2014.7.6「ハバククの信仰 ハバクク3:16-19」

 きょうは創立記念礼拝です。今から65年前、昭和24年7月、山下米吉牧師が亀有で開拓伝道を始めました。私は三代目の牧師になります。徳川は三代将軍の時に栄えました。ただいま、バイオリニストの蜷川(にながわ)さんとピアニストの奥山さんから1曲だけ演奏していただきました。ぜひ、午後1時半開演のチャペルコンサートに出席してもらいたいと思います。昨年の8月から旧約聖書の人物伝を学んでいますが、きょうは「ハバクク」です。3章しかない小さな書物ですが、ある聖句は新約聖書に引用されています。

 

1.ハバククの祈り

 ハバククの生きた時代は、ヨシヤ王の死(前609年)の直後ではないかと思われます。ヨシヤは善い王様でしたが、エジプトのパロ「ネコ」に戦いを挑んで、あえなく命を落としました。その後、エジプトが政治に干渉して来て、勝手に王様を取り替えました。エホヤキムが王位に即いた頃、南ユダは暴力、闘争、背信が蔓延していました。ハバククは「主よ。私が助けを呼んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか?」と祈っています。これは、祈りというよりも訴えです。1:3-4「なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか。暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています。それゆえ、律法は眠り、さばきはいつまでも行われません。悪者が正しい人を取り囲み、さばきが曲げて行われています。」ハバククは神様に対して、「暴力や不正をどうして許すのですか?」と訴えています。リビングバイブルでは「『助けてくれ、人殺しだ!』といくら叫んでも、だれも助けてくれません」と書いてあります。さばきが曲げられ、略奪や暴虐が行われて、まるで無政府状態のようです。テレビで色んな国の暴動や内乱を見ますが、ユダはそのような国になっていました。ハバククは、「いつまであなたは聞き入れてくださらないのですか?ただ、天から眺めておられるのですか?」と嘆いています。

バククの祈りに対して、主がただちに答えてくださいました。それは、カルデヤ人を起こしてユダをさばくということです。1:5-6「異邦の民を見、目を留めよ。驚き、驚け。わたしは一つの事をあなたがたの時代にする。それが告げられても、あなたがたは信じまい。見よ。わたしはカルデヤ人を起こす。強暴で激しい国民だ。これは、自分のものでない住まいを占領しようと、地を広く行き巡る。」カルデヤ人とはバビロンのことです。あと20年もたたないうちに、バビロンが攻めて来るという預言です。しかし、ユダの王様をはじめ高官たちは、「自分たちは神様によって選ばれた民なので大丈夫だ」と高をくくっていました。しかし、バビロンの軍隊がどれほど恐ろしいか、7節から11節まで記されています。1:7-10「これは、ひどく恐ろしい。自分自身でさばきを行い、威厳を現す。その馬は、ひょうよりも速く、日暮れの狼よりも敏しょうだ。その軍馬は、はね回る。その騎兵は遠くからやって来て、鷲のように獲物を食おうと飛びかかる。彼らは来て、みな暴虐をふるう。彼らの顔を東風のように向け、彼らは砂のようにとりこを集める。彼らは王たちをあざけり、君主たちをあざ笑う。彼らはすべての要塞をあざ笑い、土を積み上げて、それを攻め取る。」ハバククはまるで見たかのように、彼らの敏捷性や力を描写しています。獲物を奪うように、ユダにとびかかり食らい、残りの者たちを捕らえていきます。既に、北イスラエルはアッシリヤによって国外に連れらされました。今度はバビロンによって南ユダが滅ぼされます。1:15「彼は、このすべての者を釣り針で釣り上げ、これを網で引きずり上げ、引き網で集める。こうして、彼は喜び楽しむ。」まるで、魚のようにつり針で釣り上げ、網で捕らえて行くということです。教会のロビーにスペインの教会の絵がかかっています。あの絵を描いたのは荒木忠三郎さんです。荒木さんは兵隊で中国にいたとき、日本が戦争で敗れました。そのときソ連の兵隊たちが日本兵をかたっぱしから捕まえて、シベリヤに連れていきました。極寒と重労働ため多くの日本兵が死にました。下が凍土で死体を埋められなかったそうです。「戦争が終わったのに、何の権利があって?」と抗議しても全く通じません。荒木さんは九死に一生を得て、日本に帰ることができました。ナホトカの港まで死んだ同胞の魂が追いかけてきたそうです。捕囚というのはそれほど辛いものです。ハバククが預言したとおり、紀元前586年、エルサレムは陥落しました。ある者たちは剣で殺され、ある者たちは捕囚となりました。

