2014.4.20「見て、信じた ヨハネ20:19-31」

 復活の朝、ペテロとヨハネが墓にかけつけました。墓の中を覗くと、イエス様のからだがありません。ただ、からだを巻いていた亜麻布が置いてありました。そして、イエス様の頭に巻かれていた布切れは、離れた所に巻かれたままになっていました。そのとき、ペテロとヨハネは「見て、信じた」とあります。何を見て信じたのでしょうか?普通、頭に巻かれた布切れをほどいたなら、布きれが広がります。しかし、巻かれたままになっていたとは、まるで、指の包帯がすっぽり抜けたような状態だったのです。指だったら可能ですが、首から頭に巻いた場合はあごが邪魔になりますので、抜けません。だから、二人は、イエス様がよみがえられたことを「見て、信じた」のです。しかし、20:9「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。」とあります。きょうは、イエス様が日曜日の夕方、なぜ、弟子たちの前に現れたのか、その理由をお話ししたいと思います。

 

1.平安を与えるため

 ヨハネ20:19-20その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエス様は早朝、姉妹たちに姿を現しました。姉妹たちは、弟子たちにそのことを話しました。しかし、「そんなの嘘だろう。ありえない」と信じませんでした。マルコ福音書に、本日の箇所が短くまとめられています。マルコ16:14「しかしそれから後になって、イエスは、その十一人が食卓に着いているところに現れて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである。」11人とありますので、長い話を1つにするためにトマスを加えています。弟子たちは、「捕えられたら、きっと殺される」と恐れて、部屋の戸を内側からかぎをかけていました。そこへ、イエス様が来られたのです?どうやって?「すっーと」壁をすり抜けて入ってこられたのです。よみがえられたイエス様には肉体はありましたが、物質に左右されない、栄光のからだでした。イエス様は彼らの中に立って、「平安があなたがたにあるように」と言われました。弟子たちにの恐れと疑いと不信仰が一瞬にして消えました。そして、喜びがあふれてきました。「私たちの主は本当によみがえられたのだ」と分かったからです。

 イエス様は、このように言われたことがありました。ヨハネ14:47「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」弟子たちは、イエス様が与えた平安を失っていました。なぜなら、イエス様が死んで、墓の中に葬られたからです。弟子たちは、「私たちはこのお方にかけていたのに、もう、おしまいだ。父のみもとに行ける唯一の道だと思っていたのに」と思っていたでしょう。多くの人たちは、ここのように考えています。「人間、だれしも、死には打ち勝てない。死んだら終わり。すべてを諦めるしかない。」と。そして、ある人たちは宗教にすがり、生まれ変わりや、極楽浄土を信じています。しかし、それらが本当にあるかどうか、実のところ分からないのです。「キリスト教も宗教じゃないか」とおっしゃるかもしれません。「宗教」には、弱い人たちが、「神さまがいたら何と良いだろう」と思って考え出した信仰であるというニュアンスがあります。つまり、「それが真実だとか作り話だとかと究明するのではなく、心の中で思っていれば良い」というものです。ですから、宗教とは主観的なものであり、人それぞれ信じる対象が異なっても良いということになります。しかし、イエス・キリストが他のと違うのは、死からよみがえられたことです。キリスト教は「あったら良いなー」とか「信じたら幸せだ」という、精神的なものではありません。「キリスト教」という言い方もイヤなのですが、他にないので仕方がありません。とにかく、私たちの信仰は、イエス様が死んで、三日目に、よみがえられたという事実に立っているということです。イエス様は、死なない栄光のからだになりました。私たちもやがてイエス様と同じからだが与えられます。そうすれば、永遠の御国に住まうことができます。イエスさまの復活は、信仰の証明と同時に、私たちの保証になったのです。

