2014.12.28「劣等感からの解放 ルカ19:1-10」

 東大を卒業した人でも劣等感を持っているということが信じられるでしょうか?劣等意識は神さまとの関係ではなく、人との比較の中で生きているゆえに生じます。「人から認められたい」「人から重要な人物と思われたい」という願いがかなわず、かえって人々から見下げられ、馬鹿にされ、心の傷がうずいているのです。劣等感を持っている人は、同時に優越感をも持っていることは不思議ではありません。なぜなら、人との比較の中で「勝った、負けた」と生きているからです。あなたの心の深いところに「なに、くそ!」という劣等感コンプレックスはないでしょうか?

1.ザアカイ

ルカ19:1-4「それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。」当時のユダヤは、ローマによって支配されていました。ローマ帝国は、租税の集金や関税の査定を取税人に請け負わせていました。彼らはそれを良いことに、何倍もふっかけたり、税金を払えない人には高い利子で貸したりして私服を肥やしていました。取税人はユダヤ人たちから売国奴と呼ばれ、遊女や罪人と同じように人々から嫌われていました。ザアカイはその取税人のかしらで、金持ちでした。ある時、メシヤと噂されていたイエス様がエリコの町を通りました。ザアカイは、イエス様がどんな人か見ようと好奇心がわきました。ところが、ものすごい人だかりで近づくことができませんでした。それに、彼は背が低かったので、見ることができません。おそらく、町の人たちはザアカイを嫌っていたので、道をあけてくれなかったのでしょう。ザアカイは先回りして、いちじく桑の木に登りました。大の大人が木に登るというのは、少し滑稽かもしれません。しかし、彼は手段を選ばないかしこい人でした。どんなときでも、ザアカイは人の上前を撥ねるようなしたたかな生き方をしていました。 

ところで、このところに「ザアカイは背が低かった」と書いてあります。背が低いというのは自分の意志や努力ではどうにもなりません。生まれつきと言いましょうか?私たちの手の及ばないところであります。もし、自分が標準よりも、20センチ低かったならどういう思いをするでしょうか?私は小学校6年生のとき、クラスで一番背が低かったです。朝礼のときなどは、椅子を持って体育館に集まります。そのとき、一番前に座るというのは屈辱でした。小学校高学年は、ホルモンの代謝がものすごく変化するときです。ある子どもはぐーんと背が高くなります。私が片思いしていた子は私より10センチ以上も背が高かったのです。不思議なことに、小学校で背の高い人というのは、高校生のときにあまり伸びません。私は高校生後半のとき、ぐーんと背が伸びました。でも、背が低すぎるのも劣等感になりますが、背が高すぎるのも劣等感になります。バレーボールの大林素子という人は、小学生時代、あまりの高身長のため交通機関を利用するとき母子手帳を携帯していたそうです。みなさんは容姿の他に、能力や生まれ、気質のゆえに劣等感はないでしょうか?しかし、この劣等感というのは生きるバネにもなります。ザアカイは背が人よりも低いという劣等感を克服するために、金持ちになろうと思ったのかもしれません。より多くのお金を得るために、取税人という、人がいやがる仕事を選びました。彼はその業界で成功し、今では「取税人のかしら」になっていました。ザアカイに借金をしている人たちは、頭を下げ、懇願さえしていました。そしてザアカイの楽しみは寝る前に、お金を数えることでした。時々、「俺を見下したやつらを見返してやるぞ!」とつぶやいていました。しかし、心の中では何とも言えない寂しさがありました。近頃は「自分の孤独と空しさをわかってくれる神さまがいたらなー」とさえ思っていました。そんなとき、噂になっているイエスというお方がエリコの町を通るというニュースをキャッチしたのです。彼の中にはお金では埋められない空洞があったのかもしれません。