旧約聖書では、神様は隣国に侵略させて、イスラエルの罪をさばくという構図になっています。あるときは、ペリシテ人、あるときはモアブとかアモン人、あるときはシリアなどです。今回は、カルデヤ人(バビロン)です。では、どういうときに国が守られるのでしょうか?まことの神を敬い、律法を守り、正しい生活しているときです。神様ご自身が盾となり、敵の侵入を許さず、国を栄えさせてくださいます。イスラエルは本当に小さな国で、南はエジプト、北はアッシリヤ、バビロンなどの大国がありました。その後、行きがけの駄賃のようにギリシャやローマに滅ぼされました。だから、神様を頼らないと生活できない国なのです。それなのに、神様を忘れて、悪いことを行うと他国から侵略されます。同じ法則が日本にもあてはまります。日本も本当に小さな国です。首相はアメリカと一緒に戦えるように、集団的自衛権を推し進めようとしているのでしょう。でも、日本はその前に偶像崇拝をやめ、まことの神様を求める必要があります。経済力よりも聖書が教える生活を求めていくならば、神様が祝福してくださると信じます。日本は本当に資源の乏しい国です。でも、聖書の神様は100万人以上のイスラエル民を荒野で40年間も養われたことがあります。イエス様はこのように言われました。マタイ6:33「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

 

2.ハバククの信仰

 しかし、ハバククにとって、どうしても理解できないことがありました。それは、なぜバビロンのような悪い国が神に選ばれた民をさばくのかということです。ハバククは、1:13「悪者が自分より正しい者をのみこむとき、なぜ黙っておられるのですか」と訴えています。バビロンはどのような国なのでしょうか?彼らの罪を訴える歌が5つあります。2:6「自分のものでないものを増し加える者」、2:9「自分の家のために不正な利得をむさぼる者」、2:12「血で町を立て、不正で都を築き上げる者」、2:15「自分の友に飲ませ、毒を混ぜて酔わせ、裸を見ようとする者」、2:18「木(偶像)に向かって目をさませと言う者」とあります。これらは、カルデヤ人(バビロン)に対する預言です。ハバククにとって、このような悪い国が、選民ユダ王国を懲らしめる器となるのはどうしても納得できませんでした。考えてみると、神様はサタンや悪霊の存在を許しておられます。私たちが罪を犯し続けると、悪霊が心や体の一部を捕まえて苦しめることができます。たとえば、サウル王は罪を犯して、神様から捨てられました。それからどうなったでしょう?Ⅰサムエル16:14「主の霊はサウルを離れ、主からの、わざわいの霊が彼をおびえさせた」とあります。ねたみに駆られたサウルのところに悪霊がやってきて、ダビデを殺そうとしました。ヨブのときも同じです。主の許しのもとで、サタンがやってきました。サタンは、ヨブの持ち物と健康を奪いました。このように、神様がサタンや悪霊を用いて、私たちを苦しめて、罪を悔い改めるようにしておられるのかもしれません。ですから、悪霊を追い出す前に、罪を悔い改め、主に立ち返ることが重要です。しかし、なぜ、神様が神の子どもである私たちのために、悪霊を用いるのかということです。それは、バビロンと南ユダの関係と同じです。

 では、罪を犯しているバビロンはそのままで良いのでしょうか?ハバククはその後どうなるのか、見たいと願いました。ハバクク2:1-2「私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。【主】は私に答えて言われた。幻を板の上に書いて確認せよ。これを読む者が急使として走るために。」ハバククは神様からの幻を板に書きとめようとしました。英語の聖書には、tabletとなっています。今よく使っているタブレットのもとのかたちかもしれません。すると主は答えて言われました。2:3-4「…もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。…見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」彼とはバビロンのことです。バビロンの心がうぬぼれていて、まっすぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きるべきだということです。その後、さきほど引用しましたが、バビロンの罪が5つ並べられています。それと同時に、彼らのさばきについても述べられています。たとえば、2:8「あなたが多くの国々を略奪したので、ほかのすべての国々の民が、あなたを略奪する。あなたが人の血を流し、国や町や、そのすべての住民に暴力をふるったためだ。」とあります。さらに、2:17「レバノンへの暴虐があなたをおおい、獣への残虐があなたを脅かす。あなたが人の血を流し、国や町や、そのすべての住民に暴力をふるったためだ。」歴史的には、バビロンは紀元前539年、ペルシヤによって滅ぼされます。エルサレムを陥落させてから、53年後、今度は自分たちがやられてしまいます。そのとき、ペルシヤのクロス王によって、ユダの民が捕囚から解放されました。