 使徒パウロも同じことを言っています。Ⅰコリント15:13-14「もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」私たちの信仰は、キリストの復活の上に立っていると言っても過言ではありません。J.B.フィリップスが『あなたの神は小さ過ぎる』という本の中でこのように言っています。「普通、復活として知られていることの歴史における重要性は、もちろん、いくら声を大にしても過ぎることはありません。キリストは生前、いろんなことを主張し、約束なさいましたが、もし、彼が亡くなってから、単なる香り高い思い出として生き残ったに過ぎないとすると、キリストは、徹底して善人だがひどく誤解された人として尊敬されるにとどまったでしょう。『私は神である』『私こそ、他ならない生命の原理である』というキリストの主要は、単なる自己欺瞞となってしまったでしょう。神・人間・生命についてのイエスの権威ある宣言は、すぐに怪しまれたでしょう。ですから、クリスチャンも、キリスト教に反対する人びとも、復活が本当にあったかどうかという問題を、キリスト教の根本的問題と見なしています。人間だれもが味わわねばならない死に、キリストが打ち勝つことができるか否かという問題に対する、完全な、満足のいく解答を、やはり、身をもってお示しになりました。」アーメン。

つまり、キリストが与える平安が世の与える平安と異なるのは、この点であります。キリストが与える平安は、人間だれもが味わわねばならない死に打ち勝つ平安だからです。弟子たちは一時、そのことを忘れ、部屋の戸を閉じて隠れていました。しかし、よみがえられえた主ご自身が、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われたのです。教えによる証明もすばらしいですが、事実にまさる証明はありません。多くの人たちは、このように問うでしょう。また、弟子たちも同じような疑問を持っていました。「キリストが本当に神なのか?」「キリストが教えたことは真実なのか?」「死んだ後に希望はあるのか?」その答えは、キリストがよみがえられて、弟子たちの前に立ったことです。弟子たちの疑問は一瞬にして消え去りました。残念ながら、私たちはその場にいませんでした。だから、弟子たちの証言を信じるしかありません。弟子ヨハネは目撃者の一人として、聖書を書きました。彼がこのように述べています。ヨハネ20:30-31「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」アーメン。イエス様は、ご自身が神の子キリストであることを、多くのしるしを持って、証明されました。すべてのしるしをヨハネ福音書に書ききれませんでした。しかし、ヨハネの願いはこれです。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」アーメン。私たちはその場にいたわけではありません。しかし、そのことを目撃したヨハネが、「しるしは他にもたくさんあります。でも、最後は、あなたが信じるしかありません。あなたが信じたなら、いのちを得ることができます」と言っているのです。

私がイエス様を信じたのは、1979年4月15日のイースターでした。日曜日、イースターのメッセージを聞いたはずなのですが、どんな内容だったか全く覚えていません。礼拝の中では、信じていませんでした。礼拝後、職場のクリスチャンの先輩が私のアパートに押しかけてきました。お昼の12時半から、夜の9時半まで、9時間、話し合いが続きました。いわゆる、個人伝道を受けたのです。私が建設会社を辞めた後に厚木の貿易会社に入れたのも、その先輩のおかげでした。それまで、11か月間もいろんな話を聞かされてきました。「神さまがいるなら見せてくれ。見たら信じる」とまで言いました。そういう考え方だったので、いくら言われても、「そうは言うけど」と反抗していました。しかし、あまりにも話し合いが長く続きました。彼はヨハネ黙示録の3:20のたとえ話をしてくれました。イエス様が心のドアをノックしているよ。「鈴木君、あけておくれ」。外側にはノブがないので、内側から開けるしかないんだ。イエス様は紳士なので、ドアを蹴破って入って来ないよ。信じても失うものがないんじゃないか。あとから、『嘘だった』と言っても良い。どうだろう。心のドアを開けて、イエス様を迎えてみないかい?」私は根負けして、「じゃあ、信じるよ」と言いました。先輩は「え?本当?今から大川牧師のところへ行こう」と言いました。私は「夜も遅いし、もう信じたから良いよ」と、先輩をお家に返しました。しかし、次の朝、起きたら全く変わっていました。すべてが輝いて見えました。神さまからの喜びと平安が心の中からあふれてきました。聖書の証言を体験することができたのです。私はイエス様の復活を実際は見ませんでしたが、聖書のみことばから信じることができました。

 

