2014.9.7「幻の人ゼカリヤ ゼカリヤ4:1-7」

 ゼカリヤはハガイより2ケ月後に出てきた預言者であり、ハガイより大分、年が下のようです。両者ともエルサレムに神殿が再建されるときに活躍した預言者です。ハガイの預言はとても明解ですが、ゼカリヤは幻(異象)によるものなので難解です。だから、何回読んでも分からないところがあります。冒頭に「イドの子ベレクヤの子」とありますが、ヨシュアと共にバビロン捕囚から帰還した祭司かと思われます。ゼカリヤの名前は「主は覚えてくださる」という意味です。

 

1.わたしの霊によって

 紀元前536年に始まった神殿再建も妨害者たちによって中断させられ、エルサレムのユダヤ人たちは十数年間、失意の中にいました。1章12節に記されている、主の使いの叫びはユダヤ人の叫びでした。「万軍の【主】よ。いつまで、あなたはエルサレムとユダの町々に、あわれみを施されないのですか。あなたがのろって、七十年になります。」神様はその嘆願にこたえて、預言者ハガイとゼカリヤを通して、民に慰めと励ましを与えました。そして、中断させられていた神殿建設を再開させられました。ハガイは「多くの種をまいても、少ししか刈り取らないのは神殿建設を後回ししにしているからだ」と叱責しました。一方、ゼカリヤは建設が遅れているのは、捕囚前の人々の罪と、根がつながっているからだと言いました。1:4「万軍の【主】はこう仰せられる。あなたがたの悪の道から立ち返り、あなたがたの悪いわざを悔い改めよ」と言ったのに、彼らはわたしに聞き従わず、わたしに耳を傾けもしなかった。」彼らの先祖は、主が預言者を通して語ったことばに聞き従いませんでした。バビロンで70年間過ごしたのに、根っこが先祖とつながっていました。根というのは地面の下にあるので、上からは見えません。でも、そこから悪いものが出てくるとしたなら問題です。根本的な原因は、実っている果実ではなく根にあります。そのため、地面を掘って、苦い根を探す必要があります。汚れたり、泥まみれになる覚悟が必要です。苦い根を探り当て、主イエスの御名によって断ち切るのです。アーメン。

 ゼカリヤ書4章には神殿再建のため、中心的な預言が記されています。ゼカリヤが見た幻とは何でしょう?全体が金でできている1つの燭台が見えました。中央の上部に1つ、左右合計6つ、合計7つのともしび皿があります。これは、神殿でよく見られる、アーモンドの枝をあしらった燭台です。そして、燭台の両側には2本のオリーブの木がありました。それぞれ、2本のオリーブの木から金の管が出ており、中央の燭台につながっていました。つまり、自動的にオリーブの木からオリーブ油が7つのともしび皿に流れるようになっていす。もし、そうであれば燭台の油は尽きることがありません。「主よ。これらは何ですか?」と聞くと御使いが答えてくれました。1本のオリーブの木は総督ゼルバベル、もう1本のオリーブの木は大祭司ヨシュアを意味していました。つまり、「この二人が指導者となって、神殿が再建される」ということです。でも、御使いが与えた、幻の解き明かしはもっと複雑です。ゼカリヤ4:6「これは、ゼルバベルへの【主】のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の【主】は仰せられる。大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」総督ゼルバベルに告げるべきことばをゼカリヤが受けました。神殿建築を「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と行えということです。この約束は、私たちが行うすべてのわざにも言えることです。家事、子育て、勉強、仕事、何かのプロジェクト、教会建築、奉仕、すべてのことに対してです。この世では「権力や能力」が尊ばれます。しかし、それらよりも勝るのは主の霊(聖霊)であります。聖霊は神の霊であり、知恵、力、愛喜び平安、賜物、真理、何でも与えてくれます。私たちはすぐ、「お金がないからできない」「ふさわしい人がいないから、自分にそういう力がないからできない」と諦めます。そうではありません。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」成すことができるのです。

