2014.11.9「不安、恐れ、恥 創世記3:7-10」

 きょうは“Good News”の最初のテーマ、「不安、恐れ、恥」を取り上げて、メッセージさせていただきます。現代は、多くの人たちが不安と恐れの中にいます。そのため、外出できない人や薬に頼っている人もいるでしょう。また、日本は罪よりも恥の文化だと言われています。神さまよりも、人の目を恐れています。「人から笑われないように」と育てられた人はいないでしょうか?私たちの心の奥深くに、不安、恐れ、恥というものはないでしょうか?

 

1.不安、恐れ、恥はどこから来たのか?

創世記3:7-10このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」神さまは、エデンの園に食べるのに良いすべての木を生えさせました。また、園の中央には、いのちの木と善悪の知識を生えさせました。園のどの木からも思いのまま食べても良かったのですが、1つだけ例外がありました。神さまはアダムに「善悪の知識の木から取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言われました。やがて、アダムからエバが造られ、二人はエデンの園で、何不自由なく永遠に幸せに暮らしました。となれば良かったのですが、蛇に化けたサタンが善悪を知る木のところでエバを誘惑しました。蛇は、「それを食べたら、目が開け、神のように善悪を知るようになりますよ」言いました。エバは、食べるのに良く、目に慕わしく、賢くしてくれそうな木の実を取って食べました。Ⅰヨハネには「世にあるものは肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」であると書いています。私たちはこの世が与える3つの欲に弱いですね。エバはそばにいた、夫アダムにもその実を与えました。アダムがあわてて食べたので、実が喉につっかえました。これが、Adam’s appleと言われている、喉仏です。喉仏の話は聖書の中にはありません。

アダムとエバは食べてはいけない木から実を食べたために目が開かれました。ウォッチマン・ニーは、「目が開かれたとは、霊が死んで、代わりに魂が異常に発達した」と言いました。それまで二人は、神さまとの交わりの中で善悪を判断していました。しかし、善悪を知る木から食べるという行為は、自分は神さまから独立し、自分自身で善悪を決めるということです。これは自分が神になろうとする反逆行為、クーデターです。確かに二人の目が開かれて、善悪を知ることできるようになりました。その代わり何がやってきたのでしょう?「それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った」とあります。そうです。ありのままでは生きてゆけないという恥がやってきました。そして、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰の覆いを作りました。それから何がやってきたのでしょう?「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」とあります。悪いことをしたという罪責のゆえに、恐れがやってきました。二人は神さまから罰せられるのを恐れて、木の間に身を隠しました。私たちも悪いことをすると、恐れがやってきます。ティモシー・ボイル著『漢字に秘められた聖書物語』があります。古代中国人はエデンの園の話を知っていたのかもしれません。たとえば、禁止の「禁」は、二本の木を示すと書きます。いのちの木と善悪を知る知識の木のようです。アダムとエバがそむいてから、いのちの木も食べることを禁じられました。また、「裸」という字があります。左側の衣辺はエデンの園にいた二人を表しています。左の人がアダムで、右がアダムのあばら骨から取られたエバみたいです。右側の「果」は園に植わっていたいちじくの木かもしれません。また、園と遠いという漢字も興味深いです。土から造られた、口のある二人がエデンの園という囲いの中に住んでいました。ところが罪を犯してから囲いである園がなくなり、二人は歩かされました。しんにょうは、歩くという意味があります。このように最初の人であるアダムとエバが神さまから離れたので、私たちにも不安と恐れと恥がやってきたのだと聖書は言います。

 

