2014.10.12「赦しによる健康法 ヘブル12:14-17」

 私たちは農薬や合成保存料を食べ物と一緒に体に入れています。肌につける化粧品なども、体の中にしみこんで毒になるものもあります。車の排気ガスや中国から飛んでくるPM2.5も体に良くないです。世の中ではデトックス(解毒)という健康法があります。たとえば岩盤浴などで、汗をかくと、内側から老廃物が出てくるそうです。また、食べ物でも毒を中和して体の外へ出してくれるものあるようです。私たちは肉体の健康に気を使っていますが、心はどうでしょうか?多くの人たちが、うつ病や神経症に悩まされています。病院に行っても、これと言う治療法がありません。しかし、聖書のみことばは癒しを与える薬があります。それは旧約(旧薬)と新約(新薬)です。きょうは、心の健康を保つために重要なことをお話ししたいと思います。

1.赦さないことによる毒

 ヘブル12:15「苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」と言われています。「苦い」は英語で、bitternessです。ギリシャ語ではピクリアと言いますが「苦々しい感情、憤慨、立腹」という意味です。私たちの心を土地にたとえるなら、悪感情によって苦い根が生えてしまうということです。悪いものが根から枝を伝わって、やがて、それが実となります。その実とは、やはり苦い実です。怒り、憤り、うつ、さばき、自己憐憫の実です。周りの人が、その実によって汚されるということです。私たちのまわりにそういう人はいないでしょうか?その人と会った後、なんだか気持ちが重たくなるということがないでしょうか?私たちは日々、不当な扱いを受けたり、だれかのせいで損害を受けたり、失敗したりします。また、日々の会話の中で、傷つけられるようなことばを受けるかもしれません。私たちはそのとき、怒りや憤りを覚えるでしょう。「もう、赦さない」と心に誓うかもしれません。もし、そのままにするならどういうことになるでしょう。怒りや憤りが心の深いところ、つまり潜在意識の中に沈みこみます。それらが結合して、やがて毒素の塊になります。表面から分かりませんが、時々その毒が浮いてきます。そうすると、自分自身を悩まし、さらには他の人を汚してしまうようになります。アメリカで化学工場から出た廃棄物をドラム缶につめこんで、地下何十メートル下に埋設しました。後からそこにたくさんの住宅が建ちました。20年くらいたって、住んでいる人たちが原因不明の病気にかかりました。いろんな調査がなされましたが、後から、地下の廃棄物から有毒な化学物質が漏れているのが分かりました。一度埋めたものを取り除くために、莫大なお金がかかったそうです。

 では、この話は本当に聖書的なのでしょうか?不当な扱いを受けても、怒ってはいけないのでしょうか?エペソ4:26-27 「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」使徒パウロは、怒りは必ずしも罪ではないと言っています。イエス様も宮が汚されているのを見て、怒ったことがあります。聖なるものが汚されたり、不正がなされるのと見ると、義憤というものが起こります。正義を行うためには、正しい怒りがあるでしょう。しかし、この怒りは、自分が被害を受けたり、傷つけられたことから来たものです。怒りは感情であり、自動的な反応です。しかし、この怒りを正しく扱わないで持ち越すと罪を犯すことになるということです。パウロは「日が暮れるまで憤ったままではいけません」と言いました。これは怒りや憤りを、次の日まで持ち越してしまうと心の深いところに根を張るということです。これが「苦い根」であり、「毒性の廃棄物」です。そのままにしておくと大変なことになります。パウロは「悪魔に機会を与えることになるから」と注意しています。そうです。また同じようなことが起こると、その怒りが倍増して、大爆発を引き起こしてしまうということです。たまりにたまっていた負のエネルギーが「どかーん」と大爆発するのです。そういう人は普段から我慢している人が多いです。また、外に向かって出さない人は、自分の中にしまいこんでしまいます。自分の中で爆発するので、それがうつになります。うつのすべての原因がそうではありませんが、かなりの割合で隠された怒りが原因しているとあるカウンセラーが言っておりました。あなたは怒りを外に向かって、つまり他の人に出す方でしょうか?それとも内に秘めて、自分を攻撃し、うつになるタイプでしょうか?どちらも、不健康です。「苦い根」あるいは「毒性の廃棄物」からいろんな病気を引き起こします。肉体的には心臓病、関節炎、癌などがあります。心においては、いろんな情緒的問題を引き起こします。

