2014.8.24「異国のダニエル ダニエル6:1-9」

 紀元前605年、ネブカデネザルによってエルサレムが包囲された時、第一回目の捕囚がありました。そこに、ダニエルと3人の若者が含まれていました。ダニエルはネブカデネザルから、ペルシヤのクロス王の治世の第三年(前536年)まで活躍しました。単純に計算しますと、69年間バビロンとペルシヤの宮廷で仕えたことになります。もし、ダニエルが15歳のとき連れて来られたなら84歳になります。CSの生徒に「どうしてライオンはダニエルを食べなかたのでしょう?」聞きました。ひとりの子どもが「ダニエルは老人で骨が堅かったので食べなかった」と答えたそうです。きょうは、ダニエルが受けた苦難とダニエルが見た幻についてお話したいと思います。

1.ダニエルが受けた苦難

ダニエル書4章には、ネブカデネザルが高慢になったために、理性を失い7年間、野で暮らしたという出来事が記されています。ダニエルは、そのことを前もって王様に解き明かしました。ネブカデネザルは、理性が戻ったとき、天の王を賛美し、あがめました。そして、ダニエル書5章には、ネブカデネザルの子、ベルツャツァルのことが記されています。あるとき、ベルツャツァルはエルサレムの宮から奪ってきた金や銀の器でお酒を飲み、偶像の神々を賛美しました。突然、人間の手の指が現れ、宮殿の壁にある文字が書かれました。王は死人のように青くなり、「だれかこの文字を読める者はいないか」と国中の知者を探しました。家来が「あなたの父上に仕えていた人がいます」と言ったので、ダニエルが呼び出されました。王様は「それを解き明かすことができたら、紫の衣を着せ、首に鎖をかけさせ、国の第三の権力を持たせよう」と言いました。ダニエルはそれを丁重に断り、王様に解き明かしました。「いと高き神が人間の国を支配し、みこころにかなう者をその上にお立てになります。あなたは天の主に高ぶったので、あなたの国は分割され、メディヤとペルシヤに与えられます」。その夜、ベルツャツァルは暗殺され、メディヤ人ダリヨスがその国を受け継ぎました。ダニエルに紫の衣が着せられ、金の鎖が首にかけられ、彼は国の第三の権力者であると布告されました。ダニエルは捕囚の身でしたが、「神の霊が宿っている人だ」と敬われ、国のトップに立つことができました。バビロンの王たちは「ダニエルと3人が信じている天の神がまことの神である」とまで告白しました。

しかし、その後、ダニエルに大きな苦難がやってきました。このことは、ダニエル6章に記されています。ダリヨスは全国を治めるため、120人の太守を任命し、その上に3人の大臣を置きました。ダニエルは3人の大臣の一人でした。ダニエル6:3—4「ときに、ダニエルは、他の大臣や太守よりも、きわだってすぐれていた。彼のうちにすぐれた霊が宿っていたからである。そこで王は、彼を任命して全国を治めさせようと思った。大臣や太守たちは、国政についてダニエルを訴える口実を見つけようと努めたが、何の口実も欠点も見つけることができなかった。彼は忠実で、彼には何の怠慢も欠点も見つけられなかったからである。」ダリヨス王は、ダニエルを高く評価し、彼に全国を治めさせようと考えました。ところが、他の大臣や太守たちは、ダニエルをねたみました。そして、彼らは「今から30日間、王様以外に、いかなる神にも人にも、祈願するものはだれでも、獅子の穴に投げ込まれる」という法令を考え出しました。彼らは、王様のところへ行き、それを取り消しのできない法律として署名させました。ダニエルはその禁令を知っていましたが、いつものように、日に三度、ひざまずいて、彼の神の前に祈り、感謝しました。屋上の窓がエルサレムに向かって開いていたので、ダニエルが祈る姿が外から見えたのでしょう。彼らはそれを目撃した後、王様に訴えました。ダニエル6:14-16「このことを聞いて、王は非常に憂え、ダニエルを救おうと決心し、日暮れまで彼を助けようと努めた。そのとき、あの者たちは申し合わせて王のもとに来て言った。『王よ。王が制定したどんな禁令も法令も、決して変更されることはない、ということが、メディヤやペルシヤの法律であることをご承知ください。』そこで、王が命令を出すと、ダニエルは連れ出され、獅子の穴に投げ込まれた。王はダニエルに話しかけて言った。「あなたがいつも仕えている神が、あなたをお救いになるように。」彼らはダニエルをライオンの穴に投げ込むことができて喜びました。一方、王様は一晩中断食し、一睡もしないで、夜を明かしました。ダニエル6:19-22「王は夜明けに日が輝き出すとすぐ、獅子の穴へ急いで行った。その穴に近づくと、王は悲痛な声でダニエルに呼びかけ、ダニエルに言った。『生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。』すると、ダニエルは王に答えた。『王さま。永遠に生きられますように。私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません。』」

