2014.8.10「ダニエルと3人 ダニエル1:17-21」

 紀元前605年、バビロンの王ネブカデレザルがエルサレムに攻めてきました。エルサレムが包囲され、神の宮の器具の一部が持ち出されました。その時、少数の王族や貴族がバビロンに連れて来られました。その中にダニエルと3人の10代の若者が含まれていました。先週学んだエゼキエルは、第二回目の捕囚のときに(紀元前597年)捕え移されました。エゼキエルは居留地の中で預言者として活躍しました。一方、ダニエルと3人は同じ捕囚民でありながら、バビロンの宮廷で官吏として仕えました。ダニエル書には異教の国バビロンにおける6つの苦難が記されています。きょうのメッセージでは前半の3つ、次週は後半の3つを取り上げたいと思います。

1.食べ物

 バビロンの王ネブカデネザルは占領した国々から、人々を捕えて来きました。そして、王の宮廷で仕えることのできるエリート的な若者を探しました。その候補者の中に、ユダ部族のダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤがいました。宦官の長は彼ら4人にバビロンの国にふさわしい名前を付けました。それぞれの名前には、バビロンの偶像の名が入っています。敬虔な信仰を持っていた彼らは、良い気持ちはしなかったであろうと思います。王はふさわしい者を選ぶために、王の食物を与えながら3年の養育期間をもうけました。ダニエル1:8-10ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。神は宦官の長に、ダニエルを愛しいつくしむ心を与えられた。宦官の長はダニエルに言った。「私は、あなたがたの食べ物と飲み物とを定めた王さまを恐れている。もし王さまが、あなたがたの顔に、あなたがたと同年輩の少年より元気がないのを見たなら、王さまはきっと私を罰するだろう。」彼らに起きた第一の苦難は食べ物です。バビロンでは、一番良い肉やぶどう酒を偶像の神にささげました。その後、偶像から降ろされたものを人が食べます。ですから、普通の肉に偶像にささげられた肉も混じっていました。また、レビ記に記されていますが、イスラエル人にとってきよい食物ときよくない食物がありました。ですから、ダニエルたちは、身を汚さないため、宦官の長に野菜と水だけを求めました。彼が10日後、他の少年たちの顔色とを見比べると、ダニエルたちの血色の方が良かったのです。ダニエル1:16「そこで世話役は、彼らの食べるはずだったごちそうと、飲むはずだったぶどう酒とを取りやめて、彼らに野菜を与えることにした。」

 偶像にささげた肉について、ローマ人への手紙14章とⅠコリント8章にも記されています。ある人たちは、そのような肉は汚れているので食べてはいけないと主張しました。使徒パウロは何でも食べて良いと信じていましたが、このように述べています。Ⅰコリント8:13「ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。」現代も、菜食主義者とか自然食を心がける人たちがいます。牛は良くても豚はダメだという人もいます。セブンスディの人たちは、コーヒーを飲まないようです。今でもユダヤ人は、旧約聖書のレビ記で禁じられている食物は食べないと思います。おそらく、日本人が好きなウナギとかレバ刺しは食べないでしょう。ともかく、ダニエルと3人は厳しい状況の中に追い込まれました。王様がせっかく与えたごちそうを、「身を汚すので食べません」と断ったならどうなるでしょう?だから、宦官の長は「私は王様を恐れている。もし、あなたがたが栄養不足で顔色が悪かったなら、王様は私を罰するだろう」と言ったのです。もし、自分たちは捕囚の身であり、ただ生き延びる存在だと思っていたなら何でも食べたでしょう。しかし、ダニエルたちは自分たちの体が神様から与えられたものであり、神様の栄光を現すためにあることを知っていました。神様が養ってくださることを信じて、「野菜と水だけで良いです」と言うことができました。その結果どうでしょう?彼らの顔色は、王の食べるごとそうを食べているどの少年たちよりも良く、からだも肥えていました。そこで世話役は、彼らのたべるはずだったごちそうと、飲むはずだったぶどう酒を取りやめて、彼らに野菜を与えることにしました。