私は秋田の出身ですが、自殺率がとても高いところです。あるサイトには、19年連続で全国最高の状態が続いていると書いてありました。また、がんの発生率、脳卒中もトップです。専門家は高齢化とか経済問題と言うかもしれません。しかし、私が育った経験から申しますと、裏日本は天候が悪いです。いつもどんより曇っています。また、秋田の人はとても忍耐強く、我慢する人たちが多いです。怒りや悲しみをあまり外に出しません。表向きは平静をよそっています。多くの場合、お酒を飲んで、うさを晴らしています。だから、飲酒の量が多いのです。自分の怒りや悲しみを出さないで、心の奥底に秘めているために、いろんな問題が起こるのではないかと思います。秋田だけではなく、日本人は感情を外に出さない国民として知られています。昔、ディズニーのテレビ番組でやっていました。日本人は家族団らんでテレビを見ています。ほとんど笑いません。しかし、アメリカや他の国は、「わぁー」とか、ものすごいリアクションです。おそらく、中国や韓国なども感情をあらわにする国民だと思います。私がテレビを見ていると、「わぁー」「ぎゃー」とか反応するので、家内から「あっちへ行って」と言われます。私は、心はアメリカ人なのかもしれません。とにかく、私たちは怒りや憤り、憂いを貯めてしまうなら、あとでとんでもないことが起こるということを忘れてはいけません。苦い根を張って自分も人々も汚してしまいます。また、「毒性の廃棄物」が心の底から表面に染み込んで大変なことになります。私たちはこれらに蓋をするのではなく、ちゃんと向き合い、取り除く必要があります。

 

2.赦さないことによる束縛

 赦すということは、復讐する権利を放棄するということです。私たちは傷を受け、何等かの損害を受けました。それなのに、相手はのうのうと暮らしています。「赦してください」の一言もありません。お詫びも償いもありません。それなのに、簡単に赦して良いのでしょうか?大体、傷つけた人と傷つけられた人の痛みの度合いが全く違います。たとえば、満員電車の中でハイヒールで踏まれたとします。踏まれた方は「痛ーい!」と叫ぶでしょう。しかし、踏んだ方は「あーら、ごめんなさい」と謝るかもしれません。でも、踏んだ方はほとんど痛みはありません。つまり、被害者というのは、痛みがあり、それがいつまでも継続するということです。傷や虐待が大きい場合はトラウマになります。何度も、それが浮かび上がってきては、本人を苦しめます。ある夫婦が一人息子を悲惨な事故で失いました。お二人は悲しいだけではなく、神さまに対して怒っています。友人たちがお悔みに来ました。しかし、「あなたがたは私たちの痛みと苦しみを分かってくれないだろう」と言いました。友人たちが何度も訪問したのですが、「あなたがたには決して分からない」と慰めを拒絶しました。そのご夫婦は、加害者だけではなく、神さまさえも恨んでいます。「なんで、あんなことになってしまったんだ。息子がかわいそうだ!」とテープレコーダーを回すように思い出しては泣いていました。それで、だんだん訪問する友人も少なくなりました。そのご夫婦は悲しみの中から立ち上がることをしませんでした。彼らは「自分たちは被害者だ」という意識から立ち直ることができませんでした。こういう意味で、一度、起きてしまった悲しい出来事を忘れるということは困難です。今も、天災や事故で身内を失った人たちが、座り込んだまま、立ち直れない人がたくさんいると思います。心の奥底に沈んでしまった怒りや悲しみが根を張って、引き抜くことが不可能なようです。