 でも、ハバククの時代は、そのことが行われていませんでした。現実的にはバビロンがまもなく攻めてくるというのに、南ユダには暴力、闘争、背信が蔓延していました。ハバククは歯がゆくて、いらいらしていたことでしょう?そういうハバククに対して、主はどのように生きるべきかはっきりと語られました。それが有名な2:4「しかし、正しい人はその信仰によって生きる」であります。これは、世の中がどんなに悪くても、希望が全くなくても、正しい人はその信仰によって生きるんだということです。このみことばは、新約聖書に3箇所引用されています。パウロが2回、そしてヘブル書で1回引用されています。一番有名なのは、ローマ1:17「『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」のみことばです。使徒パウロは、ハバククのみことばを引用して、信仰義認ということを言いました。信仰義認とは、キリストを信じるだけで神様に義と認められる、つまり救われるということです。それから1500年後、マルチン・ルターが「義人は信仰によって生きる」とローマ書から引用しました。パウロの時代も、ルターの時代も形式的な宗教と律法主義が支配していました。霊的な暗黒時代に、ハバククのみことばが光を放ったのです。私たちも「世の中が悪い」とか、「教会には力がない」ということができます。しかし、まわりの世界やまわりの人たちがどうであれ、正しい人はその信仰によって生きるべきなのです。なぜでしょう?神様が世界の歴史を支配しているからです。最終的には、神様が悪をさばいてくださるからです。私たちは悪者のことで心を悩ませてはいけません。今は大丈夫そうに見えても、神様がきっちりとさばいてくださいます。私たちは私たちで、神様の御目のもとで、信仰によって生きるべきなのです。新約時代の私たちは、キリストの贖いによって、神の義が与えられている存在です。それは、自分の義ではなく、人間の義でもありません。キリストによって、私たちの状態にかかわらず、行いにかかわらず、神の義が与えられているのです。だから、神の義が与えられているにふさわしく、正しい生き方をするのです。これが、信仰によって生きるということです。

 

3.ハバククの賛美

 3章1節に「預言者ハバククの祈り。シグヨノテに合わせて」とありますが、内容は賛美であります。また、シグヨノテという意味が不明であり、聖書学者は、それは弦楽器ではないかと言います。なぜなら最後に、「指揮者のために。弦楽器に合わせて」と書いてあります。この「弦楽器」がヘブライ語で「ネギノテ」となっています。ですから、「シグヨノテに合わせて」というのは、「弦楽器に合わせて」という意味なのではないかと言われています。また、聖書学者は「ハバククは神殿聖歌隊の一人か、楽人であったのではないか」と言います。おりしも、きょうは弦楽器の賛美がありました。ちなみに、バイオリンはもちろんですが、ピアノも弦楽器であります。ハレルヤ!「弦楽器に合わせて」創立記念礼拝が持てることを感謝します。それでは、3章には何が書いてあるのでしょうか?ハバククはユダ王国が滅びることが定まっているという幻をはっきりいただきました。これはどうあがいても、決まっていることであり、変えようがありません。彼は自分が最も悪い時代にどうして預言しなければならいのか悩んだでしょう。希望と回復のメッセージなら、人々に受け入れてもらえます。しかし、ハバククは人々が受け入れてくれなくても、神のさばきがくることをストレートに預言しました。預言者の宿命とは、人々が信じようと信じまいと、神からの啓示と幻を語るだけです。あとは、そのことが成就することをだまって見届けるしかありません。ハバクク3:13-15「あなたは、ご自分の民を救うために出て来られ、あなたに油そそがれた者を救うために出て来られます。あなたは、悪者の家の頭を粉々に砕き、足もとから首まで裸にされます。セラ あなたは、戦士たちの頭に矢を刺し通されます。彼らは隠れている貧しい者を食い尽くす者のように、私をほしいままに追い散らそうと荒れ狂います。あなたは、あなたの馬で海を踏みつけ、大水に、あわを立たせられます。」機械のスピーカーだったら、どんな音を出してもスピーカー自身は感じないでしょう。しかし、感情を持った人間が、啓示と幻を語って、全くダメージがないかというとそうでもありません。ハバクク3:16「私は聞き、私のはらわたはわななき、私のくちびるはその音のために震える。腐れは私の骨のうちに入り、私の足もとはぐらつく。私たちを攻める民に襲いかかる悩みの日を、私は静かに待とう。」ハバククは感情を乗り越えて決断しました。もし全世界がさばかれることが神の栄光となるなら、「全世界よ、滅びよ」。もし、罪びとが滅ぼされることが神の栄光となるなら、「罪びとよ、滅びよ」。神の栄光はハバククにとって、最も高い目標でした。

