2014.8.3「エゼキエルの幻 エゼキエル1:1-11」

紀元前605年、バビロンの王ネブカデレザルがエルサレムに攻めてきました。そのとき、宝物倉から宝の一部が持ち出され、ダニエルたちが連れていかれました。また、紀元前597年に第二回目の捕囚がありました。ネブカデレザルによってエホヤキン王とその家族、高官や祭司、書記など有力者1万人、それに職人や鍛冶屋がバビロンに捕らえ移されました。祭司エゼキエルがその中にいました。捕囚の民は幾つかの居留地に分けられましたが、エゼキエルたちが送られた居留地は、チグリス川とユーフラテス川にはさまれた平野の南部でした。捕囚民として連行されて来て5年目に、エゼキエルは預言者として召されました。

 

1.エゼキエルの召命

 エゼキエルは、困難な時代に預言者として召されたゆえに4つのことが必要でした。第一は、見ることです。霊的な世界を見る目です。エゼキエル1:1「第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。」エゼキエルが見た神々しい幻とは何でしょう?1:4「私が見ていると、見よ、激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐるとひらめき渡りながら北から来た。その回りには輝きがあり、火の中央には青銅の輝きのようなものがあった。その中に何か四つの生きもののようなものが現れ、その姿はこうであった。彼らは何か人間のような姿をしていた。彼らはおのおの四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。」エゼキエルは主の栄光を見ました。そこには、人間が近づくことのできない、激しい風、大きな雲と閃きがありました。彼は、得体の知れない4つの顔を持った生き物を見ました。どのような姿なのか、文章だけではよくわかりません。ビジュアル的にしてもらえたらと思います。エゼキエル書10章にも出てきますが、その生き物とはケルビムであり、守護と賛美をつかさどっている天使です。エゼキエルはこの先、何度も幻を見させられます。神学的には異象(黙示)と言って、あえて分からないように象徴的に書かれています。エゼキエルはバビロンという敵地にいたので、そのように書く必要があったと思われます。このような意味で、エゼキエル書はヨハネの黙示録と良く似ています。

 第二には聞くことです。エゼキエル1:28「その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それは【主】の栄光のように見えた。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。」預言者は、まず自分が主の御声を聞かなければ、民たちに告げることはできません。エゼキエルは召命時に、何を聞かされたのでしょうか?エゼキエル2:1その方は私に仰せられた。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民、すなわち、わたしにそむいた反逆の国民に遣わす。彼らも、その先祖たちも、わたしにそむいた。今日もそうである。彼らはあつかましくて、かたくなである。わたしはあなたを彼らに遣わす。あなたは彼らに『神である主はこう仰せられる』と言え。彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、彼らは、彼らのうちに預言者がいることを知らなければならない。」彼らは反逆の家であり、「神である主はこう仰せられる」と言っても、彼らは聞かないと言われました。私のように、礼拝でメッセージを語るのとは訳が違います。ここにいらっしゃっている方々は、主のことばを聞こうとしてやってきていますので、話す方はとても楽です。しかし、彼らは聞こうとしない「あつかましくて、かたくなな」人たちでした。それでも、エゼキエルは主から聞いて、そのまま、彼らに語りました。預言者は気が滅入るような戦いが常にあります。

 第三はみことばを食べることです。エゼキエル3:1-3「その方は私に仰せられた。『人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。』そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、そして仰せられた。『人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。』そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。」『聖書人者伝』を書いている沢村五郎師はこう述べています。「預言者は神の声を聞くだけでなく、また神のことばを食べなければならなかった。万巻の書を読んでその頭脳を養い、学位をえることによっては、預言者はでき上がらない。神のことばを黙想玩味して消化し、腹を養うのでなければ、確信の人とはなれない。多年学窓に学んで十分な素養を身に着けながら、実践に立って力なく、生活難のようなそよ風にすら吹き飛ばされて伝道界を去るもみがらのような牧師、伝道師は、その腹が神のことばによって満たされておらず、そこに重みがないからであろう。預言者は巻物を食べて蜜のような味を味わい、さらに腹が苦くなるまで、玩味しなければならない。」なんという、辛口なコメントでしょうか。玩味とは、食物をよくかんで味わうことです。また、言葉や文章などの表している意味や内容などを、よく理解して味わうということです。「聖書研究」とか「聖書勉強」は悪くありませんが、聖書と自分の間に距離があります。しかし、みことばをよく噛んで、食べないと、体の一部にはなりません。聖書は欠くことのできない、霊的な食物です。聖書を読むのが大変でしょうか?口の中で蜜のように甘くなる経験をしたなら、また読みたくなるのではないでしょうか?

