2014.11.16「新しく生まれる ヨハネ3:1-9」

 日本に自殺者が多い一つの理由は、「死んで生まれ変わりたい」という輪廻の思想が根底にあるからかもしれません?それは悪魔の偽りであり、聖書は「あなたは固有な存在であり、人生は一度きりである」と教えています。真実は死んでから天国(神の国)に入るのではなく、生きているうちに生まれ変わり、生きているうちに天国(神の国)に入らなければならないのです。

 

1.夜の訪問者

 

ヨハネ3:1-2a「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。」

 ニコデモという人物はどんな人でしょうか?「パリサイ人」とありますので、律法(聖書の戒め)を厳格に守るユダヤ教徒でした。ほとんどのパリサイ人はイエス様に敵対していましたが、ニコデモは真理に対して飢渇きを持っていた真面目な人物です。聖書でこのような人物を発見することは難しいです。多くの人たちは、病の癒しや問題をかかえてイエスさまのところへやってきたからです。さらに、ニコデモはユダヤ人の指導者でした。彼はサンヒドリン議員の一人で、今でいうなら国会議員のような立場の人です。後で、彼はイエス様から「イスラエルの教師」と言われています。おそらく、人々を指導するラビのような人だったのでしょう。ヨハネ19章に書いてありますが、イエス様の葬りのとき、大量の没薬と香料を持ってきたので金持ちだったと思われます。ユダヤ人の間で、彼のような年配者は尊敬されていました。なぜなら、豊かな人生経験を持っていたからです。ですから、イスラエルにおいては、こういう人こそが、神の国に入る理想的な人物であると思われていました。天国に入ることのできる申し分のない人がなぜ、年若いイエスのもとを訪ねてきたのでしょう。夜やってきたのですから、人目をはばかって来たのでしょう。

 30年くらい前に、大川牧師が尾山令仁師の牧会していた、高田馬場聖書教会で伝集説教をしたことがあります。今はありませんが、神田川の脇に建っていた大教会です。昔、「神田川」という歌がありました。第一日目はこのヨハネ3章から『夜の訪問者』でした。二日目はヨハネ4章から『男を手玉に取った女』でした。夜の7時くらいから伝道集会が行われるわけですから、高田馬場近辺の人たちは、「一体なんだろう?」と興味をそそられて足を運んできたと思われます。大川牧師がこのように話していました。「赤ん坊が夜泣きをするのは何故か?ピーター・バーガーという心理学者は、赤ん坊はこれから遭遇する人生の様々な出来事を察知して泣いているんだと言いました。学校のいじめ、交通戦争、受験戦争、病と死との戦い。お母さんがいるから大丈夫?お父さんがいるから大丈夫?本当にそうでしょうか?人はだれでも罪と死の夜という人生の夜を持っています。この夜は、どんなに多くの白いペンキを塗っても明るくできない夜です。この夜は、どんなにネオンの明かりで照らしても明るくできない夜です。ニコデモは罪と死の夜をぶらさげて、イエス様のもとにやってきたのです。」このメッセージから「土の器」という歌が作られたようです。ニコデモは人がうらやむものを全部持っていました。道徳的な人格、地位、お金、教育も、豊かな人生経験。この人こそ、神の国に入ることのできる最もふさわしい人物です。では、イエス様にあって、ニコデモになかったものは何だったのでしょう?

 

2.外側の行いではなく、いのち

 

