2014.11.30「幸いな人になりましょう 詩篇127篇1-5節」

<詩篇127篇1-5節>

 

 都上りの歌。ソロモンによる

127:1
主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。

127:2
あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。

127:3
見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。

127:4
若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。

127:5
幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。

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教会では、年間を通していろんな記念の行事があります。クリスマス、イースター、ペンテコステなど、そのようなキリスト教の行事が行われるときには、その行事にちなんだ聖書の箇所が使われます。 

この詩篇127篇には、人生の祝福の極意が記されています。1節は教会などの献堂式や結婚式、また3節は子ども祝福式や献児式などでよく使われる聖句です。そして、この詩篇は次の128篇と合わせて家や家庭の祝福について書かれています。128篇は結婚式などで良く使われる箇所です。

この詩篇127篇前半は、特に、毎日のお仕事や生活で疲れきっている方々への神様からの厳しくもあたたかい真理のメッセージが込められています。 

本日は、「幸いな人になりましょう」と題して、教会や私たちクリスチャンが、「地の塩、世の光」となるためにはどうすればよいのかということについて、この127篇から考えていきたいと思います。

詩篇127篇は「知恵の詩篇」と言われています。おもに、格言、金言、ことわざ、比喩などの形式をとった、教訓的な内容の、知恵文学と言われている文学形態です。

知恵文学といわれているものには、詩篇の一部の他に、ヨブ記、箴言、伝道者の書などがあげられます。

日本人は格言などが好きなので、箴言や伝道者の書などは好んで読む人が多いようです。

そして「著者」、誰が書いたのかということですが、表題に「都上りの歌。ソロモンによる」とソロモン王の名が付けられていることから、「ソロモンが書いたに違いない」という人や、「いや、そうではない」という人もいて、著者については様々な見解があります。

カルヴァンという神学者などは、ソロモンが書いたと支持していますが、多くの神学者は、ソロモンが活躍していた時代のずっと後だと考えています。神学者たちは、詩篇に書かれた内容がソロモン的な教訓だったので、表題にソロモンの名前を入れたと考えているようです。

 さて、127篇の概要ですが、127篇は5節から成っており、前半の1,2節は、この世の政治、経済、また個人の生活は、人間の勤勉や熱心、また知恵によるのではなく、「ただ神の祝福によって保たれているのだ」ということを教えています。そして、後半の3-5節は子どもたちの繁栄は神の特別な賜物だと教えています。

 では、前半から詳しく見ていきましょう。

  • ポイント① 幸いな人は神様を第一にします。

 

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127:1
「 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」

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この1節は何世紀にも渡って諺(ことわざ)としてラテン語の形で引用されてきたと言われています。

ヨーロッパの数ある教会堂の礎石に、この聖句が刻印されているそうです。

この聖句はスコットランドのエディンバラ市のモットーでもあるそうです。

ここに書かれている「家」 は、ヘブライ語で tyIb;(バイト) というのですが、この言葉には定冠詞がついていないので、特定された建物ではなく、家一般、どの家も、という広い意味になります。また住居だけではなく、一家、家族の意味もあります。そのことから、この詩篇は、よく結婚式の式文に用いられています。神様はこの聖句から現代の私たちにも語ってくださっていますが、まず、詩篇が書かれた旧約聖書の時代の背景を知ると、より深く神様の御心が理解できると思います。

旧約時代の tyIb;(バイト)「家」とは、神殿をも含めたエルサレムの町、あるいは神の家としてのイスラエル民族全体のことも含んでいます。先程も申しましたが、この詩篇が書かれたと考えられるのは、ソロモンの時代のずっと後です。BC538年にバビロンに捕えられたイスラエルの民たちが、70年後にエルサレムに帰還して、壊されていた神殿を建て直した辺りの時代です。

新しく建て直した神殿は、栄華を誇ったソロモンの神殿とは違っていたようですが、イスラエルの民にとっては、大切な神殿でした。毎年春になると、過越の祭りのために、成人男性はエルサレム神殿に巡礼にやってきます。過越の祭りとは、モーセがイスラエルの民をエジプトから脱出させる時に、神様がイスラエル人の長子を殺さずに過ぎ越してくださったことを記念したお祭です。

表題に「都上りの歌」と書かれていますので、地方に散ったイスラエルの民たちが、エルサレムに巡礼に来る時の旅路に、この詩篇の歌を歌ったということになります。

バビロン捕囚から帰還した民は、城壁や神殿再建工事という奉仕と、自分自身の生活を両立させなければなりませんでした。敵からの妨害や困難の中、民は次第に疲れ、自分の生活を守るだけで精一杯になっていました。

ですから、この歌を歌って神様を第一にする決意をもって都に登ったのです。

また、巡礼の旅で家を空けることも、多くの危険が伴いました。これを歌いつつ都を目指すこと自体、まさに主に家を建ててもらい、町を守ってもらうことそのものだったのです。 

