<ヨハネの福音書1章14節~23節>
1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
1:15
ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」
1:16
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
1:17
というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
1:18
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
1:19
ヨハネの証言は、こうである。ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、「あなたはどなたですか。」と尋ねさせた。
1:20
彼は告白して否まず、「私はキリストではありません。」と言明した。
1:21
また、彼らは聞いた。「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか。」彼は言った。「そうではありません。」「あなたはあの預言者ですか。」彼は答えた。「違います。」
1:22
そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」
1:23
彼は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」
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「声」というと音の世界を連想しますが、音にはいろいろな音があり、人間に聞こえる音と聞こえない音などもあります。みなさんは若者だけに聞こえる「モスキート音」というのをご存知でしょうか?
モスキート(蚊)音とは17キロヘルツ前後の高周波音のことです。蚊の羽音のような不快な音なのでこう呼ばれているようです。人間は年を取るに従って高い周波数の音を聞き取りにくくなるため、20代前半までの若者にはよく聞こえますが、それ以上の年代の人には聞こえにくいと言われているのがこのモスキート音です。
このモスキート音、インターネットのサイトなどで聞こえるかどうか実験することができるのですが、個人差があるというので、私も試してみました。私は、ある程度音楽に携わって生きてきたので、耳は悪い方ではないんじゃないかな~と思っていたのですが・・・。
やはり・・・寄る年波には勝てず、私には全くもってモスキート音は聞こえませんでした。聞こえないので気付かずにずっとパソコンから鳴らしていたら、20代の息子に「お母さんうるさい!」と言われて二重にしょんぼりしてしまいました。
さて、「音」という漢字がつく言葉で連想するのは、「音楽、音色、雑音、騒音、・・・」などいろいろありますが、「福音」も音という漢字が使われています。ローマ書10:17に、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」と書かれていますが、「聞く」ためには、みことばを語る人がいなければなりません。バプテスマのヨハネは、「主の道をまっすぐに整えるため」に、「声」となって語り、自らの生涯を捧げ、献身した預言者でした。
新キリスト教辞典によると、「献身」とは、「神の召命に応えて、神の御旨のままに生きるべく、自らの意志を明け渡して、その身を捧げること」です。狭義では、「ある人が、持っていた職業、立場、身分を捨ててそこを離れ、神の家、みことばへの奉仕にその生涯を捧げる」いわゆる聖職者のことを言いますが、広義では、「神の民はすべて、神の御心に生きるべく、その身を捧げる」ことが求められています。
つまり、すべてのキリスト者は献身者であるべきなのです。
聖書では、聖職者以外の信徒が大きな活躍をしている姿が記されています。旧約であれば、ペルシャ王妃となったエステルは、命懸けで仲間のユダヤ人たちのためにとりなしました。ダニエルの3人の仲間たちも命をかけて主に従いました。新約であれば、アクラとプリスキラの夫婦などは、聖職者ではありませんでしたが、パウロやアポロを助けながら、神の教会に仕えました。
本日は、バプテスマのヨハネの、己の果たすべき役割をわきまえ、主のために潔く生きたその姿を通して、私たち自身の献身について考えてみたいと思います。
◆バプテスマのヨハネの献身
①彼は預言者としての己の使命を熟知していました。
ヨハネは<ギ>VIwa,nnhj (ヨーアンネース)は「主は恵み深い」という意味があり、聖書にはよく出てくる名前です。「バプテスマのヨハネ」は、「洗礼者ヨハネ」、また「先駆者ヨハネ」とも呼ばれ、聖書に登場する他のヨハネと区別されています。
彼の誕生から宣教活動を終えるまでの聖書の記述を追ってみましょう。
バプテスマのヨハネは、ルカの福音書の1章に記されているように、年老いた祭司ザカリヤと妻エリサベツの間に生まれました。ヨハネは聖書の預言が成就されるためにこの地に遣わされた預言者でした。
御使いガブリエルは、祭司ザカリヤが主の神殿で香をたいているときに、彼の前に現れてこう言いました。
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<ルカの福音書1:13-17>
1:13
御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。
1:14
その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。
1:15
彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、
1:16
そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。
1:17
彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」
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祭司ザカリヤと妻エリサベツは老年でしたが、御使いの言葉通り、エリサベツは身ごもりました。しばらく経って御使いガブリエルはマリヤに現れ、マリヤが聖霊によって身ごもることを告げました。マリヤとエリサベツは親類でした。その後身ごもったマリヤは、エリサベツが住むユダの町まで行ってエリサベツを訪問しました。
ですから、イエス様とバプテスマのヨハネは親類ということになります。
バプテスマのヨハネは、このように恵まれた祭司の家庭に生まれましたが、祭司職は継ぎませんでした。
