2009.04.19 救いの達成 ピリピ2:12-18

桜の花が散って、新緑の候になりました。いろんな葉っぱが開いています。ロシアの男性は肺の中に、5センチ位のもみの木が生えたそうであります。それはちょっと問題ですが、心の中に、希望が芽生えるというのは良いことではないでしょうか?日本の文化は夢や希望を消すような否定的な文化です。西洋になぜ発明や発見が多いか?それは、彼らは楽天的であり、「失敗は成功のもと」とばかり、失敗にめげないからです。どうでしょうか?みなさんは失敗にめげる方でしょうか?ある先生が「私たちは成功からは何も学べない。失敗から多くのことが学ぶことができるんだ」と言われました。きょうは、内面的な成長と、夢や希望をもって生きることの大切さについて一緒に学びたいと思います。

1.救いの達成

パウロは「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい」と言っていますが、これは、私たちが持っている信仰と矛盾しているように感じます。私たちはイエス・キリストを信じたときに、救われたはずです。「まだ救われるために努力しなければならないのだろうか?」という疑問が起こります。実は、聖書が言う「救い」には、もっと広い意味があります。私たちがイエス・キリストを救い主として信じたとき、即座に与えられた「救い」というものがあります。キリストを信じたら、神様からすべての罪が赦され、義とみなされます。また、神の子供となり、永遠のいのちをいただくことができます。しかし、これは神様との関係が回復したことからくる「救い」であって、私たちの実質(中身)は、変えられなければならない要素がたくさんあります。もちろん、イエス様を信じたら、霊的に生まれ変わります。でもどうでしょうか?「おぎゃー」と赤ちゃんが誕生したら、「ああ、おめでとう。よかったねー」と何もしないでしょうか?生まれることも大切ですが、成長していくことも同じくらい大切であります。クリスチャンも同じで、霊的に新たに生まれたら、キリストの似姿に成長していかなければなりません。これを神学的には「聖化」と言います。私たちは身分的には神の子供なったのですが、実質的に神の子供らしく成長するということが残されているのです。そして、やがてキリストの日、終わり日にそれが完成するのであります。パウロはピリピ1:10,11で「あなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現されますように」と祈っています。

 では、ピリピの人たちはどういう点で、救いの達成、つまり人格的に成長すべきなのでしょうか?1章に書いてありますが、ピリピの人たちにあったものは、豊かな愛と喜びでした。パウロはそのことをとても喜んでいます。でも、マイナス要素もありました。それは、ねたみや争い、党派心や虚栄心があったということです。そのため、パウロは2章で、キリストの福音にふさわしい生活をするように、イエス様の父なる神への従順と謙遜を模範にあげました。そして、キリストのように謙遜で思いやりの心を持つように勧めました。ピリピの人たちが何故、一致できなかったのでしょうか?それは他の人より自分がすぐれているという高ぶりがあったからです。高ぶりを捨てて、謙遜で思いやりの心を持つということは、一日や二日でできることはありません。ピリピの人たちはキリストの福音を熱心に宣べ伝えていました。やっていることはすばらしかったのですが。下に隠されている動機とか、態度に問題があったのです。こういうことはこの世の中ではほとんど問題にされません。すべてが結果であります。実力があり、結果があればそれで良しとされます。でも、神様のみわざを進めるため、またその実が残るためには、どうしても内面的に整えられる必要があります。私もクリスチャンになった瞬間、救いの喜びが与えられ、友人や周りの人たちに伝えたくなりました。キリストの福音を大胆に伝えることは良いことです。でも、私の中に悪いものが残っており、それが一緒に出てきて、悪い影響も与えてしまったこともありました。今から15年くらい前になるでしょうか?大和キリスト教会に、アルゼンチンからソーサーという伝道者が来られ、金曜日の夜、出掛けました。彼は200人くらいの人に次々と預言をしてくれました。その先生は私のことを全く知りません。私に按手しながら、こう預言してくださいました。「あなたがもっと整えられるならば、あなたを通して、大ぜいの人たちが救われます」。「おお、当たっているなー」と思いました。