ヨハネ3:2「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」

 ニコデモはイエス様を「先生」と呼んでいます。彼は人を教え導くためには、良い先生が必要であると思っています。特に教育者は、「人が良くなる道は、教えられて、よくよく修養することである」と考えます。では、人は教育を受けるなら、良い行いができるのでしょうか?学校では、多くの学問的知識の他に、やっていいことと。やってはいけないことを教えます。彼らは頭では「これは良くないことだ」と分かっています。私たちは立派な議員が汚職や詐欺まがいのことで逮捕されるのを新聞やニュースで知ります。学校の教師や警察官、医師も、ワイセツな罪を犯して職を失っています。スーパーや本屋さんでは、万引きのためにものすごい被害をこうむっています。そういう人たちは、外から見たなら良識もあり、まともな人物です。つまり、頭の知識と、行いとは別なんだということです。しかし、学校や教会さえでも「人は正しいことを教えれば、正しい生活をする」と考えています。そうではありません。心が変わらなければ、かしこい悪魔を作るだけです。どうしたらばれないだろうか?どうしたら法の網をくぐって悪いことができるだろうかとその知識を用いるのです。重要なのは知性の問題ではなく命の問題です。
ある家で綺麗な声でなくカナリヤを飼っていました。カナリヤは何と鳴くんでしょうか?「ぴぃ、ぴぃひょろろろろろ」(ファクスみたいですね)。家族のみんなも、「このカナリヤは家族の一人だ」と言ってとても愛していました。さて、夕食の時になりました。家族と言いながらも、人間たちは自分たちで食卓を囲んでいました。本当の家族なら、カナリヤも餌ではなくて、同じテーブルでいただくべきではないでしょうか?どうして、カナリヤと人間は本当の家族になれないのでしょうか?そうです。命が違うのです。片や鳥類であり、片や人間だからです。もう1つ問題を出します。ある人が、ひよこの群とあひる子の群を小川のそばに連れていきました。川辺についた時、あひるの子は水に入ってとても楽しそうでした。しかし、ひよこは水を恐れ、驚いて遠くへ去っていきました。ひよことあひるの子と何が違うのでしょうか?同じ鳥類であっても、命が違うのです。生物学的に「命」という言い方では、雑過ぎて文句が出るかもしれません。でも、こういうことです。イエス様にあって、ニコデモになかったもの?それは神のいのちです。ニコデモには人間の命、肉体的な命はありました。しかし、それだけでは神の国の住民になることはできません。神の国に入るためには、神の命が必要だからです。


3.新しく生まれる

 

 ヨハネ3:3-4「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』ニコデモは言った。『人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。』

イエス様は何をしなければ神の国を見ることができないと言われたのでしょうか?イエス様は「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われました。英語の聖書では、born again、「再び生まれる」となっています。これに対して、ニコデモは「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」と答えました。おそらく、ニコデモは老年になっていたのでしょう?たとい老年になっていなくても、若くても、もう一度、母の胎に入って生まれ直すことができるでしょうか?ニコデモは「ムーリー、ありえないでしょ?」と言いました。さらに、イエス様は続けて言われました。

ヨハネ3:5-7「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。』」

イエス様は私たちは二度生まれなければ、神の国に入ることはできないと言われたのです。それが、この「水と御霊によって生まれる」ということの意味です。これまで、キリスト教会では「水」とは水のバプテスマであると解釈してきました。しかし、ユダヤ人がこの箇所を見ると、「水」とは「羊水」のことを指すとすぐ分かるそうです。水から生まれるとは、お母さんのおなかから生まれるということです。私たちはまず、この世に肉体的に誕生する必要があります。ここにおられる方は、もれなく、お母さんから生まれたので、肉体をもってこの地上で生きています。ハレルヤ!しかし、この肉体の命だけでは、神の国に入ることができません。もう1回、生まれる必要があります。それは、御霊によって生まれるということです。人は御霊によって、生まれると霊的な命、すなわち神の命があたえられます。神の命が与えられるなら、神の国の住民になることができます。
 イエス様はそこのこと

