2014.11.23「心の渇きをいやす ヨハネ4:14-17」

 この世の人たちは自分の内側を満たすために、いろんなところを走り回っています。美味しいものを食べたり飲んだりして食欲を満たします。あるいは、宝石やブランド品を身につけて自分を飾ろうとします。男性だと、アウディみたいな高級車を乗り回したいと思うでしょう。他にも楽しいことがたくさんあります。ショッピング、旅行、レジャー、スポーツ、ゲーム、ギャンブルなどがあります。きょうの物語のように、結婚して心の内側を満たそうとする人もいるでしょう。しかし、日本の離婚率はアメリカや韓国を追いかけ、約40%に達しています。 

 

1.サマリヤの女

 

ヨハネ4:3-8「主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時(正午)ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは『わたしに水を飲ませてください』と言われた。弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。」

地図を見るとわかりますがユダヤは南にあり、ガリラヤは北にあります。最短距離はサマリヤを通過する道です。しかし、ユダヤ人たちはサマリヤ人を嫌っていたので、遠回りして、東のヨルダン川沿いの道を通りました。私たちは旧約聖書の人物から一年間学びました。ソロモン王のあと、イスラエルは北と南に分裂しました。北イスラエルはサマリヤに金の子牛を作り、偶像礼拝に走りました。紀元前723年アッシリヤが攻めて来て、北イスラエルを滅ぼしました。そして、ほとんどの人たちを国外に連れ去りました。その代り、二度とその国が復興できないように、5つの異民族をサマリヤに連れきました。イエス様の時代はローマによってサマリヤとユダヤという名前で支配されていました。ユダヤ人は宗教的にも人種的にも混合しているサマリヤ人を心底嫌っていました。イエス様はエルサレムからガリラヤに行く途中、あえてサマリヤの真中を通られました。時はちょうどお昼頃、弟子たちは食物を買いに町に出かけていました。イエス様はお一人、疲れを覚えてヤコブの井戸の傍らに座っておられました。

 そのとき、水がめを肩にかけた一人の女性が、水を汲みにやってきました。普通、水をくむのは涼しい朝か夕方です。なぜ、この女性は日がのぼって暑い真昼に水を汲みに来たのでしょう?彼女は慣れた手つきで、つるべに手をかけて水を汲もうとしていました。すると、イエス様は「私に水を飲ませてください」と彼女に声をかけました。イエス様がラビのような服装をしていたのかもしれません。彼女は驚いて「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか」と答えました。聖書には、「ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである」と説明文が加えられています。良く見たら、鼻筋がピンと通って、とても魅力的な女性でした。「もしかしてだけど、もしかしてだけど、それって私をさそっているんじゃないの?」聖書にはそんなふうには書かれていません。昼の暑いとき水を汲みに来たというのは、なぜでしょう?それは、人目をさけるためではないでしょうか?なぜなら、この女性はスキャンダラスなことをして、噂の的となっていたからです。だから、彼女は人がいそうもいない、時刻を選んで水汲みに来たのです。イエス様は超自然的にこの女性の素性を言い当てました。

ヨハネ4:18「あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」

 現代訳聖書はこのように訳しています。「あなたが正式に結婚した夫はないですね。でも、あなたは五人も夫を替えている。今、一緒にいる男も、確かに夫ではない」。なぜ、こんなプライバシーな話になったのでしょうか?興味深いことに、この女性の過去と、サマリヤの歴史が二重写しになっているということです。さきほど申し上げましたが、北イスラエルはアッシリヤに滅ぼされた後、5つの異民族が入れられました。その後、ローマがその地方を支配しました。5つの異民族は5つの宗教を持っていました。ローマもローマの神々を信じていました。このことは、サマリヤの女性と霊的に同じであります。

 あとでこの女性はどの場所で、どの神さまを礼拝したら良いかイエス様に質問をしています。

ヨハネ4:20-21「『私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。』イエスは彼女に言われた。『わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。』」

彼女が言っている山とはゲリジム山のことです。バビロンから帰還したユダヤ人たちは神殿を建て直しました。その後、ユダヤ人たちは周りの人たちと雑婚しました。そのとき、エズラとネヘミヤは、民族の血を守るために、妻や子どもを追い出させました。サマリヤ人と完全に決別した状態になりました。それで、サマリヤ人たちはゲリジム山に神殿を建てました。紀元前4-5世紀の頃です。イエス様は

