2009.02.01 パウロの同労者 コロサイ4:10-18

パウロは聖書の中で最も用いられた人物の一人です。新約聖書の13の手紙を書きました。また、パウロには使徒職だけではなく、霊的賜物もほとんど備えており、宣教、牧会、癒し、奇跡、預言、異言、教え、知恵、知識など、まさしく霊的巨人であります。パウロは異邦人の教会を開拓し、土台を据えた使徒でありますが、一人でやったわけではありません。パウロを支えるたくさんの同労者がいました。最後にパウロは、ローマの牢獄で捕らえられていたので、動きたくても動けない状態でした。「神様!どうして使徒パウロを解放して、もっと用いないのですか!」と訴えたくなりますが、神様の考えはそうではありません。パウロは自由に動けませんでしたが、その代わり、各教会にたくさんの手紙を書きました。パウロの同労者たちがその手紙を携えて各教会を訪問し、また、その様子をパウロに伝えたのであります。それは、私たちに「一人ではなく、チームで牧会をする」ように教えているかのようであります。

1.パウロの同労者

 「同労者」のもとになったギリシャ語の動詞はスネルゲオーですが、「一緒に働く、共働する、仕事を手伝う、助ける」という意味があります。使徒パウロと一緒に働いて、その仕事を助けた人たちにはどんな人がいたのでしょうか?まず、パウロと常に行動を共にした同労者がいました。つまり、一緒に伝道旅行をし、そこに教会が建てられたら、同労者数人が残りました。そして、ある期間が過ぎると、またパウロと合流し、その後、また他の教会に遣わされるという次第です。彼らは、使徒パウロの働きを拡大し、継続した人たちです。パウロの一番弟子は何と言ってもテモテです。コロサイ1:1「神のみこころによる、キリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから」と、一緒に挨拶を送っています。テモテは父がギリシャ人で母がユダヤ人でした。第二次伝道旅行中、小アジアのルステラで出会いました(使徒16章)。テモテのためには、2つの手紙が残されています。パウロ自身には子どもはいませんでしたが、「信仰による真実のわが子テモテ」と言っています。私は長男が与えられたとき、テモテと名づけたかったのですが、副牧師から「それはかわいそうだ」と止められました。当時、テレビで「テモティー」というシャンプーなかんかのCMが流行っていたからです。外国人にはそういう名前の人がいますが、やっぱり、おかしいでしょうか?今思えば、家内が名前をつけて良かったのかもしれません。

 コロサイ1:7には「テキコ」という同労者の名前が出ています。彼には、たくさんの修飾語がついています。「主にあって愛する兄弟、忠実な奉仕者、同労のしもべであるテキコ」。いいですねー。テキコの代わりに自分の名前を入れたらどうでしょうか?女の人は、「主にあって愛する姉妹、忠実な奉仕者、同労のしもべであるトシコ、サチコ、ヨシコ」。9節には「オネシモ」という人が出ています。「あなたがたの仲間の一人で、忠実な愛する兄弟オネシモ」。どうも、テキコとオネシモがローマからコロサイにパウロの様子を知らせに行くようです。でも、このオネシモと言う人はどんな人でしょう。ピレモン書を見ますと、彼はコロサイの有力なクリスチャン、ピレモンのもとから逃亡した奴隷であることがわかります。オネシモはローマの獄中でパウロと出会い、回心しました。パウロはピレモンに対して「奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟して受け入れるように」と願っています。オネシモは、以前は役に立たない人でしたが、今はオネシモ「役に立つ者」となったということです。それから、パウロと一緒に囚人になっている人もいました。10節には「アリスタルコ」がいます。この人物はテサロニケの人ですが、パウロとエルサレムへ一緒に行ったとき捕らえられ、船に乗ってローマに行きました。嵐で難破した船の中にパウロと一緒におり、今も、ローマの獄中で一緒です。「いやー、パウロと一緒に牢の中にいるなんて!うらやましいですね。」一緒に牢に入るくらいの同労者って何なんでしょう!また、10節半ばには、バルナバのいとこマルコの名前が載っています。マルコは第一次伝道旅行の途中、エルサレムに帰った人です。第二次伝道旅行のとき、パウロは「仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かない方が良い」と考えました。つまり、マルコは同労者としては失格だから、「ノー、お断り」と言ったのです。でも、今は、パウロと一緒にいます。何があったのでしょう?マルコが成長したのでしょうか?それともパウロが成長したのでしょうか?Ⅱテモテ4:11でパウロは「彼は私の務めのために役に立つからです」と言っています。

