2009.01.11 キリストのことば コロサイ3:15-17

先週は、香港のベン・ウォン師とほぼ1週間一緒でした。行き詰まりを感じたらどうしたら良いだろうか?多くの人たちは、「別の方法とか、別のプログラムを取り入れたら良いじゃないか」と言います。しかし、ベンは「問題は実にあるのではなく、根っこにあります。根を探りなさい。本質に立ち返りなさい」と言います。彼の話はこの2年間、何べんも聞きました。でも、2年間やって、「やっぱり根なのか」と初めて分かりました。根、つまり本質をちゃんと見極めていく。そして、そこを正しくしていく。きょう、明日、すぐ変化は起こるものではありません。時間はかかります。でも、1、2年たつと着実に変化が起こります。私は伝道と牧会に行き詰まりを感じていました。何が足りなかったのか、本当、この2年間、ベンのコーチングを受けて、やっと分かりました。私はこれまでメッセージとか教えにエネルギーを注いできました。みなさんの信仰生活にしても、セル集会にしても、「こうすれば良いんですよ」と講壇の上から語ってきました。しかし、足りなかったのはコーチングです。講壇から降りて、一緒にやって行く。模範を示しながら、やって行く。この部分が欠落していたことを発見しました。コロサイ人への手紙を見ると、キリスト、キリストと何べんも出てきます。でも、キリストこそが信仰の本質だということです。

1.キリストの平和

コロサイ3:15「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」キリストの平和とはどのような平和でしょうか?山上の説教を見ますと、キリストの平和とは何か、はっきりと記されています。マタイ5章の後半でイエス様はこのように言われました。「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。…自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」イエス様は悪い者に手向かわず、右の頬だけではなく、左の頬さえ向けました。奪い取る者には与え、二ミリオン行き、迫害する者のために祈りました。しかし、私たちは普通、どのようにふるまうでしょうか?やられたら、こっちも負けじとやり返します。取られたら取り返します。悪に対しては悪をもって報います。そのようにするならば、争いは止むことはなく、戦争にまで発展するでしょう。

これまでの人類の歴史はどうでしょうか?争いに争い、略奪に略奪、戦争に戦争でありました。たった今の時間でも、世界中あちこちで戦争や紛争が起きています。第二次世界大戦が終わったら平和がやってきたと思いきやそうではありませんでした。同じ国の中において民族同士の争いが沸きあがりました。まさしく、聖書の預言の通りです。皆さん、アメリカという国は、新天新地、キリスト教国を作ろうとイギリスから移民して作った国であります。ところがどうでしょうか?アメリカは銃社会です。彼らは自分を守る権利を主張し、銃を手元から離しません。そのため、尊い多くの人々の命が取り去れています。また、アメリカは訴訟の国でもあります。イエス様は「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい」と教えられたのに、互いに訴え合っています。一番もうかるのは弁護士です。また、アメリカは右の頬を打つような者には、何倍にも報復する国であります。湾岸戦争、アフガニスタン、イラクにおいて、どのくらいの爆弾を落としたのでしょうか?本当は爆弾の在庫整理をしたかったのではないでしょうか?彼らは正義をふりかざして、イエス様の教えを守っていません。そのために、世界中の人たちがこのように言うでしょう。「あの国がキリスト教国ならば、私たちはキリストを決して信じない」と。つまり、他の国々に対して、良い証になっていないということです。もちろん、アメリカ全部が悪いとさばいているのではありません。善良なクリスチャンもたくさんいらっしゃるでしょう。でも、国全体の考え方が1つの要塞となって、聖書の原則を見失っていることは確かであります。

