2009.01.01 天にあるものを思う コロサイ2:10-3:4 ※元旦礼拝のメッセージです。

新年明けましておめでとうございます。主イエス・キリストが来られて、恵みの年がはじまりましたが、今年はその2009年目であります。と言うことは、イエス様が再び来られる御国の完成が、また一年、早まったということです。「主よ、来てください」とヨハネ黙示録のように、主の来臨を待ち望みつつ、この年も歩みたいと思います。元旦のメッセージは、「天にあるものを思う」と題して、コロサイ人への手紙からお届けいたします。

 私たちはキリストにあって一度、死んでともによみがえらされた存在です。「キリストにあって」とは、キリストの中に潜り込む(バプティゾー、洗礼)ということです。私たちは2009年に生きていますが、もし、キリストの中に潜り込むなら、どういうことになるでしょうか?この聖書がキリストだとします。そして、この名刺があなた自身だとします。はい、あなたはイエス・キリストの中に入りました。すると、キリストが死んだとき、あなたも一緒に死んだのです。そして、共に葬られました。それからどうしたでしょう。神様はキリストを死者の中からよみがえらされました。そうです。あなたもキリストのともによみがえらされたのです。それで終わりではありません。イエス様は復活後、どうなされたでしょうか?そうです。天に昇り、父なる神の右に着座されました。ではあなたは、今、どこにいるのでしょう?そうです。天において、イエス様の隣にいるのです。エペソ人への手紙2:6「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」とあります。ハレルヤ!あなたは霊において、今、現在、天にいるのです。つまり、父なる神様、イエス様、その次に、あなたがいるのです。だから、このようなメッセージがこの次に来るのです。コロサイ3:1-2「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」私たちの肉体はこの地上に生きています。でも、霊的には私たちはすでに、神様のところ天上にあるということです。

 では、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさいとはどういうことでしょうか?地上のものとは肉体と魂(心)に関することです。私たちの肉体はこの地上の物質と関わって生きています。肉体には食べたり飲んだり、触ったり、嗅いだり、見たり、聞いたりする感覚があります。また、魂(心)はどうでしょうか?魂は、人と関係するところなので、好きになったり、嫌いになったり、あるときは怒ったり、拒絶したくなります。私たちの肉体や魂は、この世にあって様々な誘惑を受け、あるときは罪を犯してしまいます。パウロは何と言っているでしょうか?コロサイ3:5以降「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために、神の怒りが下るのです。あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。」これらの罪は、おもに肉体に関することです。私たちの肉体は、不品行、悪い欲、むさぼりなどを求めます。昨年のクリスマス、KGCのゴスペルコンサートがありました。私たちはそのため衣装を着ますが、アリオでは上が赤で、教会のコンサートでは上が黒でした。最初は紳士服「青木」で赤いシャツを見つけ、それを購入しました。その次は、黒が必要です。また、「青木」に寄ったら、ちょうど色違いの黒いシャツがありました。それも買ってしまいました。家にはまだ着れそうなのがあったのですが、光沢があったほうが、映えるだろうなーと思いました。これは何でしょう?むさぼり、貪欲であります。もっと欲しくなる性質です。テレビにはいくつかのチャンネルが、テレビショッピングになっています。24時間、放映されています。パソコンにも、「今はこれが安いですよ」とたくさんの広告が勝手に入ってきます。たまには、「どれどれ」とクリックしてしまいます。男性は、これだけではありません。不品行、汚れ、情欲・・・こういうものと一生戦っていかなければなりません。牧師であっても例外ではありません。現在も、何人かの牧師は訴えられています。私はその人たちの気持ちがよーく分かります。私が罪を犯していないのは、神様のただただ、あわれみであります。男性諸君、気をつけましょう。昨年の11月、メンズミニストリーがありました。男たちは互いに告白し合い、互いに責任を負い合う必要があります。ワン・ツー・スリー。

 次には魂(心)に関する罪があります。これはコロサイ3:8以降です。「しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。互いに偽りを言ってはいけません。」怒り、憤り、悪いことばは、心から出てくるものです。その原因は何でしょう?物質ではありません。人間関係であります。私たちの魂(心)は人と触れ合い、様々な感情を抱きます。だれとも会わないで生活することはできません。必ず、会うんです。たとえ、嫌いな人であっても、避けることはできません。会社にも、教会にも、家族にも、あなたと気が合わない人がいるんです。そういう人と会うとどうなるでしょうか?怒り、憤り、悪意、そしり、悪い言葉が出てきます。「あの人は、なんでああなのだろう?あの人は、いつもあんなことをしている。あの人は、やっぱり普通じゃない。こういうことを感じているのは、私だけではない、きっと多くの人もそう感じているだろう。」そういう思いが湧き上がり、口にも出てきます。

