2014.10.5「最後の預言者 マラキ1:1-8」

 旧約聖書の人物から学んできましたが、本日が50回目で最後になりました。前回はネヘミヤについて学びました。ネヘミヤは52日間で城壁を完成しました。さらに12年間かけて霊的なエルサレムの城壁を再建しました。その後どうなったのでしょう?ネヘミヤ記13章に書いてありますが、ネヘミヤはしばらくたってから再び、王様からいとまを請い、エルサレムに帰ってきました。そこには祭司たちの堕落ぶりが記されています。ネヘミヤはささげ物、安息日、結婚のことでユダ人たちを詰問しています。おそらく、マラキはネヘミヤが不在のときに、活躍した預言者ではないかと思われます。ユダヤ人たちは3つのことに対して無感覚でした。

 

1.神の愛に対する無感覚

 

 ユダヤ人たちは神の愛に対して無感覚でした。沢村五郎師の『聖書人物伝』にはこのように書かれています。「ユダヤ人の罪は、終わりに近づくにしたがっていよいよその度を加え、ついに癒しがたい絶望的状態となった。凍死するものは初めは寒さや痛さを感じているが、最後には無感覚となって死の眠りに陥るというが、ユダヤ人の終局状態もまた無感覚であった」。マラキ1:12前半「わたしはあなたがたを愛している」と【主】は仰せられる。あなたがたは言う。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」と。これまで、私たちはイスラエルの歴史を学んできました。イスラエルのもとの名前はヤコブです。本来はお兄さんのエサウが家督を継ぐべき存在でした。しかし、エサウは一杯の食物と引き換えに、長子の権利を売ってしまいました。さらにヤコブは目が見えなくなった父イサクから祝福までもだまし取りました。人間的にヤコブはひどい人物でした。しかし、主の見方は違っていました。「わたしはヤコブを愛した。わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とする」(マラキ1:12-13)と言われました。ヤコブは神さまのfavor愛顧をいただき、イスラエルという名前を与えられ、地境を広げさせてくださいました。やがて、イスラエルから12部族が誕生しました。彼らはこれまで特別に愛されてきたのです。しかし、「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」と文句を言いました。

ヤコブは押しのける者、欺く者でありました。彼に値打ちがあったのではなく、神さまの愛によって一方的に選ばれたのです。そういう点では、私たちも同じです。Ⅰヨハネ4:10 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」私たちは以前、神さまの愛に対しては全く無感覚でした。この世を愛し、楽しみを愛し、自分を愛していました。「愛」という本当の意味すらも、分かりませんでした。私は23歳のとき現場監督から貿易事務に転職しました。その時の職場の先輩はクリスチャンでした。「神さまがいるなら、見せてください」と悪態をついていました。しかし、仕事においては全く素人だったので、1から10までお世話になりました。私が失敗した時は、「たかが仕事じゃないか。仕事よりももっと大切なものがあるよ」と言われました。「ああ、この人は他の人と違うなー」と思いました。ある時、先輩のデスクを見たとき、透明なカバーの下に、英語でタイプした紙がはさんでありました。「これなんですか?」と聞くと、「聖書のことばだよ」と言いました。そこには、Love isなんとかと書いてありました。あとから、それがⅠコリント13章「愛は寛容であり、情け深い」ということばでした。私はLoveということばで聖書に対して心が開かれました。その前に、クリスチャンの先輩が、私を愛してくれていたんです。でも、十字架の愛に気付いたのは洗礼を受けてから半年後でした。その教会では、水曜日の祈祷会を一般の信徒が司会することになっていました。そして、司会の特権として一曲リクエストすることができました。ある時、私が司会をしたとき、聖歌402「丘にたてる荒削りの」を選びました。後で、オルガンを弾いてくれた姉妹に感謝するために行きました。その姉妹は「涙がうるんできてよく弾けませんでした」と言いました。私は「ここにも十字架で感動している人がいるんだ」と教会の集まりが好きになりました。私は牧師になって、30年近くなりますが、十字架の愛をいつでも新鮮に受け止める者でありたいと思っています。

