2014.6.29「千年王国の預言 イザヤ35:1-10」

 イザヤはおもに4つの時代のことを預言しています。第一はイザヤが住んでいたその当時の時代です。第二はバビロン捕囚と帰還についてです。第三はメシヤ到来、つまりイエス・キリストに関する預言です。第四は千年王国、あるいは御国についてです。他の預言書も同じようなことを書いていますが、イザヤ書の場合は、その量が多く、その内容も詳しいということです。神様は永遠なるお方ですから、時代を超えて預言者に語ります。ですから、私たちは、「どの時代のことなんだろう?」と考えながら読む必要があります。

 

1.千年王国における回復

 イザヤ書35章には千年王国、つまり御国の様子が書かれています。天国と御国とは厳密には違います。天国は英語でheavenと言いますが、死んだ人たちが行くところです。しかし、御国には神の支配という意味があります。また、御国は復活後の千年王国、つまり新天新地が来るまでの1000年間の期間を指します。そのとき、すべてのものが回復します。イザヤ35:1-2「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜るので、彼らは【主】の栄光、私たちの神の威光を見る。」御国においては、かつて荒地や砂漠であったところに花が咲き誇ります。荒野と砂漠に川が流れるので、喜び歌っています。現代は、地球温暖化によって雨が降らず、世界のいたるところで砂漠化が進んでいます。パレスチナでは、雨季のときだけ小雨がパラパラ降ります。すると、死んでいたような荒地から、一斉に花が咲くそうです。砂漠は土地が痩せているのではなく、水がないだけなのです。御国において、自然界はどうなるでしょう?イザヤ35:6-7「荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。」とあります。荒地や砂漠に川が流れたなら、肥沃な大地になります。現在、動物は弱肉強食ですが、御国では違います。イザヤ65:25「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない」とあります。進化論を信じている現在の生物学はまったく崩れるでしょう。アダムとエバが堕落する前の動物たちと同じようになるのです。

 ところが、御国が完成する直前に、地上に神の審判が下されます。世の終わりには、迫害がまし加わり、信仰者も弱り、よろめき、心騒ぐこともあるでしょう。イザヤ35:3-4弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」主が地上に戻って来られるとき、さばきと報いが同時に起こります。1つ手前のイザヤ34章には、「主が地上の軍勢に向かって憤り、彼らを聖絶する。天の万象は朽ち果て、天は巻物のように巻かれる。多くの血が流され、主の復讐の日である」と書かれています。世の終わりに、主イエス・キリストが地上に戻って来られます。ある人たちにとっては恐ろしい日であり、またある人たちにとっては報いの日、救いの日であります。世の終わりに住んでいる人は、どちらかを体験することになります。もしかしたら、私たちが生きている間に起こるかもしれません。まさに、それは産みの苦しみの始まりです。なぜなら、世の終わった後、御国が訪れるからです。

 千年王国、つまり御国においては、自然だけではなく、私たちの肉体が回復します。この世では「障がい者」という方々がおられますが、千年王国においては、一人の障がい者もいません。イザヤ35:5-6「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。」まず、目が見えない人の目が開かれます。生まれつき1度も見えたことのない人は、どんなに驚くでしょうか?また、耳の聞こえない人の耳があけられます。もう手話が必要でなくなります。素敵な音楽も聞くことができます。そして、足のなえた人はあんまりうれしいので、鹿のように飛び跳ねるでしょう。事故などで下半身不随の人がいたら完全に治ります。口のきけない人の舌は喜び歌うでしょう。イエス様は地上で、目の見えない人の目を開け、耳の聞こえない人の耳をあけ、足のなえた人を歩かせました。なぜ、そのようなことをしたのでしょう?それは、御国がどんなところかを少しばかり体験させたかったからです。御国には病気も障がいも死もないからです。イエス様は復活後、天にお帰りになられました。もう、病の癒しや奇跡もなくなったのでしょうか?あるクリスチャンたちは「聖書が完成した時代は目覚ましい奇跡は不要になった」と言います。日本は経済的にも富み、医学が発達しているので奇跡が起こりません。しかし、中国、南米、アフリカ、インド、インドネシア等では頻繁に起こります。なぜでしょう?お金もなく、医学も発達していないからです。その分、彼らは単純な信仰をもっています。「人にはできないことも、神にはできる」と信じています。今、イエス様は教会というからだをもってこちらにおいでになっておられます。私たち教会こそが、2000前のイエス様が行ったように3つのわざを行わなければなりません。3つのわざとは、福音宣教、教え、癒しと奇跡であります。

