2009.01.04 新しい人を着る コロサイ3:5-14

この世において、私たちは互いに影響し合って生きています。仕事場で、学校で、家庭において、そして教会においても、そうであります。どうでしょうか?1回ではわかりませんが、その人と何度か会うとだんだん分かってきます?「ああ、この人は、こういうことが好きで、こういうことが嫌いなんだ」と分かってきます。また、「ああ、この人はこういう考え方をするんだ」という価値観が分かってきます。さらに、進んでいくとその人の性格が分かってきます。わがままだとか、怒りっぽい、あるいは「見た目によらず、優しくて誠実な人なんだ」と分かってきます。私たちは果たして、どことどこで交わっているのでしょうか?ある人は「心と心」と言いますが、私はもっと深いところだと思います。それは人格ではないかと思います。人格とは、心の最も深いところにあるその人自身のことであります。聖書では、人格のさらに内側には霊があると言います。心理学は心のことしか言いませんが、聖書はもっと深い霊の領域まで語っています。きょうは、どうしたら新しい人になれるのか、共に学びたいと思います。

1.新しい人を着る

 この世ではどうでしょうか?自分自身をよく見せるために、どのようなことをするでしょうか?まず、一番行なうことは、お化粧したり、身なりを整えることです。お正月、福袋をお買いになったでしょうか?福袋の中には、いろんな洋服がつまっているものあります。1万5千円分のものが、5000円だったりします。あの革ジャンとシャツ買えば良かったなー。テレビショッピングでは宝石やアクセサリーを美しいモデルさんが身につけています。「ああ、私もあれを身につけたら、きっとエレガントになるんじゃないか」と想像します。違うんです。モデルさん自身が美しいのでそう見えるのです。さらにはどうでしょうか?勉強をして教養を身につけたり、行儀作法や言葉使いを身につけたりします。ある人は、「こういう人になりたい」と、あこがれる人の性格や生き方を真似たりします。芸能人ですと、「こういうキャラで売るんだ」とばかり、本心を隠し、自分でない自分を演じて生きています。あなたもだれか別の人を演じていないでしょうか?しかし、それらはすべて外側の問題です。いくら演じても、それらはメッキのようなものであり、時間がたつとはがれてきます。聖書は「外側ではなく、もっと内側を変えていきなさい。なぜなら、内にあるものがやがて外に現れてくるからです」と言います。では、聖書の人間改造はどのように行なうのでしょうか?

 聖書は言います。私たちは一度死ぬ必要があると。そうです。キリスト教は生まれ変わりの宗教です。それは死んでから生まれ変わるのではなく、生きているうちに生まれ変わるのです。では、そのように生まれ変わるのでしょうか?私たちはキリストにあるならば、キリストの共に死んで、キリストと共によみがえります。イエス様を信じて、洗礼を受けたらならばそのようになります。コロサイ3章の前半を見ますと、私たちの肉体や魂(心)には、様々な罪の性質が宿っていることが分かります。地上の体の諸部分には、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、むさぼりがあります。また、生まれつきの心の中には怒り、憤り、悪意、そしり、恥ずべき言葉、偽りがあります。エレミヤ17:9「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう」と書いてあります。つまり人のこころはボロきれと同じで、修復不可能だということです。みなさん、雑巾を洗って、アイロンをかけてもそれは雑巾であります。つまり、修養とか修行では、私たちの心は変わらないのです。では、どうすれば良いのでしょう?聖書は、「一度、死になさい」と言います。「えー?キリスト教は自殺を勧めるのですか?」そうではありません。イエス・キリストを信じると、神様の方が私たちを死なせてくださるのです。Ⅱコリント5:17「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」アーメン。自分で死ぬのではありません。だれでも、キリストにあるなら、古い自分に死んで、新しい自分になっているのです。私たちがなすべきことは、キリストにあること、キリストの内に潜り込むことです。そうすると、神様が私たちの古い人を葬り去り、新しい人にしてくださるということです。コロサイ3:9節後半には「あなたがたは、古い人をその行ないと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです」とあります。11節では、「ギリシャ人もユダヤ人も、どんな人種であっても別はない」と言っています。