 彼らは食べ物の苦難に勝利することができました。その結果、神様は肉体だけではなく、知的にも霊的にも彼らを祝福しました。ダニエル1:17-20「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解くことができた。彼らを召し入れるために王が命じておいた日数の終わりになって、宦官の長は彼らをネブカデネザルの前に連れて来た。王が彼らと話してみると、みなのうちでだれもダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤに並ぶ者はなかった。そこで彼らは王に仕えることになった。王が彼らに尋ねてみると、知恵と悟りのあらゆる面で、彼らは国中のどんな呪法師、呪文師よりも十倍もまさっているということがわかった。」王様はきっとおどろいたでしょう?「ユダから連れてきた若者が、どうしてこんなに優秀なのか?」彼らを官吏に任命し、バビロン州の事務を彼らにつかさどらせました。彼らは今のような大学を出ていないのに、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵がありました。ダニエルはすべての幻と夢を解くことができました。多くは学校の科目にはありませんが、そういう能力を一体だれが与えたのでしょうか?「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた」と書いてあります。そうです。神様がそれらの能力を与えてくださったのです。私たちは学校や自分で勉強することが必要ですが、忘れてならないことがあります。神様が知識や悟る力、知恵を下さるということです。たとえ教育に恵まれていなくても、神様の知恵があったら、世の人たちに引けを取ることはありません。ユダヤ人は大変、頭が良いことで知られています。彼らは律法を幼いころから学びます。また、主を恐れて、神様に知識や知恵を求めているからでしょう。知識は学校の授業や自分の努力で得ることができるかもしれません。しかし、知恵は神様から来るものです。知識がいくらあっても、知恵がなければ、それらを実際に用いることができません。私たちも神様から知恵を求めることができます。ヤコブ1:5「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」

2.無理難題

 第二番目の苦難はネブカデネザル王が無理難題を押し付けたことです。ダニエル2:1-2「ネブカデネザルの治世の第二年に、ネブカデネザルは、幾つかの夢を見、そのために心が騒ぎ、眠れなかった。そこで王は、呪法師、呪文師、呪術者、カルデヤ人を呼び寄せて、王のためにその夢を解き明かすように命じた。」しかし、王様は自分が見た夢を告げないまま、夢を解き明かせと無理難題を押し付けました。ダニエル2:5 王は答えてカルデヤ人たちに言った。「私の言うことにまちがいはない。もし、あなたがたがその夢とその解き明かしとを私に知らせることができなければ、あなたがたの手足を切り離させ、あなたがたの家を滅ぼしてごみの山とさせる。しかし、もし夢と解き明かしとを知らせたら、贈り物と報酬と大きな光栄とを私から受けよう。だから、夢と解き明かしとを私に知らせよ。」カルデヤ人たちは、「王様、しもべたちに夢をお話しください。そうすれば、解き明かしてごらんにいれます」と言いました。すると、王様は「お前たちは、偽りと欺きのことばを私の前に述べようとしているんだろう」と信用しませんでした。彼らは「王のお尋ねになることは、難しいことです。神々以外には、それを王様の前に示すことのできる者はいません」と答えました。それでどうなったでしょう?ダニエル2:12「王は怒り、大いにたけり狂い、バビロンの知者をすべて滅ぼせと命じた。この命令が発せられたので、知者たちは殺されることになった。また人々はダニエルとその同僚をも捜して殺そうとした。」なんと短気な王様でしょう。そのため、ダニエルと3人の命も危なくなりました。 