 かつて私はこのように考えていました。「そんな内面ばかり気にしていたのでは、前に進めないよ。何ができるか、目に見える結果が大事ではないだろうか?ことば使いが多少荒らくても、粗野な態度があったとしても、これは私の特性であって、神様は欠点のある人でも用いられるんだ」。私はそう考えていたので、伝道して教会を大きくすることばかりに、興味がありました。でも、様々な解放の集会やエリヤハウスの学びに出席して、自分の弱さや欠点を直視せざるを得なくなりました。私たちはイエス様を信じて、霊的に新しく生まれ変わりました。もちろん、新しくなったところもいっぱいあります。でも、相変わらず、古い性格や罪の性質が心の中を支配しているということも気付きます。そして、自分が育った家庭環境やこれまで受けてきた心の傷、あるいは家系の罪が結構、影響しているということが分かりました。もう体に染み込み、性格の一部になっている、そういう習慣や考え方があると思います。これを認めて告白し、悔い改めて十字架に持っていく。そして、新しい性質を神様からいただく。これは大変、骨の折れる作業です。まず、最初の段階の「認める」ということが一番、難しい作業です。私などは批判されて育ちましたので、何か言われたら、敵対し、防衛するという本能が身についています。人の欠点を言うのは良いのですが、人から欠点を指摘されるのは嫌であります。みなさんはいかがでしょうか?イエス様を信じて救われはしたものの、自分の中に醜い罪の性質があるということにまいってしまうことはないでしょうか?ですから、このみことばのように、「恐れおののいて自分の救いの達成に努める」ということが重要になります。

 ところで、私たちには生まれつきの、あるいは神様がお与えになったキャラクター、性格というものがあります。その人のキャラクターには長所もあり短所もあります。聖化というのは、キャラクター、性格全部を変えるということではありません。その人の心の傷が癒され、罪を犯してしまう傾向から解放されるということです。カウンセラーの李光雨師によりますと、私たちには束縛されたライフスタイルがあるといいます。あることが起こると、他の人だったら普通に乗り越えられることであっても、その人は過剰に反応してしまい、怒りや恐れ、失望感で満たされる。なぜ、そういうことが起こるのでしょう。その出来事によって、その人を支えている世界が壊れてしまうからです。その世界が壊れたら、生きてゆけないので、防御するために、人やものに過剰に反応するのです。あることを言われたら、憤慨してしまう。ある出来事に遭遇すると、恐れで満たされ、一歩も前進することができなくなる。あることが起こると、心配で夜も眠れなくなる。そこには一定のパターンがあることを発見するでしょう。実は、そういう異常事態の背後には、その人が解決すべき課題が残っているということです。せっかくイエス様を信じて救われたのに、救いの喜びを満喫できない。それは大変、気の毒なことです。そういう問題があることを教えてくれるのが、皆さんの周りの人たちです。それは妻、夫あるいは子供です。あるいは会社の人であったり、教会の兄弟姉妹かもしれません。あることで怒ってしまう。敵対関係になり、そばいるだけでも嫌になる。それは、解決されていない問題があるからです。これまで、私たちはそういう人たちや出来事を避けてきました。でも、いつかは面と向かって、解決しなければならないときが来ます。もし、それをイエス様の恵みによって、癒され、解決したならば、もっと恵まれた信仰生活が送れるでしょう。これが「恐れおののいて自分の救いの達成に努める」ということです。

 でも、忘れてはならないことは、イエス・キリスト様はあなたの第一の理解者だということです。そして、あなたを慰め、心の傷を癒してくださるお方です。イエス様は「私はあなたを捨てて孤児にはしない。世の終わりまであなたと共にいます」とおっしゃいました。内面の癒しと解放は、一日二日でできることではありません。どうか、自分を正しく認識し、主の恵みによって、栄光から栄光へと主の似姿に変えらせていただきたいと思います。

