2014.6.15「大預言者イザヤ イザヤ1:1-6」

 旧約聖書で最も有名な預言者はイザヤです。エリヤは文章を残しませんでしたが、イザヤはエレミヤやダニエルと同じくらい長い文章を残しました。彼はウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの4代の王のもとで活躍しました。彼の後半に書かれたイザヤ書40章以降は全く内容が異なります。そのため学者たちは、第一イザヤ、第二イザヤ、第三イザヤと分けたりします。しかし、イエス様や使徒パウロは第二イザヤとか、第三イザヤなどと引用していないので、私はイザヤ書を書いた人は、一人だと思います。しかし、イザヤ書は66章にわたる大預言書なので30分で語ることは不可能です。でも、今回はイザヤという人物にポイントをあてて、学びたいと思います。

 

1.聖なる預言者

 

 イザヤは貴族の家に育ち、社会的にも勢力を持つことのできる地位にあり、歴代の王と対面することができました。イザヤ書1章から12章までがおもに南ユダ王国のための預言が記されています。イザヤは火のようなメッセージを語りました。イザヤ1:2-4「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。『子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。』ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。」イザヤは、歯に衣着せぬ物言いで、イスラエルの罪を糾弾しました。その相手が王様であろうと、政府高官であろうと構いません。イザヤがよく使う表現が「イスラエルの聖者です」。この意味は、聖なる方がイスラエルの中に住んでおられるのだから、「聖なる生活をせよ」ということです。主が彼らを選んで大事に育ててきました。それなのに牛よりも劣る有様で、「罪を犯す国、咎重き民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら」と言われています。どのくらい、汚れているかというと、足の裏から頭までです。イザヤ1:6「足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。」イスラエルの罪深さが「らい病患者」にたとえられています。イザヤは1章から5章まで、イスラエルの罪を無茶苦茶糾弾しています。ところが、イザヤ書6章になったらどうでしょうか?イザヤは預言者として活動した初期の頃、神体験をしたと考えられます。

 イザヤは神殿の中で主なる神を見てしまいました。主の前で天使セラフィムたちが「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ」と礼拝していました。イザヤ6:5「そこで、私は言った。『ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の【主】である王を、この目で見たのだから。』」イザヤはこれまで、イスラエルの民が汚れているとさんざん言ってきました。しかし、自分が主を見たとき、自分こそ汚れていると悟ったのです。旧約時代は、聖なる神様を見ると、死ぬと考えられていました。だから、イザヤは「ああ。私はもうだめだ」と言ったのです。「ヌミノーゼ」と言いますが、聖なるもの、絶対的なものに立ったときの畏れであります。人は、こういう体験がないと、神様をなめてかかります。イザヤが聖なる預言者と呼ばれるのは、自分が本当に罪深いことを知り、神さまから聖められる経験をしたからです。イザヤ6:6-7「すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。『見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。』」幻なのか現実なのかわかりませんが、イザヤの口に燃えさかる炭火が当てられました。そのことにより、イザヤの不義が取り去られ、罪が贖われました。それまで、イスラエルの人たちは汚れていると裁いていたその唇が、聖められたということです。私も講壇から、主のみことばを語ります。賛美リーダーの方がたまに、「鈴木牧師の唇をどうか聖めてください」と祈ってくださいます。心の中では「余計なお世話だ」と思っていますが、ありがとうございます。イザヤは相対的には聖かったかもしれませんが、神様の目から見たら、罪のかたまりでした。そして、自分も罪汚れた民の一人だと分かったのです。そのとき、イザヤは罪を贖われ、そして聖められる体験をしました。その後、「私をお遣わしください」と願いました。主は「行って、民に言いなさい」とイザヤを派遣しました。何が変わったのでしょう?罪贖われた者、聖なる預言者として再び遣わされたということです。