2.人間の生まれつきの状態

「背が低い」ということばに注目したいと思います。「低い」は、ギリシャ語でミクロスですが、「小さい」「取るに足らない」という馬鹿にした意味もあります。実は、ローマ3章にこれと似たようなことばはあります。ローマ3:23「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」は、英語の聖書では、for all have sinned and fall short of the glory of God. となっています。つまり、私たちは罪を犯したので、神さまの栄光には達しない「短い」という意味です。神さまの栄光がこのくらい高いとすれば、どんなに正しい人であっても、低いということです。多くの場合、劣等感というのは人との関係から生じるものです。他の人たちと比べ、優れているとか劣っているなどと言っています。この間、「今でしょう!」の林修先生の弟子たちがテレビに出ていました。三人とも東大生でしたが、一人の女性は偏差値が93.4とか言っていました。「どんな頭をしているんだろう?」と思いました。中には内村航平君のように運動能力抜群の人もいます。また、高収入で豪邸に住んでいる人もいます。しかし、しょせんそれはどんぐりの背比べです。私たちは人よりも、神さまと比べて「小さいなー」と気づかなければなりません。日本人には絶対者なる神概念がありません。だから、人との比較の中で「高い、低い」「多い、少ない」で生きているのです。旧約聖書にヨブという人物がいます。彼は東の国で最も裕福でした。行いにおいても潔白で正しく、悪から遠ざかっていました。彼自身、自分は大したものだと思っていたかもしれません。しかし、神さまと出会ったとき、自分は無に等しいと悟ったのです。

聖書は、生まれながらの人間をどのように言っているでしょう。罪があるので、「そのままでは神からの栄誉を受けることができない」と言っています。「罪」という日本語訳は誤解を招くことばかもしれません。神さまは完全無欠のお方です。聖書ではこれを100%の正しさ、「義」と呼んでいます。あなたは神さまのように完全無欠でしょうか?人間は、神の被造物であり、アダムから受けた罪を背負っています。また、個人で犯した罪や過失があるでしょう。たとえ人間の中に「非の打ちどころのない正しい人だ」という人もいるかもしれません。しかし、神さまの義と比べたなら、太陽の明るさと月の明るさみたいなものです。さきほど言いましたが、「栄誉を受けることができず」は「栄誉に達しない」と言うことです。つまり、私たちの正しさや行ないでは、救いを得ることができないということです。「救いの架け橋」という例証(イラストレーション)があります。片方に人間が立っています。そのままですと、死、さばき、滅びが待っています。そして、その向こう側には義なる神様がおられます。神さまのもとには永遠の命、天国があります。しかし、両者の間には、罪という深い淵があって渡ることができません。それでも人間は「救いを得よう、神さまのところに到達しよう」と様ざまな努力をしてきました。道徳、宗教、哲学という橋をかけようとしました。ところが、人間は不完全なので、義という100%の正しさには達することができません。さきほど、偏差値93.4の女性の話をしました。残念ながら93.4でも足りないのです。あと、6.6不足しています。毎回100点取れないように、私たちは行ないや動機においても100点は取れないのです。イエス様は兄弟に向かって「馬鹿者」と言ったら地獄に投げ込まれると言われました。憎むだけでも人殺しになるし、情欲をいだいて女性を見てもアウトです。だれ一人、神さまの基準に達する人はいません。

ここに良いニュースがあります。神さまの方から救いの手が差し伸べられたのです。ローマ3:24「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」キリスト・イエスによる贖いとはどういう意味でしょうか?「贖い」のもとの意味は「身代金を払う」「代価を払う」という意味です。罪のないイエス様が十字架で、私たちの罪を負って死んでくださいました。表現を変えると、イエス様が流された血が罪を帳消しにしたということです。イエス様は私たちの身代わりに死なれただけではなく、3日目によみがえられました。これは、私たちが神の前に義とされるためです。信じた者に神の義をプレゼントするという保証となられたということです。実力で100点とれなかったなら、不足分をもらえば良いのです。神さまの前では、30点の人も90点の人も全く同じです。価なしに義と認められるということはそういうことです。イエス様は、十字架の死と復活によって、罪のギャップに橋をかけてくださいました。イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)と言われました。橋がかかっているなら、どうすれば良いのでしょうか?難しく考える必要はありません。目の前の橋を渡れば良いのです。

