2009.03.29 キリストの謙卑 ピリピ2:6-11

本日の箇所は、キリストはどんなお方であるかを知るために、神学的にとても有名な箇所です。また、この箇所は初代教会においてよく知られていた美しい讃美歌の1つではないかと言われています。使徒パウロはこの歌を引用することにより、キリストのような心構えを持ちなさいと勧めています。その心構えとは、2章の1節から4節にあります、一致と謙遜と思いやりであります。ピリピの教会の中には分裂や分派、あるいは虚栄心をもってキリストを宣べ伝える人たちがいました。パウロは見える行動ではなく、目に見えない動機とか心構えについて教えています。この世は結果とか、出来高など、何を成し遂げたかに注目します。それらは、いわば実であります。実も大事ですが、それを生み出す根っこの部分である、価値観とか、動機、心構えがもっと大切であります。

1.キリストの謙卑

①神と等しくあることを固守せず

 ピリピ2:6-7「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ…」。「キリストは神の似姿である」とは、どういう意味でしょうか?それは、キリスト様が神と等しいお方、神そのものであるという意味です。そのお方が「神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無に」されたわけです。これは、キリスト様が持っておられる、さまざまな神様の特権、たとえば神の全能性、遍在性、権威、栄光を捨てられたということです。イエス様は神でありましたが、人間になられました。ロゴスなる神が、肉体の中に収まったために、父なる神様にすべて依存するしかなくなったのです。ある神学者は、「神が人となるとは、人間がうじ虫になることと同じようなものだ」と言いました。ああ、私はハエの幼虫であるうじ虫になんかなりたくありません。そんなの、いやです。このところに、「捨てられない」ということばがあります。原文には「引ったくる、奪い取る、手にいれた宝を失いたくない」という意味があります。日本語の他の聖書は「固守しない」とか「固執しない」「執着しない」と訳しています。アダムはどうだったでしょうか?アダムは人間でありながら、神のようになることを固執し、それを奪い取ろうとしました。一方、第二のアダムである、イエス・キリストはご自分が神であることに固執せず、それを捨てたのであります。みなさんは、せっかく得た宝物をすんなり放棄することができるでしょうか?

 また、「ご自分を無にする」という「無にする」はギリシャ語で「ケノオー」でありますが、ここから「謙卑」という神学用語が生まれました。ここでは、「神たる地位を棄てる」「自分の意思を空しくする」「貧しくなる」という意味になります。キリストは自分を空しくし、神たる地位を棄てて、どうなられたのでしょうか?「仕える者の姿をとり、人間と同じになれた」とあります。仕える者とは、奴隷と言う意味です。最初は神の姿であられたキリストが、奴隷の姿になられたのです。奴隷とは、人間以下であります。神様から奴隷になるとは、その高低差たるやいかばかりでしょうか?私たちは人の奴隷になるなんてまっぴら御免です。ところが、神である方が、人間となり、さらにその下である奴隷になった。もう頭が着いて行けません。では、イエス様がこの地上において、本当に、仕える者、奴隷であったのでしょうか?一番、有名な箇所は、ヨハネ13章であります。最後の晩餐をするために、弟子たちが二階の広間に集まりました。普通でしたら、入り口に召し使いがいて、お客さんの足を拭いて上げます。でも、弟子たちは「この中でだれが一番偉いのか?」ということに関心がありましたの。だから、進んで、人の足を拭いてあげようなどと考えていた人はいませんでした。みんな汚い足でしたけど、知らんぷりしていたのであります。ところが、イエス様が席から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取り、それを腰にまとわれました。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い、腰にまとっておられる手ぬぐいで、拭いてあげました。最後に、イエス様は「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきです。…私はあなたがたに模範を示したのです」と言われました。

②自分を卑しくし

 続いて、ピリピ2:8をお読みいたします。「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」。「従い」という表現が2回ほど出てきますが、イエス様は父なる神様に完全に従われました。それはイエス様が、私たち人類の代表となり、私たちの身代わりとなるためです。イエス様の地上の生涯を見るならば、「神ではないんじゃないか」と疑いたくなります。実際、キリスト教の異端であるエホバの証人は、「キリストは神ではない。神よりも劣る存在である」と言います。どういうわけか、イエス様は、自分は神であるとは一度もおっしゃっていません。むしろ、ご自分を「人の子」「人の子」とおしゃっています。でも、それは私たちの代表、完全な贖い代となるためだったのです。また、「自分を卑しくし」とは、「地位・身分、境遇において低くする、卑しくする」という意味です。他には「当然の権利を放棄する」という意味があります。まさしく、イエス様は、イザヤ書53章に預言されている「苦難のしもべ」でありました。イザヤ書53章の初めにはこう書いてあります。「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」まさしく、イエス様はご自分を卑しくされました。そして、「死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」。人間になり、奴隷になることも大変でありますが、十字架に付けられて死ぬということはどういうことでしょうか?ローマの時代の十字架は最も醜悪な死刑の道具であり、ローマ市民は絶対に十字架刑にはなりませんでした。異邦人のよっぽどの犯罪人か、政治犯であります。イエス様はユダヤ人からは神を冒瀆したかどで死刑を宣告されました。しかし、その当時ユダヤ人には死刑にする権利がありませんでした。そこで、ローマに対して、カイザルに背いた王様として十字架に渡したのであります。ですから、十字架のてっぺんには、ヘブル語、ギリシャ語、ラテン語の3種類の言語で書かれた「ユダヤ人の王」という罪状書きが取り付けられました。ヘブル語は宗教の言語、ギリシャ語は文化の言語、そしてラテン語は学問の言語であります。つまり、全世界に対して、イエス・キリストは十字架にかかられたのであります。