王様はダニエルの無事な姿を見てとても喜びました。逆にダニエルを訴えた者たちをライオンの穴に投げ込みました。ライオンは彼らが穴の底に落ちないうちに骨ごとかみ砕いてしまいました。ダリヨス王は、全土に「私の支配する国においてはどこででも、ダニエルの神の前に震えおののけ」という文書を書いて送りました。ダリヨス王はダニエルの神こそが、まことの神様であることを認めました。こうして、ダニエルはダリヨスの治世とペルシヤ人クロスの治世に栄えました。クロス王は捕えられていたユダの民が自分の国に帰って宮を建てるようにおふれを出しました。エレミヤが預言していた70年が満ち、神様がクロス王の霊を奮い立たせたからです。ダニエルは捕囚の身として敵国に住んでいました。普通なら身分も地位も与えられず、貧しくて不自由な生活を強いられるところでした。ところが、神様はダニエルと3人を高く引き揚げ、バビロンの長にしました。そして、バビロンの王たちをして、彼らの神がまことの神であると告白させました。なぜなら、彼らには他の人にはない、神の霊が宿り、知恵と知識に富んでいたからです。ベルツャツァル王は、「ダニエルのうちに、すぐれた霊と、知識、夢を解き明かし、なぞを解き、難問を解く理解力がわかりました」(ダニエル5:12)と言いました。同じように、エジプトのヨセフもパロの夢を解き明かしました。そのとき、パロは「神の霊の宿っているこのような人を、他に見つけることができようか」と家臣たちに言いました。そして、ヨセフに「あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない。私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。さあ、私はあなたにエジプト全土を支配させよう」(創世記41:39-41)と言いました。

申命記28章には「主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない」(28:13)と書いてあります。私たちは御国の国籍を持つ神さまの子どもですが、この世に住んでいます。この世には、この世の知恵と権力があります。クリスチャンよりも頭が良くて能力のある人たちがたくさんいます。ある人は「クリスチャンは正直過ぎて、金庫番ならできるが、他のことは無理だ」と言います。そうでしょうか?クリスチャンは献金を得るために仕方なく、世の中で働いているのでしょうか?そうではありません。私たちにはダニエルやヨセフに宿っていた同じ神の霊が宿っています。世の人々には見えないものが見えます。世の人にはない知恵や知識があります。謙遜して、へりくだることは良いことです。しかし、神の霊が宿っている人は、どこの場所にいても、頭角を現してきます。沢村五郎師は『聖書人物伝』の中でこのように言っています。「袋の中の針は隠れることができない。必ず姿を現わす。そのように、聖霊に満たされた者も必ず、すべてに打ち勝って卓越する。大王の夢を解き明かしたダニエルは、バビロン全州の総督となり、バビロンの知者たちを統轄する者となった。一介の捕虜である逆境のどん底から、一躍して最高の位につくのである。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます(コロサイ3:3-4)。地上で現れなければ、かの日に現れる。神の霊に満たされることは、真の意味において運命の開拓法である。」

アーメン。クリスチャンである私たちには神の霊が宿っています。そればかりではなく、私たちの背後には偉大な神の国が控えています。私は毎日散歩しますが、時々、リュックサックを背負って走っている人を見かけます。「何もかついでいなくても、大変なのになー」と思います。おそらく、そういう人たちは、何十キロも長距離を走るのではないかと思います。あるところで休憩し、水や食べ物を補給し、また走るのでしょう。また、ある人たちはスマホを見ながら歩いています。自転車に乗りながらのスマホは危ないですね。電車に乗ると、約7割から8割はスマホを見るかゲームをやっています。クリスチャンは何を背負い、何をいつも携帯しているのでしょうか?私たちはすばらしいことに聖霊を宿し、神の国を背負っているのです。神の国とは神の権威、力、豊かさです。三位一体の神が私たちに一番あげたいものは、聖霊です。神はすべての源であり、聖霊は神の霊です。キリストは「神の知恵、義ときよさ、贖い」であり、聖霊はキリストの御霊です。聖霊は神さまが持っているものを、キリストを通して与えようと今も働いておられます。私たちが持っているものは、リュックサックやスマホよりもはるかにまさるものです。教会がそしてクリスチャンが聖霊様を認めるなら、尾とはならず頭になることができるのです。

