2014.7.13「涙の預言者 エレミヤ1:1-10」

 もし、神様に仕える時代を選ぶとしたらどのような時代が良いでしょうか?エレミヤの時代は、最も避けたい時代であります。なぜなら、ユダ王国がバビロンによって滅ぼされるという末路をたどったからです。その時は、だれ一人、エレミヤの預言を聞こうとせず、迫害し、監禁しました。エレミヤが特殊なのは、彼は救いのメッセージではなく、滅びを預言したからです。一人も救われないような中で、ひたすら神からの預言を語りました。

1.エレミヤの召命

エレミヤは祭司でしたが、南ユダのヨシヤの治世13年に、預言者として召されました。さらに、エホヤキムやゼデキヤの時代を経て、エルサレム陥落後まで活動しました。ある聖書学者は「エレミヤ書はこれまで記された最も悲劇的な国家の記録である。エレミヤは列王記の中で最も悲劇的な最後の部分を生きた預言者である」と言っています。彼が預言者として召された時は、20歳にも満たなかったので、苦難にくじけやすい未熟な点もあったと思われます。エレミヤがきわめて涙もろい女性的な人であったと言われますが、バビロンに滅ぼされるまで、だれ一人、耳を傾けようとしなかったからでしょう。主はどのようにエレミヤを召したのでしょうか?エレミヤ1:5「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」使徒パウロも、「生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった」(ガラテヤ1:15)と自分を紹介しています。エレミヤは何と答えたでしょうか?1:6-8そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」すると、【主】は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──【主】の御告げ──」若ければ、当然、人々からも舐められるでしょう。未熟なので、自分でもどう対処したら良い分からなくなるでしょう。しかし、主は「彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ」と約束しています。もうすぐ後に、エゼキエルについて学びますが、彼は神様から「あなたの額を、火打石よりも堅い金剛石のようにする。…彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな」(エゼキエル3:9)と言われました。それほど、預言者は風当たりが強いということです。

では、主がエレミヤに与えた預言者としての使命はどのようなものだったのでしょうか?エレミヤ1:9そのとき、【主】は御手を伸ばして、私の口に触れ、【主】は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。」私たちが使っている聖書は預言者を、未来を予知する予言ではなく、「預金」の「預」を使っています。預言者とは、「神様のことばを預かる者なのだ」という意味を持たせているのです。このところでは、主がエレミヤの口に触れ、「今、わたしのことばをあなたの口に授けた」と言っています。エレミヤ自身の中には、語るべきことばも、内容もありません。しかし、語るべきことばを主が授けてくださいます。では、預言者の使命とは何でしょう?主が語られたことばを、民の前に出て、そのまま告げるということです。「神様、あなたが直接、語ったら良いではないでしょうか?なんで、面倒くさいことをやらせるのですか?」と文句を言いたくなります。たとえば、大会社の社長が現場で働いている一社員に「何をやっちょるのか、君は!」と注意したらどうなるでしょうか?その社員は即クビにさせられるかもしれません。社長にはそういう権威があります。同じように、宇宙と全世界を造られた聖なるお方が、ユダの国の罪を一喝したらどうなるでしょう?ユダの国は一瞬にして地上から消されてしまうかもしれません。もちろん主は、ご自分の力や感情をコントロールできるお方ですから、そうはしないでしょう。主は忍耐と慈愛に満ちたお方であり、「預言者を遣わして、何とか言い聞かせて、さばきを与えないようにしたい」と願っておられるのです。そのために、旧約の時代には、ご自分のしもべである預言者を何人も遣わしています。でも、残念ながらうまくいきませんでした。ほとんどの預言者は無視され、拒絶され、打ち叩かれ、殺されています。エレミヤも同じような運命を背負っていました。