 第四は顔を堅くされることです。エゼキエル2:6「人の子よ。彼らや、彼らのことばを恐れるな。たとい、あざみといばらがあなたといっしょにあっても、またあなたがさそりの中に住んでも、恐れるな。彼らは反逆の家だから、そのことばを恐れるな。彼らの顔にひるむな。」「反逆の家」ということばが、2章と3章に6回出てきます。反逆する人たちに、主のことばを語るならどうなるでしょう?怒って、はむかって来るでしょう。辱められ、命を取られるかもしれません。エゼキエル3:7-9「しかし、イスラエルの家はあなたの言うことを聞こうとはしない。彼らはわたしの言うことを聞こうとはしないからだ。イスラエルの全家は鉄面皮で、心がかたくなだからだ。見よ。わたしはあなたの顔を、彼らの顔と同じように堅くし、あなたの額を、彼らの額と同じように堅くする。わたしはあなたの額を、火打石よりも堅い金剛石のようにする。彼らは反逆の家だから、彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな。」イスラエルの家の人たちは鉄面皮、つまり鉄のような顔と額です。主は、エゼキエルの顔を「火打石よりも堅い金剛石のようにする」とおっしゃいました。少し前の口語訳は「あなたの顔を岩よりも堅いダイヤモンドのようにした」と訳しています。英語のある聖書にも「ダイヤモンド」と書いてありました。ダイヤモンドにはどんな金属や鉱物も勝てません。預言者は、人から何と言われても、ひるまない、打たれ強い体質が必要です。

 エゼキエルは困難な時代の預言者として必要な4つのものを与えられました。幻を見ること、主の御声を聞くこと、巻物を食べること、顔が堅くされることです。これは現代の私たちにも必要なことです。私たちも幻(ビジョン)を見ることが必要です。しかし、現実がすべてだと思っている人は、幻を見ることができません。幻は消えてなくなるはかないものではありません。なぜなら、幻から信仰が生まれるからです。幻のない民は滅びます。日本もこの先、どうなるかわかりません。住むところがなくなり、捕囚のような生活を強いられるかもしれません。情報過多の時代に主の御声を聞くことが必要です。また、何よりもみことばを食べることが必要です。世の終わりは人々から笑われたり、迫害を受けるでしょう。だから、めげないために顔がダイヤモンドのように堅くされる必要があります。

 

2.エゼキエルのメッセージ

 エゼキエルの中心的なメッセージは2つあります。第一は、主の栄光がエルサレムの宮から離れるという主のさばきです。第二は、世の終わりに主の栄光が再び回復させられるという希望です。エレミヤは最後までエルサレムで預言していました。一方、エゼキエルは何百キロも離れた、居留地で預言していました。エゼキエルは、一万人の捕囚の民と一緒に暮らしていました。その人たちは「あれから5年もたったのに、エルサレムは破壊されずに存続しているじゃないか」と疑っていました。また、その頃、エルサレムではハナヌヤという預言者が「二年のうちに、バビロンの王ネブカデネザルのくびきを、すべての国の首から砕く」(エレミヤ28:11)、つまり捕囚から帰還することができると預言しました。そういう噂が何百キロも離れた居留地に届いていたのかもしれません。しかし、それは主から出たことばではありませんでした。エレミヤはバビロンに引かれて行った捕囚の民、長老たち、祭司たち、預言者たちに、エルサレムから手紙を送りました。「家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために【主】に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。…あなたがたのうちにいる預言者たちや、占い師たちにごまかされるな。あなたがたが夢を見させている、あなたがたの夢見る者の言うことを聞くな。…それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:6-11)エレミヤの手紙を受け取ったのは、エゼキエルたちでした。エゼキエルの使命は、70年の時が満ちて、彼らがもとの所に帰るまで彼らの信仰を保つということですした。ですから、エゼキエルはエルサレムに残っている人たちと、バビロンに捕らえられている人たちに向けて語ったのだと思われます。