家を守り、家を建てるのは主です。

そしてこの1,2節でのキーワードはまさしくaw>v”Ü(シャウェ)「空虚、空しい」です。家を建築する者、夜警する者、いくら勤勉に働いて努力したとしても、神の守りと祝福がなければ空しいだけです。これはけっして怠慢の勧めではなく、勤勉をけなしているわけでもありません。この聖句は、神様抜きで、自分の力で事を成そうとする者の重大な欠落、思い上がりに対する神様からの厳しい戒めです。

私たちの生活はどうでしょうか。捕囚後の民たちのように生活一辺倒になっていないでしょうか。

自分の力で事を成そうとしていないでしょうか。

次に2節ですが、この聖句は、毎日働き過ぎで疲れきっているみなさんへの主からの励ましです。

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127:2
あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。

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ここでは、「早く起きておそく休む」という、要するに「1日中朝から晩まで働いて、辛い思いをしているのは、むなしいことである。」と教えてくださっています。

好きで辛い思いをして一生懸命働いているわけじゃないのに、「aw>v”Ü(シャウェ)、それは空しいことです!」と、ピシャっと言われたら、なんだか泣きたくなりますね。私は泣きたくなります。

ハガイという預言者はこう言っています。

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<ハガイ書1:6>

 

1:6 あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。

 

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 みなさんの中には、このハガイ書に書かれているように、

「働いても、働いても、お金が湯水のようにどこかに流れて行ってしまう。」とか、
「長年一生懸命やってきたことが実にならず、すべて無駄になってしまった。」とか、
「お金や生活の必要のすべてが満たされているはずなのに、なんだか空しい。」

 とか、思われている方がいらっしゃるかもしれません。

 しかし主は、私たちが無駄な骨折りをしてしまうことは望まれてはいません。働いても食べても飲んでも空しいのは、「主の恵みと憐れみの中で生かされている」という大切なことに気付いていないからです。

 聖句の後半で、「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」と教えてくださっています。主はその愛する者に対して、眠っている間でも休まず働いてくださり、養ってくださいます。ですから、心を悩まさないで、身体を休めて、神に寄り頼み、「神に愛される者」となるようにと言っておられます。

 「神に愛される者」とは、イエス様の愛にとどまっている人のことを言います。

イエス様はこう言われました。

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<ヨハネ15:5>

 

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

 

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主は、私たちが無駄な骨折りをするのではなく、イエス様の枝となり、多くの実を結ぶことを望まれています。

クリスチャンが、順風満帆な人生を歩むとは限りません。しかし大変な時にこそ、神様との時間を持ち、身体を休め、与えられている恵みについて考えてみましょう。

なぜなら、家を建て、家を守るのは主であり、主が養ってくださるからです。主の恵みの中を歩むなら、主はあなたの労苦をけっして無駄にはなさいません。

 

  • ポイント② 幸いな人は家族を大切にします。

 

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127:3

 

「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。」

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3節以降は本来別の詩篇であったのが結合されたと考えられています。1-2節が「働く者のための知恵」だとすると、3-5節は「家庭をつくる者のための知恵」だと言えるでしょう。

子どもはアブラハム契約以来、神の祝福の賜物でした(創12:2、15:5)。このことから、3節を幼児洗礼や献児式、子ども祝福式などの時に式文として読みあげる教会も多いようです。

また、3節の冒頭にある、hNEÜhi(ヒネー)は、「見よ(Look)」や、「聞け(Listen)」、「考えろ(Think)」などの意味の強調語です。英語の聖書では「Behold(注視する)」や「Lo(見よ!)」と記されており、場面をきりかえて注視させるときなどに使われる重要な言葉です。

この3節でhNEÜhi(ヒネー)が使われたのは、自分たちの子どもが、どなたから与えられたのかを私たちに考えさせるためではないでしょうか。子どもは神からの一方的な恵みであるということを忘れないようにしましょう。

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127:4

 

「若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。」

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これは、「父親が若い時に生まれた子らは、両親が老いた時には成人して力を発揮し、両親に代って働き、両親を守るようになる。勇士の矢が城を守るようなものである。」という意味です。

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127:5

 

「幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。」

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冒頭の「幸いなことよ。」は詩篇1:1の冒頭にも使われています。

幸せな家族を創造することは人類に対する神様のご意志なのです。

次の「矢の満ちた矢筒」 は有能な子どもが多く生まれた人の形容です。

「門で敵と語る時・・・」この部分はちょっとわかりづらいのですが、旧約時代は、町の門の下で討論をしたようです。ですから、「多くの力強い子どもを持つ親は討論や裁判の場である町の門で有利に立つ」という意味でしょうか(69:12、申21:19)。あるいは神の家であるイスラエルに多くの子どもが与えられることによって、「戦いを有利に進めることが出来る。」という意味でしょうか。

いずれにしても、主からの、賜物としての子どもが祝福のしるしであるという意味です。

私は、ここでの子どもというのは、実の子どものことを指すだけではなく、神様から与えられているすべての子どもと家族が当てはまると思います。神の家族もそのひとつです。私たちは、イエス・キリストを信じる神の家族、共同体ですから大切な家族です。