しかし、エレミヤの預言者としての務めは、他の預言者と異なる点があります。それは何でしょうか?エレミヤ1:10-13見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」次のような【主】のことばが私にあった。「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」そこで私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」すると【主】は私に仰せられた。「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」再び、私に次のような【主】のことばがあった。「何を見ているのか。」そこで私は言った。「煮え立っているかまを見ています。それは北のほうからこちらに傾いています。」預言者の語ることばが、天地の創造者のことばであるなら、それは必ず実現するはずです。ですから、相手が大国であろうと、「引き抜き」「引き倒し」「滅ぼし」「こわし」「建てる」「受ける」という力があります。語る人がどんなに若くても関係ありません。神のことば自体に力があるからです。また、エレミヤが他の預言者と違う点はこれです。エレミヤは救いではなく、滅亡のみを警告したからです。主はユダ王国を滅ぼすことを既に決定していました。エレミヤは煮え立っているかまが、北のほうからこちらに傾いているのが見えました。その意味は、北からバビロンがまもなく襲って来るということです。ユダ王国は病気の末期で回復する見込みが全くありません。エレミヤ13:23「クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行うことができるだろう。」肌が黒いクシュ人、つまりエチオピア人の皮膚を白くすることはできません。また、ひょうの斑点をなくすことができません。それくらい不可能だということです。エレミヤ15:1【主】は私に仰せられた。「たといモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしはこの民を顧みない。彼らをわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。」もう、さばきは決まっており、だれがとりなしても無駄だということです。エレミヤは必ずやってくる主のさばきを、まっすぐ、そのまま語る預言者として召されたのです。新約の私たちは救いの福音を伝えられるということは、どんなにか光栄であり、幸いでしょうか。エレミヤと比べたら、決して「それは困難です」などとは言えません。

エレミヤはユダがまことの神を捨て、他の神々に行ったことを責めました。エレミヤ2:13「私の民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水のためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ」。ユダは湧き水である生けるまことの神を捨てました。そして、水のためることのできない偶像礼拝を行いました。それは霊的姦淫であり背信です。2つ目は、神様から離れた結果、さまざまな悪を行いました。主は、「だれか公義を行い、真実を見つけたら、わたしはエルサレムを赦そう」と言いました。しかし、彼らは顔を岩よりも堅くし、悔い改めようとしませんでした。「うなじのこわいもの」という表現が何度も出てきます。もともと、牛や馬が御する人の言うことをきかないという意味でした。これが、だんだんと「強情」「頑固」「手に負えない」様子を表すようになりました。イスラエルの民は、エジプトの地を出た日から、最後までうなじのこわい民でした。エレミヤがはっきりと主のさばきを預言したので、二人の王、エホヤキムとゼデキヤはエレミヤを監禁しました。エレミヤは足かせにつながれたり、水のない井戸に落とされたりしました。エレミヤはこのように告白しています。エレミヤ20:7-9「私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります。…私は、『主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい』と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。」エレミヤは「もう主の名によって語るのをやめよう」と思いました。しかし、それをとどめることができませんでした。骨の中から燃えさかる火のようにあふれてくるからです。これこそ、預言者の宿命です。「やめろ」と言われても、語らざるを得ないのです。主のことばをしまっておくことなど苦しくてできません。

エレミヤは若くして預言者として召されました。しかも、最も困難な時代の中で、主のことばをまっすぐ語らなければなりません。人々は耳をふさいで、「もうやめろ!」と叫びました。そして、活動きできないように彼を監禁しました。エレミヤは「もう主の名によって語るのをやめよう」と思いました。しかし、それができないのです。主のことばが骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、しまっておくことができません。どうしても、語らざるをえません。使徒パウロは、「ローマにいるあなたがたも、ぜひ福音を伝えたいのです。私は福音を恥とは思いません。」(ローマ1:15-16)と言いました。私たちはエレミヤよりもすばらしい福音を知らされています。福音は「信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力」です。人から、「やめろ」と言われても、主の愛が私にせまっているので、どうしても伝えなければなりません。エレミヤやパウロのような「燃えさかる火」を、その情熱をいただきたいと思います。