 エゼキエルは4章から24章まで、エルサレムのさばきを預言しています。ことばだけではなく、行動で預言しています。まず390日間、左脇を下にして横たわりました。その後、40日間、右わきを下にして横たわりました。また、人の糞で焼いた大麦のパンを食べました。また、髪の毛やひげを剃って、風に吹きさらせ、残りを火で焼きました。これらはみな、イスラエルとエルサレムに対するさばきの預言です。あるときエゼキエルは、エルサレムにいる長老たちを見ました。彼らは外から見たら、神殿を守っている敬虔な人たちでした。主はエゼキエルの霊をエルサレムに携えて行きました。神殿の壁に1つの穴があり、そこを通り抜けました。エゼキエル8:10-11「私が入って行って見ると、なんと、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていた。また、イスラエルの家の七十人の長老が、その前に立っており、その中にはシャファンの子ヤアザヌヤも立っていて、彼らはみなその手に香炉を持ち、その香の濃い雲が立ち上っていた。」なんと、彼らは神殿の中で、他の神々を礼拝していました。そして、「主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた」と言っていました。さらに主は、彼の霊を宮の北の入口へ連れて行きました。するとそこには、女たちがタンムズのために泣きながら座っていました。さらに主は、彼を主の宮の内庭に連れていきました。25人ばかりの人が、主の宮の本堂に背を向け、顔を東の方の太陽を拝んでいました。なんというおぞましい光景でしょう。タンムズは豊作の女神であり、太陽はエジプト的なカナンの神様でした。彼らは主なる神があてにならないので、偶像の神々に頼っていたのです。

 エゼキエルは、壁に穴をあけて通り抜け、神殿の内部を見ることができました。新約聖書には私たちの体は聖霊の宮であると書かれています。壁に穴を開けて、内部を見るとはどういう意味でしょう?私たちの心は壁で覆われており、人々は、何を思っているか分かりません。しかし、主は霊によって、心の壁に穴をあけて、内部を覗くことができます。あなたの心の壁に何が彫られているでしょう?あなたはだれに香をたいているでしょう?あなたは密かに何を思っているでしょう?あなたはだれを慕って涙を流しているでしょう?医者はファイバースコープを使って、血管内を通り、臓器の内部を見ることができます。脳の中の手術も、がばっと開けないで、小さな穴をあけて、カティーテルで手術できるようです。神様が人間に与えたもっと大きな力は、何かを想像(イメージ)することです。何かをイメージしたら、今度はそれを実際の形を作ることが可能になります。しかし、イメージによって、こういう偶像を作ることも可能です。心の中で、偶像を拝んでいても、だれも分かりません。人にはわからないかもしれませんが、神の霊、聖霊があなたの中に入るとき、すべてがあらわにさせられます。あなたの心の部屋や倉庫を行き巡り、調べてくださいます。ダビデはこのように祈っています。詩篇139:23-24「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」