「父なる神を礼拝するのはこの山でもなく、エルサレムでもない時が来ます。真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」

と言われました。イエス様は霊的な姦淫や混合宗教を超越した時代が来るとおっしゃっています。それは救い主によって、民族の壁が取り壊され、霊とまことによって父を礼拝する時が来るということです。この女性は一見ふしだらな女性ですが、心の中ではまことの神を求め、そういう神さまがいたら礼拝したいと願っていました。日本も多神教の中にありますが、唯一まことの神を求める一握りの人たちがいるのです。

 

2.ヤコブの井戸

 

 イエス様は彼女に「水を飲ませてください」と言いながら、生ける水について話題を替えられました。彼女は驚いて、「その生ける水をどこから手にお入れになるのですか?あなたは、私たちの父ヤコブよりもえらいのでしょうか?」と質問しました。サマリヤの中央にあった、ヤコブの井戸は彼らの誇りでした。ヤコブからイスラエルの12部族がうまれたからです。ヤコブはおじのラバンのもとで20年間働きました。大変豊かになった後、12人の子どもたちを連れて、この地にやってきました。そして、このところで井戸を掘ったのです。ヤコブの井戸はサマリヤ人にとっては宝物でした。ところで、みなさんは「マイム・マイム」というフォークダンスをご存じでしょうか?この歌はイザヤ12:3のみことばから造られたと言われています。

イザヤ12:3「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。」

マイムとはヘブル語で「水」であります。おそらく、開拓地で井戸を掘って水が出た時、喜んで歌ったのではないかと思います。でも、「救いの泉」ですから、ただの水ではないことを暗示しています。

 サマリヤの女性は「生ける水」に興味を持ち始めました。その前に、イエス様は「あなたは2つの事に対して無知です」と言われました。

ヨハネ4:10 「イエスは答えて言われた。『もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。』」

1つは神の賜物であり、2つ目は水を飲ませてくれと言うものがだれかを知ることです。井戸というものは、深いところまでつるべを落として、ロープを引っ張り上げます。その後、水がめに入れます。そのことを何度かくりかえして、やっと水かめは満たされます。ですから、井戸水は人間の努力を象徴します。では、神の賜物とはどういう意味でしょうか?私たちの努力や行いではなく、神さまから一方的に与えられるものです。そんなのあるのですか?後からイエス様は

「私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちがわき出ます」

と言われました。井戸水よりも、自然に湧き出る泉が良いのではないでしょうか?だから、この女性は「私がここまで汲みに来なくても良いように、その水を私に下さい」と求めています。もう1つは、「生ける水を与える方がだれか?」ということです。サマリヤの女性は、父ヤコブが偉い人だと思っていました。イスラエル部族の父ですから、確かに偉いかもしれません。でも、それは人間的な偉さです。しかし、彼女の目の前におられる方は、人となられた神さまです。まさしく、救いの泉を与えることのできるお方です。

この世の人たちも2つのことで無知です。神さまからの賜物を知らないので、一生懸命、自分の努力や行いによって生活しています。この間、テレビで「働かざる者、食うべからず」と言って、母親が子どもたちを家庭内で働かせていました。「マッサージ5分間で100円」とか、言っていました。とても倹約家で水道の水も無駄に使わないで生活していました。しかし、親が子どもたちに一番教えなければならないことは、すべてを造られ、私たちにすべてを供給してくださる神さまの存在ではないでしょうか?聖書には「働かざる者、食うべからず」とは書いていません。パウロは

「働きたくない者は食べるな」(Ⅱテサロニケ3:10)