信仰というのは、この橋を渡っていけば神さまのところに行けると考えることです。だから、イエス様の橋を渡って行きましょう。アーメン。これで、あなたは神さまのところへ行って、神の義と天国と永遠のいのちをいただくことができるのです。クリスチャンという人種は、イエス様という橋を渡って、神さまの側にいる人たちです。

3.失われた人を捜していたイエス様

ルカ19:5-7イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。さらに、ルカ19:10「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」質問があります。どちらが先に会うことを決めていたのでしょう?ザアカイでしょうか、それともイエス様でしょうか?この記事を順番に読むと、ザアカイが先回りして、木の上からイエス様を待ち構えていました。しかし、イエス様はザアカイがどこにいるかを知っていました。イエス様はいちじく桑の木のところでぴったり止まりました。そして、上を見上げ「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と言われました。イエス様は「ザアカイ」という名前を知っていました。それだけではありません。イエス様はエリコに来る前から、ザアカイの家に泊まることにしていたのです。ということは、ザアカイよりもイエス様の方が先だったということです。ザアカイは「イエス様がどんな奴だろうか?」木の上から見下ろすような高慢さがあったのではないでしょうか?あるいは、木陰から、こっそり眺めて「どんな奴かな?」と評価するつもりだったのかもしれません。ところが、木の下から「ザアカイ!」と呼ばれました。よく、驚いて木の上から落ちなかったものです。

イエス様は、彼の居場所ばかりか、名前まで知っていました。それに、彼の家に泊まることにしているとは!ザアカイはイエス様の招きにどう応えたのでしょうか?ザアカイはスケジュール表を出して、「きょうは予定が詰まっています」とは、言いませんでした。あるいは、「急にお客を連れてくると家内が嫌な顔をするので、相談してから」とも言いませんでした。ザアカイの迎え方を私たちも学ばなければなりません。ザアカイは自分の都合を後まわしにして、イエス様を迎えました。もし、ザアカイが「きょうは都合が悪いので、今度の木曜日」と断っていたならどうなったでしょう?イエス様はエルサレムに向かっていますので、もう、エリコには戻って来ません。もし、このチャンスを逃したら、ザアカイは救いを得ることはなかったでしょう。ザアカイはスルスルと降りて、イエス様を自分の家に迎えました。それだけではありません。自分の部下や仕事仲間を招待しました。みんなで、イエス様を囲んで、食べて飲んで、親しく交わりました。それを見て、喜ばない人たちがいました。当時の宗教的指導たちです。ルカ19:7「これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。」とあります。イエス様は彼らに対して、何と答えでしょうか?ルカ19:10「人の子は、失われた人を探して救うために来たのです」。アーメン。

 「失われた」とはどういう意味でしょうか?初めは自分のものであったのに、失くしてしまったという意味です。神さまのせいで人間は失われた者になったのでしょうか?そうではありません。最初の人間アダムが、「自分の考えと力で生きる」と神さまに反逆しました。その結果、はエデンの園から追い出され、サタンが支配するこの世で生きるようになりました。パウロは失われた人たちをこのように表現しています。エペソ2:1-2「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」そうです。私たちは罪過と罪との中に死んでいました。霊的に死んでいるので自分から神さまに立ち返ることができません。そのため、神さまのもとから、御子イエス様がこの地上に遣わされたのです。罪の中に失われていた私たちを探して救うために来られたのです。クリスチャンになりたての頃は、自分の意志で教会にやって来たとか、自分の意志でイエス様を信じたと思っています。しかし、信仰生活を送っていくと、「ああ、イエス様は前から私の名を呼んでいたんだ。私が鈍かったんだ」と気づきます。「私が暗いところで一人ぼっちで泣いていたとき、イエス様がそばにいたんだ」と気づきます。イエス様はザアカイという名の人が、エリコの町に住み、今、木の陰に隠れているのを知っていました。そればかりか、ザアカイの家を訪問して一緒に食事をすることも予定していました。同じように、あなたも救いのリストに入っていたのです。イエス様は失われていたあなたを、私を救うためにこの地上に来られたのです。そして、今も聖霊によって、この地上に来られ、戸の外に立ち「一緒に食事をしよう」と心のドアをたたいておられます。