使徒パウロは「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」と言われました。あなたがたとはだれでしょうか?これは救いを受けた人たち、クリスチャンに対して言われたことです。まず私たちクリスチャンの間から実行しなさいということです。パウロは「そのためにこそ召されて一体となったのだ」と言っています。リビングバイブルでは「そうすることがキリスト様の体の一部とされたあなたがたの責任であり、特権でもあるのです」と訳しています。つまり、心に平和を持つことは、キリストの体なる教会の責任であり、また特権でもあるということです。「わー、そうなのか」と思います。兄弟姉妹で、牧師と役員で、教団教派で争っていたら全く話にならないということです。しかし、残念ではありますが、プロテスタント教会は争いが好きなんです。名前自体が「プロテスト」抗議する、異議申し立てるという意味があるからです。ま、この名前はカトリック教会が「自分たちに抗議した」ということでつけたものです。しかし、その名前のごとく、争い好きな性質が宿っていることも確かです。日本基督教団の東京教区は19年間、総会が開けなかったということで有名です。発端は大阪の万博にキリスト教館を作るかどうかということでした。私は今から22年前にこの教団に転入しましたが、その翌年あたり、怒号と取っ組み合いの中で、19年ぶりに総会が開かれました。私はどさくさにまぎれて、他教団から牧師として転入できたというのも恵みでありました。しかし、こういう争いや分裂は日本基督教団ばかりではありません。他の教団の中にもあります。

私たちは「平和ということを何よりも優先すべきなんだ」ということを、肝に銘ずる必要があります。イエス様はヨハネ17章で「彼らがみな一つとなる・・・ことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです」と言われました。また、ヨハネ13章でも「 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」と言われました。つまりは、私たちが仲良くしていることが一番の伝道であるということです。私たちはそういうことよりも、真理とか正義を強調しがちです。でも、私たちが知っているものは、真理の一部でしかありません。正義を一番主張できる神様が譲歩しているのなら、私たちも譲歩すべきでありましょう。イエス様はイザヤ書で「平和の君」と呼ばれるとあります。私たちは平和の君であるイエス様にお仕えする者たちです。また、私たちの内には、神の種がやどっています。だから、平和を作り出すことができるのです。私たちがまず、平和に満たされるならばどうでしょうか?その次に、私たちが遣わされた家庭において平和が作られるでしょう。これまでは信仰があるゆえに、争いを生み出すことが多々ありました。そうではなく、山上の説教のように生きるなら、多くの争いや衝突を避けることができるはずです。夫が妻を受け入れ、妻が夫を受け入れる。そして、子どもを受け入れる。そうするなら家庭が平和で満たされます。その次には職場や学校です。多くの人たちは心の中に敵対心を持って生きています。「こういえば、ああいう。こうされたらこうする」と過剰な反応をするでしょう。そこへ私たちがキリストの平和をもって、臨むならどうでしょうか?人々は肩透かしをくらったようで、「どうして権利を主張しないの?どうして私みたいなものを愛するの?」と困惑するでしょう。そういうことが重なってくると、あなたの周りの人たちにキリストの平和が訪れるでしょう。

皆さん、キリストの平和は健康のためにもとても良いものです。多くの人たちの心や体が病んでいる最も大きな原因は何でしょうか?それは、怒り、憎しみ、赦せない心です。それらは、あなたの心や肉体を蝕み、様々な病気を引き起こします。そういうものがあったら告白し、悔い改めましょう。その代わり、キリストの平和が心を支配するようにお願いしましょう。キリストの平和にまさる薬はありません。アーメン。

2.キリストのことば

コロサイ3:16「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」このみことばは、ディボーションのときに必ず引用されるみことばです。どのように、キリストのことばを、私たちのうちに豊かに住まわせることができるのでしょうか?それは、ディボーションを通してであります。ディボーションとは何か?それは、静かなところで、ゆっくりとみことばを読むことから始まります。神様は聖書をたくさん読みなさいとは命じておられません。「みことばを瞑想(黙想)しなさい」と命じています。瞑想するとは、みことばを反芻することと同じ意味です。旧約できよい動物と言われた、牛、羊、ヤギはみな反芻します。彼らには4つくらい胃があって、一度食べた草を何度か口に戻して、にれはみます。彼らがしょっちゅう口をもぐもぐしているのはそのためです。都会育ちの人はあまり見たことないかもしれませんが、実際、彼らはいつもそうしています。なぜなら、草は肉よりも消化が悪いので、たくさん噛む必要があるからです。みことばも同じです。よく噛まないと、全部外に出てしまいます。エディ・レオ師はこんなたとえを話していました。ピーナッツを噛まないで飲み込んだならどうなるでしょうか?胃袋の中で、ピーナッツがおどっています。寝ているとき、右に傾けば右に行き、左に傾けば左に行く。あくる朝どうなるでしょうか?ババババババ、と音を立てて出て来るとおっしゃっていました。ちょっときたないですね。