李光雨先生は怒りの問題を「怨念晴らし」という言葉で説明しています。私たちは過去において、嫌な経験をして、そのことが怒りとして残っています。不条理にさらされた。不当な扱いを受けた。拒絶された。あのときの不公平が我慢できなかった。そういうものが怒りとなって、まるでマグマのように心の底にたまっています。たまたま、同じ状況に出くわします。あるいは同じようなタイプな人と出くわします。何かのきっかけでマグマが「どっかーん」噴出します。怨念を晴らすわけです。怨念を持っているのは自分だけではありません。相手も持っています。しかも、怨念を晴らしたい者どうしが、磁石のように引き合います。「もう、我慢できない」とお互いに、怨念を晴らす。それはまさしく、修羅場、サタンの草刈場であります。教会も、怨念を晴ら場所になってしまいます。そして、多くの牧師がその対象になります。なぜなら、牧師は親とか、権威あるものの象徴だからです。また、牧師に怨念を晴らしても、多くの場合、仕返しすることがないからです。安全なところで、人は怨念を晴らします。李光雨先生はこのように言います。「うちでは怨念晴らしは許していません。怨念晴らしをしない、させない、十字架に持って行く」。

 私たちはこの地上に生きていますので、肉体的な罪、そして魂(心)の罪にさらされる可能性がいつでもあるということです。多くの場合、それらが離れない。不品行、情欲の思いが離れない。取っても取っても、またべったりくっつてくる。怒りや憤りの問題も同じです。赦そう、赦そうと思っても、また戻って来て、イヤーな思いになる。そして、また裁いてしまう。その繰り返しであります。パウロは何と言っているでしょうか?「殺しなさい」「捨てなさい」「脱ぎ捨てなさい」と強烈なことを書いています。でも、簡単にそれができない。「・・・するな」というのは1つの律法だからです。私たちは律法に逆らいたくなるのです。でも、その前にすることがあります。それはコロサイ3:1-3、ものごとには順番があります。もう一度、お読みいたします。「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」私たちはすでに死んでいます。肉体も魂も一度、死んだ存在です。死んだ者は、何も求めないし、何も感じません。まず、このことを認めるべきであります。その次に、積極的な面があります。「キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」とあります。私たちはどこから求めるのでしょうか、どこから思うのでしょうか?この地上から、「ああー、おおー、主よー」と求めるのでしょうか?そうではありません。私たちは霊において、すでに、父なる神そしてイエス様の隣にいるのです。

 もし、私たちがイエス様と同じ天上にいたなら、どうなるでしょうか?そうです、神様、イエス様と同じ見方で、自分の地上の生活を見ることができるということです。グーグルというサイトのエンジンがあります。そこの地図をクリックすると、世界地図がばーっと出てきます。航空写真のモードに切り替えると、まるでスペース・シャトルで地上を見下ろしている感じになります。グーグルではイスラエルの聖地、ガリラヤ湖畔も行ったつもりで見ることができます。また、日本を見て、東京、葛飾、亀有、そして最後には亀有教会が見えます。人の歩いているところも見えます。さらには、ストリート・ビューとかいって、教会の目の前の通りの様子が見えます。「いつ撮ったんだろー」と思います。みなさん、もし、神様が天上から私たちの地上の生活を見ているならどう思うでしょうか?実際、ご覧になっていると思います。その次に、私が霊において、私自身の行動、肉体、魂に関することを高いところから見たらどう思うでしょうか?ちっと「ちいせーな」と思うでしょう。「小さいことで悩んでいる」「小さいことでくよくよしている」「小さいことを怒っている」。そのとたん、ああー馬鹿馬鹿しいことやっているなーと笑いが出てくる。そうすると、さっきまで肉体や魂にこびりついていたものが、ふっと消え去ります。ああ、私は今、天上にいるんだ。天上からものごとを考えているんだ。そして、横を見るならだれがいらっしゃるでしょうか?イエス様がほほでんでいらっしゃいます。イエス様が「わが子よ、よく悟ったねー」とおっしゃってくださる。みなさん、これが罪からの解放の秘訣です。悟った瞬間、罪の縄目が切れて、あなたは自由になるのです。その次にどうなるでしょうか?あなたは神様がもっていらっしゃる愛、喜び、平安、そして豊かさに満たされるのです。これこそ、天国の喜びであります。私たちは地上がどんなに荒れまくり、一寸先も見えない、どろどろした状態であっても、天に昇るなら、全く問題ありません。あなたはどこで生きていますか?もちろん、私たちの肉体や魂はこの世で生きています。でも、同時に霊的には天、神様のところにいるんです。この場所からは、悪魔さえも踏みつけることができます。

 皆さん、今度から祈るとき、どうしたら良いでしょうか?祈りは目を開いても、つぶってもできます。でも、目の前が混乱しているとき、地上のもので支配されているときは、ぜひ、目をついぶりましょう。あなたは霊において、すでに天上にいるのです。あなたは地上よりもはるか上にいます。父なる神様とイエス様が隣におられます。そして、父なる神様とイエス様に目によって、自分の地上を見るのです。「ああ、小さいなー」と思うでしょう。そして、本質的なもの、永続するものが何かわかってきます。その次に、あなたはまるで、すぐ隣に、イエス様がおられるように、現在の思いを告げれば良いのです。「イエス様、こうですよね。いや、こうでした。これからこうします。」ハレルヤ!あなたがイエス様に目を向けた瞬間、あなたを縛っていた欲望、怒り、様々な束縛が断ち切られるのです。そして、そこには天国のかおり、天国のひかり、天国の喜びがあるではありませんか。あなたは古い人を脱ぎ捨て、新しい人であるキリストを着るのです。そして、目を開けるとどうでしょう?「なんか、大丈夫な気がする」と信仰が湧いてくるのです。私たちはこの秘訣を聖書から学びました。何かあったら、すぐ、自分が天のところにいることを思い出してください。「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」