 つまり、こういうことです。私たちはイエス・キリストを信じると、聖霊によって新しく生まれ変わります。どこが?霊であります。死んでいた霊が新たに目覚めるのです。そして、キリストと共に、肉体と魂が一度死んで、古い人がその行ないと一緒に脱ぎ捨てられます。でも、そのままでは裸の状態です。裸では生きてゆけません。みなさんもお風呂に入るときはどうでしょうか?古い衣服を一度脱ぎ捨てます。そして、お湯に入って洗います。はい、綺麗になりました。でも、そのままでは風邪をひくし、また、恥ずかしいですよね。それで、綺麗な下着を着て、何枚か服を着ます。そのことと同じです。私たちは霊的に新しくなったので、古い洋服を脱ぎ去り、新しい服を着るのです。つまり、それは私たちの人格に、新しい人、神様からの新しい性質を着るということであります。私たちはクリスチャンになっても、人格的に裸のままでは生きていくのは不可能です。やはり、キリストに似た新しい人、新しい性質を着なければなりません。キリスト教会でも、良く、言われることですが、「教会ではありのままで良い。裸と裸の関係が大切だ」と言います。しかし、どうでしょうか?私たちクリスチャンはキリストを信じて、霊的に生まれ変わりはしたものの、この肉体を持っている限りは、罪の性質、肉が残っています。もちろん、天国に行くまでだんだんきよめられますが、まったくゼロになるわけではありません。ですから、クリスチャンといえども、全く裸で、ありのままで付き合うことはできません。私たちの間には、キリストに似た新しい人、新しい衣を着る必要があるのです。新たにされた私たちの人格に、新しい人、新しい衣を着るということです。

 ヤマアラシの論理ということを哲学者のショーペン・ハウエルが申しました。ヤマアラシの若いカップルが寒い冬の夜、暖を取ろうとしました。寒いのでお互いに寄り添います。でも、刺があるので、お互いを傷つけあってします。痛いので離れる。すると寒い。寒いのでまた近づく、するとお互いが持っている刺で傷つけあってしまう。だから、ショーペン・ハウエルは、私たち人間はお互いにある程度の距離をもちながら付き合っていくしかないんだと言います。刺とは、私たちが持っている罪であります。私たちの罪が人を傷つけるのであります。でも、私たちのためにイエス・キリストが来られ、私たちの罪を贖ってくださいました。私たちは無媒介では、人々を愛することはできません。傷つけてしまいます。しかし、お互いの間に、キリストを置く。つまり、キリストを媒介して、互いに愛し合うことができるのです。このことと同じように、クリスチャンは自分の人格の上に、キリストに似た新しい人、新しい衣を着る必要があるのです。人と人と交わるとき、確かに人格と人格が交わります。でも、そこには麗しい、キリストの品性、新しい人を着ているのです。これは夫婦の間にも必要です。創世記2:25「そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった」とあります。でも、3章で罪を犯してからはどうでしょうか?いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作ったと書いてあります。でも、いちじくの葉では、長持ちしません。夫婦はありのまま、裸の付き合いと言いますが、うまくいけば天国、うまくいかなければ地獄であります。それで神様は、動物を殺して、皮の衣を作り、彼らに着せてあげました。皮の衣とは、イエス・キリストの贖いを象徴しています。そうです。たとえ、夫婦のような親しい関係であっても、キリストの贖い、新しい人を着る必要があるんだということです。私たちの交わりは、イエス・キリストを通した交わりです。神様は私たちのために、新しい人、新しい衣を用意しておられます。