では、ディボーションはどのように行なうのでしょうか?まず、大切な3つのことがあります。まず第一は観察です。心を開いて、ゆっくり読みます。福音書なら1つの物語、書簡だったら4,5節で十分です。私は、今は、1か2章読むことにしています。すると、現在、抱えている問題の解決となるところが不思議に見つかります。どのくらいの長さでも良いですが、何べんも読んでいくと、繰り返し出て来ることばに出会います。あるいは、「ああ、このことが重要なことなのかな?」気づかされます。そういうところを、ノートに書き出します。これを観察と言います。ゆっくり読むと、すばらしいことがたくさん、見つかります。第二は教えです。その中からいくつか教えをいただくということです。教えの中には、励まし、約束、模範、実行すべき命令、避けるべき罪があるでしょう。英国の聖書には、「キリストのことば」というところを「キリストのメッセージ」と訳していました。つまり、教えとはキリスト様からメッセージをいただくということです。メッセージの数は、1つか2つ、多くても3つくらいで十分です。なぜなら、あまり多いと実行できないからです。第三は適用です。適用とは教えられたメッセージを実行するということです。これが一番、難しいです。適用はできるだけ具体的で、実行可能なものでなければなりません。「感謝しなさい」と言われら、感謝しますと言うだけでは適用になりません。5分間、感謝すべきことを祈りの中で表します。あるいは、「感謝のしるしに、きょうはすすんでこういうことをします」というのも良いでしょう。男性だったらふだんしない、洗濯とかお掃除も良いです。職場の人に対して、少なくとも1つだけ親切にするというのも良いでしょう。みことばを適用していくと、だんだんみことばが自分のものになります。ですから、適用はとても重要です。

しかし、コロサイの手紙ではなぜ「キリストのことばをあなたがたのうちに豊かに住まわせ」となっているのでしょうか?「みことばを」とはなっていません。「キリストのことば」となっています。私はホーリネス教団の神学校に最初行きました。そこでは、「みことば信仰」ということが非常に強調されました。「聖書は誤りなき神のことばである。だから、私たちはこのみことばを守り行なうべきである」と教えられました。私もそれは正しいと思います。でも、どういうわけかその教団は律法主義的なところがありました。「・・・しなければならない」「・・・を守らなければならない」「・・・してはならない」。つまり、みことばを守り行なう原動力が自分の力、自分の努力みたいなところがあります。みことばは鋭い両刃の剣です。ですから、このみことばによって他者をさばくことができます。また、最後にはそのさばきが自分にも返ってきます。何故、パウロは「みことば」と言わないで「キリストのことば」と言ったのでしょうか?それは、「キリストの恵み、キリストの贖いを通して、聖書を読みなさいよ」ということなのです。もし、キリスト抜きで聖書を読んだならば、これほど実行不可能なものはありません。また、これほど厳しいものはありません。旧訳聖書を読んだならば命がいくつあっても足りません。しかしキリストの恵み、キリストの贖いを通して聖書を読むならどうでしょう。「主よ。あなたの贖いによって赦されていることを感謝します。あなたの恵みによってこのみことばを守り行ないますので、どうか助けてください」と祈ることができます。ですから、みことばを実行する力の源は自分ではなく、自分の中におられるキリスト、聖霊様であります。私たちの中におられるキリスト、栄光の望みです。