 パウロはコリント教会の人たちに「聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ」と挨拶しています。しかし、彼らの実際の生活は罪に満ちていました。でも、彼らはキリストによって罪の贖いを受けていました。だから、神様の目から見たなら、聖徒であり、聖なるものなのです。Ⅱコリント5章には「キリストの使節(大使)なのです」と書かれています。私たちもイザヤのような経験が必要です。私たちは、世の中の人をさばくことがあるでしょう。でも、私たち自身にも罪があり、そして汚れた民の間に住んでいます。だから、このままでは、人々に「神様はこう言われます。こうしたら良いですよ。」とは言えません。なぜなら、程度の差はあれ、自分も同じような罪を犯しているからです。イザヤが得た3つの体験を私たちも必要です。第一は神を恐れるということです。ヌミノーゼ体験と言いましょうか、「自分は滅びる存在である」と気づくことです。「自分は人とくらべて意外と正しい」と思っている人は、イザヤのような深いメッセージを語ることはできません。第二は罪の贖いを体験するということです。まさしく、キリストの十字架が自分のためであったということです。何をし、何を語るにしてもキリストの贖いが土台でなければなりません。第三は聖められるという体験です。イザヤは幻の中で、燃えさかる炭火を口に当てられました。イザヤは不義が取り去れたたと言っています。新約聖書的には、罪の性質が聖められたということです。もちろん天国に行くまでは罪があります。でも、罪を生産する工場が壊される必要があります。これらの体験を通して、イザヤは罪と汚れが満ちているイスラエルの民の中に再び出て行ったのです。私たちも罪に満ちているこの世に遣わされている存在です。ですから、私たちもイザヤのような体験が必要なのです。

 

2.世界的な預言者

 

 イザヤが活躍し始めた頃、北イスラエルがアッシリヤによって滅ぼされてしまいました。アッシリヤは、今度は、南ユダ王国も滅ぼそうとやってきました。王様たちはエジプトに頼った方が良いのではないかと迷いました。そういう中で、「イザヤは主なる神様に頼れ」と預言しています。詳しくはヒゼキヤ王のときにお話ししたいと思います。イザヤは南ユダ王国だけではなく、諸外国に関しても預言をしました。そのことは、イザヤ13章から23章まで記されています。第一はバビロンに関するメッセージです。イザヤの頃は、バビロンはまだ興ったばかりで、アッシリヤの影に隠れていました。しかし、このバビロンがやがてアッシリヤを滅ぼします。さらには、南ユダ王国を滅ぼし、財宝を奪い、人々を国外に連れ出しました。これを、捕囚と言いますが、ダニエル書に現地のことがよく書かれています。主は南ユダが罪を悔い改めないので、さばきの器としてバビロンを用いたのです。イザヤは捕囚のこともさることながら、時が満ちたら戻ってくることができるとまで預言しています。実際、70年という数字をあげたのはエレミヤですが、すごいことではないでしょうか。しかし、それ以上にすごいのは、バビロンがやがて滅びることを預言しています。イザヤ13:17「見よ。わたしは彼らに対して、メディヤ人を奮い立たせる。彼らは銀をものともせず、金をも喜ばず、その弓は若者たちをなぎ倒す。彼らは胎児もあわれまず、子どもたちを見ても惜しまない。こうして、王国の誉れ、カルデヤ人の誇らかな栄えであるバビロンは、神がソドム、ゴモラを滅ぼした時のようになる。」メディヤとはペルシヤのことです。そのとき、主がペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせました。それで、ユダの民はエルサレムに帰ることができました。