2.志を立てさせ

 ピリピ2:13「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」以前、使っていた、口語訳聖書でもお読みいたします。2:13「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」神様は私たちの内に、志とか願いを与えてくださいます。私たちには「思い」というブラウン管みたいなものがあります。ブラウン管は古いので、液晶のモニターでも結構です。神様は霊であられますから、私たちは見たり、聞いたり、触ったりできません。でも、神様は私たちの霊に語りかけます。その霊が今度は、「思い」というモニターに何かを再現します。それが言葉であったり、映像とか印象かもしれません。とにかく、神様の思いが私たちの「思い」にふっと来るわけです。すると私たちの内側に、「ああ、そうだ。これをしよう。これを求めよう。こういうふうになりたい」という願いが起こります。でも、皆さん、私たちの「思い」というモニターには、神からの思いだけではなく、自分の思い、人々の思い、悪魔の思いも入ってきます。ですから、最初の頃は、「ああ、どれが神様の思いか分からないなー」と混乱します。しかし、聖書を読み、日々、主と交わっていると、「ああ、これは神様からの思いだなー」と分かってきます。ヨハネ10:3,4「羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」すごいですね。救われている人であるなら、イエス様の声がどういう声なのか分かってくるということです。

 では、どうしたら神様(イエス様)の声が「これだ!」と分かるのでしょうか?神様は私たちの耳が聞こえるような肉声ではほとんど語りません。一番、多く語られるのが聖書を通して語ります。私たちが神のみこころである聖書を読むとき、「ああ、神様は、こういうことを願っているんだなー」と分かります。第二は、祈っているときに「神様の思いはこうだなー」と分かります。第三は、何もしていないとき、ふっと、私たちの思いに語られるときがあります。神様は今も生きておられます。私たちが聞こうという気持ちがあれば、いつでも語りかけてくださいます。でも、みなさん、基本は聖書から神様のみこころを聞くということです。たとえば、ピリピ2:13に「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」と書いてあります。このとき、この13節だけを見るのではなく、文脈から見ることが大切です。ここでいう「あなたがた」とはまず、ピリピの人たちです。ピリピの人たちは一体何を志し、何を達成したいと願っていたのでしょうか?ピリピ1:5,6にそのヒントがあります。「あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」ピリピの人たちが、志、また完成したかったのは何でしょう。彼らは福音を広めたいと願い、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成するということでした。キリストの福音を広めるということが、彼らにとって第一の願いであり、世の終わりまでそれを完成したいと願っていたのです。

 すると、こんどは自分への適用であります。ピリピの人たちはキリストの福音を広げることが願いであったのに、自分はどうだろうか?福音を広めることが第一の関心事になっているだろうか?お金の問題、嫌な上司、過去のトラウマ、趣味とかこの世楽しみの方が心を支配しているんじゃないだろうか?ピリピの人たちだって、日常の生活の中で問題があったであろう。でも、彼らは何とか福音が広まるようにと願っていた。「わー、なんてこった!私と随分違うな。そうだ、不景気な世の中であっても、福音を広めるべきなんだ!」と気付くわけです。その後に、こんどは自分の適用として、「神様が私の人生において、達成させたいと願っていることは何だろう?」ということを聞きます。「そうだなー、私は教える賜物を神様からいただいたけど、これをなんとか用いなければならない。でも、だれを教えたら良いのだろうか?まず、子供たちがいるんじゃないだろうか?それから、信仰の後輩にも、主の恵みを分かち合うべきじゃないだろうか?」こういうふうにしていくと、神様が私に願っていることは何なのか少しずつ分かってきます。しかも、聖書を土台としているので、別の世界に迷いこむことがありません。逆に、自分の志や自分の願いからスタートしてしまいますと、神様を度外視した、自分の欲望の利己的な世界が広がってしまいます。そうではなく、神のみことばからスタートしたならば、そんなに道をそれることはありません。つまり、聖書を文脈から読み、そこから自分の生活に適用していくということです。昔、「マイ・ウェイ」という歌がありました。日本語の歌詞は、「すべて心の決めたままに…。君に告げよう、迷わずに行くことを、君の心の決めたままに」となっています。以前はすばらしい歌だと思いましたが、その人が決めたものが的外れだったらどうなるでしょうか?大変なことになります。19世紀に「自然主義」という思想がはやりました。人間には理性が備わっており、これで善悪を判断できる。理性に従えば良いんだということです。表現を変えるなら「人間には正しい思いがあるので、自分の思うとおりに生きればそれで良いんだ」ということです。一見、正しそうに思えますが、それはヒューマニズムであり、そこには神様がいません。私たちは自分の思いを第一にしてはいけません。船には羅針盤がついています。最近の車にナビがついています。これと同じものが、聖書であり、神様の語りかけであります。この世は絶対的なものを嫌います。でも、聖書こそが絶対であり、聖書の神様こそが絶対なのであります。つまり、神様と基本的なことにおいて、つながっているならば、日常生活のこともおのずと導かれていくということです。