 イスラエルの罪は神さまの愛と恵みに慣れっこになり、当たり前のように思っていました。彼らはエジプトから奇跡的に救われました。荒野ではマナが降り、岩から水がわき出ました。カナンにおいても勝利から勝利を収めることができました。ところが、カナンに定住したとたん、異教徒と妥協し、彼らの神を拝むようになりました。やがて、自分たちにも他の国のように王をくださいと願いました。本来は神さまが王であるのに、人間の王を求めました。それから堕落の一途をたどって、最後にはアッシリヤやバビロンに滅ぼされました。しかし、神のあわれみによって70年後、戻ってくることができました。神殿が再建され、城壁も修復されました。でも、彼らは再び、律法から離れ、異教徒の娘をめとりました。そのとき、預言者マラキが立ち上がりました。「わたしはあなたがたを愛している」と主は仰せられると告げました。しかし、彼らは「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか?」と答えたのです。これまでの主の愛と恵みを忘れていました。いや、当たり前のように思っていたのです。私たちは偶然に救われたのではありません。教会につながり信仰を持ち続けているのは、自分の真面目さや意志ではありません。主の恵みとあわれみです。なぜなら、多くの人たちが洗礼を受けても、教会を離れてしまうからです。もちろん、みなが信仰を失ったわけではないでしょう。黙示録2章にはエペソの教会に対することばが記されています。これは、世の終わりに住む私たちへの警告でもあります。黙示録2:4-5「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。」アーメン。初めの愛とは、イエス様の十字架の愛です。もし、神への愛に対して無感覚になっているなら、十字架の愛に立ち返りましょう。

 

2.神の権威に対する無感覚

 

 マラキ1:6「子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。──万軍の【主】は、あなたがたに仰せられる──わたしの名をさげすむ祭司たち。あなたがたは言う。『どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか』と。」イスラエルは神を知っていました。神に選ばれた民であることを誇りに思っていました。しかし、彼らの行動と生活は、これを否定していました。神を神としてあがめず、父として仕えず、主として敬っていませんでした。彼らは「どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか」と文句を言いました。まったく、神様の権威に対して、無感覚でした。これに対して、マラキは主のみことばを伝えました。マラキ1:7-8「あなたがたは、わたしの祭壇の上に汚れたパンをささげて、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『主の食卓はさげすまれてもよい』とあなたがたは思っている。あなたがたは、盲目の獣をいけにえにささげるが、それは悪いことではないか。足のなえたものや病気のものをささげるのは、悪いことではないか。さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたをよみし、あなたを受け入れるだろうか。──万軍の【主】は仰せられる──」神へのささげ物は傷のない羊、あるいは傷のない牛でなければなりませんでした。しかし、彼らは健全な家畜が惜しくなり、長生きしそうもない障害のあるものや病気の家畜を犠牲のために携えてくるようになりました。その頃、ペルシヤの総督がエルサレムに来ていました。「その総督に、こんな障害のあるものや病気の家畜を贈り物として差し出してみよ。総督は快く受け入れるだろうか」と主は言われました。『聖書人物伝』で沢村五郎師は、「地上の代官にさえなしえない無礼な行為を、王の王、主の主なる万軍の主に対してなすとは、何と恐ろしい不敬罪であろう。それをさえ自覚しない彼らの堕落腐敗はもはや絶望的であった」と言っています。 