 もう1つのことを主が言われました。「大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」このところで言われている山とは何でしょう?北に住んでいたサマリヤ人が反対していました。彼らはペルシヤの王から再建中止の書状を勝ち取りました。必要な建築資材も尽きてしまいました。自分の生活が精一杯で労働力を提供することもできません。だから、主は「大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ」と言われたのです。練馬教会の小笠原先生が当教会に数回来られたことがあり、このところからメッセージされました。先生は「原文は『平地となれ』とはなく、『お前は平地、平地だ!』という意味です」と教えてくれました。つまり、主にあっては既に問題が解決され、ただの平地になっているということです。ですから、私たちは山に向かって、「お前は平地、平地だ」と言うべきです。主は、ゼルバベルに対して「恵みあれ。これに恵みあれ」と叫びながら、かしら石を運び出すのだ、と言われました。かしら石というのは、2種類あって、土台の隅の石と、両側から建てて合わさる最後の石です。おそらく、こちらは工事完了を意味する最後の石ではないかと思います。「恵みあれ、これに恵みあれ」と、叫び声をあげて、かしら石を据えよということです。

 最終的にどうなるのでしょうか?ゼカリヤ4:9-10「ゼルバベルの手が、この宮の礎を据えた。彼の手が、それを完成する。このとき、あなたは、万軍の【主】が私をあなたがたに遣わされたことを知ろう。だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。これらは、ゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぼう。これらの七つは、全地を行き巡る【主】の目である。」神殿が完成するとき、2種類の反応があるということです。第一は70年前、ソロモンの神殿を見たことのある老人たちがいました。彼らは小さな事として下げすむかもしれません。でも、「ゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぶべきなんだ」ということです。下げ振りというのは、建築のとき使用する道具です。確かにソロモンの宮殿と比べたら見劣りがするでしょう。しかし、火で焼かれて廃墟になっていた神殿が再建されるのです。神殿はエルサレムの真ん中に主がおられるという象徴です。神殿が立派かというよりも、主が自分たちの中におられるかどうかが問題なのです。

 前半のポイントから私たちは何を学ぶべきでしょうか?先週はハガイ書から当亀有教会の会堂建築の証をしました。聖書的に言いますと、神殿は教会ではありません。イエス様は「私が死んだあと、3日後に神殿を建てなおす」と言われました。復活したキリストのからだである教会、つまり私たちが神殿であります。聖書的には私たちが生ける宮、神が住まわれる神殿だということです。このことは譲ってはいけません。しかしながら、この教会堂という建物も重要です。私たちはからだの上に服を着ていますが、教会堂はその服のようなものです。私たちは服だったらどんな服でも良いでしょうか?穴があいてなければ良いでしょうか?最近はわざと膝などに、穴をあけている人たちもいますが、例外です。やはり、自分の好みや考えをあらわす服を着るのが普通でしょう。普段着ならともかく、どうでも良いという人はいません。ですから、教会堂も機能性と、なんらかの思想を表現しているべきです。スペインにサグラダ・ファミリヤという教会堂があります。1882年に着工したようですが、まだ、建築中です。ガウディの没後100年にあたる2026年に完成予定と言われています。あれは行き過ぎであります。7年くらい前、ベン・ウォンが来られたとき、「建物などは不要である。牧師室も焼いちまえ!」と言いました。ところが、セル・セミナーを開くときには、ちゃんとした建物がある教会が会場になります。どこか矛盾しています。もちろん、目に見えない建物が教会です。でも、こういう目に見える建物も必要だということです。会堂建築の時というのは、教会が大きく揺れるものです。お金の問題、教会堂に対する主義主張が出てきます。伝統的な人もいれば、現代的な人もいます。新会堂はできたけど、分裂したり、牧師がやめてしまったという教会がいくつもあります。私たちも今、会堂補修にむけて積み立て献金をしています。自分の家であれば、一生懸命になるでしょう。しかし、教会堂はどうでしょうか?私たちが礼拝し、集まるこの建物も愛すべきです。

 ゼカリヤ書で言わんとしていることはこのことです。主は、二人の預言者ハガイとゼカリヤに主のことばを伝えさせました。その次に、政治的なことをする総督ゼカリヤを任命しました。もう一人、大祭司ヨシュアを立てました。ヨシュアはサタンから告発されましたが、まぼろしの中で、新しい礼服を着せられました。この世の政治は、みんなで議論して決めます。民主主義は、会議で議論し、議論したあと多数決で決定します。しかし、神様の方法は違います。預言者を通して、主からの幻(ビジョン)が与えられます。「主はこういわれます」と預言者がみこことを伝えます。その後、工事を指導する総督と大祭司が活躍します。そこで、最も重要なことは「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」ということです。このことはすべてのわざにあてはまります。特に、会堂建築や神への奉仕はそうであります。私たちは自分の資源や知恵や力で神様に仕えるのではありません。神様が必要な資源と力と能力を与えてくださるのです。どんな働きに対しても障害があります。私たちは立ちはだかる山に向かって、「大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ」と言いましょう。

