2014.12.7「病の癒し マルコ5:25-34」

 アダムとエバが神さまに逆らって罪を犯してから、人類の中に死が入りました。すべての病気は死を弱くしたものと言えるでしょう。また、土地が呪われたために、いばらとあざみが生えました。それは、人間に有害なものが動植物の中に生じたことを暗示させます。目に見えないバクテリアやウイルスも人間を攻撃します。エイズやエボラ熱がいま猛威を振るっています。癌は死亡率のトップになっています。医学がいくら発達しても病気はなくなりません。それは、病が罪と呪いから来たものだからです。病と呪いと死に打ち勝つ解決はあるのでしょうか?

1.長血をわずらった女

 

マルコ5:25-27「ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。」この女性のことは、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書に記されていますので、病の癒しに関する典型的な記事だと思われます。イエス様と弟子たちは、死に瀕しているヤイロの娘のところに向かっていました。一刻も争う状況の中で、この女性が癒しのために割り込んできました。会堂管理者ヤイロにとっては、迷惑な存在だったかもしれませんが、彼女は必死でした。彼女は、病気のゆえにどのような苦しみを負っていたのでしょう。「長血をわずらっている女」とありますので、婦人病の1つかと思われます。たえず、刺すような痛みが内側にありました。しかも、それが12年間続いています。もし、彼女が18歳に発病したのであれば、30歳ということになります。そのため、結婚もできなかったでしょう。また、「この女性は多くの医者からひどい目に会されて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまった」とあります。当時の医者は現代と違って呪術的なものが多かったかもしれません。ひどい目に会され、高い治療代を請求され、お金も持ち物も使い果たしてしまいました。もしかしたら、家族から「ごくつぶしめ」と言われていたかもしれません。しかし、何のかいもなく、かえって悪くなる一方でした。現代でも、病気の治療は決して安くはありません。ある病気は薬も治療法もありません。そのため、苦しんでいる患者が多くいるのではないでしょうか?

それだけではありません、彼女は宗教的に汚れていると見なされました。レビ15:25「もし女に、月のさわりの間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出がある場合、あるいは月のさわりの間が過ぎても漏出がある場合、その汚れた漏出のある間中、彼女は、月のさわりの間と同じく汚れる。」彼女がさわったものが汚れるのであれば、どうなるでしょう?人の持ち物にもさわれません。また、人にも触れることができません。そのことは、彼女がうしろからイエス様の着物にさわったことと関係しているでしょう。前ではなく、後ろからということは、自分は汚れた存在だと思っていたのではないでしょうか?しかも、イエス様の手や体ではなく、着物です。ルカ福音書には「着物のふさ」と書いてあります。着物の一番、端っこということですが、もう1つ意味があります。たとえば、大祭司の服には、ざくろのかたちをしたふさが、いくつもついていました。そのふさは神さまの権威を象徴していました。かたちは違ったかもしれませんが、イエス様の着物にもふさがついていました。この女性は自分が汚れた存在であり、イエス様をも汚してしまうのではないかと恐れたことでしょう。だから、端のふさにでも触れることができればと思ったのでしょう。同時に、着物のふさは権威を象徴していました。そう考えると、彼女はイエス様の権威にすがりたいという思いがあったのではないでしょうか?なぜなら、あとから彼女の信仰がほめられているからです。旧約聖書では「らい病」も特別な病気として扱われています。その病気は神さまから呪われている存在と見られ、人々から離れて生活する必要がありました。現在、日本では、「らい病」は差別用語として使わないようにしています。ですから、新改訳聖書第三版では「ツアラト」とヘブル語読みを使っています。すべての病気がそうだということはありませんが、ある病気は、罪の呪い、罪の結果であると考えられたものもあります。ですから、そのような病気になった人は、肉体だけではなく、精神的、社会的、霊的な苦しみが伴ったことでしょう。現代は旧約聖書のような考え方をしないと思います。しかし、ある病気は隔離が必要だったりします。また、遺伝性があるものは家族に不安を与えます。今でも、重い病気は、人生に多大なダメージをもたらしてしまいます。

ある人たちは、「教会で病気のことを話すんですか?それは医者や病院がやることではないでしょうか?」と思うかもしれません。もちろん、私は医大で専門的に勉強したわけではありません。しかし、聖書は病気の根本的な原因が何かということを告げています。また、イエス・キリストが来られたとき、働きの三分の一が病気の癒しと悪霊の追い出しでした。しかし、18世紀啓蒙主義が発展してから、教会では病の癒しは触れないようになりました。そして、病の癒しは医者や病院が専門で、私たちが宗教的なもので良いと分けてしまいました。今もそう考える教会があります。でも、聖書は病の癒しは救いの一部であると教えています。残念ながら、いくら医学が発達しても、病気が根絶されないばかりか、増えています。保険や医療費が国家予算において、また家計においてどのくらい大きな比率を占めているでしょう。それに、私たち教会は、イエス様が病とその癒しに関心があったということを忘れてはいけません。