 さらに、11節以降には、ユトスというイエスがおりました。ユトスはパウロを「激励する者」となってくれました。今でいうチア・リーダーのような存在ですね。指導者とは孤独なものです。パウロはユダヤ人からものすごい迫害を受け、反対者も多かったでしょう。そこに、ユトスのように「激励する人」はなんとありがたい存在でしょうか。インドネシアのエディ・レオのところに行ったとき、とても感激したのはそのことです。エディ・レオ師を物心ともに支えている人たちがいました。まるで家族のように親しい存在で、「うらやましいなー」と思いました。12節にはエパフラスという人がいます。13節からもわかるように、彼はコロサイの人ですが、コロサイ、ヒエラポリス、ラオデキヤの教会を建てたと思われます。コロサイの教会に危機が訪れたのか、ローマにいるパウロを訪ね、指示を仰ぎました。今しばらくの間、パウロと共に獄中にあったようです。でも、彼はコロサイの人たちが「完全な人となり、神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるように、祈りに励んでいます」。14節には「愛する医者ルカ、それにデマスが」パウロと共にいました。ルカは最初の頃からパウロと伝道旅行を共にした人物で、「使徒の働き」と「ルカによる福音書」を書いた人物です。パウロ自身、「肉体に1つのとげがある」と言っていますが、医者であるルカが共にいたということはなんと幸いでしょうか?しかも、ルカは最後の最後まで、パウロと同行していました。Ⅱテモテ4:10,11「デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ったからです。ルカだけは私とともにおります。」とあります。デマスは最初、パウロと一緒にいましたが、「今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまいました」。「がびーん」であります。デマスになっては、いけません。ルカのように最後まで、忠実に従う人が良いですね。15節以降には、家の教会もあったようです。ヌンパと言う人がそこの指導者でした。17節にはアルキポがいます。おそらく、コロサイのクリスチャンであろうと思われます。アルキポにはどこか問題があったのでしょうか?パウロはアルキポに「主にあって受けた務めを、注意して果たすように」と述べています。どこか彼は不忠実だったのでしょうか?それとも、迷いがあったのでしょうか?主からゆだねられた務めを、果たすということはとても重要です。

 これで全部終わりました。パウロの同労者とはどんな人たちでしょうか?一見、パウロの手足みたいな感じがしますが、そうではありません。なぜなら、彼らもかしらなるキリストにつながっていたからです。でも、パウロは使徒として神様から召され、使徒の務めを全うするために同労者が必要でした。では、使徒とは端的にどういう人なのでしょうか?エペソ人への手紙4章には教会の五職の賜物について記されています。エペソ4:11「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになった」とあります。使徒は五本の指の親指のような存在です。使徒(親指)、預言者(人差し指)、伝道者(中指)、牧師(薬指)、教師(小指)です。面白いことに、5本の指の中で、親指だけが、他の4本の指と、自由に接触することができます。中指で他の指と接触するためにはとても苦労します。でも、親指は万能です。そうです。使徒は教会を開拓し、神学的な土台を据える賜物があります。だから、そのときどうしても、預言者、伝道者、牧師、教師の賜物も必要になります。使徒は複雑なことがらを端的にまとめ、それを伝授していきます。しかし、使徒には唯一の欠点があります。何でしょう?その場所で、同じ働きをずっとやることができません。飽きてくるのです。パウロは長くても3年、テサロニケには3週間しかいませんでした。牧師であれば、20年も30年も、留まることができますが、使徒にはできません。それでどうするのでしょうか?教会に長老や牧師を任命し、バイバイと言って、他の地域を開拓しに行きます。でも、そのまま放っておくのではありません。自らもまた訪問することがありますが、同労者たちをそれらの教会に度々、送って指導したのです。これが使徒パウロの戦略であります。また、使徒には霊的賜物を発掘し、油注ぎを与える賜物もあります。だから、ローマの教会に「御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです」と願っています。テモテも時々、油が切れたのかパウロが「私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください」と書き送っています。以上が、コロサイ書にあります、パウロとパウロの同労者たちのことです。パウロというか、イエス様にどこまでも従っていく、同労者になりたいですね。アーメン。