また、コロサイ1:16後半には「知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」とあります。これはどういうことでしょうか?どうしたら、賛美と感謝に溢れることができるのでしょうか?それは、ディボーションの4つ目にあります。さきほど、ディボーションは観察、教え、適用と3つの要素を学びました。しかし、4つ目があります。それはディボーションで受けた恵みを分かち合うということです。このところに「知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め」とあるのは、小グループでの分かち合いをさしています。セルで一番良い分かち合いはディボーションしたことを分かち合うという方法です。では、どういうふうにして分かち合うのでしょうか?それは、教えられたことを自分のこととして分かち合うということです。もし、人に教えたり、人を戒めたりしたならどうでしょうか?「あんたから教えられたくない、お説教はごめんだ」と反発を食らうでしょう。ですから、他者を教えたり、戒めたりしないで、自分のこととして分かち合うのです。自分を戒めたものだったら、だれも文句を言わないでしょう。むしろ、恵まれ、「詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌う」ようになるでしょう。初代教会ではみことばを分かち合う小さな集まりがいくつもあったのではないかと想像できます。「互いに」というのは、50名とか60名では無理です。やはり、3人から5、6人でしょう。10人になったら、発言しない人が出てくるかもしれません。ですから、キリストのことばを小グループで互いに分かち合いましょう。そうすれば、賛美と感謝があふれてきます。

3.キリストの信仰

パウロは17節で「あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」と言いました。これはキリストのことばによって、信仰に満たされた状態です。ディボーションによって、神様のみこころがはっきり分かりました。みこころを知って、行なうのですから、それは信仰の歩みと言うことができます。パウロはローマ14:23で「信仰から出ていないことは、みな罪です」とまで言っています。私などは、神様のみこころを求めないまま、とにかくやってみるところがあります。「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で走り出す。スペイン人は走ってしまった後で考える」というジョークがあるそうですが、みなさんはどのタイプでしょうか?私は何でもチャレンジするところがありますが、十分祈って、神のみこころをつかまないでやることもあります。そうしますと、失敗したときのダメージが大きいですね。もし、「神のみこころはこれだ」と信仰をもってやったならば、たとえ失敗しても、その失敗さえも益になるでしょう。ですから、信仰がくるまで、みことばを読んで待ち望む必要があります。特に、就職とか結婚はそうだと思います。私は2年前、郵便局のアルバイトを始めました。あのことは本当に信仰から出たことなんだろうか?それとも結果オーライでやってきたことなのか?わからないところがあります。なぜなら、「労働のわりには、給料安いよ」とか、「ああ、疲れるなー、ちくしょう」みたいにつぶやくことが多々ありました。そんなにつぶやくならそれは、信仰から出ていないということになります。口では伝道のためとは言いながら、お金のためにしかたなくやっている。そういうところがあったのではないかと悔い改めています。いや、悔い改めます。郵便局の同僚で、元カトリック信者がいます。彼は今、教会に行っていません。「どうして牧師さんがアルバイトしなければいけないの?信仰がないんじゃないの?」と言われました。私は「あなたの言うとおり、信仰がないんです」と答えました。ぜんぜん怒る気持ちがなくて、その通りですと、脱帽しました。

 正月早々、自分の信仰がないことをさらけ出すのは申し訳ありません。牧師も人に信仰を説くことは得意ですが、いざ自分のこととなると分からないところもあります。でも、パウロが「あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。信仰から出ていないことは、みな罪です」と言うことは本当だなーと思います。今年も、私たちはいろんなことをしなければなりません。その中にはしかたなく、強いられてやらなければならないこともあるでしょう。信仰がなくてしたことは、あとから必ず不平不満が出てきます。でも、それらのことをすべて神様の前に差し出し、キリストのみことばによって、キリストの信仰をいただくなら、最後に感謝が生まれるのではないでしょうか?さっきのジョークではありませんが、「歩きながら信じる。信じた後で走り出す。走ってしまった後で信じる」どのタイプでも良いです。とにかく、すべてのことを、信仰をもって行いたいと思います。そのためには、いつも主と交わって、キリストの平和とキリストのことばをいただく必要があります。アーメン。