 そのとき、ダニエルは王の侍従長から、ことの次第を聞きました。ダニエルは王のところに行き、王にその解き明かしをするため、しばらくの時を与えてくれるように願いました。ダニエルは自分の家に帰り、他の3人にこのことを知らせました。そして、ダニエルとその同僚が他のバビロンの知者たちとともに滅ぼされることのないように、天の神に請い求めました。すると、夜の幻のうちにこの秘密がダニエルに啓示されました。翌日、侍従長に「私を王の前に連れてって行ってください」と願いました。侍従長は「ユダからの捕囚の中に、王に解き明かしのできるひとりの男を見つけました」と言いました。ダニエル2:27-28「ダニエルは王に答えて言った。「王が求められる秘密は、知者、呪文師、呪法師、星占いも王に示すことはできません。しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。あなたの夢と、寝床であなたの頭に浮かんだ幻はこれです。」ダニエルのすばらしいところは、私ではなく「天に秘密をあらわすひとりの神がおられる」と告げたことです。ヨセフもパロの前で、夢を解き明かしたときこう言いました。「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです」(創世記41:16)と言いました。聖書にはいろんな神様からの賜物が記されています。いつでもその能力が引き出せるものもあります。私も手を置いて祈るとき、いくらかは癒されると信じています。しかし、奇跡的な癒しは聖霊様次第だと思っています。ダニエルには幻と夢を解く能力が与えられていました。これは預言や知識の賜物と同じで、神様が示してくれなければ、ダメなんであります。ダニエルは前の晩、神様に祈り求めました。そうしたら、夜の幻のうちにダニエルに啓示されました。なぜ、夜の幻のうちなのでしょう?私たちの意識があまりにも強い場合は、幻を見るにはふさわしくないからです。使徒の働き10章に、ペテロが見た幻の内容が記されています。ペテロがお昼の12時ころ、屋上で祈っていました。彼は食事が用意されている間に、うっとりと夢心地になりました。そのとき、大きな風呂敷が天から地上に降りてきた幻を見ました。ペテロはお祈りをしながら、「おいねり」、寝てしまったのでしょう。意識が飛んでいるときに、幻を見たのです。だからと言って、幻を求めてドラッグに走ったらダメです。大切なのは、天におられる神様が幻や夢、そして解き明かす力を与えてくださるということです。

 ダニエルは王が見た巨大な象の夢を伝え、その解き明かしもしました。ダニエル2:32-33「その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。」この夢は、これから起こる国を示していました。純金の頭はネブカデネザルその人で、新バビロニヤ帝国を表しています。また、銀でできた胸と両腕は、メド・ペルシャです。メド・ペルシャのクロス王がユダの民を解放してくれました。その次の青銅でできた腹とももはギリシャ帝国です。アレキサンダー大王が広大な領地を支配しました。アレキサンダーの死後、国は4つに分割されました。その後の「すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土」という国とはどこでしょう?ダニエル2:41-43まで詳しく記されていますが、それはローマ帝国です。鉄は確かに強そうですが、一部が粘土だったらどうでしょうか?鉄と粘土とは混じり合うことはできません。それはローマ帝国が団結できなくて、内乱で倒れてしまうという預言です。確かに、ローマ帝国は5世紀、ゲルマン民族によって自然消滅しました。しかし、ダニエルはその後の王国も預言しています。ダニエル2:44-45「この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。」「永遠に立ち続ける一つの国」とは、キリストによる王国です。人ではなく、「一つの石」であるキリストによって永遠の御国がもたらされるということです。

 この夢の解き明かしによってダニエルはどうなったのでしょうか?王様は、「あなたがこの秘密をあらわすことができたからには、まことにあなたの神は、神々の神、王たちの主、また秘密をあらわす方だ」と言いました。そして、ダニエルを高い位につけ、彼に多くのすばらしい贈り物を与えて、彼にバビロン全州を治めさせ、また、バビロンのすべての知者たちをつかさどる長官としました。他の3人は、ダニエルの願いによって、バビロン州の事務をつかさどらせました。このようにバビロンの王をして、彼らの神がまことの神であることを表明させたのです。

3.火の燃える炉

 第三番目の苦難はネブカデネザル王が3人を火の燃える炉に投げ込んだことです。あれから何年かたって、ネブカデネザル王は巨大な金の像を作りました。大きさでいうと、高さが約27メートルです。奈良の大仏の高さは15メートルです。座高なので、もし立ったなら、同じくらいになるかもしれません。金の像を造った後、王は諸州の高官を招集して、盛大な奉献式を催しました。そのとき伝令官にこう言わせました。ダニエル3:4-6「諸民、諸国、諸国語の者たちよ。あなたがたにこう命じられている。あなたがたが角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞くときは、ひれ伏して、ネブカデネザル王が立てた金の像を拝め。ひれ伏して拝まない者はだれでも、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。」その場にいた人たちは、みなひれ伏して、ネブカデネザル王が立てた金の像を拝みました。その後、金の像の前にひれ伏さない人たちがいるという、タレこみがありました。ダニエル3:12「ここに、あなたが任命してバビロン州の事務をつかさどらせたユダヤ人シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴがおります。王よ。この者たちはあなたを無視して、あなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝みもいたしません。」それを聞いたネブカデネザル王は怒りたけり、3人を呼びました。「こらっつ。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。お前らは、私の神々に仕えず、私が立てた金の像を拝みもしないというが、本当か?ひれ伏して拝むなら、それでよし。しかし、もし拝まないなら、お前らはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が私の手からお前らを救い出せようぞ!」仁王のように、いきり立って言いました。彼ら3人は何と答えたでしょう?ダニエル3:16-18「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」