今から30年くらい前、栗栖ひろみ著の『命のパンのゆえに』という本を読んだことがあります。中世においては、ラテン語訳のヴルガータ聖書だけが権威がありました。他の国の言語で訳すだけでも処刑されました。ところが、16世紀ルターが宗教改革を起こし、ドイツ語で聖書を訳しました。ちょうど、グーテンベルグが活版印刷を発明し、聖書が印刷されました。イギリスにウィリアム・ティンダルという聖書学者が英語の聖書を発行しようとしました。そのため、神聖ローマ帝国の官憲に狙われ、ヨーロッパ大陸に亡命しました。どの印刷屋も危険なので英語の聖書を印刷してくれませんでした。ところが、ある小さな印刷屋さんが「よし、やってみよう」と引き受けてくれました。その家には、若いお嬢さんがいましたが盲人でした。印刷の合間、ティンダルが彼女に読んできかせたことばがイザヤ書35章でした。「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。」彼女が聖書から約束のことばを聞きたとき、喜びが顔中にあふれました。私はそのとき、とっても胸が熱くなり、この聖書の箇所を記憶しています。その印刷屋で新約聖書200部刷り上がりました。しかし、官憲がやってきて、印刷屋のご主人が捕えられ殺されました。ティンダルは何冊かの聖書を持って逃げましたが、ほとんどが没収されました。やがて、ティンダルは1536年イギリスで火刑に処せられました。彼の死後70年、キングジェームスによって、欽定訳聖書が作られました。新約聖書の8割が、ティンダル訳がそのまま使われたそうです。印刷会社のご主人もティンダルも報われたのではないでしょうか。しかし、印刷屋の盲目の若いお嬢さんはどうなったでしょう?彼女が御国で復活したとき、肉体の目が開くでしょう。ティンダルと手を取り合って、ダンスをする光景を想像できます。

 残念ですが、この地上においてすべての人が癒されるわけではありません。2か月前、マレーシアの伝道者が来られて、新宿のホテルで癒しの集会をしました。一番前に、聾唖の方が5人くらい座っていました。残念ですが、癒されませんでした。今も、奇跡や癒しは確かにあります。しかし、限界があります。なぜなら、死が克服されていないからです。だから、病気があるし、障がいも存在します。私も毎朝、散歩に行きますが、ヘッドギアーをつけた子どもがお母さんに連れられて登校する姿を見ます。昼間、生協に行くと、車椅子の方だけではなく、知的に障がいを持っている人もおられます。多くの人たちは、「不条理があるのが世の常なんだ」と諦めるでしょう。しかし、完全に回復し、悲しみが報われるところがあります。それが、千年王国であり、御国です。神様は新天新地が来るまでに、1000年間の御国を設けました。何故でしょう?それは地上の不条理が報われるときを与えたかったからです。また、神様はイスラエルを回復するために、御国を設けられました。イスラエルは不従順のゆえに神様から捨てられました。しかし、旧約聖書はイスラエルが必ず回復すると預言しています。さらには、この自然が回復しなければなりません。動植物が贖われることも神様のみこころです。イザヤ55:12「まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。」聖書の預言は、作り話とかおとぎ話ではありません。私たちの世界はあまりにも、フィクションや仮想現実に満ちています。なぜなら現実があまりにも厳しいので、ゲームなどありもしない世界に身を投じています。しかし、本当の希望があります。本当の報いがあります。それは、千年王国であり、御国です。やがてこの世は終わります。迫害や厳しいさばきもありますが、やがてイエス・キリストが戻ってこられます。そして、この世の歴史にピリオドを打たれ、御国が完成します。復活した私たちはそこで、永遠に住まうことができるのです。究極的な希望とは、千年王国であり、御国です。

 

2.千年王国への招き

イザヤ35:8-10「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。【主】に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。」このところに、ヘブル語の聖書には「贖われた」ということばが2回出てきます。最初に出てくるのは、9節の「ガアール」贖うという言葉です。これは失った土地を買い戻すという意味のことばです。ルツ記に、何度もこのことばが出てきました。ボアズが土地代を払い、ルツと結婚したので、エリメレクの土地が買い戻されました。次に出てくる10節は「ピデーム」であり、英語の聖書ではransomと訳されています。身代金で捕虜を解放する、身請けするという意味のことばです。元来「贖う」ということばは、罪とは関係ありませんでした。土地を買い戻したり、身請けするという意味で使われていました。しかし、だんだんと罪の中に囚われている人を解放するという意味に変わってきました。このような意味の贖いが、頻繁に出てくるのがイザヤ書です。たとえば、イザヤ44:22「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」このところには、はっきりと罪から贖ったと書かれています。そして、イザヤ書53章には、罪から贖うための贖いしろ、つまり苦難のしもべについて書かれています。イザヤ53:5「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。」とあります。イザヤ書が第五福音書と言われるのはそのためです。

