2009.05.03 損、ちりあくた ピリピ3:1-11

ゴールデンウィークの前半ですが、共に集まり、神様を礼拝できることを感謝します。礼拝の意義の1つは、「神体験」です。この場で、神様を体験することができるということです。聖書の学びとか、研究、悪いことではありません。良いことです。でも、このような礼拝は、神様と出会うことができる幸いな機会を与えます。みなさんは、神様、イエス様と出会っておられるでしょうか?きょうは、イエス様と出会ってすっかり変えられたパウロの話から始めたいと思います。

1.パウロの起承転結

前半は、起承転結ふうに、お話ししたいと思います。新聞には、4コマ漫画が載っていますがが、みな起承転結になっています。画像を見ながら、ご一緒に考えましょう。

①犬(パウロの敵)

 愛犬家には大変申し訳ありませんが、パウロは「犬に気をつけなさい」と命じています。当時は、家畜とかペットの犬は少なくて、野生の犬がたくさんいたようです。それで、聖書の中では、犬は「不潔な人、汚れた人」を指すことばであり、はなはだしい侮辱を意味していました。パウロはどのような人たちを「犬」と呼んだのでしょうか?2節には「悪い働き人であり、肉体だけの割礼の者」たちと書いてあります。彼らは、人間的なものにより頼み、自分を誇っていました。つまり、犬とはパウロに反対していた、ユダヤ教徒のことであります。パウロが福音を伝え、教会を設置しました。ところが、彼らはその後やってきて、「信仰だけでは救われない、モーセの律法を守り、割礼を受けなければならない」と妨害したのであります。パウロにとって、彼らは、福音の敵でありキリストの敵でした。だから、犬と呼んだのであります。ガラテヤ書6章には、「割礼を受けるというのは、肉を誇ることである」と書かれています。彼らは「自分たちこそ本当のユダヤ人である。アブラハムの子孫、ダビデの子孫である」と誇ったのでしょう。犬でも「血統書付き」というのがありますが、そういう部類かもしれません。

②肉(パウロの誇り)

 パウロは「私もあなたがたのように誇ってみましょう」と自慢しています。でも、この自慢話は、彼らの次元に自分を合わせて、あとからひっくり返すためです。パウロはこういう話法を、しばしば用いています。Ⅱコリント12章でも「無益なことですが、誇るのもやむをえないことです」と言いながら、自分が啓示を受けたことや、だれよりも苦労したことを述べています。ここで「人間的なもの」と訳されている、もとのことばは「肉」であります。パウロはあえて、自分も肉にあって誇っているのです。ざっと見ますと、肉において頼れるものが7つほど上げられています。「八日目に割礼を受けたこと」「イスラエル部族に属し」「ベニヤミンの分かれの者」「きっすいのヘブル人」「律法についてはパリサイ人」「教会を迫害するほどの熱心さ」「律法による義では非難されるところのない者」。おそらく、パウロほどのきっすいのユダヤ教徒は、いなかったのではないかと思います。また、パウロはタルソでガマリエルの門下生でしたから、学問的にもエリート中のエリートでした。バイオリストですと、芸大を主席で卒業し、ドイツに留学し、だれか有名なソリストに師事したとか?チャイコフスキー国際コンクールで優勝したとか?よくわかりませんが、音楽家でしたらそういう感じでしょう。

③ふん(パウロの回心)

 パウロはキリストに出会って、大転換を体験しました。そのことが3章7-8節で述べられています。「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」パウロは人間的には大変、得になるようなものが、損と思うようになりました。それらは、キリストと比べたら、「ちりあくた」となったということです。「ちりあくた」とは、英語の聖書ではdung、「ふん」になっています。口語訳は「ふん土」となっています。「ふん土」とは堆肥とか肥やしのことです。生まれ、血統、身分、学歴、自分のまじめさ、そういうもの一切が、損であり「ふん土」とはどういうことでしょう?人間的なものは捨てて、キリストに頼りなさいということです。パウロはキリストを得、キリストの中にある者と認められ、キリストを信じる信仰による義を持つことができました。つまり、キリストに出会ってから、すべてが変わったということです。みなさんは、クリスチャンになってそのような大転換を経験したでしょうか?回心ということばは、英語でconversionと言いますが、もとの意味は、変わる、転換する、変換するということです。今まで価値のあったものが、「くそくらえ!」まったく価値のないものになったということです。そういう変革をパウロは経験したのです。

④冠(パウロの目標)