 しかし、イエス・キリストはすぐ十字架につけられたのではありません。真夜中における、ユダヤ人の裁判の後、リンチがありました。目隠しをされて平手で殴られました。人々は「だれが打ったか当ててみろ!」と言いました。朝になると、人々は「十字架につけろ」と口々に叫びました。死刑の宣告後、ローマ兵の全部隊が集まり、イエス様をいたぶりました。紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶせ、「ユダヤ人の王様。ばんざい」と叫びました。そして、葦の棒で頭をたたいたり、つばきをかけました。その後、裸にされ、ローマの鞭を何十回も体に受けます。パッションという映画を見ましたが、屈強なローマ兵たちが力任せに鞭を振り下ろします。鞭の先は何本にも別れており、そこには鉛や動物の骨が編みこまれています。1発でもそれを受けたら気絶してしまうでしょう。ユダヤの鞭は39回でしたが、ローマの鞭はそれ以上です。背中だけではなく、裏返しにされて、お腹にも、顔にも、鞭が当てられました。血が飛び散り、肉が裂けました。イエス様の顔は、崩れ去り、もはや人間の顔でなかったかもしれません。だから、イザヤ書には「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」と預言されているのです。そして、十字架にかけられると道行く人たちが、さんざん馬鹿にしました。「他人は救ったが自分は救えないのか」とか、「十字架から降りてみろ、そうしたら信じる」とか、勝手なことを言いました。イエス様は人々からも捨てられただけではなく、父なる神様からも捨てられました。なぜなら、私たち全人類の罪を背負われ、罪そのものとなったからです。

 「キリストの謙卑」とは、「謙遜」と「卑しい」を合わせた言葉です。イエス様はご自分が神であることに固執しないで、神たる権威と栄光とを捨てたのであります。そして、イエス様は空しくなり、仕える者の姿をとり、人間と同じになれました。イエス様は自分を卑しくし、ご自分が持っておられる、当然の権利をも放棄しました。イエス様は十字架の死にまでも従われました。それは、私たちの贖うためであります。私たちは贖い主の真似はできません。十字架の贖いはイエス・キリストだけができたことであります。しかし、パウロは「このイエス・キリストこそが謙遜の模範となられたのだから、そのことを学びなさい」と私たちに勧めています。謙遜とはどういうことでしょうか?それは自分が持っている権利、自分が持っている立場、自分が持っている栄光というものを棄てるということです。私たちは生まれたときは裸でした。何も持っていませんでした。でも、大きくなるにしたがって、勝ち得たものがあります。学歴、様々な能力、資格、財産、金、地位、名声、信用…。そういうものを一旦、得たならば、手放すのは容易ではありません。私たちは、それらを「固守し」「固執し」「執着する」のであります。しかし、謙遜になるとは、イエス・キリストのように、得た宝物を放棄するということです。「全部、放棄したらどうなるんだ!」と文句を言いたくなります。聖書的な放棄とは、こういう意味です。神様に対して、「私が持っているものはすべて、あなたから預けてもらったものであり、本来、私のものなど1つもありません。すべてはあなたのものです。私は管理者にすぎません。あなたが必要だとおっしゃるなら、すぐにでもお戻し致します」ということです。私たちは、「これは私が勝ち取った物だ」と、所有者になってしまうので傲慢になるのです。そうではなく、私は神様のしもべです。あなたの御用のために、喜んでお捧げ致します。このように忠実な管理者になることが、謙遜になるということなのであります。

2.キリストの高揚

高揚(高挙)とは、キリストが低きところから高く引き上げられ、再び神様の座に着いたということです。週報に絵が書いてありますが、キリストの高揚はどこから始まるかというと、十字架から始まります。イエス様は十字架で「完了した」と叫ばれました。それは、贖いが完了したという意味であり、地上に来た目的を果たしたということです。そして、イエス様の肉体は死んで、墓に埋葬されました。埋葬とは、完全に死んだということです。完全に死んだ人だけが埋葬されるのです。しかし、イエス様の霊はどこへ行ったでしょうか?Ⅰペテロ3:19「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです」とあります。また、エペソ4:8「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた」とあります。イエス様は霊において、陰府の底までお下りになり、勝利を宣言し、そこでもみことばを宣べ伝えました。それだけではありません。復活するとき、陰府の一部を携え挙げて、やがてそこをパラダイスにしたのであります。つまり、陰府の中にいた、義人の魂を引き上げて、パラダイスに移したのであります。ちょっと私たちの頭では考えることができません。イエス様はただで復活したのではなく、多くの虜を携えて復活なされたのです。