ハバククはさばきが迫っている絶望的な状況の中から賛美しました。前途は暗く、道は険しい。しかし、暗雲を通して栄光が輝いているからです。ハバククは、まもなく。主がやって来られることを希望しました。人間的には開き直りと見えるかもしれません。しかし、ハバククは霊的に自分を奮い立たせて賛美しました。ハバクク3:18-19「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は【主】にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。指揮者のために。弦楽器に合わせて。」この「しかし」は、とても偉大ではないでしょうか?私たちはハバククのように、困難や病気の真ん中でも、賛美できます。破産して、明日どうなるか分からなくても、賛美できます。「しかし、私は【主】にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。」「高いところ」とは、さばきの及ばない安全な場所です。低いところでは、主のさばきによって大勢の人たちが倒れています。しかし、神様は雌鹿のような足を与え、さばきを逃れさせ、高いところを歩ませてくださいます。賛美は自然に出てくるのではありません。目の前の環境や状況を「しかし」と言って否定しなければなりません。「しかし、私は【主】にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」と決断して言わなければなりません。そうすると、ふりかかる火の粉や、災いを苦と思えなくなります。信仰とはある意味では、常識を超えた世界であります。

きょうは、亀有教会創立65周年記念礼拝です。教会には教勢というのがありまして、会員の数とか礼拝人数です。歴史をたどると、私が赴任したときは礼拝が28名でしたが、7年後64名になりました。そして、それから20年間、ずっと60名から70名台の間でした。良い見方では、現状を立派に維持している。悪い見方では、停滞している、伸び悩んでいるということです。たとえば、一年間に5人洗礼を受けたとしても、3年くらいたつといなくなり、1人残れば良いほうです。こういうのをずっとやっていると、牧師ってなんだろうと思います。私は他の教会はともかく、亀有教会だけでも伸びてほしいとやってきました。しかし、日本にある亀有教会であることを忘れてはいけないと思いました。停滞している、伸び悩んでいるというのは、一教会の問題ではなく、日本全体の問題だということが分かりました。海外からいろんなリバイバリストを招き、いろんな方策を試みましたが、これといったものがありませんでした。まさしく、「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる」です。『聖書人物伝』を書いている、沢村五郎師がこのように言っています。「今の時代に目を向けて私たちの立場に思い至るとき、いかに共通点が多いかに気づくであろう。現代は有史以来、霊的には最も暗黒な時代である。罪悪は地に満ち、神はだまっておられるかのようである。しかし時のしるしは主の到来を明示している。全世界は噴火山上にあって、すでに鳴動(めいどう)を始めている。さばきの日、大艱難の時は目前に迫っている。ところが、この世の人々だけでなく、教会もまた眠っている。」

ハバクク書はその当時の時代だけではなく、終末の時代をもかね合わせて預言しています。終末の時代も「いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる」。私たちはこういうときこそ、ハバククの信仰と賛美を忘れてはいけません。こういう時代だからこそ、「しかし、正しい人はその信仰によって生きる」と告白すべきです。また、こういう時代だからこそ、「しかし、私は【主】にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」と賛美するのです。この先、天が崩れ去ることがあるかもしれません。いろんな艱難が起こるでしょう。しかし、そのとき主が来られ、最終的な救いをもたらしてくださいます。私たちはうなだれて主を待つのではなく、賛美して主の栄光がなされるのを待ちたいと思います。詩篇34:1「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある」。