 回心したパウロが目指すものは、復活でした。9-11節「キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」この文章を読みますと、パウロが望んでいることは、死んでから復活するということだけではないようです。死ぬような苦しみにあずかるとき、つまり、キリストの死と同じ状態になるとき、復活に達することができるということです。自分が「ああ、もう死んでしまうんじゃないか」という窮地に立たされたときに、復活の力が働くんだということです。まさしく、大逆転であります。パウロはそれを何度も体験しています。私たちもイエス様を信じた後も、試練や困難がやってきます。そのとき、自分の中にまだ混在していた人間的なものが砕かれ、取り去られる。そして、キリストの復活のいのちをいただいていくという作業が残されています。けちょんけちょんにやられて、死のさまに等しくなる。しかし、そこから復活の力が現れ、栄光から栄光へと変えられるということです。さらに、パウロが最終的に望んでいることは何でしょう?これは来週、学ぶ箇所ですが、14節にあります。「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」アーメン。そうです。パウロが目指しているものは、栄冠であります。きっとパウロはギリシャのオリンピック競技でいただく栄冠をイメージして書いているのかもしれません。

 パウロンの起承転結はどうだったでしょうか?「人生はドラマである」とよく言われますが、パウロほど劇的な変化を体験した人は他にいないかもしれません。キリスト教に真っ向から反対していた人が、キリストを宣べ伝える使徒になりました。こういうケースが実際にあったのですから、私たちの回りにいる手ごわい人はどうでしょうか?強く反対している方が、かえって、望みがあるように思います。「いいよ、いいよ。キリスト教も良いね」と何でも賛成する人の方が、かえって難しいのかもしれません。でも、一番、大切なことは何でしょうか?そうです、生けるキリストと出会うということです。やっぱりキリストに出会って、人生がひっくり返る。そういう経験が必要であります。地上のものから天上のものへと、まったく価値観が変わる。これが、必要であります。

2.私たちの起承転結

前半は使徒パウロの起承転結でしたが、私たちの起承転結はどうなるんでしょうか?

①起―問題や悩み

 人生において問題や悩みは必ず起こります。しかし、それらは良いものなのです。なぜなら、その人は神様を求めるようになるからです。イエス様は山上の説教でこのように言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。」心の中が貧しいですか?悲しみや憂いがありますか?「この世に真実なものがあるのか?」と渇きを覚えておられるでしょうか?ある人が「死にいたる健康、命にいたる病い」があると言いました。健康な人には医者はいりません。病人は医者が必要です。同じように、「自分は正しい、何の問題もない」と言う人にはイエス様は不要です。イエス様は「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と言われました。

②承―罪、肉、偽り

 なぜ、問題や悩みがあるのでしょうか?その根底に、罪、肉、偽りがあるからです。罪とは聖書では「的外れ」という意味です。まことの神から離れ、自分勝手な方向に進んでいるということです。肉とは何でしょうか?肉とは神様に頼らない人間的なものすべてです。生まれ、身分、学歴、自分のまじめさ、自分の知恵、力、それらはみんな肉であります。肉は一見、良さそうです。この世では何の問題もありません。しかし、そういうものがある限り、イエス・キリストにとことん頼ろうとしません。偽りとは、この世に混在しているウソです。日本、アメリカ、中国、どの国でも、文化の中にウソが含まれています。私たちはその中で生まれ、育ったので、ウソがまるで正しいものであるかのように思っているのです。

③転―回心

 回心とは悔い改めとも言いますが、キリストに出会って方向転換するということです。これは人生において一回限りです。「個々の罪を悔い改めなさい」「正しいことをしなさい」「偽りを捨てなさい」ということではありません。なぜでしょう?生まれつきの罪人は、それをしたくてもできないからです。残念ですが、自分を変える力が内側にないのです。キリストを信じるということは、キリストを心の中に受け入れるということです。それも単なる友人や客人ではなく、救い主、主として受け入れるということです。私たちの心の中には王座があります。生まれつきの人は、だいたい、自我、自分が王座に座っています。自分の好みで、自分の考えで、自分の知恵で行動しています。しかし、その王座をイエス様に明け渡して、自分はイエス様に聞き従うということです。主従が逆になる、これを回心と言います。回心すると、これまで価値のあったものが「損であり、ちりあくた」になります。逆に、これまで価値のなかったようなものが、価値あるものに見えてくるということです。どうでしょうか?車に乗っているとわかりますが、行くときの風景と、帰りの風景は全く逆です。方向転換すると、右のものが左に見え、左のものが右に見える。これが回心です。でも、一番重要なのは、救い主であり、人生の主であるキリストに出会う、キリストを受け入れるということです。このことがないと何も始まりません。