2.聖霊を与えるため

ヨハネ20:22-23そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」イエス様は彼らに息を吹きかけました。このところから何を連想することができるでしょうか?そうです。神さまがアダムを造られた時とそっくりです。創世記2:7「神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」アーメン。息はヘブル語で「ルアッフ」であり、霊と同じ言葉です。ですから、神さまが人間に霊を鼻から吹き入れたという意味になります。人間と動物が違うのは、人間には霊が宿っているということです。動物は肉体や魂はありますが、私たちのような霊はありません。しかし、どうでしょう?アダムが罪を犯してから、私たちの霊が活動停止状態になり、その代わり魂が肥大化しました。人は霊によってではなく、自分の魂で善悪を判断して生きるようになりました。イエス様が弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と言われたのは深い意味がありそうです。でも、このようなことが書かれているのは、ヨハネ福音書だけです。「弟子たちが聖霊を受けたのは、ペンテコステの日だ」と言うのが定説です。ペンテコステの日は、復活の後、50日目です。なのに、このところで、イエス様が彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われたのは何故でしょう?神学的にもいろんな説があります。神学校では、「弟子たちがペンテコステの日まで、聖霊を待ち望むことができるように、少しだけ与えられたものだ」と教えられました。でも、それまで、力が与えられるように「ちょっとだけ、あげますよ」というもの。スーパーの試食コーナーみたいな感じがします。私は、これまでこのところを、あまり重要視してきませんでした。イエス様が「聖霊を受けなさい」と言われたのは、ペンテコステの日のことを指しているのだと思ってきました。なぜなら、ルカによる福音書とその続編の使徒の働きには、「弟子たちが前もって聖霊を受けた」という記録がないからです。

今年、ウィットネス・リーが書いた『命の経験』の後編を読みました。ウィットネス・リーはウォッチマン・ニーの弟子です。この本に、本日の出来事を説明していました。「旧約時代は、神の霊は外側から人の上にしばらく臨むだけで、人の内に入り込むことがなかったと書いてあります。また、旧約時代は神の霊は人にとって偉大な動力になりましたが、人の性質を変えつつ、内側に住むということはありませんでした。聖霊を内側に宿した最初の人は、イエス・キリストでした。ナザレのイエスは聖霊の内住を最初に経験されたのです。彼が30歳になって、神のために働こうとされたとき、ヨルダン川で、聖霊がはとのように下り、聖霊に満たされました。彼のこのような経験は、旧約の人たちの聖霊の経験と全く同じです。主イエスの次に、使徒たちが聖霊の経験をした最初のグループです。ヨハネよる福音書14章などで、主は弟子たちに約束して父に別の助け主、真理の霊を彼らの内に住まわせるために送って下さるように願うと言われました。復活の夜、弟子たちが集まっていたとき、主は彼らの間に入って来られ、彼らに息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」と仰せになりました。このようにして主は早くから約束していた約束を、彼らの内に聖霊を宿らせ、彼らの命とさせることによって成就しました。主が息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と言われたとき、弟子たちは救われ、神の永遠の命を得ました。イエス様を信じるとき、聖霊が内に宿りますが、これを聖霊の内住と言います。しかし、ペンテコステの日、弟子たちは聖霊の働きの別の面を経験しました。使徒2章には「炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。」と書いてあります。彼らが経験したのは、力として自分たちの上にある外側の聖霊です。この時から、弟子たちは偉大な力によって福音を宣べ伝え、何千何万という人たちに救いをもたらしています。」このように書いてありました。

前にも申し上げましたが、イエス様を信じるときは、聖霊が内(in)に宿ります。そして、神さまは力を与えるために、聖霊を外側からも与えます。聖霊が上から(upon)臨むわけです。ペンテコステの日には、120人の弟子たちが集まっていました。復活の夜、集まっていた弟子たちは、内側の聖霊を経験をしていました。しかし、ほとんどの弟子たちは、内側の聖霊の経験と、外側の聖霊の経験を同時にしたのです。ペンテコステ以来、内側と外側の経験を同時にできるようになりました。そのことは、コルネリオの家で見られました。ペテロがコルネリオの家で福音を宣べ伝えている間に、聞いていた人たちに聖霊が下りました。彼らはただ、命としての聖霊の内住だけではなく、外側から彼らに下った力としての聖霊を受けたのです。ですから、ペンテコステの日以来、聖霊の働きを内側と外側で同時に経験することが可能になりました。しかし、各時代を通して多くの人たちは救われたときに、内側の命としての聖霊を経験するだけです。そして、しばらくたってから外側の力としての聖霊を経験しています。そればかりか、力としての外側の経験を全くしない人たちもいます。そこには順番があります。イエス様を信じて、聖霊を内に宿す、内側の命の経験をしなければ、外側の力としての聖霊を経験することはできません。こいう話をしていると、イースター(復活)ではなく、ペンテコステ(聖霊降臨)の話をしているのではないかと思われます。とにかく、イエス様は部屋に隠れている弟子たちに、息を吹きかけながら、聖霊の命を内側に与えたのです。今日の私たちも十字架に死なれ、三日目によみがえられたイエス様を救い主として受け入れるなら、神の永遠のいのちをいただくことができます。言い換えるなら、聖霊を内側に宿すことができるのです。