もしかしたら、父親のザカリヤから自分の使命について幼い頃から聞かされていたのかもしれませんが、イスラエルの民の前に公に宣教活動を始めるまで、彼はユダの荒野で暮らしました。
ルカの1:80に「さて、幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいた。」と書かれている通りです。
そして、紀元26年頃でしょうか、いよいよヨハネに主のことばが下り、宣教活動が始まりました。
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<ルカ3:2-3>
3:2
アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。
3:3
そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた。
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バプテスマのヨハネが悔い改めを迫る説教を始めると、彼の説教を聞くために続々と群衆が押しかけました。そして、自分の罪を告白して悔い改め、ヨルダン川でヨハネから水によるバプテスマを受けました。
ヨハネはらくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べて暮らすという、禁欲生活を送りながら、旧約聖書の預言、(イザヤ書40:3-5)と(マラキ書4:5-6)が成就するために活動しました。
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<イザヤ書40:3-5>
40:3
荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。
40:4
すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に険しい地は平野となる。
40:5
このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。」
<マラキ書4:5-6>
4:5
見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
4:6
彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」
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そして、ヨハネは、マルコ1:7、8でイエス様についてこう語りました。
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1:7
「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。
1:8
私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」
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ヨハネから洗礼を授かろうとなさったイエス様にヨハネは、「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに」と言って、固辞しようとしました。しかし、イエス様は「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」と言われ、ヨハネからバプテスマをお受けになりました。
そして、使命を果たしたヨハネは、まもなく、ガリラヤとペレヤの領主だったヘロデ・アンテパスの婚姻の罪を糾弾したために牢に入れられ、ヘロデ王の宴会の見世物のような形で処刑されてしまいました。
このように、バプテスマのヨハネは、預言者としての己の使命を熟知した上で献身し、与えられた使命に忠実に従った生涯を送ったのでした。
◆バプテスマのヨハネの献身
②彼は「荒野で叫んでいる者の声」として生きました。
彼は、エルサレムのユダヤ人たちから遣わされた祭司とレビ人から、「あなたはどなたですか。」と尋ねられました。ヨハネは、「私は『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」と答えました。
祭司やレビ人たちは、彼こそ、「メシヤ(キリスト・油注がれたもの)」ではないか、彼こそイスラエルの民を立ち帰らせる「エリヤ」に違いない、と思っていました。
それに対してヨハネは「私は声です。」と答えたのです。
なんと潔いことばでしょうか。彼は、私は何者でもない、ただ私の後から来られる、イエス・キリストという素晴らしい御方について伝える「声」に過ぎません。と答えたのです。
彼は当時、絶大な影響力を持っていました。先ほど出てきたヘロデ・アンテパスの、いわゆる不倫問題についてヨハネが糾弾した時も、ヘロデは腹を立ててヨハネを捕らえて牢に入れたものの、民衆たちの反発を恐れて、しばらくの間そのままにしておいたぐらいです。
ヨハネは後にイエス様から、マタイの11章や、ルカの7章で、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれたものは出ませんでした。」と言われ、「この人こそ来るべきエリヤなのです。」と言われたぐらい、特別な人でした。
ですから、少しぐらい自分をアピールしても良さそうなものですが、彼はひたすら、人々の目がイエス様に向くように、「見よ!神の小羊だ!」「イエス・キリストを見よ!」と言い続けたのです。
16世紀のドイツの画家に、「マティアス・グリューネヴァルト」という人がいますが、彼が描いたイーゼンハイムの修道院の施設の礼拝堂にあった「イーゼンハイム祭壇画 第1面 」にバプテスマのヨハネが描かれています。ヨハネが十字架のイエス様を指差しているのですが、彼の右手の人差し指はものすごく大きく描かれて強調されています。このヨハネは、「見よ!神の小羊だ!」と言っているようにも見えます。そして、この肥大化された指が彼自身の証と献身であり、彼の声であることを差しているようにも見えます。
ヨハネのこの力強い使命感、献身の根拠は、ヨハネのこの言葉から計り知ることができます。
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<ヨハネ3:27>
ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。」
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神様が、ヨハネに必要な力をお与えになり、お立てになったのです。