 神様はイスラエルをご自分の民として選びました。彼らに律法を与え、導いてこられました。しかし、彼らは主を捨て、偶像崇拝に走りました。決定的に、わかったことがあります。生まれつきの人間には神様に従うことは無理だということです。エゼキエル書には新約聖書の預言が記されています。エゼキエル11:18-20「彼らがそこに来るとき、すべての忌むべきもの、すべての忌みきらうべきものをそこから取り除こう。わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」70年の捕囚から帰ってきた人たちをユダヤ人と言いますが、彼らはそれ以降、偶像崇拝をしませんでした。しかし、心を頑なにして、メシヤを十字架につけて殺しました。「新しい霊を与える」とは、イエス様が天に戻られてから与えられる聖霊のことでした。ペンテコステ以降、新生という、霊的な誕生がなされるようになりました。それまでは、外側から律法を与えても守る力がありませんでした。石の心とは頑固で神様に逆らう心です。そして、肉の心とは神様に従順する柔らかい心です。石の心は、直すのではなく取り除くしかありません。そして、新しい肉の心に入れ替えていただく必要があります。私はいろんな人と会いますが、その人と数分、会話しただけで、「この人は石の心を持っているなー」「この人は柔らかい肉の心だなー」とすぐ分かります。さきほど、「壁に穴を開けて、内部を見る」ということを話しました。その人が何か話すとき、心の倉からことばと一緒に何かが出てきます。イエス様は「心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」(マタイ12:34-35)と言われました。外面を整えるのも大切ですが、内面を整える方がもっと大切です。聖霊を内側に歓迎しましょう。聖霊は私たちを生まれ変わらせ、さらに栄光から栄光へと造り変えてくださるお方です。私たちを罪と律法から解放し、神様に従わせてくださる命の御霊です。

 

3.エゼキエルの幻

 エゼキエルはイスラエルの回復、そして人類の回復について預言しています。バビロンから帰って来たときのことではなく、はるか先の千年王国のことを預言しています。しかし、それは預言というよりも幻、異象ということができます。エゼキエルの幻で有名なのは3つあります。第一は、エゼキエル37章の枯れた骨です。第二は、47章の神殿の敷居から流れる水です。第三は、神殿と12部族の相続地です。このことは、40章から終わりの48章まで克明に記されています。多くの預言書には、千年王国について記されていますが、これだけ詳しく書いてあるのはエゼキエル書だけです。神学者の中には千年王国を否定する人たちがいます。しかし、神様のみこころは一度選んだイスラエルを回復することです。これらの預言を異邦人である私たちの視点から、解釈するのは不可能です。イスラエルの民の回復、神殿の回復は、預言者たちに共通しているからです。神殿の敷居から流れる水、「神の川」については、何回か話したことがあります。それで、最後にエゼキエル37章の枯れた骨についてお話したいと思います。エゼキエル37:1-2【主】の御手が私の上にあり、【主】の霊によって、私は連れ出され、谷間の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。」エルサレムはバビロンによって徹底的に破壊されました。最後の王ゼデキヤも両眼をえぐり取られ、足かせにつながれてバビロンに引かれてきました。主だった者たちも殺されるか、捕囚として連行されてきました。強大なバビロニヤの軍隊、難攻不落なバビロンの城壁。その中でかろうじて生かされている捕囚の民が、故郷に帰りイスラエルを復興できるのでしょうか?捕囚の民の中に、無気力、敗北感がしだいに蔓延していました。ひどく干からびていた骨は、イスラエルの絶望的な姿を象徴しています。エゼキエル37:3-5主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。【主】のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。

 エゼキエルが命じられたように預言するとどうでしょう?ガカガサと音がして、やがて、大きな轟になりました。見ていると、骨と骨が互いにつながりました。骨の上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおいました。主は「息に預言せよ」と仰せられました。エゼキエルは「息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ」と預言しました。すると、息(霊)が彼らの中に入りました。すると、彼らは生き返り、自分の足で立ち上がりました。そして、非常に多くの集団になりました。主は「これがイスラエルの全家である。私が彼らを墓から引き上げ、イスラエルの地に連れて行く」と言われました。しかし、この預言はイスラエルのことだけではありません。新約時代、イエス・キリストが救い主、そして王として来られる時にも起こります。今から20年くらい前、韓国の河ヨンジョ牧師が、富士箱根ランドに来られ、この箇所からメッセージされました。「霊的な目で見るなら、日本こそが、枯れた骨である。しかし、聖霊が吹き込まれるとき、日本の民は生き返る。聖霊充満こそが、リバイバルの希望である」と力強くメッセージされました。私たちもエゼキエルのように、霊的な世界を見る視力が必要です。現実から神様のわざを期待することはできません。主は、私たちに幻と預言を与えてから、みわざをなさってくださいます。どうぞ、みことばと聖霊によって、エゼキエルのような幻と預言をいただきましょう。