 そして、イエス様の肉体を父なる神様はご自分の全能の力によって、よみがえらせました。「よみがえらせました」というのは、受動態であります。正確に言うなら、イエス様はよみがえったのではなく、よみがえらされたのです。死んだ人は自分で何もすることができません。死んだのですから当然です。使徒の働き2:24「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです」。2:27「あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。」そうです。イエス・キリストはすべての罪を支払って死なれました。死(ハデス)というのは罪ある者が行くところです。しかし、イエス・キリストには罪がありませんでした。そこで、父なる神は、イエス様を死(ハデス)から引き上げ、よみがえらされたのです。ハレルヤ!ところで、4月5日は受難週、12日はイースターです。きょうのメッセージは、その前哨戦であります。私たちの肉体も再臨が来なければ、死んで墓の中に葬られます。魂はパラダイスに行くでしょうが、肉体は死んでいるので何もすることができません。肉体はしばらくの間、眠るのです。ある人はお墓の中で、ある人は粉になって海の中を漂っているかもしれません。でも、世の終わり、イエス・キリストが来られ、私たちの名前を呼んでくださいます。そのとき私たちの肉体が目覚め、イエス様のように死なない栄光の体によみがえるのです。そして、天に引き上げられ、先に行っていた魂と合体するのです。イエス様は私たちのために復活の初穂(保証)となられたのです。

 再び、イエス様のことに戻します。イエス様は復活したのち40日間、弟子たちに姿を現わされました。聖書には、少なくとも500人以上の人たちが実際に見たと書かれています。その後どうなったでしょうか?使徒の働き1章ではオリーブ山の頂から、天に上って行かれたと書いてあります。昇天であります。天に上ってからどうなったのでしょうか?「待ってました!」それがピリピ2:9-10の内容であります。「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」アーメン。イエス・キリストは父なる神の右に座され、すべての名にまさる「主」という称号を与えられました。これは旧訳聖書の「主」と同じ意味であり、契約の神を意味する神の名前であります。正確に言いますと、イエス様が引き上げられて、元いた状態にまで戻ったということではありません。イエス様がへりくだって人間となり、卑しくなって十字架につき、死んで葬られ、陰府に下り、復活され、昇天し、着座されてからすべての名にまさる「主」という称号を与えられました。そして、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白するということです。それは、天地おいても、霊界においてにも、主の主、王の王になられたということです。エペソ人へ2:21「すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました」と書いてあります。ですから、主イエス・キリストにまさるお名前は他にいないということです。

 イエス・キリストはこのように自らをへりくだらせ、空しくなり、卑しくなったことによって、こんなに高く引き上げられたということは、私たち対する神様の保証でもあります。使徒パウロは、「キリストの謙卑と高揚を例にあげて、もしあなたがたがキリストの謙遜に倣うなら、このような神様からの報いがありますよ」と言っているのです。使徒ペテロもⅠペテロ5:6でこのように述べています。「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです」(Ⅰペテロ5:6)。アーメン。私たちの生まれつきの性質、肉はへりくだることを好みません。「なんでだ!」と自分の義を主張します。あるときは、自分のことを棚にあげて、神の律法を手にとって相手を裁くかもしれません。このことは、牧師も信徒も例外ではありません。牧師は講壇から聖書を持って、「みなさんへりくだりなさい」と叫ぶことができます。しかし、信徒のみなさんはどうでしょうか?会堂を出てから、「お前こそ、へりくだれ!」と言うかもしれません。ですから、これは相手に言うことばではなく、自分に対する神様のみことばと受け止めるしかありません。私たちの人生において、様々な問題が起こります。クリスチャンになったら、クリスチャンになったで、新たな問題が起こるでしょう。でも、勝利の秘訣があります。それは「へりくだり」であります。私たちが頭を下げて、へりくだり、主に解決を求めるならば、どうでしょう。問題が全部、私の頭上を乗り越えて、通り過ぎて行くでしょう。そうではなく、自らが神のようになり、自分の義をふりかざすならどうでしょう。一生、どこへ行っても、困難や問題がぶち当たってきます。人々を通して、環境をとおして、病気や災難をとおして、あなた自身を打ち倒そうとするでしょう。一番の問題は、私たちの「我」であります。砕かれていない自我であります。自ら神様の前に真実になり、主の前にへりくだるのです。そうすればいかなる環境においても、神の平安があなたを支配するでしょう。このことは皆さんもそうでありますが、私自身も学んでいることであります。「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです」(Ⅰペテロ5:6)。アーメン。