2009.05.10 目標を目指して ピリピ3:12-16

森光子さんは、昨日、89歳の誕生日でした。そして、昨日演じた「放浪記」は、東京・帝劇で前人未到の上演2000回目だったそうです。彼女は毎日欠かさず150回のスクワット、軽めの屈伸運動に近いものをしておられます。お年を感じさせぬ容貌とバイタリティから「妖怪」とも一部で揶揄されているそうです。彼女は、紫綬褒章(しじゅほうしょう)、文化勲章を授与されたこともあります。なぜ、こういう話をするかと言うと、「神の栄冠を得るために、目標を目指して走る」というのが、きょうのテーマだからです。作家のフランチェスコ・アルベローニは「本当の老化は、夢も見ず、自分の可能性にも見切りをつけたところから始まる」と言いました。またCSルイスは「新しい目標を持ったり、新しい夢を見るのに、歳をとりすぎたということはない」と言いました。それでは、きょうも、聖書のみことばからご一緒に学びましょう。

①キリスト教における「救い」

 キリスト教における救いとは何でしょう?私たちは「キリストを信じて救われました」と言います。では、どういう意味で「救われた」のでしょうか?私たちはキリストによって罪が赦されたので、地獄に行ってさばきを受けることはありません。積極的な意味では、キリストによって義と認められ、神の子供になったということです。これは、キリストを信じることによって、神様との関係が変わったためです。でもどうでしょうか?私たちの実質は、相変わらず罪を犯す存在であり、弱さや罪の性質も宿っています。それでも、私たちは主の御霊によって、栄光から栄光へと主の似姿へと変えられていきます。中身が変えられて、成長していかなければなりません。そういう意味では、まだ救われつつある存在です。これを神学的には「聖化」と言います。完全に救われるのは、キリストが再臨して、神の国が完成し、私たちのからだが栄光の体に変えられるときであります。死んだ肉体が復活する、つまり肉体が贖われるときこそが、救いが完成するときなのです。そのときは、罪の性質も弱さも病もありません。それを神学的には「栄化」と言います。ですから、クリスチャンはみな、聖化から栄化へのプロセスを歩んでいる存在なのです。

②パウロの目標

 それでは、パウロが既に持っているものと、これから得たいと望んでいるものは何でしょうか?使徒パウロは、キリストを知り、キリストを得ました。9節には、「キリストの中にある者と認められ、キリストを信じる信仰による義を得た」と書いてあります。「キリストを信じる信仰によって義と認められた。」これはパウロによる救いの定義として最も有名なことばです。ローマ人への手紙やガラテヤ人への手紙に、そのことが詳しく書いてあります。12節「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」パウロはダマスコの途上で、復活の主と出会い、まったく変えられました。また、第三の天に引き上げられ、特別な啓示をいただきました。それなのに、「すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです」とはどういうことでしょうか?確かに、パウロはキリストを知り、キリストを得ました。そして、神様から義と認められました。でも、パウロはキリストを完全に知っているわけでもないし、またパウロ自身が完全にされているわけでもありません。人間ですから、この地上で神様のことが全部分かるということはありえないでしょう。でも、終わりの日、神様のことがはっきりと分かる日がくるのです。Ⅰコリント13:12「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」アーメンです。私たちは神様のことをほんの一部分しか知りません。だから、今は、信仰が必要なのです。でも、やがてはっきりと分かる日がきます。また、パウロは既に義とされていますが、さらには、義の栄冠を得たいと望んでいます。Ⅱテモテ4:7-8「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」私たちもパウロと同じように義と認められました。しかし、恵みによって、正しい生活を送り、義の栄冠をいただきたいと思います。

 もう1つパウロが目指していたことは何でしょうか?それは神様から召された使徒としての働きを十分に成し遂げることです。パウロは、異邦人への使徒として神様から召され、福音が届いていない地域に出かけて、教会を設立しました。小アジアへ行って宣教し、小アジア全体に福音が広がりました。その次はギリシャに足を運びました。コリントの人たち対して「神が私たちに量って割り当ててくださった限度内で行くのです」と言いました。また、パウロはローマの人たちにこのように書き送っています。「もうこの地方には私の働くべき場所がなくなりましたし、また、イスパニヤに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを多年希望していました。」(ローマ15:23)。パウロは、ローマで福音を宣べ伝えてから、イスパニヤ、現在のスペインに行きたいと望んでいました。パウロはⅠコリント15章で「私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです」と自負したほどです。でも、今は、どうでしょうか。パウロはローマで囚われの身となっています。神様のために働きたくても、働けない状況です。私だったら神様に文句を言いたいところです。でも、パウロは何と言っているでしょうか。13節「ただ、この一事に励んでいます」。14節「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」パウロには自分の計画や思いがありました。でも、それ以上に、神様ご自身が、私ができないことをしてくださるに違いない。たとえ、こういう状況でも、「ただ、この一事に励む」と言うのです。それは、神の栄冠を得るためであります。

