2014.6.22「ヒゼキヤの祈り Ⅱ列王記19:15-20」

 南ユダのヒゼキヤ王のことは、Ⅱ列王記の他に、Ⅱ歴代誌とイザヤ書にも記されています。北イスラエルは、ヒゼキヤ王のときアッシリヤによって滅ぼされました。彼らはその勢いで、南ユダにも攻めてきました。敵の攻撃を受けた原因は、南北イスラエルが主の戒めを破り、偶像礼拝をしていたからでした。ヒゼキヤは25歳で王になりました。彼はどのような王様であり、どのような祈りをしたのでしょうか、ともに学びたいと思います。

 

1.ヒゼキヤの信仰

 ヒゼキヤの父アハズは、北イスラエルの風習を取り入れ、バアルのために鋳物の像を作りました。また、ベン・ヒノムの谷で香をたき、自分の子どもたちに火の中をくぐらせました。さらに高き所、丘の上、青々と茂ったすべての木の下で、いけにえをささげ、香をたきました(Ⅱ列王記16:3-4)。そのため、主はアラム王の手に渡し、アハズ王を打ちました。さらには、北イスラエルが攻めてきて、民20万人をサマリヤに連れて行きました。また、エドム人やペリシテ人も攻めて来てユダの村落を奪いました。主がアハズ王のためにユダを低くされたからです。それでは、息子のヒゼキヤはどうだったのでしょうか?Ⅱ列王記18:2-6「彼は25歳で王となり、…高き所を取り除き、石の柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。…彼はイスラエルの神、【主】に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。彼は【主】に堅くすがって離れることなく、【主】がモーセに命じられた命令を守った。」つまり、ヒゼキヤは父アハズが作ったすべての偶像を取り壊しました。なぜなら、偶像礼拝が国を滅ぼすことを知っていたからです。また、主に堅くすがり、主がモーセに命じられた命令(律法)を守りました。ヒゼキヤは宮をきよめた後、アロンの子らに命じて、主の祭壇の上でいけにえをささげさせました。ヒゼキヤは北イスラエルの人たちに「イスラエルの神、主に過ぎ越しのいけにえをささげよう」と呼びかけました。でも、人々は使いの人たちを物笑いにし、あざけりました。主はヒゼキヤが行った宗教改革とまことの礼拝を喜ばれました。しかし、このような良い王様にも試練がやってきました。

ヒゼキヤ王の第6年、アッシリヤは北イスラエルを滅ぼしました。そして、大勢のイスラエル人をアッシリヤに捕え移しました。さらに、ヒゼキヤ王の第14年に、アッシリヤの王セナケリブがユダにある城壁の町々を攻め取りました。その後、将軍のラブシャケが大軍を引き連れて来て、エルサレムを包囲しまた。ヒゼキヤはその前に、地下水道を作っていましたので、水は確保できていました。ラブシャケは長引くといけないので、神経戦に持ち込みました。「いったい、だれに頼って私に反逆するんだ。エジプトに頼ってもダメだぞ。お前たちの主がこの国に攻め上ぼって、これを滅ぼせと言われたんだ。」確かに、北イスラエルは罪を悔い改めなかったので、主がアッシリヤをさばきの器として用いました。ラブシャケは城壁の向こうから大声で叫びました。「ヒゼキヤにごまかされるな。あれはお前たちを救い出すことはできない。私に降参したら、良い国に連れて行こう」と言いました。民は黙って、彼に一言も答えませんでした。ヒゼキヤ王が「彼に答えるな」と命令を降していたからです。ラブシャケは悪魔と似ています。「主を信頼するな。指導者を信頼するな。私に降参すれば、良い国に連れていくぞ!」と誘惑します。ヒゼキヤ王はどうしたのでしょうか?Ⅱ列王記19:1-3 ヒゼキヤ王は、これを聞いて、自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、【主】の宮に入った。彼は、宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちに、荒布をまとわせて、アモツの子、預言者イザヤのところに遣わした。彼らはイザヤに言った。「ヒゼキヤはこう言っておられます。『きょうは、苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。子どもが生まれようとするのに、それを産み出す力がないのです。』」ヒゼキヤは主の宮、つまり神様のところに助けを求めました。その当時活躍していた預言者イザヤに、主の導きを求めてもらいました。イザヤは「主はこう仰せられる。アッシリヤの若い者たちが主を冒瀆したことばを恐れるな。彼はある噂を聞いて、自分の国に引き上げる。私はその国で彼を剣で倒す」と主のことばを伝えました。