 昔の口語訳は「たといそうでなくても」と訳されています。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、「たとい火の燃える炉から救い出されなくても、あなたが立てた金の像を拝むようなことはしません」と言ったのです。今から40年くらい前、「たといそうでなくても」という題の映画がありました。これは、韓国の女性伝道師が日本兵から迫害されるという実話をもとにした映画です。第二次世界大戦中、朝鮮では神社参拝をしないクリスチャンが捕えられました。その方は、若い女性で5年間獄中を生活し、拷問に耐えながら、敢然と戦い抜きました。同獄の仲間たちも、彼女の勇気で霊的によみがえらされというドキュメントです。彼女自身は、死ななかったので「失格した殉教者」と言っています。黙示録13章にありますが、反キリストは「獣の像」を作って、人々に拝ませようとします。そして、「獣の像を拝まない者をみな殺させた」と書いてあります。終わりの時代も、ダニエルの時のような迫害がやってくるでしょう。そのとき、何事が起ころうとも、「たといそうでなくても」、殉教覚悟で信仰を守っていきたいと思います。

 それで彼らはどうなったのでしょうか?ダニエル3:12「すると、ネブカデネザルは怒りに満ち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴに対する顔つきが変わった。彼は炉を普通より七倍熱くせよと命じた。」彼らは衣服を着たまま縛られて、火の燃える炉の中に投げ込まれました。そのとき、彼らを連れてきた者たちは、その火炎に焼き殺されてしまいました。王様は「果たして、どうなったか」と中をのぞいて言いました。「だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」ネブカデネザルは彼らを炉から出しました。彼らを見て驚きました。火は彼らのからだにはききめがなく、その頭の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火のにおいもしませんでした。ダニエル3:28-30ネブカデネザルは言った。「ほむべきかな、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神。神は御使いを送って、王の命令にそむき、自分たちのからだを差し出しても、神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこのしもべたちを救われた。それゆえ、私は命令する。諸民、諸国、諸国語の者のうち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神を侮る者はだれでも、その手足は切り離され、その家をごみの山とさせる。このように救い出すことのできる神は、ほかにないからだ。」それから王は、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴをバビロン州で栄えさせた。

 なんと痛快な物語でしょう。処刑するつもりで炉の中に入れたのに、髪の毛も焦げないで出てきました。王をして「彼らが信じる神を侮るな、彼らの神は他にはいない」とまで言わせました。逆に彼らが信じている神があがめられるようになりました。ところで、ネブカデネザルは「第四の者の姿は神々の子のようだ」と言いました。王は「神の御使いを送った」と解釈していますが、果たしてだれなのでしょうか?伝統的には、「受肉前のキリストではなかろうか?」と考えられています。なぜなら、「神々の子のようだ」とあるからです。おそらく、受肉前のキリストが炉の中の3人を守ったのではないかと思います。なんとすばらしいことでしょう?髪の毛は体の中で、一番燃えやすいところです。たまにガスコンロの調節を間違えて、髪の毛を焦がすときがあります。きなくさいにおいがします。3人は火のにおいもしなかったと書いてあります。イザヤ43:2「火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」とあります。私たちも、火の燃える炉の中に投げ込まれるような試練に合うかもしれません。しかし、私たちの主は、その火の燃える炉の中に入って来られ、私たちを守ってくださいます。たといそうでなくても、私たちはこの信仰を守り通したいと思います。なんでもないときは、どんなことでも言えます。しかし、苦難のとき、試練のときは、気持ちだけでなく、信仰までおびやかされます。しかし、私たちの神は私たちの信仰以上の神様です。気が動転して、信仰をなくすようなことがあっても、私たちを捕えて離さないお方だからです。私たちの状態によらないものが救いだと思います。