さて、本日のイースターのメッセージから、2つの適用をあげることができます。イエス様は死からよみがえられ、弟子たちの前に現れました。第一に「平安があなたがたにあるように」と言われました。弟子たちは自分たちも捕えられて殺されるのではないかと恐れていました。しかし、死に打ち勝たれたイエス様が目の前に現れてくださいました。弟子たちは、「たとえ死ぬようなことがあったとしても、イエス様のようによみがえることができるんだ」と分かったでしょう。そうしたら、それまでの恐れと不安がいっぺんで吹き飛びました。イエス様はかつて、弟子たちに「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはいけません。」(マタイ10:28)と言われました。私たちにとって、死より恐ろしいものはありません。一番いやなのは、死にたくないのに、無理やり殺されることです。世の人たちは力で殺し、言葉で殺し、環境で殺してくるかもしれません。しかし、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはいけません。」(マタイ10:28)。彼らが最大限にできることは肉体の殺すことだけです。私たちのたましいを殺すことはできません。たとえ、肉体が殺されたとしても、父なる神さまがイエス様をよみがえらせたように、私たちをもよみがえらせてくださいます。だれでも、よみがえりのイエス様と出会うなら、死の恐れは消え去ります。その代わり、神の平安が私たちの心を支配するでしょう。イエス様のくださる平安はこの世のものとは違います。単なる平安ではなく、死に打ち勝つことのできる平安だからです。第二は「聖霊を受けよ」と言うことです。アダムが罪を犯してから、私たちの霊は休業停止状態でした。使徒パウロは「霊的に死んでいた」と言っています。私たちが肉体よりも先によみがえるべきものは、内なる霊でありました。よみがえられたイエス様は、弟子たちに神のいのちを与える必要がありました。内側に聖霊を受けるなら、霊が生き返り、次には外側から力をも得ることができます。だれでも、よみがえりのイエス様を信じるならば、心の中に聖霊が宿ってくださいます。この聖霊はイエスの御霊とも言われ、イエス様ご自身があなたの中にずっと住まうということです。あなたに神の命を与え、あなたに神の性質を与えてくださいます。イエス様は聖霊によって、あなたと世の終わりまでも、共にいてくださいます。ですから、私たちは死からよみがえられたイエス様を信じる必要があります。そうすれば、霊が生きて、永遠の命が与えられます。

ある人たちは、十字架につけられたままのイエス様を信じています。私たちのために、罪を贖われたイエス様を強調しても強調しすぎることがありません。でも、それは得られても、罪の赦しまでです。しかし、イエス様は死んで三日目によみがえられました。よみがえられたイエス様を信じるとどうなるのでしょう?あなたは新しい生まれ変わりを体験することができます。イエス様と同じ復活の命があなたの中に入るからです。あなたの霊が生まれ変わり、神の前に義と認められます。ローマ4:25「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」アーメン。十字架の死によって私たちの罪が赦されました。それは、プラスマイナス・ゼロです。さらにイエス様はよみがえられました。何のためでしょう?それは、私たちが神さまの前に義と認められるためです。言い換えるなら、プラス・プラスです。私たちはよみがえられたイエス様によって、プラス・プラスの中に生かされていることを感謝しましょう。私たちは罪赦されているだけではなく、義とされているのです。新しい命をいただいて、義とされている者らしく生きましょう。