バプテスマのヨハネは、「天から与えられた」使命として、「『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声」となり、何者をも恐れず使命を忠実に果たしました。
ヨハネのもとには、当時権力のあったパリサイ人やサドカイ人が、大勢ヨハネからバプテスマを受けるためにやってきました。しかしヨハネは、彼らの「我々はアブラハムの子孫で、選ばれた民だ」という選民意識を見抜き、権力を恐れず、「まむしのすえたち!」と叱りつけました。
人々は、ヨハネがメシヤではないか、エリヤではないかと言いましたが、彼はそれを否定して、3:30 で、「あの方(イエス様)は盛んになり私は衰えなければなりません。」と言いました。そして、3:31では、「天から来る方は、すべてのものの上におられる。」と言って、人々の目をイエス様に向け、イエス様にすべての栄光が帰されるようにして、生きました。
私たちはこんな風に生きられるでしょうか。
私たち人間は、自分が生きていることについての意義や自分の価値を見出す「自己実現」のために生きていると言っても過言ではないと思います。
悲しいかな、結局は、自分のために生きて、自分のために死ぬのです。
私たちは、この世で誰かに必要とされることを望み、自分の居場所を探し求める旅人のようなものです。
しかし、バプテスマのヨハネの「自己実現」は、私たちのそれとは視点や身の置き所が違いました。
彼は、キリストのために生き、キリストのために死にました。
彼は、誰かに必要とされることを望んだわけではありませんが、たくさんの人から必要とされました。
彼は、旅人のように自らの居場所を探し求めるのではなく、自らの意志を明け渡し、一切を切り捨てて、「先駆者として主の道をまっすぐに整える」ことに献身しました。
私たちがこのバプテスマのヨハネの様に、明確な神様からの使命を持って生きていくことができたなら、どんなに素晴らしいでしょうか。私たちの「声」、つまり与えられた使命、献身とはなんでしょうか。
ここで注目していただきたいのは、ヨハネの献身の生涯は、けっして苦しいものではなかったということです。
ヨハネはこう言いました。
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<ヨハネ3:29>
花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。
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ヨハネは「花婿」であるイエス様の声を聞いて大いに喜び、自らが花婿の道を整える「声」となることで、喜びに満たされていたのです。彼は神の栄光を表すという、人間が味わい知る「最大の喜び」を知ったのです。
本日の冒頭の聖句を思い出してください。
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1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
1:15
ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」
1:16
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
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私たちは、イエス様の十字架の贖いを知っているではないですか。
私たちは、「恵みの上にさらに恵みを受けた」のです。大いに喜びましょう!
私たちの献身は、自分が召された分野で、喜んでキリストの証人として生きることなのです。
その証の方法はそれぞれです。
17世紀、自らの使命をしっかりと理解して喜んで「声」となった人に、「音楽の父」と称される「バッハ」がいます。彼は、音楽という自分が召された分野で、神の栄光を現すことを生涯の目的とし、最大の喜びと考えました。バッハは敬虔なクリスチャンでした。
バッハの作品の中でも、マタイ受難曲は、バッハの最高傑作と言われ、西洋音楽史を代表する、感動的な大作です。この曲はバッハの死後に有名になった曲ですが、マタイの福音書の26章~27章にかけてのイエス様の十字架の苦難を歌っています。全曲聴くと3時間ほどかかります。
私もカール・リヒター指揮の1958年ミュンヘン録音のCDを持っていて、昔から愛聴していますが、このCDに添付されている解説文には、こんな解釈が書かれていました。
「バッハはこの曲の中に、ある暗号を置いている。」というのです。
この暗号は「14」という数字で、ご存知の方も多いかと思いますが、「14」はバッハの名前をアルファベット順に足していった数です。イエス様の埋葬の場面で、バッハは、「イエス様を埋葬させていただくのはこの私です!」と言わんばかりに、「自ら」という歌詞のところにフレーズの14番目の音を当てたり、「墓となりて」という歌詞を14小節目に当てていたりします。
バッハの時代、17世紀は、数字の比喩的な意味が重要視されていたようです。
それは、聖書には意味のある数字がたくさん出てくるからです。
「3」は父・御子・御霊の三位一体の神を示します。
「7」は聖書における神聖な数の中でも特別な完全数。完成、成就、完結、安息日を意味します。
「12」は聖なる数。神の選びの目的と関連があり、神の民にとっての特別な完全数。1年は12か月に分けられ、ヤコブは神の民イスラエルの12部族の祖となり、キリストは12人の使徒を選ばれました。
他にもたくさん、意味のある数字はありますが、これらの数の象徴は、ルターの宗教改革とともに、音楽を通して福音を比喩的に語る手段として大きな役割をもっていました。
いろいろ調べると面白いのですが、バッハの宗教曲では、聖書の詩篇のナンバーと曲の小節数や歌詞を一致させてみたり、音の数を三位一体の神の数にしたり、拍子や、調、調の頭文字、小節数など、ありとあらゆるところに神への愛と献身をちりばめています。
ここまでくると、もう、バッハは自分の曲にメッセージを織り込むことを、めちゃめちゃ楽しんでやっているように思えますね。バッハは最高の音楽を最上の神様に捧げました。自分の分野で「声」となってイエス様への献身を表しながら、喜びに満ち溢れていたのではないでしょうか。
私たちが、主に仕えるというのは、本来このように喜びが伴うものではないでしょうか。
献身とは、全てを捨てて従うという、とても重苦しく、人生を束縛されるもののように思えますが、本来は、自由に喜んで自らイエス様のために生き、イエス様の栄光を表すことなのです。
喜びましょう!喜んで献身してバプテスマのヨハネのように「声」になりましょう!
私たちは、イエス様の十字架の贖いによって、恵みの上にさらに恵みを受けているのですから!