③私たちが持つべき目標

 では、私たちが目指すべき目標とは何でしょうか?15節「ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。」16節「私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです」と書いてあります。私たちは、使徒パウロと程度差はあるかもしれませんが、基本的には同じような目標をもって生きるべきであります。私たちはイエス様を信じたことにより、神様から義と認められています。こんどは、中身がきよめられ、キリストに似るように成長していかなければなりません。つまり、聖化され、やがては栄化されることを目指すわけです。また、それぞれ神様からいただいた使命を全うすべきであります。神様はパウロだけではなく、私たちにも栄冠を与えたいと願っておられるからです。Ⅰコリント9章には、「あなたがたも賞を受けられるように走りなさい。…私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです」と書いてあります。冠の種類は1つではないようです。Ⅱテモテ4章には「義の栄冠」があります。黙示録2章には死に至るまで忠実なら「いのちの冠」が与えられると書いてあります。Ⅰペテロ5章には神の羊の群を牧する人は「しぼむことのない栄光の冠」を受けると書いてあります。はっきりとは分かりませんが、神様からの使命を全うした人には、何らかの賞が与えられるようです。

私は小学校のときや中学のときは、何かの賞をもらったことがありますが、大人になってからはほとんどありません。「賞を与えるとか与えないというのは、不平等じゃないか」という意見もあるかもしれません。でも、ゴルフでも、野球でもスポーツ競技には、必ずと言ってよいほど、何らかの賞があります。カーレースにもありますし、競馬にもあります。文学や芸術の世界にもあります。世界的に有名なノーベル賞もあります。ウェブに「賞の事典ファイル」というのがあり、日本でどのくらいあるのか調べてみました。科学賞、芸能賞、美術賞、文学賞、文化賞の5部門。これは新聞社、総理府、財団、○○協会、都道府県が出している賞ですが、5部門合わせていくつあるでしょうか。日本だけで、ざっと3,205ヶありました。中には「一休とんち大賞」というのもありました。様々なスポーツの競技を除いてこれくらいあるのです。地上では、賞をいただけるか分かりませんが、それよりも天国で何らかの栄冠を受けたいと思います。

パウロは、神様から賞を受けるための大切な秘訣をここに書いています。「ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進む…」ということです。うしろのものを忘れとは、過去の失敗や悲しい出来事を忘れるということです。結構、私たちは過去で生きています。心理学では過去が現在に多大な影響を与えていると言います。あるところは悔い改め、またあるところは癒しが必要でしょう。でも、最終的には神様のもとにそれらを置いて、忘れるということです。しかし、それだけではありません。成功したこと、「あのときは頑張ったなー」という誉も忘れるということです。私も「新会堂は信仰によって建てたなー」と自負していました。でも、16年たったので、もう新会堂とは言えません。あと、4つくらいは建てたいですね。私たちは過去に生きてはいけません。「ひたむきに前のものに向かって進む…」とは、ランナーが一生懸命に走っている姿を想像します。これは前向き、肯定的な生き方です。日本人はあまりにも、後ろ向きで否定的です。また、パウロは「ただ、この一事に励んでいます」と言いました。パウロにゆだねられたものは、使徒として異邦人の世界に教会を建てることでした。パウロは使徒職という一事に励みました。もちろん、牧師や教師、伝道者の働きもしました。でも、そういう働きは他の人に任せて、新しいところへ、新しいところへと進んでいきました。私たちが「ただ、この一事に励む」べきことは何でしょう?一事ですから、そんなに多くはないはずです。いや、1つです。家事や仕事もあるかもしれません。でも、神様の前に、私はこの一事に励みますというものが必要です。他のものは、その一事を支えるものかもしれません。いくつあっても良いですが、神様の優先順位はあるはずです。先週、林兄弟の仕事の関係者が、教会の外壁とか屋根を見てくれました。西脇さんと言う人ですが、名刺を見てびっくりしました。表には「ミッションン西脇」と書いてあります。裏を見たら、「マイミッション」とあり、いくつか箇条書きがありました。一般工事、特殊工事、教会工事、そしてミッション。このミッションの項目の文字が一番大きくて、「伝道、カウンセリング、宗教に関しての相談」と書いてありました。そして、一番傑作だったのが大きな字で「お部屋のリフォームから心のリフォームまで」と書いてありました。彼は建設工事をしていますが、本当は調布教会の伝道師でもあるそうです。

私たちの人生には限りがありますので、どれも、これもというわけにはいきません。この一事とは何でしょう?それは、神様があなたに与えた賜物を用いて、召命に忠実に生きるということです。それぞれ、タラントの種類やタラントの量は違います。任せられたものが1タラントであろうと2タラントであろうと、大事なのは忠実に果たすということです。やがて、神様の前に立つときがきます。「あれー、私の成すべきことってなんだったっけー」ということのないようにしましょう。今から8年くらい前のことですが、イスラム過激派がある神学校を襲いました。二人は大きな刀で切られ、一人は完全に死にました。もう一人も首を切られて死にました。隋液が出て、首がぷらんぷらんの状態で、かけつけた医者は「これはだめだ。でも、棺にこのまま入れるのは可愛そうだから、首だけ縫っておこう」と荒っぽく縫いました。ほったらかしにされていた彼は2時間後に生き返りました。その後、奇跡的に傷が治り、自分が天国に行ったことを人々に証しました。彼の証によると、天国にはいくつかの部屋があったそうです。救われても不忠実だった人の部屋、一生懸命忠実に仕えた人の部屋など、いくつかあったそうです。部屋の中で、人々はそれぞれ、何かを問われているようだったということです。みなさん、どうでしょうか?神様はすでに、あなたの心に「あなたはこれをもって神様の栄光を現しなさい」という賜物と召しを与えておられるのではないでしょうか?私たちは多くのことができません。神様が与えた賜物と召しに焦点を絞る必要があります。