その後も、ラブシャケは使者を遣わして、降伏を迫りました。ヒゼキヤは使者からの手紙を受け取り、主の宮に上って行って、それを主の前に広げました。ヒゼキヤの良いところは、主のもとに逃げ込むということです。Ⅱ列王記19:15-16 ヒゼキヤは【主】の前で祈って言った。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、【主】よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。【主】よ。御耳を傾けて聞いてください。【主】よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばを聞いてください。」ヒゼキヤはイスラエルの神は、地のすべての王国の神であり、天と地を造られた神であると告白しています。さらに、聖書を読んでいくとヒゼキヤの信仰が分かってきます。Ⅱ列王記19:17-18「【主】よ。アッシリヤの王たちが、国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石にすぎなかったので、滅ぼすことができたのです。」アーメン。確かにアッシリヤの王たちが、国々を倒し、彼らの神々を火に投げ込みました。しかし、それらは神さまではなく、偶像でした。人の手で作った、木や石に過ぎなかったので、滅ぼすことができたのです。ヒゼキヤは天地を造られたまことの神、主に頼りました。北イスラエルは、主に背いて、偶像礼拝をやめなかったので滅ぼされました。父ハアズも北イスラエルの習慣にならって、偶像礼拝をしました。そのため、多数の敵によって侵入されました。何が重要かということをヒゼキヤは知って、すべての偶像を取り除き、宮をきよめまことの礼拝をさげました。また、主を信頼し、モーセに命じられた命令を守りました。このところに国を守り、国を繁栄させる原理が記されています。今の総理大臣は集団的自衛権奉仕を主張しています。日本にとって、中国やロシアが驚異かもしれません。だから、アメリカに頼り、自国でも防衛力を高めようということなのでしょう。しかし、総理大臣自身が偶像を礼拝をやめようとしません。聖書が主張する国の繁栄は、まことの神を恐れ、神さまの仰せを守ることです。

また、ヒゼキヤが取った行為は、私たち信仰者の模範です。ヒゼキヤは悪魔の象徴であるラブシャケと議論をしませんでした。エバは蛇と議論したばっかりに誘惑に負けました。蛇は「神は本当に言われたのですか」と神のことばに疑いを入れました。アダムはどうしていたのでしょう?アダムはエバが誘惑されるところを近くで見ていました。本当なら「やめろ!」と蛇を追い払うべきでした。しかし、アダムはかしらであることの責任を放棄しました。ヒゼキヤのすばらしいことは、主のもとに行ったことです。祭司たちに荒布をまとわせ、預言者イザヤの所に遣わしました。イザヤは主からのみことばを伝えました。そして、ヒゼキヤ自身は主の宮に上り、主の前に訴えました。「主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください」と祈りました。新約の時代、預言者イザヤにあたるものは聖書です。私たちは聖書を開くとき、主のみ声に耳を傾けているのです。聖書を閉じたままで、主のみ声を聞くことは危険です。現代も預言者のような人がいますが、私たちはまず自分自身で聖書を開いて、神様に聞かなければなりません。第二は、主の前に出て祈るということです。今はエルサレムの神殿に行く必要はありません。キリストがよみがえられてから、私たちのからだが神殿になりました。カトリック教会のように司祭のところに行く必要はありません。私たちが一人ひとりが祭司なので、主の御名によって祈ることができます。ヒゼキヤは神様がどんなお方か目をとめました。私たちも問題がどのくらい大きいかを詳細に述べるのではなく、神さまがどんなに大きなお方か目をとめることです。神さまは私たちが問題を1つ1つ説明しなくてもご存じです。それよりも私たちが神様に目をとめ、信仰をもって求めることが重要なのです。全能の神様を通して問題を見るのです。そうすると問題から解放され、なすべきことが見えてきます。