 

2.幻の人ゼカリヤ

 ゼカリヤ書は14章までありますが、その多くは異象、つまり幻が記されています。ですから、ちょっと読んだだけでは、何のことなのか、良くわかりません。古代キリスト教父の一人、ヒエロニムスは、「最も分かりにくい書である」と言いました。しかし、同時にゼカリヤ書は新約聖書の中に最も多く引用されています。新約聖書の中にはゼカリヤ書からの引用と言及が70回以上もあります。そのうちの約三分の一が福音書、その残りをヨハネの黙示録の中に見つけることができます。ということは新約時代の聖書の記者は、ゼカリヤ書をよく愛読し、その内容をよく理解していたことになります。またゼカリヤ書はイザヤ書を別にすれば、ほかのどの預言者よりも、キリスト(メシヤ)について多くを語っています。それらの幾つかをささっとあげてみたいと思います。しもべであるキリスト、若枝として、子ろばに乗ってエルサレムに入城する、良い牧者である、人々の拒否と銀三十枚で裏切られる、主の剣で打たれる(十字架)、祭司職である、王として、再臨時オリーブ山の上に立つなどです。ゼカリヤ書は大きく分けて2つのことが記されています。第一は神殿再建へのメッセージが記されています。このことは、第一のポイントで申しあげました。第二は神殿完成後のメッセージであり、特に未来に関する預言的宣言です。私が後半のポイントで言いたいのは、幻を見ることの重要性であります。ゼカリヤ書によく出てくる表現は「見よ」「目を上げて見る」であり、合計22回出てきます。主あるいは御使いがゼカリヤに幻を示されます。ゼカリヤは見たままを書きますが、時々、「それは何ですか?」と尋ねます。すると、その意味を解説してくれます。

 聖書にはこのような幻で語られることが多くあります。改革神学の立場の人は、「聖書が完成した後は、このような幻は終わった」と言います。しかし、使徒2章には「終わりの日に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る」と書いてあります。「終わりの日」というのは、聖書が完成した後のことも入っています。これは、ペンテコステから、イエス様が世の終わり来られる時までのことであります。かつて旧約聖書時代は、特別な人しか幻を見たり、預言することが許されませんでした。しかし、終わりの日には、「息子や娘が預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る」とはっきり書いてあります。それなのに、「聖書が完成したので、神様、預言や幻はいりません」と言うのは傲慢です。新聖書辞典にこのように解説してありました。「神はしばしば夢や幻想的なイメージを媒介として人間に啓示を与えられた。一般的に言って昔の人々は、現代の精神病理学者以上に夢を重んじ、宗教的な人々はそれを貴重な体験と見た。幻を単なる心理現象に格下げすることは聖書の叙述に反している。夢に解き明かしが必要であったように、幻の意味は神のことばと説明によって明瞭にされる。幻が正しく解釈される時、それは預言活動を促進させる。」保守的な辞書にこのように書いてあったので感動しました。

箴言29:18「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」と書いてあります。しかし、英語の聖書は、Where there is no vision the people perish.「幻のない民は滅びる」と訳せます。幻とは、神から啓示であり、ビジョンであります。この世は進化論を信じているので、人々の中から良い考えや方向性が生まれてくると思っています。だから、いろんな研究したり、議論を重ねてから結論を導き出します。しかし、聖書はそう言っていません。推論しなくても、答えが上から(神様から)来るのです。だから、パウロはコロサイ3:1「上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。」と言いました。またヤコブ1:17「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。」と書いてあります。ですから、ユダヤ人の祈りは、上を見上げて祈ります。両手を広げて、天を仰ぐように祈ります。「上から良いものを受けたいです」という意味があります。だれかが「八方塞がりでも、天は空いています」と言ったとおりです。去る7月15,16日、練馬教会で「関東コーチングセミナー」がありました。小笠原先生が初日「キリストのからだを建て上げるために」という題でメッセージしてくださいました。「ビジョンとリーダーシップ、聖霊の油注ぎ、キリストの苦しみの欠けたところを満たす」と3つのポイントでした。すごい量なので、昼休みをはさみ、午後3時まで話してもらいました。そのとき、小笠原先生が、なぜ、このようなことを話すようになったのか説明してくださいました。5月末にコーチが集まり、7月にどんなテーマで話すべきか話し合いました。すると、「日本は何をやってもダメだねー。日本の牧師たちは閉塞感にやられている」とみんなが言い出しました。そのとき、鈴木先生が「祈りましょうかー」と言いました。みんなで祈ったら、雰囲気ががらっと変わりました。重たい空気がぱっと去り、明るくなりました。それで、何が示されたかそれぞれ話したら、ビジョンだ、聖霊の油注ぎだ、キリストのために苦しむことだというテーマが出てきました。鈴木先生が「祈りましょうかー」と言ったら、示されたんです。「すごいことですねー」と感動して言いました。