千年王国、つまり御国に入れる人はだれでしょうか?それは、主に贖われた人だけです。罪を持ったままでは、御国に入ることはできません。イエス様はマタイ7章で「狭い門から入りなさい。…いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」と言われました。しかしここでは、「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる」と書いてあります。英語の聖書ではハイウェイですから、片道何車線もある広い道路を想像すべきです。なぜ、ここでは狭い道ではく、大路なのでしょうか?それは、終わりのとき、御国に入る者たちが非常に大勢いるからです。私は『復活』という絵を見たことがあります。手前にはよみがえられたイエス様が墓のそばに座っています。その向こうには、各時代の人たちが旗をもって立っています。古代、中世、近代、現代と着ている服でわかります。おびただしい数の人たちが雲のように群がっています。子どもいれば、少年、中年、老人もいます。その人たちが、御国に入るのですから、大路、ハイウェイでなければなりません。しかし、そこには条件があります。群衆に紛れて入ることはできません。「汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない」と書いてあります。こんなに大勢の人たちをどのように分けることができるのでしょうか?1つは、キリストの贖いを受けて、いのちの書に名前が記されている人たちです。もう1つは聖霊の証印が押されている人です。エペソ1:13-14「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」ハレルヤ!「聖霊が御国を受け継ぐことの保証であり、神の民の贖いのためである」とはっきり書かれています。しかし、世の終わり、迫害が激しくなり「獣の刻印」を押されたものだけが売り買いできるという時代がやってきます。多くの人たちは、右手か額に、刻印を受けさせられるでしょう。だから、そのときは信仰は命がけであり、殉教を覚悟しなければなりません。キリストが来られるとき、獣の刻印を受けた人々は、にせ預言者と一緒に火の池に投げ込まれます。ヨハネ黙示録20:4「…獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。」と書いてあります。この人たちは、世の終わりに救われて、千年王国に入った人たちです。

現代は終わりの時代に既に入っています。しかし、「獣の刻印」が押されるような迫害は受けていません。世の終わりを極端に強調する牧師たちがいます。「ちょっと危ないなー」という気がしますが、ある程度は、彼らからも学ぶ必要があります。たとえば、政府は国民全員に番号を割り振る法案を決定しています。アメリカでは、昨年、皮膚の下にICチップを埋め込む法案が可決されました。そうすれば、預金残高、職業、犯罪歴など国民一人ひとりを監視することができます。水面下では、ちゃくちゃくと準備ができているのかもしれません。信教の自由はいつまでも続かないということは確かです。しかし、平和な時代は信仰もなまぬるくなり、自分は救われているのか、救われていないのかも分かりません。私たちはまもなくやってくる、さばきと報いに対して、備える必要があります。聖書の預言はほとんど成就しました。成就していないのは、この世の終わりの一連の出来事だけです。これから起こることを知るために、ヨハネの黙示録などから学ぶ必要があります。ヨハネの黙示録は、世の終わりの7年間にスポットが当てられています。7年間とは、千年王国に至るまでの艱難時代です。今は時計が止まっている状態です。ダニエル書には、70週ということばがあります。ところが、69週目にメシヤが絶たれました。そこに、教会時代が割り込んでしまい時計が止まったような状態になりました。いわゆる、異邦人の時です。残りの1週、つまり7年間は延期されている状態です。でも、異邦人の時が終わったなら、時計が動き出します。まず、エルサレムに神殿が建てられます。世界的な政府が樹立され、いろんな統制が敷かれます。大きな迫害のもとで、イスラエルの民が救われるでしょう。ある人たちは、教会は天に引き上げられると言います。しかし、ある人たちは一緒に艱難を受けると言います。とにかく、殉教者する人はかなりの数にのぼるでしょう。イエス様は、「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです」と何度も言われました。ですから、終末の時代に住む私たちにとって一番重要なことは、主がいつ来られても良いような生活をしていることです。

Ⅰテサロニケ5章に、私たちがどのように備えるべきなのか詳しく書かれています。Ⅰテサロニケ5:2-6「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が『平和だ。安全だ』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」眠るとは、霊的に眠っているということです。「世の終わりなんか来ない。そんなのうそっぱちだ」と罪の中に生きているなら、取り残されてしまうでしょう。私たちは暗闇の者ではなく、光の子ども、昼のこどもです。Ⅰテサロニケ5:8-9「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」ハレルヤ!昼の者が身に着けるものがあります。信仰と愛の胸当て、救いの望みのかぶとです。いわゆる「信仰、希望、愛」です。私たちは神の怒りを受けるものではありません。キリストにあって、救いを得るように定められています。今、キリストを信じているなら、この先、どんなことがあっても罪に定められることはありません。必ず、千年王国、御国に入ることができます。イザヤも「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる』」と言っています。キリストにある者には復讐の神ではありません。神の報いが来て、私たちが救われるのです。ですから、世の終わりは私たちとっては、破滅ではなく、御国が完成するときなのです。この世は終わらなければなりません。でも、その後に、自然界が回復される千年王国がやってきます。千年王国こそは、私たちへの報いです。すべての不条理が解決され、すべての損失が弁償されるときです。この地上では貧しい人や金持ちがおります。幸せな人もおれば、一生不幸せな人もいます。健康な人もおれば、病気がちで体の不自由な人もいます。しかし、千年王国ではそんなことはありません。特に、地上で貧乏くじをひかされたような人が、何倍も報われるのです。神様はちゃんと見ておられます。有名で地上ですでに報われている人は、御国ではあまり与えられません。地上で良いことをしたのに、ちっとも報われなかった人が、御国では報われるのです。人からの報いは期待してはいけません。しかし、千年王国における、神様からの報いは期待して良いのです。信仰と愛と望みを失わないで、御国の成る日を待ち望みたいと思います。