2.新しい衣を着る

 それでは、どのような新しい人、新しい衣を着るべきなのでしょうか?コロサイ3:12-14をお読みいたします。「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」まず、パウロは、クリスチャンとはどういう存在なのかということを確かめています。クリスチャンとは、「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」です。何かできるとか、何かできないに関係はありません。私たちの存在そのものが、キリストにあって「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」なんです。ですから、自分が何か足りないから、自分が汚れているから、自分が人よりも劣っているからではありません。そのために、人格的に良く見せようとするのは、聖書の考えではありません。あなたは既に、キリストにあって、「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」なのです。あなたのID、自己証明は、「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」なのです。神様はキリストにあって、あなたを受け入れ、あなたを愛しておられます。あなたの存在そのものがすばらしいのです。そこから出発しないと、うまくいきません。他の人を見て、劣等感に陥ってしまいます。そうではありません。キリストにあって、あなたは受け入れられている。あなたは愛されているんです。アーメン。

 それでは新しくされた霊、あるいは人格の上に何を着るのでしょうか?着物の場合は、肌襦袢というのでしょうか?一番、体に触れる衣類、下着であります。それは「深い同情心」であります。私たちの最も深いところにある性質は、「深い同情心」でなければなりません。別の言葉で言うなら、「憐れみの心」であります。マタイ9:36でイエス様は、「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」とあります。「かわいそうに思われた」は、他の訳では「深く憐れまれた」であります。ギリシャ語の意味は「内臓」という意味があります。内臓がえぐられるほど、痛いものはないと言われます。イエス様の性質に最も近い性質は、「深い同情心」「あわれみの心」であります。イエス様は「神様があなたがたをあわれんでやったように、あなたも仲間をあわれんでやるべきではないか」(マタイ18:23)とおっしゃっています。

 では、その次に身につけるべきものは何でしょうか?「慈愛」です。慈愛は英語の聖書では、kindnessとなっています。親切心であります。よく、女性に「どんな人と結婚したいですか?」と聞くと、「思いやりのある人が良いです」とか、「優しい人が良いです」と答えます。私は、たぶん、たぶんですが、「慈愛」があてはまるのではないかと思います。「冷たいなー」と思う人がたまにいますが、それは「慈愛」がない、不親切な人ではないかと思います。親切とは、「相手の立場になって考え、こうなったら困るだろうから、ちょっと手助けしてあげよう」と思う心です。イエス様はルカ福音書で「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい」と言われました。ゴールデン・ルールであります。イギリスでしょうか?ドアを開けたら、次の人のために開けたままにしておくというのがありました。また、女性が荷物を持っていたら、男性は持ってあげる。たとえご老人でも、女性にはそうしてあげるそうです。それは、聖書からくる親切心ではないかと思います。親切は、せちがらいこの世を明るくする、清涼飲料水のようなものであります。

 その次は、謙遜であります。謙遜はこの世でもよく使いますが、それは1つの処世術になっています。いわゆる謙遜ぶっているわけです。それではうまくいきません。本当の謙遜とは、どこから来るのでしょうか?自分は神の被造物であり、すべては神様からいただいたものであるという信仰から来るものです。自分がたとえ何かできたとしても、それは、神様からいただいたものです。だから誇ることはできません。すべての栄光は神様のものです。また、ピリピ2章を見ますと、パウロは「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」と言いました。これは人間関係における謙遜であります。何故、人が自分よりもすぐれているのでしょうか?客観的にみたらそうでないことがいっぱいあります。私は郵便事業会社でアルバイトをしていますが、年末は忙しいので、会社はアルバイトの数を増やします。色んな人が来るんです。中には、「どうしてあの人を入れたの?」という人も来ます。とても単純な仕事なのですが、立ち止まってずっと考えている。「うぁー、なんだよ。遅いなー。何、考えてんだよ」いらいらしてきます。もう、見ているだけでイライラしてきます。きっと、「その人は、この分野では鈍いけれど、他の分野では優れているんだろうなー」と思います。でも、見ているとイライラしてきます。では、なぜ謙遜になれないのでしょうか?自分の能力は、神様が下さったもの。私の頭の神経のどこか切れたならば、何もできません。それに、その人だって、神様に造られ、キリストの血によって贖われた尊い存在です。神様がその人を生かしておられるのに文句を言ってはならない。そのことで自分は謙遜になるしかないわけです。謙遜の衣、この衣は頭の良い人、賜物や能力のある人ほど、忘れてはらない衣、神様からの性質であります。なぜなら、聖書に「高慢は滅びに先立つ」と書いてあるからです。どんなときも「へりくだり」が大切です。

