様は「人の子が栄光を受けるその時が来ました。一粒の麦が地に落ちて死ねば、豊かな実を結びます」とおっしゃいました。つまり、イエス様はユダヤ人たちに捨てられ、エルサレムで死ぬことが分かっていたのです。父なる神さまの計画であり、それ以外の選択肢はないと分かっていたのです。しかし、イエス様は私たちと同じような肉体と心を持っていました。ムチで打たれれば痛いでしょう。また、人々から馬鹿にされたら悔しいでしょう。ましてや、ご自分の民から拒絶されたならばどうでしょうか?悲しみだけではなく、怒りや憤りがあったのではないでしょうか?みなさんの中にも、親から拒絶されたり、友人から裏切られたという経験はないでしょうか?福音書には淡々と書いてありますが、イエス様の肉体とイエス様の魂は、無感覚だったとは思えません。

 イザヤ書53章は「苦難のしもべ」として、イエス様のことを預言している書物として有名です。イザヤ書53:3-4「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」イエス様は生身の人間として、辱めや拒絶、ムチの痛みを体験されました。イエス様は私たちの代わりに精神的にも肉体的にも苦しまれました。私たちの救いの背後に、イエス様の痛みと苦しみがあったことを忘れてはいけないと思います。

2.十字架上のイエス

 ヨハネ19章を見ますと、「十字架」ということばが、16回書かれています。私は「そんなに多いのか」とびっくりしました。「十字架」という名詞よりも、「十字架につける」という動詞の方が多く出てきます。ギリシャ語や英語も「十字」を現すことばはありません。むしろ、「木にはりつけにする」「磔刑に処する」という意味があります。ところで、聖書には十字架がどんなに残酷なのかという説明は一切ありません。それは何故でしょう?当時の人たちは「十字架」と聞くだけで、それが何なのか分かっていたからです。キケロという政治家は、「ローマ市民には十字架を触れさせるな!」と言ったそうです。それほど、十字架は醜悪なものでした。死刑の道具なら、他にもあるでしょう。ギロチンとか、絞首刑もあります。しかし、なぜ、十字架なのでしょうか?十字架は苦しみながら、じわじわと死ぬように発明されました。イエス様は二本の釘が両手に打たれ、1本の釘が重ねた足首に打たれました。それだと、3本の釘に全体重がかかり、横隔膜が上に引っ張られます。だから、呼吸するためには、からだを持ち上げなければなりません。そのとき、釘の部分にものすごい痛みが走ります。普通、十字架は腰のところに木片があり、体を支えられるようになっています。ある人は苦しみながら、3日間くらい生きています。カラスがやってきて、目や頭を突っつくでしょう。最後は発狂して死んで行く者もいたそうです。当然、裸にされ、さらし者にされるのですから、人間の尊厳のかけらもありません。しかし、イエス様がこのような目に遭われたのは、何故だったのでしょうか?もっと、楽な死に方もあったはずです。イエス様は、最も残酷で醜悪であった十字架に付けられたのは理由があります。

イエス様は、もともと人間ではなく、神さまであり、神の子でした。神の御座を捨てて、人間になることも大変なことです。パウロはイエス様の十字架のことをこのように記しています。ピリピ2:6-8「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」この箇所を見ますと、イエス様は受け身的になっていません。「ご自分を無にして、自分を卑しくして、十字架の死にまで従われた」とあるからです。つまり、イエス様は無理やり、嫌々、十字架につけられたのではなく、ご自分から十字架にかかられたという方が妥当であります。このところから、イエス様が死ぬことの価値、あるいは対価の大きさというものを考えることができます。イエス様の死は殉教の死ではありません。歴史上、イエス様よりも残酷で、ひどい死に方をした人がいるでしょう。しかし、「神の子が地上に降りてきて、人間となって、最もひどい死に方をした」となるとどうなるでしょうか?それは、他の人たちの死とは全く違います。もちろん、死の上下とか、死の価値ということを言っているのではありません。別な言い方をすると、「人類を救うためには、神の子が地上に降りてきて、人間となって、最もひどい死に方をしなければならなかった」ということです。最も残酷で醜悪であった十字架がイエス様の死の価値を決めたのです。