と命じました。つまり、働きたくても働けない人は除外しています。これは、何の仕事をせず、おせっかいばかりしている、締りのない歩み方をしている人に対してのことばです。一生懸命がんばって、自分の努力や行いで、あるところまでは行きます。しかし、失敗や病気や怪我で、そうできなくなったとき立ち上がることができません。私たちを養ってくださる創造者がおられることを知るべきです。私たちを愛しておられる父なる神様が必要なものを供給してくださるのです。良いものは神さまから与えられます。たとえば、日のひかり、水、空気、地下資源、私たちの命、自然の法則や真理、みんな神さまが無代価で私たちに与えてくださいました。また、良いものは、そういう一般恩寵だけではありません。父なる神さまは罪のゆるし、永遠のいのち、永遠の御国、聖霊の力など、この世にはないものまでも与えてくださるのです。私たちは神さまからの賜物に無知であってはなりません。神さまからの賜物に無知なゆえに、神さまに求めないで、自分で頑張ってかせごうとするのです。もう1つは救い主に対して無知であるということです。神の賜物をいただくためには、救い主が必要だということです。一般的な恩寵はだれにでも与えられます。でも、救い主の御名を通してでなければ与えられないものがあります。それが、罪のゆるし、永遠のいのち、永遠の御国、聖霊の力、神の知恵であります。これらはこの世に隠されている奥の手であります。水の出る井戸は探せばあるかもしれません。しかし、生ける水が湧きあがる泉は、救い主を通してでなければ与えられない神の賜物です。イエス・キリストはイスラエルの父であるヤコブよりも偉いお方です。なぜなら、私たちの努力や行いでは得られない、神からの救いを与えてくださるからです。

 

3.イエス様が与える水

 

イエス様が与える「生ける水」とはどのようなものなのでしょうか?

ヨハネ4:13-15「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』女はイエスに言った。『先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』」

この水(井戸の水)」とイエス様が与える水との違いは何でしょうか?この水はすぐなくなります。また、飲んでも渇きます。では、イエス様が与える水はどうでしょうか?イエス様が与える水は、決して渇くことがありません。さらに、イエス様が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。この水とは何をたとえているのでしょうか?それは、この世が与える喜びや楽しみです。世の人たちは自分の渇きをいやすために、いろんなものを求めています。おいしいグルメを食べ、おいしい酒を求めます。デズニーランド、ユニバーサルジャパンなど、楽しければ並んでも入ります。あとは良いものを持ちたい、身に付けたいという欲望があります。御殿場や軽井沢のアウトレットが有名です。私も時々、ジェーソンに行きます。そこには作っても売れなかったものが半額以下で売られています。私は「アウトレットってジェーソンを大きくしたものかな?」と思っています。今はインターネットで何でも買うことができます。私もアマゾンが大好きです。旅行や菜園などは健康的です。でも、ギャンブルやドラッグなど中毒性のものもあります。不思議なことに、そのようなこの世の水は飲んでも、また渇きます。サマリヤの女性は男性を5人も換え、今6人目と一緒に住んでいます。なぜでしょう?心の渇きを癒そうとしたのです。でも、だめだったのです。ますます渇くばかりで、決して心が満たされませんでした。

しかし、イエス様が与える水はどうでしょうか?イエス様が与える水は、その人の内側で泉となるので渇くことがないと言っています。そんな魔法のような水があるのでしょうか?昔話に養老乃瀧というのがあって、滝がお酒に変わったという話があります。また、打ち手の小づちみたいに、いくらでもお金がでてくるものがあります。この世には、そのような悪魔が作ったような作り話がたくさんあります。イエス様が与える水は魔法の水ではありません。なぜ、こんなことを言うかと言うと、英国やフランス、スペインなどの国はキリスト教を捨てて、オカルトや魔法に走っているからです。イエス様はリアルで真実なお方です。幻想やイリュージョンではありません。私たちは肉体と心だけではなく、霊でてきています。霊は私たちの最も奥深くにあります。この霊が渇いているのです。まことの神さまを求め、真理を求め、永遠を求めているのです。この霊が神さまと結ばれ、神さまのいのちが霊に与えられるならどうでしょう?この世の喜びはあってもなくても良いものになります。もちろん私たちは肉体と魂を持っていますので、いろんな欲望があります。物質欲、性欲、食欲、出世欲、達成欲…でも、それらに支配されることはありません。アウグスチヌスは私たちには神さましか埋めることのできない空洞があると言いました。アウグスチヌスの母は熱心なキリスト教徒で、父は異教徒でした。彼は家を出て、自堕落な生活をし、マニ教に走り、私生児を設けました。苦しみは増大し、肉の欲と真理との間で苦しみました。そして泣きながら「主よ、私はいつまでこんな苦しい状態にいなければならないのでしょうか?私をゆるし救ってくださるのは、いつですか?」と祈ったと言われています。あるとき「取りて読め、取りて読め」と子供たちが毬を付きながら歌っていました。そのとき、母からもらっていた聖書を取り出して読みました。するとそこには「宴楽と 泥酔、好色と淫乱、争いと嫉みとを捨てよ。主イエス・キリストを見よ。肉欲をみたすことに 心を向けるな」とありました。アウグスチヌスは32歳で回心し、ピッポの監督、そして素晴らしい神学者になりました。イエス・キリストだけが内なる渇きを留め、生けるいのちの水を与えてくださるのです。