 大川牧師が子供のときのことです。昭和の初期、牧師家族は清貧に甘んずる模範を示す必要がありました。当時は卵が高級品でした。ある晩、めずらしく卵を食べることができました。お母さんは次の朝、卵の殻を新聞紙にくるんで捨てたそうです。また、あるとき、教会員が「これ使ってください」と欠けた茶碗や使い古した物を持ってきました。大川牧師は中学生のとき「教会は偽善者の集まりだ。教会に火をつけてやろう」と思ったそうです。教会と神さまが同じだとは思いません。しかし、「自分たちの献金が牧師給になり、教会の活動を維持しているんだ」と考えるのは行き過ぎです。もし、献金を天国の税金のように考えるならどうなるでしょう?税金を納めるときは「高かったなー」とがっかりします。しかし、献金は神さまにささげるささげ物です。なぜなら、空気や光、地下資源、この命すらも神さまからいただているからです。ましてはクリスチャンは永遠の滅びから、永遠の御国へと運命が変えられた存在です。感謝しても感謝しきれません。でも、私たちもイスラエルのように神さまに対して無感覚になる恐れがあります。時間と精力と持ち物の一番良いものは自分のために使って、神のためには残りものをささげているかもしれません。「若い力と感激に燃えよ、若人胸を張れ」という歌があります。スポーツも良いでしょうが、どうして若い力を神さまにささげないのでしょうか。「金貨と銅貨がけんかした」という童話があります。あるとき、金貨が銅貨を侮って、「お前の顔は何と輝きのないおそまつなものだろう。お前が何枚集まっても、おれ一枚の値打ちもないからな」と言いました。銅貨も負けていません。「お前さんは色こそきれいで、値打ちがあろうが、使われるところはお茶屋の支払いか、酒屋の支払い、せいぜいデパートのご用ぐらいが関の山だろう。一度でも、神棚や、さい銭箱にささげられて、神務めをした覚えがあるか?そこへ至っては、手前こそいつも尊い神への奉仕をうけ持っている」と言ったそうです。何という皮肉でしょうか。聖歌338「いとも良きものを君にささげよ。あつきなが心、若き力を」という献身の歌があります。

 さらに、万軍の主は仰せられました。マラキ3:8-9「人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。」イスラエルの人たちは収穫物、つまり穀物、新しいぶどう酒、油の十分の一を神さまにささげることが定められていました。さらに、誓願のささげ物や牛や羊の初子、初なりのものをささげました。神に仕えるレビ人がこれらのささげ物によって生活していました。主は「あなたがたは神のものを盗んでいる」と言いました。何という厳しいことばでしょう。本来、聖書に一ケ所だけ、神さまを試して良いという箇所があります。マラキ3:10-11「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。──万軍の【主】は仰せられる──わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。──万軍の【主】は仰せられる──」十分の一を主の前にささげるなら2つのことが起こります。第一は主が天の窓を開いて、あふれるばかりの祝福を注いでくださいます。第二は主が畑のまわりに柵を設けて下さり、害虫が食べないようにしてくださいます。しかし、実際に、これはささげてみないと分からないことです。だから、主は「試してみよ」と主のことばを伝えているのです。ある人たちは、「これらは旧約聖書であり、新約の私たちには関係ないのではないか?」と言います。私も質問されるときは、「律法ではなく、信仰によってささげれば良いのですよ」と答えます。でも、新約聖書の方がもっと厳しいかもしれません。Ⅰコリント6:20「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」新約の私たちは、十分の一はもちろんそうですが、十分の九に対しても責任があります。献金の元になるものはだれがくださったのでしょうか?神さまがくださったものを、私たちがささげているのです。でも、神さまはささげる人には、蒔く種のように、何倍、何十倍にも帰してくださることも事実です。

 

3.家庭の罪に対する無感覚

 

 城壁を捕囚したネヘミヤは一度ペルシヤに戻り、数年後、再び戻ってきました。するとどんなことが起きていたでしょうか?マラキ2:14-16「ユダは裏切り、イスラエルとエルサレムの中では忌まわしいことが行われている。まことにユダは、主の愛された【主】の聖所を汚し、a外国の神の娘をめとった。」異教徒との結婚は、やがて不信仰の罪に至ります。これに対し、ネヘミヤもエズラもきびしく指導しました。しかし、マラキは「あなたがたはもう1つのことをしている。あながたは、涙と悲鳴と嘆きで、主の祭壇を覆っている」と言いました。マラキ2:14-16「『なぜなのか』とあなたがたは言う。それは【主】が、あなたとあなたの若い時の妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。神は人を一体に造られたのではないか。彼には、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。あなたの若い時の妻を裏切ってはならない。『わたしは、離婚を憎む』とイスラエルの神、【主】は仰せられる。」神さまは「私は離婚を憎む」とおっしゃっているのに「なぜなのか?」という無感覚さです。このところに、離婚すると霊的にどのようなことが起こるのか記されています。結婚して二人が交わると、肉体だけではなく、霊も交わります。その後、別れたならどうなるでしょう?二枚のベニヤ板をドンドで付けたとします。渇いた後、この二枚をはがすとどうなるでしょうか?ベリベリという音がして、「片方の木片がこっちに、片方の木片があっちに」と言うことが起こります。これが霊の世界でも起こるということです。だから、主は「あなたがたの霊に注意せよ。裏切ってはならない」と二度もおっしゃっているのです。