2.ダニエルが見た幻

ダニエル書7章から最後の12章まで、ダニエルが見た幻について記されています。ダニエルは敵国バビロンに住んでいました。ですから、その書き方はエゼキエルと同じように、黙示的に書かれています。黙示とは異象とか象徴であり、あえて分かりにくいように書かれています。ダニエルが見た幻は、将来のことを預言していますので、ダニエル書が預言書の中に入っているのはそのためです。解釈はいろいろあって、一口には言えませんが、福音派の保守的な立場から語らせていただきます。まず、ダニエル書7章には4つの獣が出てきます。第一の獣は獅子のようで、鷲の翼をつけていました。獅子はバビロンのことです。第二の獣は熊であり、3本の肋骨がありました。熊はメド・ペルシャのことです。3本の肋骨はバビロン、エジプト、リディアを指します。メド・ペルシャはこれら3つの国を征服しました。第三の獣はひょうであり、4つの翼と4つの頭がありました。ひょうはギリシャを指しています。4つの翼はアレクサンドロスの進撃の速さを象徴しています。4つの頭は、彼の四人の後継者、プトレマイオス、セレウコス、フィリポ、アンティゴノスを指すと考えられています。そして第四の獣は大きな鉄のきばと10本の角を持っていました。鉄のきばを持つ獣はローマ帝国を指しています。10の角は世の末にローマから生ずる十の国を表していると思われます。ダニエル書8章にはこの続きが記されています。現代は欧州連合(EU)がありますが、かつてのローマ帝国の大きさになると思います。ダニエル8:23-24「彼らの治世の終わりに、彼らのそむきが窮まるとき、横柄で狡猾なひとりの王が立つ。彼の力は強くなるが、彼自身の力によるのではない。彼は、あきれ果てるような破壊を行い、事をなして成功し、有力者たちと聖徒の民を滅ぼす。」紀元前168年、アンテオカス・エピファネスが宮を汚しました。世の終わり、エルサレムの神殿が再建されたときも同じようなことが起こるという預言です。彼は反キリストであり、世界総督と言われる人物です。

そして、ダニエル書9章にはいくつかの数字が出てきます。ダニエル9:24「あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。」七十週目は、贖いが完成し、永遠の義がもたらされるときです。黙示録で言いますと、1000年王国、御国のなるときです。このことはイザヤ書の「千年王国の預言」で一度取り上げました。頭が少し痛くなるかもしれませんが、もう一度、世の終わりの様についてお話させていただきます。ダニエル書9章には、7週と62週ということばも出てきます。7週と62週をたすと、69週です。1週は7年であり、69週は483年になります。エルサレムが再建の命令が布告されたのが、紀元前445年です。69週目、483年後にメシヤが絶たれるという預言があります。ダニエル9:26「その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。」これはイエス・キリストが十字架で死ぬという預言です。やがて、「町と聖所が破壊される」とありますが、紀元70年、エルサレムがローマによって破壊されました。しかし、すぐに70週目に入りませんでした。69週目のところで時間が止まり、そこに異邦人の時が割り込んできたのです。この期間は「教会の時代」とも言われています。パウロはローマ11:11で「イスラエルの違反によって、救いが異邦人に及んだ」と言っています。さらに、「奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうしてイスラエルはみな救われる」(ローマ11:25)と言いました。神様は、私たち異邦人を救うために時間をとめてくださったのです。「確かに、今は恵みのとき、今は救いの日です」(Ⅰコリント6:2)。でも、異邦人の時、つまり教会の時代はいつまでも続きません。やがて、終わりの時がやってきます。