2.不安、恐れ、恥を覆い隠すバリヤー

アダムとエバはいちじくの葉をつづり合わせて自分たちの腰を覆いました。二人は神さまの御声を聞いたとき、木の間に身を隠しました。神さまはアダムに「あなたはどこにいるのか?」と聞かれたとき、「私は裸なので、恐れて、隠れました」と答えました。二人はいちじくの葉で局部を隠し、なおかつ木陰に自分たちの身を隠しました。果たして、それで全知全能の神さまから隠れることができるのでしょうか?いちじくの葉は何を象徴しているでしょうか?李光雨師は「いちじくの葉とは自分の身を守る人工的なバリヤーである」と言います。それによって、自分の中にある不安や恐れ、恥を隠すということです。あなたにとって、自分の身を守るバリヤーとは何でしょうか?テキストには、「いちじくの葉のバリヤー」として、いくつか記されています。家系、名誉、学歴、容姿、持ち物、お金、体力、頭脳明晰、能力、子ども、地位、財産、信念、職業、結婚…などがあります。バリヤーの中には、不安、恐れ、恥があります。李光雨師はそれらを3つまとめると「存在不安である」と言います。存在不安とは、自分の存在が不安であるということです。クリスチャンでない人に「あなたには存在不安があるでしょう」と聞くと、「はい、あります」と答えるそうです。だれもが、持っている存在不安、あなたにもあるでしょうか?私たちが生まれたときに、両親から愛され、受け入れられるならバリヤーは厚くて破れにくいかもしれません。心理学では基本的信頼感、絶対的信頼感などと言います。しかし、このバリヤーが生まれつき薄い人もいます。

 たとえば、幼い時、ある出来事で、バリヤーが破れてしまったという経験があるかもしれません。そうなると、その人に「自分はこのことに弱い」と言うテーマができあがります。大きくなって、かつての経験と同じようなことが起こると、バーッと内側にある不安や恐れ、恥意識が出てきます。私たちは無意識で、いろんなバリヤーを作って、自分を守ろう、守ろうとします。良い学校に入って、一流の会社に入って、結婚しました。めでたし、めでたしで終われば良いのですが、何かのきっかけでこのバリヤーが破れます。私がこの教会に赴任したころ、統一教会に走った息子さんを救助したことがあります。その人の家に寝袋を持って行って、3日間くらい泊まりました。1か月くらいたって社会復帰できました。しかし、今度は、お母さんが大変になりました。買い物に行った先で、急にしゃがみこみ歩けなくなるということでした。電車に乗って、心療内科に行くときは、ものすごい形相で必死に吊り輪につかまっているそうです。私は何がそんなに怖いんだろう。息子さんも解決したのに良かったじゃないかと思いました。今、思えば、お母さんはパニック障害になっていたのです。ご主人さんの単身赴任、ご長男の統一教会問題で、バリヤーが破れたのかもしれません。10年近く苦しんでいたようですが、その後、治ったようです。そういう過剰反応が繰り返されると、それが恒常化して、社会生活ができなくなります。現代は、鬱、不安、パニック、摂食障害、人格障害で悩んでいる人がとても多い時代です。聖書的には、バリヤーが破れている状態であると言えるかもしれません。

 

3.キリストの贖い

創世記3:21「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」イザヤ53:2-4「彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」神さまは、罪を犯してしまったアダムとエバに何を着せてくださったでしょうか?「皮の衣」と書いてあります。それでは、皮の衣を作るためには、どんなことが必要だったのでしょうか?神さまは動物を殺して、その皮をはいで、二人に着せました。と言うことは、初めてエデンの園で血が流されたということです。さきほど引用したティモシー・ボイル著『漢字に秘められた聖書物語』の中に、「被」という漢字の意味が記されていました。「いちじくの葉でできた服は、われわれ人間が自分の裸を被おうとすることを象徴します。アダムとエバのいちじくの葉でできた服はどのくらい長持ちしたでしょうか?少し動き回ったらすぐ破れてしまい、裸である恥がさらされたでしょう。この問題の解決への最初の手段を取ったのは神で、人間のあがないの第一歩として、象徴的に彼らの裸の恥を被うために皮の衣(衣+皮=被)を造られました。直接には書いてありませんが、皮の衣を作るのには、やはり動物を犠牲にしなければならなかったはずです。」