2.エレミヤのメッセージ

エレミヤ書で最も有名な聖句はこれでしょう。よく、色紙や本の裏表紙に書かれたりするからです。エレミヤ29:11「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」これを見たら、だれでも「ああ、神様の計画はわざわいではなく、平安なんだ。将来と希望を与えるものなんだ。」と喜ぶでしょう。しかし、エレミヤ書は52章もあります。他のところをぜんぜん読まないで、29章の11節を「わー、すばらしいみことばだ」と言ってはいけません。聖書は文脈から解釈しなければなりません。1節だけではなく、その前後も一緒に読んでみないと本当の意味がわかりません。では、エレミヤが言う神の計画とは何なのでしょうか?それは第一に人々から「わざわいだ」と思われていることです。エレミヤは「バビロンに捕らえられよ」と言いました。なぜなら、ユダ王国の罪は限界に達しており、さばきがなされなければ、主の怒りがおさまらないからです。バビロンを用いて罪のさばきを与えることが主のみこころでした。その後、「ユダの民を回復しよう。バビロンから連れ戻そう」というのが主の計画でした。しかし、それはユダの民には我慢できないことでした。「神さまから選ばれた民が、バビロンにやられるわけがない。主が守ってくださるに違いない」と考えていました。ちょうどその頃、偽預言者たちが王様のもとに群がっていました。彼らは主のさばきに言及せず、平安と希望だけを伝えました。エレミヤ6:13-14「なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。」これはまるで、癌になっている人に対して、軟膏を塗って「きっと、直りますよ」と言っているようなものです。その人は、癌細胞を体から取り除かなければなおりません。同じように、ユダ王国から罪を取り除かなければ、真の平和はやってこないのです。

このことはイエス・キリストが十字架に付けられて死んだことと同じです。この世の宗教には罪の贖いというものがありません。どの宗教も罪の問題を扱わないで、「信じれば救われます」みたいなことを言います。しかし、そこには救われる根拠がありません。イエス様はなぜ、十字架で死ぬ必要があったのでしょう。バプテスマのヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と言いました。神様はどのようにして人々から罪を取り除こうとされたのでしょうか?それは、御子イエスの上に全人類の罪を負わせ、御子をさばくということです。そして、この御子を信じた人はさばかれないで、永遠のいのちを持つというものでした。神様は聖なる方なので、1つの罪を赦すことができません。罪に対しては必ずさばきを下さなければなりません。もし、イエスキリストがその人の罪を負って、刑罰を受けて死なれたならどうでしょう?神様の怒りがなだめられ、罪をさばかないで赦すことができます。イエス・キリストは私たちの身代わりになって十字架で死なれました。だからこそ、私たちに平安と将来と希望が訪れるようになったのです。十字架抜きの救いはありえません。エレミヤのメッセージも同じです。なぜ、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものなのでしょう?それは、南ユダの罪をバビロンによって滅ぼし、彼らを捕囚として国外に連れ去るということです。そして、70年のときが満ちたら、神の怒りがなだめられ、彼らは元の国に帰ることができるのです。7は聖書で完全数ですが、70年は、その10倍です。ですから、神様のみこころは、だまってバビロンに降参して、捕囚となることなのです。それこそが、わざわいではなくて、平安を与える計画なのです。エレミヤ29:4「イスラエルの神、万軍の【主】は、こう仰せられる。『エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。』」神様はバビロンに引かれていく人々を守ってくださいます。逆に、エルサレムにとどまり、バビロンと戦いを交える民はどうなるのでしょうか?エレミヤ29:17-19「万軍の【主】はこう仰せられる。「見よ。わたしは彼らの中に、剣とききんと疫病を送り、彼らを悪くて食べられない割れたいちじくのようにする。わたしは剣とききんと疫病で彼らを追い、彼らを、地のすべての王国のおののきとし、わたしが彼らを追い散らしたすべての国の間で、のろいとし、恐怖とし、あざけりとし、そしりとする。彼らがわたしのことばを聞かなかったからだ。」