2.彼女の信仰

マルコ5:27-28「彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。『お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。』」彼女は、ここに来る前にどのように考えていたのでしょう?「イエスさまのお着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていました。ギリシャ語の聖書は、「言っていた」と書いてあります。つまり、彼女は「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。きっと直る」とぶつぶつ言いながら、後ろから近づいたということです。つまり、彼女の思いが、言葉となってあふれ出ていたということです。もう1つ考えられるのは、彼女は肉体的にも非常に弱っていたと思います。群衆をかきわけて、なんとかイエス様に近づこうとしました。下手をすると、だれかから突き飛ばされたら、そのまま死ぬかもしれません。おそらく、腰をかがめ、はいつくばるような恰好で、必死に近づいたと思われます。そのとき、「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。きっと直るんだ」と自分を奮い立たせたのではないでしょうか?でも、どうでしょう?着物にさわれば直るというのは、呪術的かもしれません。「イエス様が直すのであり、着物自体にそういう力はないでしょう?」と言いたくなります。でも、そのように口で言い続けたことも、また着物のふさにさわろうとしたことも立派な信仰であります。

なぜなら、彼女が着物にさわったとたん、このようなことが起きたからです。マルコ5:29-31すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」着物にさわった手を伝わって、イエス様の癒しの力が体の内部に臨んできました。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じました。イエス様も、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づきました。そして、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われました。弟子たちは、「群衆がこんなに押し迫っているのに、だれが触ったか分かる訳ないでしょう?」と答えました。つまりこういうことです。多くの人たちがイエス様に触ったと思われます。でも、信仰をもって触ったのは彼女一人だったのです。「ああ、そんなのは呪術的で迷信的だ」と馬鹿にするかもしれません。でも、彼女は「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と言う信仰があったのです。イエス様から彼女に力が流れたのは、物理的な問題ではなく、彼女の信仰が接点となったのです。彼女は信仰によってイエス様から癒しの力を引き出したと考えるべきでしょう。イエス様が「だれかが、癒しの力を私から盗んでいった」とおっしゃりたかったのです。

彼女は信仰の手を伸ばして、イエス様の着物のふさに触れました。接点は小さかったのですが、ビビビビと癒しの力が伝わってきたのです。まるで、電気が流れるように、彼女の中に癒しの力が臨んだのです。ケネス・へーゲンの本にこのようなことが書いてありました。「人間は自然界に電気があることを発見しました。やがて、電気を発電し、それを各家庭に送ることができるようになりました。しかし、その電気が自動的に家を照らしたり、調理したり、家を暖めたり冷やしたりするでしょうか?私たちは電気器具をプラグに差し込み、スイッチを入れなければなりません。私は自然界に電気があるように、霊の世界にも神の御力が存在していることを発見しました。私は10代の時、不治の血液の病気で16ケ月寝たっきりでした。私のベッドのそばには、電気のコンセントがありました。だれでもそこに電灯のプラグを差し込むことができました。そうすれば、それは部屋を照らしたはずです。それと同じ理由で、癒すための神の御力は毎晩、私の部屋に存在していたのです。なぜなら、神はどこにでも存在しておられ、彼の持っておられるどんな力も彼と共にあるからです。ところが、その現れは私にありませんでした。なぜでしょうか?私がそれにプラグを差し込まなかったからです。しかし、1934年8月8日、私はその方法を学びました。信仰によって、私は神の癒すための御力にプラグを差し込んだのです。そして、私はこのように言うことを始めたのです。「私は健康であると、今信じています」。私は体が麻痺していましたが、上半身いくらか使えるようになっていましたので、両足をベッドから離しました。足は二本の木のように床に落ちました。私の腰から下は死んでいたのです。私は「神の言葉の通りに、私は癒されています」と言ったとたん、私はプラグを差し込んだのです。私は、あの御力が私の頭のてっぺんを撃ちたたき、じわじわと全身に下っていくのを感じました。それが、私の腰と両足に達したときは、まるで一万本の針が両足を突き刺しているような感じでした。それが起こったとき、私はまっすぐに立っていました。私はあの御力にプラグを差し込んだのです。あなたは、あなた自身の信仰で神の御力にプラグを差し込むことができるのです!」

 

3.完全ないやし

 

マルコ5:32-34「イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」イエス様はどうして名乗り出てくるように言われたのでしょう?婦人病なのですから、そっと帰してあげた方が、恥を与えないですみます。彼女も肉体が癒されたのだから、お手間を取らせずに、さっさと引き揚げたかったもしれません。でも、どうしてイエス様は、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われたのでしょう。それは、イエス様は、肉体の癒し以上のものを与えたかったからです。ルカ8:47「女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した。」とあります。彼女が自分のことを告白することによって、彼女自身に何が訪れたのでしょう?イエス様は、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」と言われました。