 さらには、柔和という衣があります。柔和とは「制御された力」という意味があります。イエス様は「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:28)と言われました。「心優しく」は他の訳では「柔和」となっています。イエス様は全能なる神様であられましたが、その力を一人の人間の中に秘めておられました。ですから、どんな人でもイエス様に近づくことができました。収税人や遊女、罪人、小さな子どもまでも、です。当時の宗教家、パリサイ人や律法学者は、「お前と私とは違う。寄らば切るぞ」と一般の人たちを排除していました。しかし、イエス様はそうではありません。弟子たちは、イエス様は近寄り易くて、いつまでも一緒にいたいと思いました。きよくても、近づきがたい人がいます。インドネシヤのエディ・レオ先生は「本当に柔和な人だなー」と思います。私もエディ先生のようになりたいです。

 さらには、寛容の衣があります。寛容とはどういう意味でしょうか?国語辞典では、寛容は「心が寛大で、よく人を受け入れること。過失をとがめたてせず、人を許すこと」とあります。私は、寛容は、この3章13節のことではないかと思います。「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」文脈では、新しい人、新しい衣のことを話しているわけですから、おそらく、13節は寛容とは、どういうことか説明しているのではないかと思います。実際に、寛容には「忍ぶ」とか「耐える」という意味があります。そして、主が私たちを赦してくださったように、互いに赦すということであります。忍耐を持ちながら赦していく、これが寛容であります。子どもを育てたり、人々を教え育てるためには、この寛容さが最も必要であります。寛容さとは、父の心であります。父の心を持つならば、寛容になれるということです。

 最後の衣は何でしょうか?それは衣というよりも、帯であります。和服を何枚も重ねてきますと、最後にはそれらを結びつける帯が必要です。帯がないと、全部はだけてしまうからです。コロサイ3:14「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」アーメン。元旦、礼拝で和服を着てきた姉妹がいました。何枚か着ています。和服にたとえるとどうなるでしょうか?一番、外側は寛容の衣です。その内側は柔和です。さらにその内側は謙遜、さらに慈愛を着ています。もっとも内側、肌襦袢と言うのでしょうか?それは深い同情心です。そして、それら5枚の衣を上から結んでいる帯とは何でしょう?それは愛であります。愛という帯が、ぎゅっとそれらを締め付けています。後ろを見ると、蝶のような格好をしています。蝶は青虫から完全変態をしますが、ギリシャ語ではメタモルフォーであります。そうです。蝶は、神様が新しく生まれ変わらせてくださったという象徴であります。私たちの愛は、自分のものではありません。神様が新しく私たちを生まれ変わらせ、私たちに新たに与えてくださった、神様の性質であります。なぜなら、神は愛だからです。神様から生まれた者は、神様の種が宿っています。

 元旦礼拝では「天にあるものを思う」と題してメッセージしました。それは私たちがキリストと共に死んで、よみがえり、さらには天におられるイエス様のところにいるということです。天からこの地上のことを考えるということです。そして、本日は第一回目の聖日礼拝ですが、「新しい人を着る」というメッセージでした。私たちはキリストと共に死んで、よみがえったのですから、古い人を捨てて、新しい人を着るのです。この年も、キリストに似た、新しい人を着て、歩んでまいりたいと思います。