しかし、当時の王たちはエレミヤに与えられた神のことばを聞こうとしませんでした。エホヤキムはエレミヤが書いた巻物を、読まれた後から、小刀で裂いて、暖炉の火に投げ入れました。結局、暖炉の火で巻物全部を焼き尽くしました。彼のすべての家来たちは、恐れようとも、衣を裂こうともしませんでした。主はユダの王エホヤキムのしかばねが捨てられ、昼は暑さに、夜は寒さにさらされると言われました。最後の王、ゼデキヤはどうしたでしょう?エレミヤ37:2「彼も、その家来たちも、一般の民衆も、預言者エレミヤによって語られた【主】のことばに聞き従わなかった。」やがて、バビロンの王、ネブカゼレザルが全軍勢を率いてエルサレムに責めてきました。町は包囲され、破られました。ゼデキヤ王とすべての戦士は、彼らを見て逃げ、夜の間に、城壁の間の門を通って、アラバへの道に出ました。しかり、カルデアの軍勢は彼らに追いつき捕らえて虐殺しました。ゼデキヤの目をつぶし、青銅の足かせにつないで、バビロンに連れていきました。そして、降伏した投降者たちと残されていた民をバビロンに捕らえ移しました。そのように、エレミヤのことばのとおり成就しました。エレミヤは最後どうなったのでしょう?残された少数の民は、バビロンが任命した総督を殺しました。そして、行ってはいけないといわれていたエジプトに下りました。その中にエレミヤもいました。まもなく、バビロンがエジプトを襲ったので、エジプトに下った人たちは殺されました。恐らく、エレミヤもエジプトで死んだものと思われます。

こうなると、「エレミヤの人生とはどういうものなのか?預言者とはそんなに辛くて、報いられないものなのか?」と思ってしまうでしょう。確かに、エレミヤは結婚をして家庭を持つことも許されず、天涯孤独でした。では、エレミヤの預言は、エレミヤと一緒に死んでしまったのでしょうか?そうではありません。エレミヤの希望のメッセージは捕囚の地で活躍した、エゼキエルとダニエルに受け継がれました。それだけではありません。主がエレミヤの預言を覚えておられました。Ⅱ歴代誌36:19-23「彼らは神の宮を焼き、エルサレムの城壁を取りこわした。その高殿を全部火で燃やし、その中の宝としていた器具を一つ残らず破壊した。彼は、剣をのがれた残りの者たちをバビロンへ捕らえ移した。こうして、彼らは、ペルシヤ王国が支配権を握るまで、彼とその子たちの奴隷となった。これは、エレミヤにより告げられた【主】のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。この荒れ果てた時代を通じて、この地は七十年が満ちるまで安息を得た。ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた【主】のことばを実現するために、【主】はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。」クロスは囚われていたユダの民を主の宮を建てるために解放しました。エレミヤが預言した70年が満ちたので、天の神、主がクロス王に働きかけたのです。

『聖書人物伝』を書いた、沢村五郎師はエレミヤのことをこう述べています。「エレミヤの受けるべき報いと栄えとは、この世で受けるにはあまりにも大きすぎた。主はその褒賞の一片をさえ、この世ではお与えにならず、ことごとく次の世にたくわえておいてくださった。彼の受けた苦しみが大きかっただけ、彼の栄光もまた大きいであろう。「キリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにする」(ローマ8:17)。主と苦しみをともにする機会は、ただこの地上の生涯だけである。苦しみを味わわないことは大きな損失である。私たちもエレミヤにならい、主のお苦しみの分担者になりたいものである。」苦しみを避けないで、主の栄光のために、まっこうから受けるとはなんと大胆でしょうか。本当は、苦しみ災いの向こうに、将来や希望があるのではないでしょうか?私たちはとかく近道をして、そういうものを得ようとします。イエス様は十字架を忍ばれましたが、ただ、我慢したのではありません。ヘブル12:2「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」とあります。喜びのゆえに、十字架を忍ばれました。No cross no crown、十字架なくして冠なしということばがあります。苦しみや災いは、全部が全部悪いものではありません。なぜなら、それを通して、本当の将来や希望が見えてくるからです。