偶像の神様は耳があっても聞くことはできません。偶像の神様は口があっても話すことができません。偶像の神様は手があっても伸ばすことができません。京都の三十三間堂に行った時、千手観音などたくさんの仏像がありましたが、あれは人間が考え出したものです。まことの神様に、私たちと同じような耳や口や手があるかどうか分りません。おそらくないでしょう。しかし、まことの神様は私たちが口に出す前からご存じです。そして、私たちのところに身をかがめて聞いてくださいます。そして、全能の御手を動かしてくださいます。ヒゼキヤ王に対してはどうだったのでしょうか?イザヤは「わたしに祈ったことを、わたしは聞いた」と主からのことばを伝えました。Ⅱ列王記19:35-37「その夜、【主】の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住んだ。彼がその神ニスロクの宮で拝んでいたとき、その子のアデラメレクとサルエツェルは、剣で彼を打ち殺し、アララテの地へのがれた。それで彼の子エサル・ハドンが代わって王となった。」主ご自身が戦い、勝利をもたらしてくださいました。

 

2.ヒゼキヤの祈り

 これで話が終われば良いのですが、一難去ってまた一難です。Ⅱ列王記20:1-3そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「【主】はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、【主】に祈って、言った。「ああ、【主】よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。なぜ、主はヒゼキヤに「あなたは死ぬ。なおらない」と言われたのでしょう。人の寿命は神様が握っておられます。イエス様はマタイ6章で「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」とおっしゃいました。私が散歩するコースに「延命寺」というお寺があります。おそらく、「同じような名前のお寺がたくさんあるんだろうなー」と思います。私たちの場合は、延命ではなく、永遠の命です。でも、欲を言うならば、地上でも長生きしたい、延命したいと思います。ヒゼキヤはイザヤから「あなたの地上のいのちはおしまいですよ」と言われました。話は飛びますが、ヒゼキヤは主のあわみを受けて、15年長生きできました。でも、彼は大きな失敗をしました。そのころ、無名だったバビロンの王様がお見舞いのため使者を遣わして来ました。Ⅱ列王記20:13「ヒゼキヤは、彼らのことを聞いて、すべての宝庫、銀、金、香料、高価な油、武器庫、彼の宝物倉にあるすべての物を彼らに見せた。ヒゼキヤがその家の中、および国中で、彼らに見せなかった物は一つもなかった。」その後、イザヤからなんと言われたでしょう。Ⅱ列王記20:16「見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と【主】は仰せられます。また、あなたの生む、あなた自身の息子たちのうち、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう。」おそらく、主はこうなることを知って、ヒゼキヤ王が召されることが最善だと思われたのでしょう。

でも、主はヒゼキヤの悲痛な祈りを聞かれました。「ああ、【主】よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」ヒゼキヤは大声で泣いて祈りました。主はどのくらい後に、彼の祈りを聞かれたのでしょうか?3日後でしょうか?1か月後でしょうか?私たちは「祈りというものは、そう短時間で聞かれないものだ。聞かれるまで、何回も祈らなければならない」と考えているかもしれません。しかし、いつもそうとは限りません。Ⅱ列王記20:4-6 イザヤがまだ中庭を出ないうちに、次のような【主】のことばが彼にあった。「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、【主】は、こう仰せられる。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。三日目には、あなたは【主】の宮に上る。わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、わたしのために、また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。』」このところに、「イザヤがまだ中庭を出ないうちに、次のような【主】のことばが彼にあった」とあります。おそらく、ヒゼキヤは神殿の壁に顔を向けて祈っていたのでしょう。イザヤがまだ中庭を出ないうちに、主のことばがあったということは、30メートルくらい歩いてからでしょう。30メートルだったら2分はかかりません。2分もたたないうちに、主がヒゼキヤの祈りに答えてくださいました。主はヒゼキヤの本来の寿命に15年を加えると約束されました。ヒゼキヤは何か腫物で病んでいたようです。干しいちぢくをそのところに当てたら、彼はいやされました。いちぢくは何か薬効成分あるようですが、この場合は、主が直接いやされたということです。私たちは「祈りというものは、そう簡単に聞かれるものではない」とどこかに思ってはいないでしょうか?そのため何べんもくどくどと祈ったりしてはいないでしょうか?マタイ6:7-8「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。」とイエス様はおっしゃいました。結論的に、祈りは長ければ良いというものではありません。祈りは単純で短くても聞かれます。むしろ、その方が、神様が喜ばれます。私も人の長い話を聞くのは好きじゃありません。クリスチャンは年数が増せば増すほど、当時の律法学者のように人に聞かせるような祈りをする傾向があります。イエス様は「祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません」と言われました。では、長い祈りは不要なのでしょうか?その代わり聖書は「絶えず祈りなさい」と言っています。祈りは求める祈りだけではありません。主と交わる、つまり会話をする祈りもあります。また、多くの人たちのためにとりなす祈りをするならば、どうしても時間がかかります。しかし、結論的には、祈りは長さではなく、信仰であるということです。私たちは信仰が来るまで祈る必要があります。信仰が来たなら、あとは感謝して待てばよいのです。