2.チームでする牧会

 後半は、どうして牧会はチームでしなければならないのか短く、お話したいと思います。最近、『チームでする教会づくり』と読み終えました。以前、古いものも読んだことがありますが、改訂版を読んで、「ああ、本当だなー」と具体的に気づかされたことがたくさんありました。ベン・ウォンのコーチングは、根っこの部分、価値観とか、動機という面が強調されていました。でも、ウェイン・コディロは『チームでする教会づくり』の本の中で、「あなたならどうしますか」という適用面も教えてくれたのでとっても助かりました。

①チームで牧会する第一の理由は、教会はキリストのからだだからです

 かしらはキリストで、一人ひとりはからだの器官です。「教会がキリストのからだである」ということは、様々な器官が組み合わされて奉仕をするように召されているということです。また、様々な器官とは、神様から与えられた様々な賜物という意味です。賜物の中には生まれつき与えたれたものとか、努力して得た賜物があるでしょう。外交的とか内向的という性格もあります。また、関係作りの得意な人もおれば、もくもくと働く仕事中心の人もいます。指導する人もおれば、手足のように活動する人もいます。また、Ⅰコリント12章には霊的な賜物があり、癒しとか預言、知識や知恵のことばがあります。あるとき、ピラーっと、聖霊様から示されることがあるでしょう。とにかく1つの価値基準で人を測ってはいけません。パウロは「からだの中で比較的弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです」(Ⅰコリント12:22)と述べています。小指を立てたまま、握ってください。何か力が入りません。しかし、小指と一緒に他の指も曲げると、ぎゅっと握力が増します。教会では音楽や賛美が目立つかもしれません。でも、隣に座って、人の話に耳を傾ける人も必要です。その人が深くうなずいてくれただけで、大きな励ましを受けるでしょう。ある人は、駐車場係りの誘導で、クリスチャンになったという人がいます。日曜日の車の送迎に感動して、クリスチャンになる人もいるかもしれません。アーメン。

 各からだの器官においてもっとも大切なことは何でしょう?その人がものすごい賜物や能力があったとしても、生かされない場合があります。それは何でしょう?キリストのからだなる教会から離れたときです。孤立した場合です。そうすると、せっかく神様から与えられた賜物が死んでしまいます。神様はキリストのからだなる教会を通して、あなたを用いたいのです。一匹狼的なクリスチャンでは、ダメなんです。手や足、そして指もからだにつながっていないと、その役目を果たすことができません。また、手足がからだから離れたなら、血液がストップし、死んでしまいます。ですから、私たちはキリストにつながるだけではなく、お互いにもつながりあって、はじめて、神様から与えられた使命を全うすることができるのです。私たちのからだ全体、私たちの賜物全体が集まると、そこに何が見えるでしょう。復活のイエス・キリストが見えてきます。イエス・キリストは今、教会と言うからだを通して、生きておられ、この世で働きたいと願っておられます。

②チームで牧会する第二の理由はクリスチャンすべてが万人祭司だからです

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です(Ⅰペテロ2:9)」。すべてのクリスチャンは祭司です。つまり、すべての人がミニスターだということです。ミニスターとは一般的に聖職者とか大臣という意味ですが、本当はそうではありません。もともとは、ギリシャ語の「デァコネオー」から来たことばで、「給仕をする、仕える、世話をする」という意味があります。だから、ルターが言うように、すべてのキリスト者が神様と人々に仕える祭司だということです。しかし、プロテスタント教会は、ローマカトリックのなごりを、今だに持っています。石原良人師はご自分のブログでこのように述べています。「万人が祭司になるためには、教役者たちが、プライド、支配欲から解放されなければなりません。自分の欲ではなく、神の御国が広がることを欲するまで、御心を追い求める必要があります。支配欲を手放し、信徒たちが自立できるように促さない限り、万人祭司はあり得ないからです。世界を見る時に、チャーチプランテイング・ムーブメントが様々な国で起こっています。神ご自身が再臨に向けて、御国を一挙に拡大しておられるようです。実はこのムーブメントは、明らかに万人祭司を見事に実現させており、信徒が自分でセルグループ・レベルの教会を起こし、それが再生産しているのです」。ちょっと今、石原先生はひりこもりに集中していますが、良いこともおっしゃっています。