神さまが二人に着せてあげた皮の衣は何を意味しているでしょう?父なる神はアダムの罪の結果から私たちを救うために、御子イエスを与えてくださいました。イエス・キリストは私たちの罪を負ったゆえに、神さまから代わりに罰せられました。そのとき、イエス様は十字架で、私たちのためにどのようなものを負ってくださったのでしょうか?先ほど読んだ、イザヤ書53章はキリストの苦難の預言です。そこには、罪だけではなく、病、恥、痛み、呪いまでも負ってくださったことがわかります。イエス様は十字架の上で「わが神。わが神。どうして私をお見捨てになったのですか?」と叫ばれました。ということは、永遠から一緒だった御子イエス様が、父なる神さまから断罪され、拒絶されてしまったということです。これは、私たちが幼いときに味わった拒絶という最も恐ろしいことを、イエス様が経験なされたということです。みなさんの中には、親から物理的に拒絶されなくても、精神的に拒絶された人がおられるかもしれません。現代は、ネグレクト、幼児の虐待がものすごい大きな問題になっています。虐待された子どもが大人になると、今度は自分の子どもを虐待します。いわゆる世代間連鎖であります。イエス・キリストは私たちが受ける拒絶すらも引き受けてくださったのです。

マタイによる福音書に「王子の結婚の披露宴のたとえ話」が記されています。招いていた人たちが来なかったので、王様は「大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい」としもべたちに命じました。それで、宴会場は客でいっぱいになりました。王様が客を見ようと入ってみると、婚礼の服を着ていない者がひとりいました。王様は「あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか」と怒って、彼を部屋から追い出させました。彼は道を歩いていたのに、宴会場に引っ張って来られたのだから、無茶苦茶な感じがします。しかし、当時は王様とお会いするとき失礼がないように、入口には礼服が用意されていたようです。彼はそれを拒んで、平服で参加したわけです。だから、つまみ出されたのです。その礼服にあたるものが、キリストを信じて与えられる「義の衣」であると考えられます。イエス様はすべての人の罪のために死なれました。しかし、それを感謝して受け入れる人と、「そういうものは不必要です」と受け取らない人がいます。やがて人々が神さまの前に立った時、「御子イエスが与えた義の衣をどうして着ていないのですか?」とさばかれるのです。義という漢字は、羊の下に我と書きます。我という漢字は、手で戈(ほこ)をもって殺すという意味があります。これは人間の自我を表すのに大変ふさわしく、人間の「罪」を象徴しています。我の上の羊は、自分のために十字架にかかり犠牲となった「神の小羊」です。イエス・キリストを信じることによって、義の衣を心の中で受け取るということです。

 

4.新しい人と新しい衣

神さまとの関係は、キリストの義を着ているので、ばっちりです。私たちはキリストの贖いを通して、いつでも神さまのところに行くことができます。ダビデのように、ありのままの気持ちを主のもとに持っていくことができます。神さまは私たちのことを全部お見通しなので、裸のままで結構です。イエス様は、私たちの悩みも憂いも、ある場合は怒りでさえも受け止めてくれます。しかし、人との関係は裸のままではいけません。夫と妻の関係は、アダムとエバの関係にかなり近づくことができるかもしれません。しかし、罪が入ってからは二人の間に軋轢が生じてしまいました。クリスチャンのカップルでさえも、ありのままでは傷つけ合うときがあります。では、兄弟姉妹、お互いの人間関係ではどうなのでしょうか?「裸の付き合い」という表現がありますが、ありのままでお付き合いできるでしょうか?コロサイ3:9-14を抜粋してお読みいたします。「あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。…それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。…そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」クリスチャンとは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着た人です。使徒パウロは、ローマ人への手紙で「私たちの古い人はキリストとともに十字架につけられて死んだ」と言っています。そして、今度はキリストに継ぎ合わされて新しい存在になりました。では、アダムとエバが罪を犯した前の状態に戻れるのでしょうか?残念ながら、クリスチャンになったからと言って、裸で生きることはできません。昔、解放のキャンプというのがありました。そこに参加した若者たちが「ありのままでいいんだ」と解放されて帰ってきました。なんと、怪物(モンスター)のようになりました。遠慮会釈なく「好き」「嫌い」をはっきり言うようになったからです。確かにアダムとの古い関係は切れましたが、肉の性質がまだ残っています。私たちは人格的に裸ではなく、新しい人を着る必要があります。神さまは、古い人を捨て、新しい人を着ることを願っておられます。新しい人とはだれのかたちに似せているのでしょうか?私たちを造られた、神さまの性質にあずかることです。