 第二はアッシリヤです。時間的にはバビロンより先に起こりました。第三はペリシテ、第四はモアブ、第五はダマスコ、第六はクシュ、今のエチオピアです。第七はエジプトです。なぜ、イザヤは諸国に対して預言したのでしょうか?それは、主なる神が世界を支配し、歴史を動かしているからです。聖書の歴史観はこの世の歴史観とは違い、救済史、救いの歴史です。単なる歴史ではなく、背後に神さまの支配があることを示しています。イザヤ40:15「見よ。国々は、手おけの一しずく、はかりの上のごみのようにみなされる。見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる。」40:22-23「主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる。」神様は世界の創造者であり、支配者です。ところが、時代が進むと、神様はこの世界にはタッチしておられない。物質がすべてであるという唯物史観が出てきました。そうすると歴史は人間の欲望と自然における偶然の積み重ねになります。だから、学校では神なき歴史を学んでいます。「地球は46億年前に誕生し、それから生物が誕生し、約700万年前に人類が誕生しました。そして、5,000年前に文字ができ国家という形のものができ、人類の文明が始まりました。」と教えます。そこから先は、いろんな国が興っては倒れ、倒れては興るという繰り返しが続きます。歴史には目的もなければ、意味もありません。なんとなく始まり、なんとなく終わります。そうではありません。世界は創造主なる神様によって造られ、今も、保たれているのです。

 イザヤ41:1-4「島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ。近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう。だれが、ひとりの者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせ、その剣で彼らをちりのようにし、その弓でわらのように吹き払う。彼は彼らを追い、まだ歩いて行ったことのない道を安全に通って行く。だれが、これを成し遂げたのか。初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。わたし、【主】こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。」イザヤは、「神様がひとりの者を起こして、国々を渡し、王たちを踏みにじらせる」と言っています。ひとりの者とは、まさしく王なるキリストです。この方が再び来られたとき、歴史にピリオドが打たれるのです。「島々よ」とありますので、この中には日本も入っていると信じます。ヨナがアッシリヤの首都ニネベに宣教に行きました。そのとき、主は、右も左もわきまえない12万人以上の人間と数多くの家畜を惜しまれました。日本には約1億3000万人住んでいます。定義にもよりますが、首都圏には3600万人住んでいます。私たちクリスチャンは自分の生活が守られるように祈ることも大切ですが、首都圏と日本の救いのために祈る必要があります。私たちが信じている神様は歴史を支配しておられる世界大、宇宙大の神様であることを知る必要があります。私はジョエル・オスティーンの説教をユーチューブで時々見ます。彼の後ろには大きな地球儀があり、それがゆっくりと回っています。お父さんが牧会しているときは、後ろに世界各国の国旗が立てられていました。お父さんはインドをはじめとするアジア諸国に宣教に行かれていたようです。息子のジョエル・オスティーンはテレビを通して世界に福音を発信しています。

 当亀有教会も世界まで行かなくても、首都圏と日本の救いのために重荷を持つ必要があると思います。大きく考え、大きく祈っていくと、目の前の問題が小さく見えてきます。私たちが日々、遭遇している問題が、首都圏と日本の救いと比べたらどの程度のものでしょうか?神様はどういうお方でしょう。「見よ。国々は、手おけの一しずく、はかりの上のごみのようにみなされる。見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる。主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。」と書いています。私たちも地上からではなく、神様のおられる天上から地上を見下ろしたいと思います。そうすれば、「ああ、小さなことで悩んでいるなー」と思うでしょう。そして、全世界を導いておられる神様は、私の人生も導いておられると信じることができます。イザヤ40:28-29「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。」アーメン。私たちの人生は偶然の積み重ねではなく、永遠の神、地の果てまで創造された方が、共におられて、助けてくださるのです。

 

3.慰めの預言者

 