今は、「1つのセルが教会なんだ」というところまで来ています。私たちは教会員がどこかに引っ越したら、その近くの良さそうな教会を紹介します。しかし、そうではなくその引っ越した先で、セルを起こし、そこに教会を開拓するという運動が始まっています。コーチングの仲間に渡辺牧師がいます。茨城の筑西市、2005年に下館市と真壁郡など合併してできた市です。つくばの北西にあります。彼は田舎に10年くらい前に教会を開拓し、教会員は50名くらいでしょう。さらに、つくばエキスプレスでできた新たな駅の近くに、教会を開拓しようとしています。一人の姉妹を遣わし、そこから始めようとしています。ところが最近、JCMNで働いていた清水兄ご夫妻もその近くで開拓を始めました。教会はつくば市の町に集中していますが、郊外にはほとんどありません。おおー、それなのにゼロから、いやセルによって教会を始めようとしています。セルとは1つの細胞です。細胞がぽろっと、一粒の種のようにその地に根を降ろし、増殖していく。おそらく、洗礼も聖餐式すべてセルで行うのでしょう。でも、孤立しているとやっぱり弱いので、ネットワークとコーチングで支えていくということです。既存の教会の外にセルを作る、これが、今、最先端のわざです。でも、足元である当亀有教会を見たらどうでしょう?セルで教会を開拓するなどというのは夢みたいな話です。ですから、まず、本当にいのちあるセルを作ること先決です。私も郵便局を3月いっぱいで辞めて、セルを作るためのコーチングに専心していきたいと思いますので、よろしくお願いします。

③チームで牧会する第三の理由は、私たちは神の家族(共同体)だからです

ミニストリー(働き)も大事ですが、それ以上に関係が大事です。ともすれば、私たちは教会を会社組織に似せてしまいます。会社は利潤をあげるために組織化し、人々はお金を得るために働いています。命令系統は、社長、部長、課長、係長、平とピラミッド型です。会社ではミィーティング(会合)をしばしば持ちますが、大体は事務的な内容で、心の中のことは一切話しません。本音を話すところはもっぱら、居酒屋であります。そこでは、仕事の愚痴や上司の悪口でしょう。もし、教会を会社のように考えるなら、教会を大きくするために、人々を動かすでしょう。役員会も雇用者と労働者のような論争の場になるかもしれません。しかし、教会は神の家族です。もちろん、最低限度の規則とか戒規は必要でしょうが、それは特別な時だけです。ふだんは、互いに愛し合い、互いに赦しあい、互いに助け合う場であるべきです。つまり、教会は教勢(人数や予算)をあげることも大切ですが、それよりももっと大切なのは、関係であります。教会にきてほっとする、そういうところでなければなりません。それは、律法が支配しているのではなく、恵みが支配しているところです。私たちはそういう暖かい神の家族の雰囲気をかもし出して行きたいと思います。

でも、みなさん「教会は神の家族だ」とは言いますが、私たちは本当の家族を経験しているでしょうか?私の家などは、父は酒乱で、母を打ち叩き、母も子どもたちの前で父をむちゃくちゃ非難していました。兄弟同士が集まると喧嘩し、まるで無政府状態でした。そういうところで育った牧師が、「教会は神の家族です」と言っても、心の傷が癒されないとすぐには無理であります。また、韓国の家庭は儒教のもとで、非常に父親の権威が強く、口答えなど全く許されませんでした。日本の教会も韓国の教会から学びましたが、儒教の影響を受けた牧師像も一緒に学んだのではないでしょうか?かつて、「牧師に権威がなくては、教会は成長しない」とよく言われましたが、本当にそうでしょうか?ふだんちっともコミュニケーションを取らないで、権威だけ振りかざす、それは本当の牧師ではありません。本当の権威は、人々から尊敬されるときに、自然と生まれるものです。「私は牧師だから権威があるんだ」と押し付けたら、イエス様の生き方とは反対になります。教会が大人数になったら、家族のような交わりは不可能になります。「大きな教会は冷たい」と言われます。でも、少人数のグループ(セル)がその中にたくさん存在していたなら、どうでしょう。セルの中には、父や母のような存在の人、若者、霊的な子供もいるでしょう。その中でもっとも大切な役割を果たすのは、天の父の心を持った人です。ファザリングとか、メンタリングとも言いますが、父の心を持った兄弟姉妹の存在が鍵です。ルカ15章の放蕩息子の兄のような存在ではなく、父親のような存在です。どうぞ、憐れみに満ちた、父の心を持ちましょう。そうすれば、教会はひとりでに神の家族となっていきます。きょうは前半ではパウロと共に働いた同労者について学びました。また、後半はチームで教会を作るということを学びました。みなさん一人ひとりがイエス様の同労者であり、キリストのからだを形成するためのかけがいのない存在です。アーメン。