この時、父なる神さまはどう思われていたのでしょうか?御子が、ローマ兵によって、ムチを打たれて血だらけになりました。その後、ローマ兵から王様のかっこうをさせられ、馬鹿にされました。ユダヤ人たちが、「十字架につけろ」「十字架につけろ」と叫びました。ピラトはイエス様に「私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを知らないのですか?」と言いました。それに対してイエス様は「もし、それが上から与えられているのでなかったなら、あなたには私に対して何の権威もありません」と答えました。「上から」とは、まさしく父なる神さまからであります。ピラトよりも、父なる神さまが上であり、父なる神さまが、人々が十字架に渡したことを許可されたということです。その後、イエス様は十字架につけられました。最も残酷で醜悪な十字架です。マタイ27:45「さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」「全地が暗くなった」というところから、父なる神さまが、目をそむけているような感じがします。また、イエス様が「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた時、父なる神さまは、耳をふさいで、実際に見捨てたのだと思います。なぜなら、イエス様が全人類の罪を負ったために、御子を裁くしかなかったからです。本当に、御子イエスは、「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」。そのとき、神さまの義が満たされたのではないかと思います。御子が罪の罰を受けることによって、人類を救うことができる道が開かれたのです。それにしても、支払われた代価は大きいものでした。ユダヤの祭司長や長老たちが「十字架につけろ」と叫びました。これが、ご自分が選んだ、アブラハムの子孫です。ローマ兵たちがイエス様に数限りないムチを浴びせました。さらには、いばらの冠をかぶせて愚弄しました。十字架を負わされた後、「どくろの地」という場所で、十字架につけられました。父なる神さまは、1つ1つのシーンを上からご覧になられて、胸が引き裂かれる思いだったでしょう。しかし、それらが、イエス様の死の価値を高めたのではないでしょうか?御子イエスが人類の代表になって、そこまで従われた。残酷で醜悪な十字架を忍ばれて、御子が支払った代価はどれほど大きなものだったでしょうか。最後に、全人類の罪を背負い、杯をお飲みになりました。父なる神さまは、「この御子に免じて、全人類の罪に対する怒りを引っ込めよう。これで人類の罪を赦そう」と決意されたのだと思います。

 

3.完了したイエス

 ヨハネ19:28-30「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた。そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」ここに、「完了した」という言葉が、2回書いてあることに驚きました。2つの「完了」は、どういう意味でしょうか?第一番目の「すべてのことが完了したのを知って」というのは、ご自分が地上で成し遂げたかったことが完了したという意味です。英語の聖書はall things were accomplished、「すべてのことが成し遂げられた」と受け身になっています。他の訳ではall things have been finishedと、「すべてのことが終えられた」と、やはり受け身になっています。自分で成し遂げたというよりも、だれかによって成し遂げられたという意味がこめられています。なぜ、受け身なのでしょうか?イエス様がご自分で成し遂げたのではないでしょうか?第二番目の、イエス様の十字架で叫ばれた「完了した」はどうでしょうか?これも、it has been finished「終えられた」という受身形です。ご自分が終えたというよりは、「終えられた」ということです。実は、私はここまで研究したことがありません。しかし、新約聖書はギリシャ語で書かれていますので、こちらから考える方が妥当です。ギリシャ語ではどちらも、テテレスタイとなっています。やはり、このことばも「完成される」「完全なものにされる」という意味です。しかし、当時、テテレスタイという言葉は、商業用語で「完済した」という意味で使われていました。やはり、これも受身形なので、「完済された、支払われた」というふうになります。