 イザヤ40:1-2「『慰めよ。慰めよ。わたしの民を』とあなたがたの神は仰せられる。『エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを【主】の手から受けたと。』」イザヤ書はこの40章から全く、内容が違ってきます。これまではさばき中心でしたが、後半は慰めと希望、そして神様の招きが記されています。使徒パウロもたくさんこのイザヤ書から引用しています。イザヤ書が第五福音書と言われるのはそのためです。では、イザヤ書40章から最後の66章まで具体的にどのようなことが記されているのでしょう?それは、バビロン捕囚からの帰還と神の招きです。イザヤが活躍しはじめた頃、南ユダは、まだ繁栄を誇っていました。しかし、ウジヤ王が死んでから、雲行きがおかしくなりました。ヨタムとアハズは北イスラエルに影響されて、様々な偶像を拝みました。そのあと、ヒゼキヤが王になり国を建てなおしました。そして、ヒゼキヤが王になってまもなく、北イスラエルのサマリヤが陥落しました。北からアッシリヤが攻めて来たからです。そして、北イスラエルの民は外国に連れて行かれました。今度は、南ユダにも侵略の危機が訪れました。彼らはエジプトにたよるべきかどうか迷っていました。しかし、イザヤはそんなものに頼らないで、万軍の主に頼れと言いました。イザヤはもっと先のことを預言しました。それは、南ユダが罪を悔い改めないなら、バビロンがあなたを捕え移すと預言しました。しかし、そのとき、バビロンはできたての新しい国でした。ヒゼキヤは自分が生きているうちにそれが、起こらなければ良いと考えていました。一般に、こういうなまぬるい時代に、預言しても無駄だと考えるでしょう。しかし、イザヤの偉いところは、人がたとえ信じなくても主のことばを語ったということです。なぜなら、主からこのように言われていたからです。イザヤ6:9-10「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」これは、信じようとしない者は心が頑なにされるという呪いです。

 イザヤは若い時には主のさばきをストレートに語りました。しかし、年を取り、円熟してからはメッセージの仕方が変わりました(まるで今の私のようです)。『聖書人物伝』を書いた沢村五郎師はこう述べています。「イザヤ書の前半には秋霜(しゅうそう)のような峻厳さがあり、後半には春風のような暖かさがある。そのため、第二イザヤ説を唱える者は、これを別人の作と見る。そして、イザヤ書を殺してしまう。しかし、そこに広大なイザヤの人格の内容があらわされているのである。イザヤは常に進歩した。彼のたましいは年とともにいよいよ円熟した。後半生は別人ではないかと思われるほどの変化があるところに彼の偉大さがうかがわれる。何年たっても一向に変わらず、否、時には若い時の方が元気があって役に立ったといわれるような伝道者はわざわいである。栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられるまで、常に進歩するものでありたい。」では、イザヤはどのような主の恵みを伝えているのでしょうか?イザヤ46:3-4「3 わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」バビロンはベルという神さまを信じていました。バビロンがペルシヤとの戦いで敗れた時、バビロン軍は大きくて重い偶像を動物に載せて逃げなければなりませんでした。捕えられて偶像が戦利品として待ち去られてしまうことのないためです。それに比べてイスラエルの神、主は、神の民を背負い、運んで救う神だということです。私たちがしらがになっても、主が背負ってくださるとはなんとありがたいことでしょうか。イザヤ49:15-16「『女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。』」一般に、母親は自分が生んだ子どもを忘れないものでしょう。しかし、世の中には子どもを捨てる母親もいます。現代は、物理的に捨てなくても、ネグレクトという育児放棄があります。基本的信頼感を学ぶ、一番重要なときに母の愛が受けられない子どもは、大きなダメージを負うことになるでしょう。しかし、神の愛は母の愛とは比較にならないほど、永遠で、普遍で、無限です。私たちは主の絶対的な愛を受けるとき、母親から受けられなかった悲しみを放棄し、新しい人生を歩む希望が与えられます。

 最後にイザヤは主の熱い招きを語っています。イザヤ65:17-23「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。」これは、御国の預言です。私たちは毎週、「御国が来ますように」と賛美します。これが完成された御国です。主はここに住まうことができるように、私たちを招いておられるのです。御国には死がありません。喜びと楽しみと豊かさがあります。世の中にはいろんな楽しみがあるでしょう。しかし、私たちの楽しみは完成した御国に主と共に住まうことです。これが私たちのゴールです。人生のゴールがはっきりしている人の生き方は違います。途中どんなことがあっても、最後が良いことを知っているからです。私たちの人生は主を信じているなら、必ずハピーエンドで終わるのです。