このように、聖書は私たちに、子どもたちや家族の大切さを教えていますが、現代の日本の家族はいったいどうなっているでしょうか。

日本の家族は戦後、大家族から核家族へと移行しました。戦後の家族の形が、経済の急成長の時代と重なったために、バブルがはじけた後に家族や子どもの問題が噴出してきました。親子の愛情関係が薄れ、個人主義となり、家族の形態が崩れています。昔は大家族で暮らし、近所の人も含めて一緒に子育てをしましたが、現代は、血の繋がった親子でも家族と言えない関係が増えています。

また、格差社会は歯止めが利かず、多くの人が貧困に陥り苦しんでいます。「終身雇用」などという言葉は過去のものとなり、仕事がなければ誰だってホームレスに転落してしまう可能性があります。

飽食の時代と言われ、豊かなように見える日本ですが、実際は学校給食だけで栄養を摂っている子どもが7人に1人もいるというのです。

「虐待」「孤独死」「自死」といった社会問題に対して、教会は、キリスト者である私たちは、聖書の教えを実行するために何ができるでしょうか。

そうは言っても、いろんな問題が目の前にあって心配していても、なかなか手を差し伸べることができないのが、今の私たちの現状です。だからこそ、まず、今私たちがするべきことは、神様からの賜物である子ども、自分の家族、神の家族、周りの人たちとの関係を見直すことではないでしょうか。

回復が必要であれば回復を祈り求め、イエス様の枝となり、そこから真の幸せを見出して幸いな人となりましょう。

そのような、自分の身の回りの人々に対する小さな働きかけが、社会を動かす活動に発展していくかもしれません。神様は、私たちに無駄な労苦は望まれないお方です。

そして神様は、キリスト者ひとりひとりに、「地の塩、世の光」となるための使命を与えておられます。

私にも、主は小さな働きを与えてくださっています。

私は2012年の3月から、月に一度土浦に出向いて「土浦チャペル」という出張礼拝を行っています。2年9ヶ月、たくさんの兄弟姉妹のサポートを受けながら、毎月欠かさず礼拝が持てていることは、主からの恵みです。

最初は、土浦ゴスペルクワイヤーのメンバーの救いを期待して始めた礼拝ですが、主の導きによって、この4月から、「窓愛園」という土浦の児童養護施設に場所を移しました。

園に入所している子どもたちは、2歳児から高校生まで合わせて50人位いるそうですが、土浦チャペルには女の子たち10数人が来てくれています。

最初は恥ずかしがっていた子どもたちも、8ヶ月通ううちに、お互いに慣れてきて、いろんな顔を見せてくれるようになってきました。

様々な事情があって、血の繋がった親と一緒に暮らせない子どもたちは、愛情に飢え乾いています。心の奥底にいつも満たされない感情があります。とても孤独で寂しいだろうと思います。

施設は充実していて綺麗ですが、部屋を見せていただくと、プライベートがほとんどないという環境でした。

それでも健気にそこで暮らしています。学校でもきっと嫌なことがたくさんあるだろうと思います。

施設の子どもたちは、高校を卒業したら施設を出なければなりません。奨学金などで大学に行ける子は、ほんのわずかです。教育については、筑波大学の学生がボランティアで勉強を教えてくれたりしていますが、勉強の意欲が持てない子も多いそうです。施設の先生方は、思春期の男の子の反抗にも手を焼いているようでした。

話を聞くと、高校を卒業してせっかく就職をしても、すぐに辞めてしまって、フリーターになって、友だちと暮らしているといった子が多いそうです。

こういった話を聞くと、何も知らない子どもたちが、見えない社会の歪みに巻き込まれているようで、本当に考えさせられます。

施設の先生からは、「私たち職員がいくら愛情を注いでも、本当の親にはかなわないんですよ。でもその親の愛情を受けることはこの子たちはできないんです。だからどうか、子どもたちに、『あなたは神様から愛されているんだよ』ということを伝えてください。」と言われました。

やはり、彼らの満たされない心をうめてくださるのは、神様の愛しかないと思います。

彼らには父なる神様の深い愛と憐れみ、イエス様の恵みと、御言葉の土台が必要です。

私たちがイエス・キリストの弟子として、神の家族としてできることは、「神様の愛は、すべての人に分け隔てなく注がれている」ということを伝えることです。

この世の価値観ではなく、彼らが自分自身の人生を、聖書に基づく神の国の価値観で生きていけるようにと祈りながら、福音の種を蒔き続けることが、彼らがイエス様の枝となって「幸いな人」となるための第一歩となるのです。

すぐには実とならなくても、彼らが大人になった時に、ふと聖書の教えを思い出して、教会に足を運んでくれるなら、土浦での私たちの働きも報われます。

詩篇127篇は、「働く者のための知恵」と「家庭をつくる者のための知恵」を教えています。

空しく働くのではなく、神様を第一にして、主の恵みの中で喜んで働き、主の愛に満ち満ちた家庭を作り、家族を大切にすることを教えています。

さて、主はみなさんに、どのような働きを用意してくださっているでしょうか。

子どもや神の家族が増えるということは、この地においても神の御国が拡大し、繁栄しているというしるしです。「幸いな人」となって世に出ていき、「地の塩、世の光」となっていきましょう!!