 箴言17:22「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」心の問題が、いろんな病をもたらすということは事実です。一人のご婦人がチョー・ヨンギ牧師のところに癒しを求めてきました。彼女は身なりも立派で、学校の校長先生でした。しかし、重い間接痛で悩んでいました。体中がいたくて、立つのも座るのも容易でありません。どの医者に行っても、どんな薬を飲んでも癒されませんでした。チョー先生はあらん限りの声を上げて、病が癒されるように祈りました。しかし、全く癒されませんでした。そのとき、ある思いがチョー先生の中に浮かびました。「あなたは前の夫と離婚していませんね」と言いました。「いいえ、私は10年前、夫と離婚しました」。「いいえ、あなたは前の夫を呪って、恨んでいます。心の中ではあなたはご主人と暮らしています。あなたが抱いているご主人に対する炎のような憎しみが、あなたの体を蝕み、あなたの骨を干上がらせているのです」と言いました。彼女は感情をあらわにして言いました。「そうです。でも、あの人は本当にひどい仕打ちをしたのです。私がせっかく得たお金を湯水にように使いました。その後には、私をあっさり捨てて、別の女のところへ行ったのよ。何で、赦すことができるの!」と言いました。チョー先生は「ああ、そうですか。それではあなたの関節痛もなおりませんね。あなたの赦さない罪が病気を引き起こしているのです。前の夫を赦しなさい。愛して、祝福しなさい」と言いました。激しい葛藤の中で「そんなことはとてもできることではありません」と言いました。もう一度、勧めると、彼女は目をつぶりました。突然、しぼり出すような声をあげて「神さまどうぞ、主人を祝福してくださーい。」と祈りました。それから3か月後、彼女の関節痛が完全に癒されたそうです。私たちも、憎しみを自分の中から追放しないと、神の力が私たちの中から流れ出すことはないということです。

 イエス様は、マタイ6:15 で「人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません」と言われました。また、ルカ6:37「赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます」と書いてあります。では、赦しは自分が赦されるための条件なのでしょうか?厳密にはそうではありません。神さまは無条件な愛の持ち主ですから、どんな罪をも悔い改めるならば、赦してくださいます。しかし、これらのことばは矛盾しているようです。「人を赦さないなら、神さまも自分の罪を赦してくださらない」と言っているからです。しかし、私はこれが本当の意味だと思います。私たちは心の深いところに良心をもっています。ある学者は「良心は霊の一部である」と言っています。この良心が私たちを訴えるのです。もし、私が「Aさんの罪は決して赦すことができない」と、心の金庫にしまいこんで鍵をかけているとします。では、もし、私がAさんと同じような罪を他のだれかにしたらどうなるでしょうか?私はその人には「ごめんなさい」と謝れるかもしれません。しかし、天の父に「どうか、私の罪を赦してください」と祈れるでしょうか?私は祈る前に「ああ、私はAさんの罪を赦していないよなー」と思い出します。そうすると、良心が「人の罪を赦さないでおいて、自分の罪は赦してくださいと祈るのは虫が良すぎるのでは?」と咎めます。すると、「ああ、そうだよな」と途中で祈るのをやめます。「金庫から出して赦すくらいなら、このままでいいや」と思うのです。ある人たちは、地下の廃棄物から有毒な化学物質が漏れているに気付いていません。

 アフリカのある村の人たちが川の水を飲んで病気になりました。その川は山から流れる清い水で知られていました。調査団が川の上流へと向かいました。きれいな水が、泉からこんこんと湧いていました。上から見たら、何も問題がないように思えました。「底に何かあるのでは」と何人かの潜水夫が潜りました。そうすると、川が流れる水門の底に、豚の親子の死体がひっかかっていました。おそらく、水を飲みに来た豚の親子がおぼれ死んで、川底に沈んでしまったのでしょう。死体が腐って、それが毒素となって下流に流れていたのです。原因を取り除いたら、また水が飲めるようになったそうです。イエス様を信じると私たちの中に聖霊による清いいのちの泉が与えられます。やがてそれが川となってあふれ出ると聖書に書いてあります。しかし、私たちが怒りや憤り、恨みや悲しみでとどめておいたならどうなるでしょう。清い水がとどめられるばかりか、死の毒が心と体に回ってしまうでしょう。ぜひとも、私たちは赦さないという罪を捨てて、神さまからあふれるばかりの恵みをいただく者となりたいと思います。

 