 なぜ、イエス様は受け身で言われたのでしょうか?実は、このようなことを調べたことを少々後悔しました。「なぜ、解けない謎を自分で出したのだろう。そっと、触らないでおいた方が良かったなー」と思いました。しかし、こういうことではないかと思います。確かに、罪の代価を支払ったのはイエス様です。イエス様が命である血を流したことによって、神さまの義が満足されたからです。神さまは私たちが犯した罪については、もう裁きません。なぜなら、御子イエスが十字架で贖ったからです。この一連のことを言うとき、「完了した」「完済した」よりも、受け身で言う方がより、効果的ではないかと思います。なぜなら、聖書は人々に向けて語られ、イエス様も人々に向けて語っておられるからです。つまり、イエス様は十字架の上から私たちに「あなたの罪は完済された。支払われたよ」とおっしゃっているのです。だれによって?もちろん、イエス様によってです。受け身にする方が、よりリアルに聞こえるのではないでしょうか?昔、私が貿易会社に勤めていたころ、クリスチャンの先輩がこのようなたとえ話をしてくれました。鈴木君、僕が君に百科事典をプレゼントすることしたとします。僕が1週間前に、本屋さんに行って代金を支払っておきました。あとは、鈴木君が、その本屋さんに行って、「私が鈴木です。品物を受け取りに来ました」と言えば、百科事典は鈴木君のものになります。でも、「先輩がそんなに気前が良いわけがないだろう。嘘に決まっている」と思って、本屋さんに行かなければどうなるでしょう?鈴木君のものにはならないでしょう。もし、本屋さんに行って中を覗いたらどうでしょうか?あるコーナーに百科事典があり、そこに札が貼ってあります。「売約済、鈴木様」と。正確に言うならば、「完済されたもの、支払われたもの」という受け身になるのではないでしょうか?誰が、支払ったかというと先輩が私のために支払ったのです。そういう時、「支払われている」と受け身で言うでしょう。同じように、イエス様は私たちに対して、「罪の代価は支払われている」とおっしゃっているのではないでしょうか?

 人間の側から見たなら、イエス様はユダヤ人によってローマに引き渡され、十字架にかけられて死んだことになります。ピラトは「ああ、罪のない人が、ユダヤ人から妬みをかって殺されたんだな」と思ったでしょう。多くのユダヤ人も「神を冒瀆したから死刑になったんだ」と思ったでしょう。しかし、神さまの側から見たならばどうでしょう?それは、昔から聖書に預言されていたことであります。アダムの罪によって、罪と死の中に投げ落とされた人類をどうやったら救い出すことができるだろうか?神さまはアブラハムを選び、イスラエルを祭司の国にして、世界を救おうとされました。預言者たちを何人も送りましたが、うまくいきませんでした。最後に御子イエスを送りましたが、逆に殺されてしまいました。しかし、神さまは御子イエスの死を贖いの死に替えてくださったのです。御子は殺されたのではなく、人類の罪を贖うために、十字架の死に渡されたのです。イエス様もそのことをご承知で、地上に人間として来られたのです。イエス様は罪のない生活を送り、神の小羊としてご自身をいけにえとしてささげました。ヘブル書が言うようにご自身の血で、一回で永遠の贖いを成し遂げられました。父なる神さまは、御子イエスの血をご覧になって、満足したのです。「これで、罪ある人間を赦すことができる。御子を信じる者に永遠のいのちを与え、私の御国に住まわせよう」とお決めになったのです。ハレルヤ!もし、イエス様の十字架の死を社会科で習うなら、「ローマに謀反を起こして殺された、ナザレのイエス」です。教会では「私たちの罪のために十字架にかかられ、身代わりに死なれたイエスさま。ありがとうございます」と言うでしょう。しかし、イエス様の立場から、そして神さまの立場から十字架について考えたことがあるでしょうか?イエス様はご自分の民を救いに来たのに、拒絶され、十字架に渡されました。ユダヤ人もローマ兵もさんざん馬鹿にしました。肉体を持ったイエス様はいばらの冠の棘とローマ兵のムチ打ちは、全身に激痛が走ったでしょう。なぜ、人類を救いに来たのに、最も残酷で醜悪であった十字架に付けられなければならないのか?「もう、天国に帰りたい」と思ったかもしれません。父なる神さま、御子がさんざんな目に遭い、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだ時、気が狂わんばかりだったでしょう。でも、そのことによって、父なる神さまは人類の罪をもう責めないと誓ったのです。なぜなら、御子イエスが全人類の罪を負い、代わりに裁きを受けてくれたからです。イエス様ご自身も、十字架の上で「これで成し遂げられた。罪の代価が支払われた」と叫ばれました。ハレルヤ!私たちは今、恵みの時代に生かされています。なぜなら、すべての罪が支払われたことを「ありがとうございます」と受け取れば良いからです。どうぞ、イエス様と父なる神さまが成し遂げられた、救いを受け取ってください。