4.ザアカイの変化

ルカ19:8-9ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」イエス様が命じてもいないのに、どうして、財産の半分を貧しい人たちに施すとか、だまし取った物を四倍にして返すと言ったのでしょうか?ここには重要な福音の真理が隠されています。ザアカイは救われるために良いことをしたのではありません。イエス様を心に受け入れて、霊的に生まれ変わり、救いの喜びがあふれてきたのでそうしたくなったのです。この世には数えきれないほどの宗教があります。そのほとんどが、正しいことをしなければならないとか一生懸命拝まなければならないと要求してきます。人間の肉は、何か自分がやるべきことがあると安心するものです。ザアカイはお家にイエス様をお迎えしただけではなく、心の中にイエス様をお迎えしたのです。さきほどの、救いの架け橋で言いますと、イエス様という橋を渡って、神さまの側に行ったのです。神さまのところには、永遠のいのち、天国、そして豊かなる報いがあります。ザアカイは救いの喜びに満たされたので、良いことをしたくなったのです。彼は救われるために良いことをしたのではなく、救われた結果、良いことをしたくなったのです。これこそ、肉ではなく、御霊によって生きるということです。

イエス様はザアカイの変化を見て、何と言われたでしょうか?ルカ19:9イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」アーメン。イエス様は、はっきりとザアカイが救われたことを証言したのです。ここに「きょう」とあります。イエス様は「死んでから、ザアカイが天国に行って救われる」とはおっしゃっていません。ここに大切な真理があります。人は天国へ行ってから救われるのではく、この地上で救いを得なければならないといことです。少し前に、ニコデモの話をしました。イエス様は「新しく生まれなければ神の国に入ることはできない」と言われました。新しく生まれるのも、死んでからではありません。今、この地上でイエス様を信じたら新しく生まれ変わることができるのです。同じように、「きょう」イエス様を信じるとき、あなたは救われ、天国、すなわち神の国に入るのです。そうすると、ザアカイのように変わることができるのです。また、イエス様はザアカイを「アブラハムの子」と呼ばれました。アブラハムは信仰の父であり、アブラハムからイスラエル部族が生まれました。ですから、取税人のかしらであったザアカイも、立派なアブラハム子孫であるということです。

本日は「劣等感からの解放」という題で学びましたが、劣等感も救いを得る1つのきっかけになるということです。劣等感は正確には、「劣等感コンプレックス」と言うそうです。コンプレックスは、無意識の中に抑圧されて固まった観念です。人間にはいろんな種類のコンプレックスがありますが、劣等感はその1つです。心理学でも様ざまな治療法があるでしょう。しかし、私たちは絶対者なる神さまと出会い、救い主イエス・キリストを受け入れるときに癒しと解放が得られます。救いを受けるとどのようなことを悟ることができるのでしょうか。第一は神さまからありのままで受け入れられています。第二は神さまから完全に是認されています。もう、人から認められようと努力する必要はないということです。第三は神さまからユニークな存在として造られました。身長も顔かたちも、性格すらも神さまのわざです。第四は神さまから特別に愛されています。神さまはあなたがどうすれば愛されていることが分かるかご存知です。期待してください、あなたに愛が分かるようにしてくださいます。第五、神さまはマイナスもプラスに変えてくださいます。あなたの弱みは強さとなるのです。神さまは失敗も心の傷も益にしてくださいます。第六、あなたは神の子、アブラハムの子孫です。生まれや育ちで劣等感を持っている人がいます。そんなの関係ありません。自分が神さまから固有な存在として造られたことを認め、神さまの無条件の愛を腹いっぱいにいただきましょう。人の評価や評判ではなく、神さまの御目のもとで生きましょう。「愛する天のお父様、あなたが私の内蔵を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたことを感謝します。私は造り主を忘れ、ザアカイのように失われた存在でした。しかし、イエス様、あなたが私を見出し、私の名前を呼んでくださり、ありがとうございます。私はここにおります。どうか、私を罪から救いだし、新しいいのちと新しい身分をお与えください。また、私をすべての劣等感から解放してください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」