「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

と言われました。風は目には見えません。しかし、木の葉が揺れているとき、「ああ、風が吹いているなー」と分かります。同じように、その人に聖霊が臨んで、新しい誕生を与えたなら、何らかの変化があるということです。ギリシャ語の聖書では「風」は「霊」と訳せるプニューマが使われています。その霊が、思いのまま吹いて、人を新たに生まれ変わらせるのです。キリスト教会では、人がキリストを信じて生まれ変わることを「新生」と言います。しかし、それは人間のわざではありません。私はこれまで牧師として、個人伝道をして、「信じるように」説得したことがあります。ある場合は、「はい、信じます」と言う人がいます。でも、新生していな場合もあります。つまり、その人は心からイエス様を信じていないし、聖霊さまも働いていないということです。無理に伝道して何度失敗したことでしょう?人が信じて救われる出来事は、全く、聖霊さま次第であるということです。もちろん、私たちは福音を伝えます。「今、信じなければ、チャンスはきませんよ」と説得じみたことを言うかもしれません。でも、神を恐れなければなりません。福音を伝えるのは私たちですが、人を救うのは神さまであるということです。だから、風(聖霊)は思いのまま吹くということです。とにかく、ここで言われていることは、私たちはこのままでは神の国に入ることはできないということです。どんなに道徳的な人であっても、どんなに教育があっても、新しく生まれなければ神の国に入ることはできないのです。私はあえて「天国」とは言わないで、神の国と言っています。日本では天国が大安売りされています。テレビで芸能人が亡くなったとき「○○さんは天国に旅立った」と言います。私はテレビに向かって「嘘を言うな!」と叫ぶことがあります。日本では天国は死んだ人がいくところと考えられています。しかし、そうではありません。正確には天国とはイエス様を信じて死んだ人たちがいく、いわばパラダイスです。死んだ魂がパラダイスで、世の終わり神の国が完成するのを待っているのです。「神の国」の本当の意味は、「神の支配」です。「神の国」は2000年前キリストと共に「神の支配」という形でこの世に入り込んできました。今、イエス様を信じたなら、神の国に入ることができるのです。死んでから神の国に入るのではなく、生きているうちに入るのです。

 

4.どうしたら新しく生まれることができるのか?

 

ヨハネ3:13-15「『だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。』

イエス様は、人はどうしたら新しく生まれ、神の国に入るか教えられました。天から下ってきたお方は、イエス様だけです。イエス様は神さまでしたが、人となってこの地上に降りてこられました。では、イエス様は何のためにこの地上に来られたのでしょうか?イエス様は「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません」と言われました。この話は、旧約聖書の民数記21章に記されています。イスラエルの民が荒野で「パンもない、水もない。私たちをここで死なせる気か」とモーセにつぶやきました。すると、主は民の中に燃える蛇を送られました。蛇は民にかみついたので多くのイスラエル人が死にました。「燃える蛇」というのは毒蛇の色が赤いのか、噛まれたら火のように体が熱くなって死ぬかどちらかの意味です。イエスラエルの民は「私たちは罪を犯しました」と悔い改めました。すると、主はモーセに「あなたは燃える蛇を作り、それを旗竿の上に付けよ。すべて噛まれた者は、それを見れば生きる」と言われました。モーセは青銅の蛇を作り、旗竿の上につけました。当時、イスラエルの民に中には、善人も悪人もいたかもしれません。でも、そこいら中、蛇が這い回り、善人も悪人も関係なく噛みました。善人だからと言って、そのままで救われるわけではありません。では、どうしたら毒から解放され癒されるのでしょう?旗竿の上につけられた青銅の蛇を仰ぎ見たら癒されたのです。善人も悪人も関係ありません。青銅の蛇を仰ぎ見たら生きたのです。
イエス様は十字架につけられ呪われた存在になりました。

ガラテヤ3:13「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。」

つまり、旗竿とは十字架であり、青銅の蛇はイエス様ということになります。十字架も蛇も聖書では呪われた存在です。これはどういう意味でしょう?イエス様は人類の罪を背負って罪そのものとなりました。そして、私たちの代わりに神のさばきを受けるために十字架に上げられました。イエス様は私たちの身代わりになって、神のさばきを受けて死なれました。そうすると、今、私たちの罪はどこにあるのでしょうか?そうです。十字架のイエス様の上にあります。それだけではありません。イエス様はあなたの罪を負って、代わりに、死んでくださいました。それでは、どうしたら、罪の赦しと永遠のいのちがあなたのものになるでしょうか?

ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

アーメン。ここに「御子を信じる者が、滅びないで永遠のいのちを持つ」と書いてあります。では、信じるとはどういう意味でしょうか?それはさきほどの、旗竿の青銅の蛇と同じです。現在、私たちは死の毒にやられています。このままでは、遅かれ早かれ肉体の死と永遠の滅びに行く運命です。善人だからと言って、死の毒に打ち勝つことはできません。ニコデモのような人でも無理です。善人、悪人は関係ありません、みんな死の毒にやられています。仰ぐということは、信じるということです。その点、日本語の「信仰」は良くできています。「信じて仰ぐ」と書きます。私のために十字架で死なれたキリストを救い主として信じるなら、滅びることなく、永遠のいのちを持つことができるのです。神の側から言うと、聖霊が私たちに神の命を与え、新しく生まれ変わらせてくださるのです。
 チャールズ・スポルジョンと言えば、有名な英国の説教家です。彼は毎週、1万人を数える聴衆に説教しました。彼が救いの確信を持っていない若い頃、日曜日の礼拝に向かいました。ところが、大吹雪でいつもの教会に行けませんでした。それでやむおえなく、メソジストの小さなチャペルに飛び込みました。そこには、14,15人の人しかいなく、信徒の一人が講壇に立っていました。その聖書の御言葉は、

「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。(イザヤ45:22)」

でした。その人は無学な人で、単語の発音も正しくなく、単純なことばを何度も繰り返しているだけでした。彼は「見ることには大学へ行く必要はない。小さなこどもでも見ることができる。みことばは『私を見る』と言っている。これが聖書の言わんとするところです」と言いました。10分くらいたったとき、ついに話の種が尽きてしまいました。そのとき、会衆の席のスポルジョンを見て講壇の上から「お若いの。君は非常に辛そうに見える」と言いました。確かにその通りではありましが、スポルジョンは、かつて、講壇から自分の風貌について、そのように語りかけられたことはありませんでした。しかし、それは強烈な一撃でした。彼は続けました。「もし、君がこの御言葉に従わないなら、これからもずっと惨めであろう。そのいのちにおいても惨め、その死においても惨め。しかし、今、君が従うなら、その瞬間に君は救われるのだ」。そして、彼は初期メソジストだけができるやり方で叫びました。「若者よ。イエス・キリストを見よ!」スポルジョンは、まさにその時、見たのです。その時、そこで雲は晴れ、暗黒は消え去りました。その時、スポルジョンは太陽を見ました。その時、スポルジョンは立ち上がって、非常に熱狂的な人々と共に、キリストの素晴らしい血潮と、彼のみを見上げる単純な信仰を歌うことができました。あの無名の人物が、つい先ほど、スポルジョンに語った通りでした。「キリストを信ぜよ。さらば救われん。」現在でも、その小さな教会は、「スポルジョンが回心した教会」として残っているそうです。
信じるとは、私のために十字架にかかられたイエス・キリストを仰ぐということです。そうすれば、死の毒から解放され、新しく生まれ変わることができます。また、信じるとは、心の扉を開けて、イエス様を救い主として受け入れることです。この方を受け入れるなら、聖霊があなたの中にはいり、あなたに神の命を得させるのです。あなたは、神の命、永遠の命を得たいとは思いませんか?ご一緒に祈りましょう。「神さま、私は自分の力では自分を変えることができません。イエス様、あなたを救い主として、心にお迎えいたします。どうか私に神の命、永遠の命をお与えくだい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」霊的に新しく生まれた結果、少なくとも4つのことがやってきます。第一は、あなたは神の国に入りました。この世にいながらも、神の国に入っているのです。第二は、あなたに霊的に生まれたので、霊的なことがわかります。聖書もだんだん面白くなります。そして、目に見えない神さまに祈ることができます。第三は、神さまの甘い実を結ぶことができます。神さまは、幸い、健康、祝福、豊かな人生を与えてくださいます。そして、人格的に愛、平安、寛容、柔和、親切、自制などの御霊の実を結びます。第四は、あなたには神の命、永遠の命が与えられました。たとえ、この肉体が滅びても、やがては復活のからだが与えられ、永遠の御国で住まうことができます。