それでは、具体的に造り主である神さまの性質とはどんなものなのでしょうか?パウロは裸の人格の上に着る着物のようにたとえています。コロサイ3章を見ますと、5つの衣と愛の帯が記されています。まるで十二単(ひとえ)のようです。一番内側から言うと、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容です。逆に言うと、一番外側からその人を見ると、寛容であるということです。その内側が柔和、謙遜、慈愛、深い同情心と続きます。深い同情心は着物の下、肌襦袢であります。どこまでもその人をさぐっていくと、深い同情心があります。では、五枚の衣をまとめているものは何でしょうか?「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」アーメン。愛の帯です。愛の帯が五枚の衣をまとめているのです。私たちはこれらの品性を私たちの人格の上に着るのです。そうすると、兄弟姉妹やお互いの人間関係がうまくいくということです。みなさんも家では普段着で過ごすでしょう。夫や妻、家族の関係はありのままに近い普段着で結構です。しかし、買い物に行くどうでしょうか?あるいは、会社や何かの集まりに出かけるときはどうでしょうか?ある程度のものを着て行くでしょう。私たちもありのままの人格の上に、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を着る必要があります。しかし、この衣は、一般の衣類と違って洗濯する必要はなく、私たちの人格にだんだんなじんできます。しまいには、私たちの品性の一部になっていきます。そんなに意識しなくても、柔和や寛容が出てきます。ハレルヤ!

 でも、本日のテーマの「不安、恐れ、恥」はどうなんでしょうか?やっぱり、キリストご自身の義の衣で良いのです。私たちはいちじくの葉っぱのバリヤーを捨てて、キリストの義の衣と交換する必要があります。頭では分かっていても、いちじくの葉っぱはずっと馴染んできたので捨てがたいですね。ある人は学歴がダメだったので、持ち物やお金にしようとする人がいます。また、ある人は、夫がだめなので、子供にしようとするかもしれません。いちじくの葉っぱのバリヤーを捨てるためには、神さまの愛と出会う必要があります。自分のバリヤーが壊れた最初のところに、神さまをお迎えして、癒していただく必要があります。完全な基本的信頼感、絶対的信頼感は親から受けられません。受けたとしても幻想です。神さまの愛と出会うしかありません。神さまの愛と出会ったなら、こんどはキリストの義の衣をしっかりと着るのです。もう、不安も恐れも、恥もありません。さらには、神さまがご自身はあなたの守りとなってくださいます。詩篇18:2-3「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。」また、神さまが味方ならば、どんなものも、どんな人も恐れる必要はありません。詩篇118:6「主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。悲しみや憂いに代表される古い衣を脱ぎ捨て、キリストがくださる救いの衣、楽しみ、喜び、正義を着ます。イザヤ61:10「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」

お祈りしましましょう。神さま、私はあなたを知らないで、不安、恐れ、恥の中で生きてきました。しかし、イエス・キリストが、私が担っていたすべての苦しみや痛み、悲しみを十字架で負ってくださり、ありがとうございます。また、キリストの救いの衣を着せてくださるというお約束を感謝します。私はこれまでの古い衣を脱ぎ捨て、主がくださる新しい衣、救いの衣を着たいと願います。イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。