 

4.イエス様に願いましょう

 

この女性は、自分が渇いていたことを認めました。あなたは、この世のもので満たされているでしょうか?それとも、この女性のように心の奥底が渇いているでしょうか?ウィットネスリーという中国の伝道者はある本の中でこのように述べています。「彼女は先祖が与えた井戸を大事にしていました。しかしながら、神の賜物とキリストについては知りませんでした。この生ける水の泉は先祖伝来のものではなく、神さまが授けてくださるものです。中国人は孔子がキリストよりも偉い、ギリシャ人はソクラテスがキリストよりも偉いとみています。回教の人はマホメットがキリストよりも偉い、仏教の人は釈迦がキリストよりも偉いとみています。人は自分の聖人を誇り、先祖が伝えたものを尊んでいます。ところが、彼らが誇っている聖人たちとその残したものは、人の中のかわきを解決できず、人のかわきを永遠に止めることはできないのです。彼らが残した教え、道理、学説はこの女性の先祖が残した井戸と同じように、人生の空しさを解決できず、人に真実で永遠なる満足を与えることはできません。また地上の物ごととこの世の楽しみは、人の中のかわきを止めることができないばかりか、かえって人の中のかわきを増し加えます。そればかりでなく、この世の物ごとと楽しみとは、正当に扱わなければ皆、毒を持っていますから人を害します。この女性は『私にもください』と願いました。願うというのは了解ではなく、欲することです。頭で研究するとか理解するということではなくて、心で受け入れるのです。」

イエス様はこの女性に罪の生活から逃れるようにとは要求しませんでした。その代わり、「生ける水」である神のいのちを与えようとしました。彼女に神のいのちが入ったあと、どうなったでしょうか?彼女は自分の水がめを置いて町へ行き、人々に告げました。

「来て、見て下さい。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか?」。

本来なら、隠したい内容を、「全部を私に言った人がいます」と告げました。彼女は恥も外聞も関係なく、救われた喜びを伝えたかったのです。その直後、町の人たちはイエス様のところに来て、みことばを聞きました。そして、「この方は本当の救い主である」と信じました。なんということでしょう。本来なら、サマリヤの救いはペンテコステ後、ピリポによってもたらされるべきものでした(使徒8章)。しかし、イエス様は弟子たちに

「刈り入れ時までに、まだ4か月あると言っていませんか?目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりとなっています」

と言いました。イエス様も渇いていました。この女性を得たいために、サマリヤを通って行かなければなりませんでした。そればかりか、ユダヤ人から嫌われていたサマリヤ人まで救われました。もう一度言います。イエス様はこの女性に罪の生活から逃れるようにとは要求しませんでした。その代わり、「生ける水」である神のいのちを与えようとしました。私たちもこの女性のように、渇いている自分を知り、生ける水をイエス様に願い求めましょう。そして、このように祈りましょう。「イエス様、私はこの世のものでは満たされません。イエス様、どうか私に生ける水を与えてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」神さまのさらなる願いは、あなたが泉にととまらず川になることです。心の泉は自分ひとりしか潤すことができませんが、川は多くの人に行き渡ることができます。

ヨハネ7:37-38「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

でも、段階があります。まずは、救い主イエス様を信じて生ける水が湧き出る泉を求めましょう。その後、神さまは、生ける水が、心の奥底から川のように流れ出るようにしてくださいます。