また、ここで注目すべきことは、神様がどれくらい偉大かということです。ヒゼキヤはしるしを求めました。Ⅱ列王記20:9-11「イザヤは言った。「これがあなたへの【主】からのしるしです。【主】は約束されたことを成就されます。影が十度進むか、十度戻るかです。」ヒゼキヤは答えた。「影が十度伸びるのは容易なことです。むしろ、影が十度あとに戻るようにしてください。」預言者イザヤが【主】に祈ると、主はアハズの日時計におりた日時計の影を十度あとに戻された。みなさん、日時計の影を10度あとに戻すという意味をご存じでしょうか?日時計というのは、太陽と地球の位置関係から来るものです。自分の家の時計の針を戻すのとは訳が違います。太陽というか、おそらく地球を動かしたのでしょう。あるいは地軸を動かしたのかもしれません。地軸は公転軌道に対して23.4度傾いています。そのために、季節の変化があるそうです。しかし、これがヒゼキヤの時のことなのかは分りません。ちなみに、ヨシュアがギブオンというところで戦っているとき、「日は動かず、月はとどまった」とあります。まる1日ほど、太陽が動かなかったということです。これは、地球が動かなかったということですが、時速1674キロで自転している地球が止まるとどうなるでしょう。どういう仕組みか分りませんが、それは奇跡です。神様が全宇宙を創造したのですから、日時計の影を10度あとに戻すことも、1日、天空に太陽をとどめておくことも可能です。全宇宙から見たら、銀河系の中の太陽系の惑星などゴミみたいなものでしょう。でも、なぜ主は「影が十度進むか、十度戻るか」というしるしを与えようとされたのでしょうか?人の寿命を変えるのは、そのくらい大きなことなのではないのでしょうか。イエス様はマタイによる福音書で、「しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません…だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」と言われました。ということは、私たちの寿命は神様の御手の中にあるということです。私たちの寿命をどうこうするのは、日時計の影を動かすのと等しいということです。「私の命の長さと、天体の動向と等しいなんて、なんとすごい」と思わないでしょうか?

神様は私たちに計画をもっていらっしゃいます。英語ではdivine destiny 「天命」と言います。ヒゼキヤは15年寿命を延ばしていただきました。それ自体はすばらしいことです。しかし、彼は安心しきって、見舞いに来たバビロンの高官たちに宝物蔵を全部見せました。そのため、あとでバビロンに襲われたとき、全部持っていかれました。神様はヒゼキヤの将来を知っていたので、「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない」と言ったのです。しかし、ヒゼキヤは「私はこれまで良いことを行ってきました」と、泣いて頼みました。すると、主は15年の命を加えてくださいました。ヒゼキヤ自身はそれで良かったかもしれません、しかし、ユダの国にとっては、不幸なことでした。ベストとベターというのがあります。ヒゼキヤはベターを願ったために、ベストを失ったのかもしれません。だから、早く死ねば良いというわけではありません。私たちが主からみこころを示されているにもかかわらず、執拗に求めるなら、主はみこころを変えてくださるかもしれません。しかし、それはベストではなくて、ベターである場合もあります。たとえば、子どもパソコンやバイクを願います。親は、最初はダメだめだと言いました。しかし、あまりにもせがむので、仕方なく買い与えました。そのため勉強をしなくなったり、事故にあったりするでしょう。今のは、消極的な例でありますが、神様のご性格は最善のものを与えたいと願っておられます。私たちが健康で長生きするように願っておられます。ヒゼキヤは国内から偶像を排除し、モーセの命令を守り、正しい礼拝をささげました。だから、ダビデに次ぐ、良い王様であると聖書の3つの書物に彼のことが書かれています。私たちも、自分の中から神さまよりも大切な偶像を取り除きましょう。また、聖書のみことばを守り、心から神様を礼拝したいと思います。父なる神様はloving-kindness慈しみ深い神様です。慈愛に満ちた神様です。私たちに悪いものを与えるお方ではなく、最善の計画と最善のものを与えようとしておられるお方です。信仰をむずかしく捉えてはいけません。信仰とはまことの神様を信頼して歩むということです。