現代の離婚率は3分の1以上だと言われています。世界で一番離婚率の高いところはロシアです。インドネシアのエディレオがウラジオストックにセミナーに出かけることがあります。賛美も女性、ギターも女性、司会者も女性だそうです。そして、先生が父の愛について語ると女性たちは床に倒れて、激しく泣くそうです。ロシアでは寒いので夫がウォッカを飲んで酔っ払い、妻を打ちたたくそうです。そのため離婚し、妻や子供たちも傷ついています。しかし、ロシアだけではありません。フランスやイタリヤ、イギリス、かつてキリスト教国だった国の結婚が壊れています。結婚をせずに子供を産んだり、同性婚すらも認められるようになったからです。私生児というのは元来、恥ずかしいことだったのに、現代では1つの選択肢になっています。結婚は社会が決めた制度ではなく、「二人が一体となるように」と神さまが定めた契約です。アメリカでは未信者の離婚率とクリスチャンの離婚率が同じだそうです。信仰が全く、歯止めになっていません。これは1つの社会現象ではありません。サタンが背後にいて、家庭を破壊しているのです。創世記3章においてサタンはアダムとサタンの間を引き裂きました。その後、カインが弟アベルを殺しました。戦争と離婚はサタンのリバイバルと言っても過言ではありません。私たちは夫婦の関係を与えられた家庭を当たり前と思わないで、大事にしていきたいと思います。

ジョエル・オスティーンのディボーションから引用します。私たちは常に奇跡に囲まれています。あなたがある人と出会って恋に落ちたこともその1つです。私たちはきょうの日が、ユニークでかけがえのないことを悟らなければなりません。すべての人たち、特に若い人たちへの良い模範だった一人組の老夫婦を紹介します。二人は何十年もの結婚生活で、正直で互いに尊敬しあっていました。ところが、80歳の半ばで夫人が主のみもとに召されました。葬儀のとき、彼女の夫がこのようなことを語りました。「15年くらい前、私は心臓発作で倒れました。妻が病院に駆けつけ、私にこう言いました。『あなた、今回のことで人生がどんなにはかないものか分かりました。これから毎晩、ベッドで眠る前に私はあなたに7回キスをしたいです。そして、お互いの生活が当たり前でないことを忘れないようにしましょう。』それから妻は15年間、寝る前、一度も忘れることなく、私に7回キスをしてくれました。妻は火曜日、主のみもとに行きました。しかし、月曜日の夜、私に7回キスをしてくれました。」なんと、すばらしい証でしょうか。

最後のマラキ書4章には主の来臨について記されています。世の終わりに、主がこの地上にやってこられるという預言です。旧約聖書の最後のページです。マラキ4:2-3「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。」義の太陽とは再臨のイエス様です。その時、死んだ肉体が復活するでしょう。まるで、牛舎から外に出る子牛のようにはね回ることでしょう。そして、悪者どもはさばかれ、灰のようになります。でも、主は、その前にチャンスを与えたいと願っておられます。マラキ4:5-6「見よ。わたしは、【主】の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」預言者エリヤについては既に学びました。彼は竜巻によって天に上げられました。そのエリヤが世の終わりに再び来るという預言です。実際はバプテスマのヨハネのことであります。彼はイエス様が公生涯を始める前に、荒野で叫んで、道を整えました。不思議なことに「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる」と書いてあります。世の終わりには家庭が崩壊し、父が子供から離れ、子供も父から離れる。しかし、エリヤが来て、父と子の間を回復するということです。父は家庭において、父なる神を代表しています。家庭に父がいないと、子供は神さまを信じることが困難になります。現代は父親不在の時代です。しかし、教会は父親の存在目的を回復し、一人でも多くの子供たちが、父なる神さまを信じるように手助けしたいと思います。きょうは3つのことを学びました。神の愛と神の権威と家庭の罪とに対する無感覚さです。私たちはこのような無感覚に陥ることのないように、神の霊によって燃やされ、刷新されていきたいと願います。