3.つぶやかず、疑わず

最後にピリピ2:14をお読みします。「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい」。ここまでいけたら、たいしたもんだなーと思います。私たちは結構、つぶやいたり、疑いながら行なっているんじゃないでしょうか?こんなふうに確信をもって生きることが可能なのでしょうか?私はこういうことだと思います。もし、私たちが神様のみこころが記されている聖書を読み、神様と交わり、神様の思いが私たちの中に入ってくることを願うならどうでしょう。それは私たちの単なる思い付きやわがままな願いではなく、神様がくださった志であり、願いです。そういう確信があるならば、「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行う」ことができるということです。前後しますが、ピリピ2:13の「神があなたがたのうちに働く」という「働く」はギリシャ語で「エネルゲオー」であり、エネルギーの語源となったことばです。神様が私たちの内に、力を生ぜしめるということです。また、英語の聖書はinspireとなっています。これは、「鼓舞する、発奮させる、吹き込む」という意味があります。でも、inspireとは霊感を与えるというというのがもともとの意味です。ですから、みなさん信じましょう。神の霊、聖霊様が私たちの内側に、何かエネルギーを与え、発奮させてくださることを期待しましょう。私たちの中に、何か熱意がある。志がある。それはもしかしたら神からのものかもしれません。昔、クラーク先生という人が北大に数ヶ月しか滞在しないのに、多大な影響力を与えました。クラーク先生がお別れのときに、Boys Be ambitious.「少年よ、大志を抱け」と言われたようです。でも、本当はその後に続く文があるそうです。Boys Be ambitious in Christ.「少年よ、キリストにあって大志を抱け」であります。キリストがなかったなら大志ではなく、単なる野望になってしまいます。キリストの内にあるからこそ、神様のみこころに叶う、大志が与えられるのであります。

神奈川県に本郷台キリスト教会というのがあります。同じセルチャーチの仲間の月井先生がこんな証をしました。十数年前に、教会でリーダーたちが集まって、教会のビジョンについて語り合いました。この地域の人たちのニーズに応えていくためには、「小学校もやりたい、中学校もやりたい、保育園やりたい、作業所をやりたい、スポーツ活動をやりたい」という夢を「ノー」と言わないで全部受け入れて書き出しました。そのとき、「これが全部実現するにはどれくらいの広さが必要だろうか?」と話したときに、「最低でも、1万坪必要でしょう」と。「とりあえず、第一のステップとして、1500坪のところを探しましょう」ということで、今のダイヤモンドチャペルです。実際、広い場所が与えられたら、作業所、保育園、サッカースクール、チャーチスクール、弁当のサービスも始まりました。そういう中で、「場所が足りないねー」と祈り続けました。たまたま、昨年度、8500坪くらいの土地を手に入れることになった。考えてみたら、「ああ、もう、1万坪以上になりましたね。やっぱり夢を語ることはとても良い」という話になった。その土地は9億円するそうですが、既に手付金のため、1億円支払ったそうです。ちょっと桁がちがいます。練馬の小笠原先生は、向こう10年間で40の教会を生み出すというビジョンをたてました。私も彼らに触発されて、10年後のビジョンを総会資料に書きました。「350名の礼拝。5つの枝教会(5つあわせて350名?)、5人の牧師、50人の信徒リーダー。」数はあくまでも結果であり、そのプロセスが重要であります。とにかく、みなさん夢を持ちましょう。神様が事を起こすためには決まった方法があります。まず、私たちの心に志を起こさせる。神様の願いを私たちのうちに、inspireされる。同時にそれは神様からのエネルギーとなり、私たちは神様と共に実現していくのであります。どうぞ、神様から与えられた志や願いに水をかけて消すことのないように。むしろ、それを燃やし続けて、やがて目に見えるものとなることを期待しましょう。