今から5年くらい前になりますが、滋賀県の大津バプテスト教会でセルチャーチの全国会議がありました。私は交通費を浮かせるため、夜行バスで京都まで行きました。早朝6時半について、午前中、京都見物をしました。高校生の修学旅行のいやな思い出を払拭するためです。1月だったので、あたりは雪化粧で本当にきれいでした。大津で1泊して、会議は3時ころ終わる予定でしたが4時までずれ込みました。私はどうしても平等院鳳凰堂を見たくて、奈良に向かいました。宇治に着くともう日が傾いていました。平等院鳳凰堂に着いたときは午後5時を過ぎていました。係員たちが、門の前に横木をかけていました。私は「東京から来たんです。ぜひ、見学させてください」と熱心に頼みました。600円を支払い平等院を独り占めしました。15分くらいしか見られませんでしたが、修学旅行時とは全く違って風情がありました。係員は閉館の準備をしていましたが、私はすべりこみセーフで入れました。平等院鳳凰堂ぐらいでしたら、機会があれば、また行けるでしょう。しかし、御国の門が閉ざされたらどうするでしょうか?「聖霊によるのでなければ、だれも、イエスは主ですということはできません」(Ⅰコリント12:3)とあります。今は恵みの時なので、聖霊がキリスト様を信じられるように助けて下さいます。しかし、世の終わり、異邦人の時が終わると、聖霊の恵みを受けられないでしょう。異邦人の時が終わったら、止まっていた69週目が70週目に向かってスタートします。1週は7年間ですが、イスラエルの救いのために設けられています。この7年間を聖書では、艱難時代と言います。前半の3年半は比較的穏やかですが、後半の3年半は反キリストが猛威を振るい、殉教者が続出するでしょう。天変地異に様々な災害が起こり、多くの人たちが死にます。先月、三鷹市で大量の雹が降りました。世の終わりには1タラント、つまり30キログラムの雹が降ると書いてあります。

ダニエル書には、いつ頃69週目が終わり、70週目がスタートするのか重要なヒントが記されています。ダニエル11:31,36「彼の軍隊は立ち上がり、聖所ととりでを汚し、常供のささげ物を取り除き、荒らす忌むべきものを据える。…この王は、思いのままにふるまい、すべての神よりも自分を高め、大いなるものとし、神の神に向かってあきれ果てるようなことを語り、憤りが終わるまで栄える。定められていることが、なされるからである。」世の終わり、自分を神のように高める人が現われ、エルサレムの聖所を汚します。新約聖書はどうでしょうか?Ⅱテサロニケ2:3-4「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」故高木慶太牧師が『近づいている世界の終焉』という本を書きました。「ヨーロッパ合衆国の指導者は、イスラエル政府に対して安全保障の条約を結ぶが、一応の決着がついたあと、条約を一方的に破棄する。この総督は、まず、世界共同体の本部をエルサレムへ移し、そこからパレスチナ、中東、および全世界を自分の支配下に置く。彼は、世界を政治的にも経済的にも宗教的にも完全に支配し、独裁体制を固めるため、思想、言論などの自由を全面的に規制する。また、このころには、全世界の人間一人ひとりに一定の番号と刻印が与えられ、それによって世界政府に登録されるようである。そして、全世界に厳しい経済統制がしかれ、世界の総督に従わず、彼を礼拝しないものには、食糧を買うことができないような措置が取られる。」(以上)。彼とはだれでしょう?聖書には「小さな角」「やがて来るべき君主」「滅びの子」「不法の人」「獣」などと呼ばれています。つまり、キリストが再び来る前に、悪あがきをする反キリストが現われるということです。彼は、にせ宗教、にせの教えをもって人々を惑わした後、世界を完全に支配します。

私たちは危ない時代に生きているということを自覚しなければなりません。もし、ここに時代の時計があるとしたら、69週目で止まっています。もし、その時計が動き出したら、あとは7年間しかありません。最後の7年間で全部のことが起こり、その後、千年王国(御国)がやってきます。その7年間のことがヨハネ黙示録4章から19章にしるされています。天上では、神と小羊とに賛美と礼拝がささげられています。しかし、地上では反キリストによる大迫害、天変地異による神のさばき、ハルマゲドンの戦いがあり、逃げ場は全くありません。黙示録9:6「その期間には、人々は死を求めるが、どうしても見いだせず、死を願うが、死が彼らから逃げて行くのである。」とあります。「確かに、今は恵みのとき、今は救いの日です」(Ⅰコリント6:2)。でも、異邦人の時、つまり教会の時代はいつまでも続きません。やがて、終わりの時がやってきます。御国の門が閉じられたら、聖霊も働かなくなります。反キリストが力を増すので、殉教覚悟でないと信仰を持つことができないでしょう。私たちは2つのことを同時に覚えて生きなければなりません。第一は、この地上で日々感謝をしながら、神様から与えられた使命を全うすることです。第二は、世の終わりがいつ来ても良いように、準備をしておく必要があります。聖書の一番最後のみことばを読んで終えたいと思います。黙示録22:20「しかり、私はすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。