イエス様のことばから、彼女は肉体の癒しだけではなく、他に4つのものを手に入れました。第一は、彼女はイエス様から「娘よ」と呼ばれました。英国の聖書は ‘My daughter’となっています。「私の娘よ」です。彼女は宗教的に汚れた存在ではありません。神さまが所有し、神さまから愛される存在、イエス様の娘だからです。ハレルヤ!心が癒され、自分のアイデンティティ、存在価値がわかりました。第二は、信仰自体がほめられました。イエス様は私が直したとはおっしゃっていません。「あなたの信仰があなたを直したのです」と言われました。彼女は「いえ、いえ、イエスさまの力です。栄光が主にありますように」とは答えていません。確かに、癒しの力はイエス様のものです。彼女がすばらしかったことは、信仰によってイエスさまから癒しの力をいただいたことです。でも、彼女はこっそり盗むようにいただいたのです。本来なら、「電気泥棒!」としかられても良いのです。でも、イエス様は彼女の信仰をほめました。第三は、「安心して帰りなさい」と祝福をいただきました。ギリシャ語では「平安のうちに行きなさい」という意味です。旧約聖書で平安はシャロームですが、繁栄、健康、和解という意味も含まれていました。彼女は12年間苦しみ、おそらく結婚もできず、家族からも厄介者扱いされていたでしょう。しかし、これからは神のシャロームをいただきながら、すべてものを享受できるでしょう。第四は、「病気にかからず、すこやかでいなさい」と言われました。この病気は単なる病気ではなく、罰、たたりかか来る病気という意味があります。だから、英語の聖書はplague疫病、悪疫となっています。つまり、そうそのような恐ろしい病気にならないようにとイエス様は封印を押されたと言うことです。つまり、彼女は「二度と私こういう病気にはかからないんだ。再発しないんだ」と保障されたということです。

つまり、彼女は肉体の癒しだけではなく、心、社会生活、霊、すべての面で癒しを受けたということです。ですから、英語の聖書では「すこやかでいなさい」は、be wholeとなっています。Wholeということばは、「全体の、すべての、全部の」という意味です。ケーキの丸いのを、ホール・ケーキと言います。最近はholistic medicineという言葉があります。予防も兼ねて、その人を全人格的に診るということです。肉体、思い、感情、生活環境であります。たとえば、ある人が胃潰瘍だとします。これまでは痛んだ胃の部分だけ診てきました。しかし、胃潰瘍になった原因を調べ、これから胃潰瘍にならないような生活指導も必要です。これと同じように、イエス様は私たちに肉体の癒しだけではなく、思い、感情、生活環境が癒されるように願っておられます。特に、イエス様は「病気にかからず、すこやかでいなさい」と言われました。これは、長血をわずらった女性だけに言ったことばではありません。今日の私たちにも、「病気にかからず、すこやかでいなさい」とおっしゃっておられるのです。つまり、健康であることは神さまの願いであり、神さまのみこころだということです。ある人は「病気も神様からのプレゼントだ」と言います。しかし、親は自分の子どもが病気になることを願っていません。同じように父なる神さまも私たちが病気にかからず、すこやかであることを願っておられます。Ⅲヨハネ2「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」アーメン。

4.病の癒しは贖い(救い)の一部

イエスは彼女に「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われました。しかし、この「直した」は原文では、救ったという意味です。ここから、病の癒しも救いの一部だということを考えることができます。イエス様が多くの人たちの病気を癒されたとき、イザヤ書のことばを引用されました。マタイ8:16-17「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。』」イザヤ書53章に「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」とあります。イエス様はこの地上に来られ、多くの人たちの病気を癒されたのは、意味があったということです。ここで「成就するため」とありますが、究極的に病を背負ったのは、十字架の上であります。つまり、イエス様は私たちの罪だけではなく、呪いや病すらも負われたということです。私たちがキリストの十字架の贖いを言うとき、「あなたの罪の問題は解決しています。信じるだけで救われますよ」と言います。同じように、「あなたの病の問題は解決しています。信じるだけで癒されますよ」とどうして言えないのでしょうか?

ペテロもイザヤ書を引用し、罪と同じように病の癒しを完了したものと言っています。Ⅰペテロ2:24「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」アーメン。私たちの究極的な救いは罪の赦しをいただいて、永遠の御国に住まうことです。しかし、健康ですべてのことに恵まれ、地上で神さまから与えられた人生を全うすることも大切です。イエス様が十字架の上で、「私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」ならば、私たちが病気にいるままで良いのでしょうか?ある人たちは、病の癒しはご利益であると否定して、霊的な救いだけを求めます。聖書をそのまま信じる教会の中に、癒しを否定する人たちが多いということは非常に残念なことです。しかし、聖書をそのまま信じるならば、十字架の贖いの中に病の癒しも含まれています。だから、私たちは病を負う必要はありません。一病息災などという偽りも信じないでください。なぜなら、神さまは全人格的な癒しを願っておられるからです。もちろん、年を取ってくるといろんなところが壊れて、不具合が生じてくるでしょう。しかし、老いと病気は違います。申命記34:7「モーセが死んだときは120歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」とあります。これが神さまのみこころです。「愛するイエス様、あなたが私の弱さや病も十字架の上で負ってくださったことを感謝します。どうか、私のこの病も癒してください。私に御手を延べて癒してください。私もあなたに手を伸ばして触れさせていただきます。あなたが癒し主であることを信じます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン」。