④結―聖化、栄化

 クリスチャンになると何が変わるのでしょうか?立場が変わります。神様が父であり、あなたは神様の子どもになります。ほうとう息子は指輪をはめてもらいました。身分が回復したのです。キリストを信じたあなたは、御国の相続者になったのです。さらに、神様はあなたに義の衣を着せてくださいます。ほうとう息子は、ぼろの衣を脱いで、新しい着物を着せられました。キリストを信じたら、義人、あなたは正しい人と見なされます。自分のアイディンテティが変わります。義人は義人のように行動します。なぜなら、もう「罪人じゃないからです」。そして、あなたは罪の奴隷ではなりません。ほうとう息子は裸足でしたが、靴を履かせてもらいました。もう、奴隷じゃないということです。このように回心してクリスチャンになりますと、神様との立場が変わります。これはだんだんと変わるのではなく、一気に起こるのです。このように、救いは一瞬にして起こるんです。でも、みなさん、クリスチャンになっても、中身はまだ変わっていないところがたくさん残っています。身分は変わっても、実質が変わる作業が残っています。これが、聖化であり、栄化であります。栄化とは最終ゴールで、天国に行き、復活するときであります。でも、この地上では、罪とか肉がきよめられ、偽りを真実に入れ替える作業があります。心の傷が癒されたり、考えが修正される必要もあるでしょう。でも、大丈夫です。あなたを変えてくださるのは、あなたではありません。あなたの中におられるキリスト、聖霊様があなたを助けてくださいます。もちろん、あなたの意志や努力も必要です。でも、イエス様が共にいてくださり、栄光から栄光へと変えてくださるのです。

 クリスチャンになってからどういうことをするのか、具体的にもう少し、説明したいと思います。罪とは何でしょう。いままでは、そんなのちっとも悪いと思わなかった。「世の中の人、みんなやっているんじゃないか!私はまだましな方だ!」とやってきました。しかし、イエス様を信じると、霊的に新しく生まれ変わりますので、「ああ、それは罪だなー、悪いことだなー」と痛みを覚えるようになります。これは霊的な感覚が目覚めたという証拠であり、良いことなんです。そのときに、罪を具体的に神様に告白します。告白とは、ギリシャ語でホモ・ロゲオーであり、「同じことを言う」ということです。神様にありのままを言えば良いわけです。Ⅰヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」イエス様を信じる悔い改めは一生に一回ですが、個々の罪を悔い改めるのは一生涯続きます。これは結構、しんどいです。でも、罪が残っていると、様々な悩みや問題がずっと続きます。父なる神様は、「本当の原因はここにあるんだよ!」と教えてくださります。そのときは、素直になって、「はい、わかりました」と、罪を告白すれば良いのです。イエス様の血しおと聖霊の力で、だんだんきよめられていきます。

もう1つは肉の問題です。さきほども話しましたが、肉とは神様に頼らない、一切のものを肉と言います。ですから、肉の中には、すばらしいもの、美しいもの、価値と思えるようなものもあります。学歴、立場、才能、経験、頭が良いこと、これらはみんな肉になります。私たちはうっかりすると、神様よりも、こういうものに頼ってしまいます。しかし、神様は私たちをねたむほど愛していますので、そういう偶像崇拝的な信仰を放っておきません。何をするんでしょうか?そうです。試練を与えます。ヘルブ12:6「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」と書いてあります。「うゎー」いやですねー。失敗や挫折、経済的な問題、人間関係のトラブル、あるときは病気さえもお用いになられます。そのとき、叫ぶんです。「主よー。あなたを信じているのに、どうしてこんなことが起こるのですか?ひどいじゃないですか?」。神様は悪魔さえも用いるんですね。ヨブ記を見ると分かりますが、サタンがヨブの持ち物、家族、健康を打って、取り去りました。それでも、ヨブは「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と礼拝しました。ヨブほどになるとは思いませんが、人は試練を通らされて、神様に信頼することを学ぶのです。

 最後の偽りの問題です。ここに樹木があります。左の木はひょろひょろでほとんど枯れています。なぜでしょう?土の中に、偽り(ウソ)がたくさんあるからです。真実がほとんどないんです。だから、樹木は健康に育つことができません。真中の木はいちおうは育っていますが、実があまりありません。これは土の中に、真理もありますが、まだ、偽り(ウソ)が混在している状態です。たとえクリスチャンになっても、文化的な偽り、家庭の偽り、この世の価値観で生きているかもしれません。ですから、そういう偽りを捨てて、真実と置き換える作業が必要です。右端の木は健康で大きく育っています。土の中がほとんど真実だからです。解決は実ではなく、根っこにあります。根が健康であれば、木が健康になり、豊かな実を結ぶことができます。私は、人から何か言われると、自分が責められていると感じてしまいます。小さなときから父や母、兄弟、学校の先生から責められました。5年生だったかクラス委員に選ばれました。そのとき、まわりの友人が「委員長のくせに!」とことごとく、言動を非難しましました。正確には、批判とか、さばきということばなんでしょうが、私の成育史では「責められる」という表現がぴったり来ました。家内は平気なんですが、テレビで正しい人がやっつけられたり、不当な扱いを受けている場面を見ることができません。「これ以上、傷つきたくない」という思いがあります。でも、この世では敵対する人がたくさんいるので、身構えたり、さばき返して防御せざるをえないわけです。自分のゆがんだ思考を、正しく変えていくならば、悪い感情が消えてなくなります。これも偽りを真理に変える作業です。クリスチャンになっても、いろいろありますが、神様はすべてを益に変えてくださいます。そして、救いの喜びが霊的なものから、心の中、生活全般に広がっていくのです。イエス・キリストはすばらしい恵みをあなたに用意しておられます。主を信頼しましょう!