3.赦しとは何か

 ある人たちは赦す感情が起きたら赦そうと思っています。しかし、赦しは感情ではなく、「赦します」という決断であり、意志の問題です。また、ある人たちは赦すことと忘れることを一緒にしています。赦すことは必ずしも忘れることではありません。私たちには記憶がありますので、忘れたくても忘れられません。これは傷痕と同じで、赦すことによって解放されると、記憶があっても痛みがないのです。また、ある人たちは相手が「赦してください。悔い改めます」と言ったら赦すという人もいます。もちろん、相手が謝罪してくれたらありがたいのですが、それを待っていたらいつになるか分かりません。相手の罪に対するさばきは主にゆだねるのです。そして、自分は自分の責任を果たすということです。では、簡単に赦しとは何なのでしょうか?赦しというのは、復讐したい権利を神さまにゆだねて、放棄するということです。ローマ12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」神さまにゆだねると、怒りから解放されます。だけど、「神さま、あいつに復讐してやってください。ぎゃふんと言わせてください」と祈るのは問題かもしれません。確かにダビデは「復讐してください」と祈りました。でも、私たちはイエス様の恵みを受けて、もう一歩進むべきです。イエス様はマタイ5章で「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言われました。そして、イエス様ご自身が十字架で自らを殺す者たちに対して「父よ、彼らを赦してください」と祈られました。ですから、赦して、敵対する者のために祈るということは、奇跡であります。生身の私たちができることではありません。はっきりいって、キリスト教は道徳ではなく、奇跡の宗教です。

 また、赦しというのは、神さまに従うことであります。なぜなら、神さまが赦してあげなさいと命じておられるからです。イエス様はルカ17章で「かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」と言われました。これに対して、使徒たちは「私たちの信仰を増してください。」と願いました。彼らは信仰がなければ、人の罪を赦せないと考えたからでしょう。ルカ17:6しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです。イエス様は「桑の木に『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになる」とおっしゃられました。桑の木と言うのは、根が地中に張って、なかなか抜けない木だということです。まるでそれは、私たちの心の中に赦せないという「苦い根」が張っている状態と似ています。「赦すなんて無理です。できっこありません」と答えるでしょう。でも、イエス様は「苦い根に『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになる」とからし種ほどの信仰があればそれができるとおっしゃられました。しかし、その直後にこのように話されました。ルカ17:7-10「ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい』としもべに言うでしょうか。かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい』と言わないでしょうか。しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」赦しとは何でしょう?どうしたら人の罪を赦せるのでしょうか?使徒たちは「信仰を増してください」と願いました。これに対してイエス様は信仰ではなく、従順であることを教えました。このしもべがそうであります。主人がその人の罪を赦しなさいと命じたなら、「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」と言えばよいのです。私たちは神さまが赦してやりなさいと言われるから、赦すのです。これが神さまに従う、クリスチャンの生き方です。

 私は25歳のときイエス様を信じて、洗礼を受けました。あんまりうれしくて、彼女や友人にも神さまのすばらしさを語りました。会うたびごとに、神さまのことを語り、「教会に行こう」と無理やり誘いました。洗礼を受けた1か月後、付き合っていた彼女から「別れてほしい」と一方的に言われました。青天の霹靂とはこのことです。後から、彼女が友人のアパートに行っているということが分かりました。私は夜も眠れず、布団の上をごろごろ転がっていました。そして、台所から包丁をもって二人を殺してやろうと思いました。私たちはテレビでそういう事件をよく見ますが、本当に他人事ではありませんでした。私を導いてくれた先輩が、ローマ12章の「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい」というみことばで私を思いとどまらせてくれました。私は毎週の礼拝でおいおい泣いてました。あんまり泣いていたので、大川牧師が心配してくださいました。それから、私は献身し、その後、今の家内と結婚し、可愛い子供たちが与えられました。神さまには他のすばらしい計画があったのです。エディ・レオ師がこのように言っていました。「イエス様は目の中の丸太とちりの話をしたことがあります。ちりとは木を切ったときの、木くず(チップ)です。私たちはあることが原因で、怒りと憎しみを爆発させるかもしれません。それは、心の深いところからチップが出てきたのと同じです。すぐ、そのチップを捕まえて、神さまのところに持っていきなさい。必要な場合は悔い改めて、それを放棄しなさい。48時間過ぎてしまうと、心の深い所に沈み込んで、処理できなくなります」と。人を赦さないのは罪であります。なぜなら、神さまが赦しなさいと命じておられるのに、自分が赦さないからです。もし、心の深いところに許さない罪をため込んでいるなら、心も体もその毒によってやられてしまいます。自分を傷つけた加害者のためではなく、自分のために、その人の罪を赦しましょう。そして、神さまを仰いで、晴れ晴れとした信仰生活を歩みましょう。