④目標を設定するときの注意点

 目標設定の場合重要なことは、できるだけ具体的であるということです。ビジョンとしてあげるだけではなく、具体的にどのようにするのか、どの程度にするのか書き上げる必要があります。そして、短いことばで「私の神様から与えられた目標はこれ、これです」と言えたらすばらしいです。みんなに言う必要がありませんが、神様とコーチには言ったら良いですね。コーチは自分の夢を押し付けるのではなく、その人に与えられた夢を助ける人です。また、目標をあげるもう1つの注意点は、目標は測定可能であるべきです。何年後にこのくらいとか、何年後にこうなると明記しておけば、そのときが来たとき、達成できたか達成できなかったが分かるからです。たとえば、「私は全世界に出て行って福音を宣べ伝えます」というのは大き過ぎます。どこに行くのか、何年間で、どのくらいの人に福音を宣べ伝えるのか。そして、何人の人が救いに導かれるのか。そういうふうに測定可能であるべきです。私は総会資料に「10年間で350名の礼拝になるように」と書きました。350名は、5つの枝教会、合わせてです。同時に、5人の牧師、50人の信徒リーダーが与えられるということです。私が赴任してから、22年になりました。「未だ100名の礼拝も達成していないのに、何を言うんだ。これまで何度も、しゃべってきたのに空砲じゃないか」と私自身もそのように思います。でも、目標をあげないで、このまま行くと、あっという間に10年が来て、引退の年を迎えるでしょう。実はきょうの午後、練馬教会の「主任牧師セレブレーション」に招かれています。横田義弥副牧師が、小笠原先生に代わって主任牧師に就任します。小笠原先生は72歳です。それでも、後10年後に40の教会を生み出すというビジョンを掲げています。40というのは教会外のセルを含めてということですが、それでも大きな風呂敷かもしれません。小笠原先生は「目標達成はもちろん重要だが、そこへ行くまでのプロセスがもっと重要です」とおっしゃっておりました。

 でも、みなさん数字をあげることの弱点があります。それは、相手が絡んでくるものは不確実な要素が多いということです。教会が何名になるようにというのは、相手がいることなので、どうなるか分かりません。ビジネスマンが売上をこのくらいにしますと言っても、相手がいますので、どうなるか分かりません。主婦が「夫や子供から良い主婦と言われるように努力します」という目標を立てたとしても、相手がいるのでどうなるか分かりません。でも、だれも阻止することのできない目標の立て方があります。それは、自分に関した目標であります。たとえば、350人集まる教会に相応しい牧師になるというのは、だれも妨げることができません。人格的にこのような人になり、このようなスキルを身につけ、このようにチャレンジをする。そういう、自分に対する目標を立てることができます。また、ある人は、この仕事や奉仕をするのに、このような技術を身につけ、このような努力をし、このような人格になります。こういう目標はだれも阻止することができません。ですから、自分に関する目標を立てるならば、そのようにふるまい、そのように努力するようになるでしょう。まず、私たちは自分に対する思いを変え、思いを新しくする必要があります。周りの人や環境を変える前に、自分を変えていく。自分のライフスタイルをより良いものへと変えていく。そうするならば、結果的に、あなたに影響されて、周りの人や環境が変わっていくのではないでしょうか?夢と希望を持っている人、肯定的で前向きの人、そういう人のところに人が集まるものです。どうぞ、神様から与えられた、「賜物と使命はこれだ!」とつかんで、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進みましょう。神様はあなたのために、すばらしい賞をご用意しておられます。

 きょうは「母の日」でした。母の日にちなんで、何か語らなければなりません。先日、家内に聞いたらこんなことを言っていました。子供が小さいときは、どこかへ行くという計画が立てられない。急に熱を出していけなくなる事がよくある。そのとき、怒ったり、がっかりしないように、計画を立てないで流れに任せるようになったということです。そういう意味で、お母さんは自分の目標、自分の計画どおり突き進むというよりも、夫や子供をどうしても優先させ、彼らの目標や計画がかなうように、自己を犠牲にするところがあるのかもしれません。かなり前のことですが、長野さんという婦人牧師が詩集を出しました。そこに「お母さんは、削り節。自分を削って与える削り節」と書いてありました。ちょっと悲しい感じもしますが、聖書には「受けるより、与える方が幸いです」と書いてあります。神様から与えられた、母としての使命というのがあります。それを果たすときに、やはり神様からの報いが与えられることを信じます。