 役員会でもどうしたら良いかわからない時があります。この間も、「祈りましょうかー」と提案しました。すると、天が開かれたように解決策が見えてきました。「幻とかビジョン」と言うと、大それた感じがしますが、主はたえず私たちに語りかけておられます。私たちの方が、耳を傾けず、目を向けないだけなのです。詩篇46:10「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」とあります。これは、be still「静まれ」という意味です。手を休めなさい。いろいろ悩んだり、思案しないで、「わたしこそ神であることを知れ」ということなのです。しばらく天に思いを向けると、「ぱーっ」と何か開かれて来ます。それが幻であったり、知恵であったり、預言であったりします。聖書のみことばが示されるときもあります。使徒2章に「終わりの日に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る」と書いてあります。しかし、同時に終わりの時代は偽預言者、偽の預言も世の中に多く出回ります。「幻を見た」とか、「何かが見える」と言う者も多数出てくるでしょう。それで、教会が荒らされて、しまいになくなってしまうこともあります。ですから、教会の外から「私は預言者です」と突然やってきて、預言してもらうのは危険です。牧師にその教会の権威が与えられています。秩序というものがありますので、勝手に預言させたり、「幻を見ました」と言わせてはいけません。日本の教会は、幻も預言も全部否定するところが多いです。危険から守るために良いかもしれません。しかし、その恵みに預かることができません。そのため、教会内で聖霊が自由に働かないために病気になります。ですから、私たちは成熟を目指して、聖霊の賜物について学び、良いものと悪いものを識別できるようにならなければなりません。また、幻や預言をすぐ受け入れるのではなく、吟味することも重要です。「聖書のみことばに合わせてどうなのか?」神様の一般的なみこころと矛盾していないかどうか調べる必要があります。私たちは台所に包丁をいくつか備えています。包丁は切れる方が良いです。ネギなど細かく切れたら良いですね。でも、その包丁は殺人のために使われる場合もあります。では、包丁は危険なのでこの世から失くすべきでしょうか?そうではありません。正しく使えば良いのです。聖霊の賜物も同じです。幻や預言も正しく用いれば、私たちを生かす恵みになるのです。

 どうでしょう?あなたにはこれからの人生に対する幻、ビジョンがあるでしょうか?子供の将来に対する幻、ビジョンがあるでしょうか?教会も同じです。教会に対する幻、ビジョンが必要です。幻のない民は滅びます。私たちの理性や常識が「そんなの無理だよ」と打ち消すかもしれません。「私はこれまで何度も希望を抱いてきましたが、何度も裏切られました。もう、期待しません」と言う方もおられるかもしれません。イエス様は「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」(マタイ12:20)と言われました。今は小さな希望の火かもしれません。しかし、それを大事にしましょう。やがて、もっと大きな火になります。どうしたら、神様から幻と夢と預言をいただくことができるのでしょうか?「終わりの日に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る」と書いてありました。そこには前提があります。ペンテコステのように聖霊を上から注いでいただく必要があります。何度も申し上げましたが、クリスチャンであるならもれなく、聖霊を内側にいただいています。しかし、聖霊の賜物を受けるためには、上から注いでいただく必要があります。聖霊に満たされるとどうなるのでしょうか?Ⅰコリント2:9「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。神様は私たちに知性や理性を与えてくださいました。私たちは一般恩寵を感謝して用いなければなりません。しかし、私たちの知性や理性では不可能なことが時々あるでしょう。そのときは、どうぞ、神の霊によって幻と夢と預言をいただきましょう。どうぞ、上にあるものを求めましょう。すべての良い贈り物、すべての完全な賜物は上から(光を造られた父から)下るのです。