2009.01.18 共同体の核―家族 コロサイ3:18-25

パウロの書簡を読みますと、後半には家族のことがよく記されています。もちろん、監督とか執事という役職についても書かれていますが、「自分の家庭をよく治める人でなければならない」という条件があります。なぜでしょう?教会は共同体であり、その一番の基礎は家族、家庭であるからです。しかし、多くの場合、教会は家族よりも、組織体を目指し、会社や政治のやり方を取り入れてきました。どうでしょう?家庭と会社では、存在目的が全く違います。家庭では、交わり、愛の関係が何よりも重要視されます。話し合いも、インフォーマルで食事をしながら、雑談をしながら、コミュニケーションを取るでしょう。一方、会社の目的は売上げとか業績であります。関係よりも、仕事量をどのように増すかであります。仕事のための関係であり、多くの場合は上下関係です。話し合いもフォーマルで「会議形式」で行ない、記録も取るでしょう。もし、教会が家族ではなく、会社のやり方を真似るならどうでしょうか?伝道とか奉仕活動が第一目的であり、関係は二の次、三の次になるでしょう。教会の役員会ですらも、お互いが神の家族であることを忘れ、自動的に会社モードに切り替わるのではないでしょうか?

1.共同体の核―家族

 香港のベン・ウォン師は、「聖書は創世記から始まる」と言いました。「え?どうして?」と質問したくなりますが、私たちは、「聖書はマタイによる福音書」から始まると思っています。そして、そこには教会という組織が出てきます。クリスチャンが大好きな教会であります。この世では、キリスト様は好きだけど、キリスト教会は嫌いだという人が大ぜいいます。教会とは組織や宗教団体であると思われているからです。でも、旧訳聖書の時代は、教会という組織がなくても、礼拝をささげていました。最初の共同体は神様ご自身にあります。創世記1:26「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう」。創世記1:27「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」とあります。神様自身が父、子、聖霊が愛し合って1つになっていました。そのかたちに似せて、人を造ったのであります。そして、創世記2章において、神様はアダムとエバを創造し、エデンの園に住まわせました。そこには麗しい家庭があり、そこで神様を礼拝していました。でも、どうでしょう?サタンの誘惑に負けて、二人は罪を犯してしまいました。神様との関係が壊れ、お互いの関係も壊れてしまいました。「女は夫を恋い慕うが、夫は、女を支配する」と書いてあるように、お互いの間に軋轢が生じました。まことに残念ですが、人間の間に罪が入ってから、共同体が破壊されてしまいました。

創世記4章には、二人の子どものことが記されています。カインは弟アベルのささげものが神に受け入れられたので、ねたみを起こしました。そして、カインは弟アベルを殺して、土の中に埋めました。神様はカインに「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われました。カインは「知りません。私は弟の番人なのでしょうか?」と答えました。つまり、「私には弟のことなど関係ありません」ということです。カインが犯した罪のゆえに土地が呪われ、カインは地上をさまよい歩く者となりました。主はだれもカインを殺すことのないように、1つのしるしを与えました。でも、カインは主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みつきました。そして、カインは城壁のある町を建て、その町に自分の息子の名前をつけました。城壁は相手も入ってくることができませんが、こちら側も外に出ることができません。それは、人間関係の壁を象徴しています。また、町を建て、自分の子どもの名前をつけるとは、自分の名を残すということです。カインの子孫はどうだったでしょうか?ヤバルは家畜を飼う、牧畜の先祖となりました。ユバルは立琴と笛を巧みにそうする、芸術の子孫になりました。トバル・カインは青銅と鉄の鍛冶屋、工業の子孫になりました。カインの子孫は、身を立て名を上げる、業績志向の子孫たちです。レメクはふたりの妻をめとり、「カインに7倍の復讐があれば、レメクには77倍」と言いました。争いが家庭だけではなく、地域社会に拡大していきました。アダムとエバがさらに子どもを生み、その子をセツと名づけたとあります。創世記5章にはセツの子孫のことが記されています。「○○年生きて、○○を生んだ。○○を生んで後、○○年生き、○○で死んだ。」「生んで、生きて、死んだ。生んで、生きて、死んだ。生んで、生きて、死んだ」の繰り返しであります。何をしたかは全く書いてありません。でも、「彼らは主の御名によって祈ることを始めた」人たちであります。彼らは何をしたかよりも、何年間生きて、神様と関係を持ったことが記されています。カインの子孫は何をしたかは書いてありますが、何年生きたとは書いてありません。つまり、神様はご自分の前に何をしたかよりも、どのような関係を持ったかを重要視されるということではないでしょうか?

家庭は関係を重んじるところです。でも、会社は関係よりも業績であります。私たちの中には、関係よりも業績を重んじる傾向があります。カインのように「城壁のある町を建て、名を上げ、名を残したい」そういう心があるのではないでしょうか?戦後の教会のことを考えてみたいと思います。戦後は、日本は経済大国になるために家庭を犠牲にしてきました。朝から晩まで働き、マイホームを持つことが夢でした。テレビ、冷蔵庫、洗濯機、クーラー、車など、豊かさを求めてきました。でも、家はあってもホーム、家庭がなかったのではないでしょうか?ある人が言いましたが、家庭も会社の分業制を取り入れたということです。お父さんは会社に行って働くことが仕事。お母さんは家を守り子どもを育てることが仕事。子どもは勉強し、良い学校に入ることは仕事。ですから、子どもに何か問題が起こった場合、お父さんは「家のことはお前にまかせているんだ。俺は会社で忙しい」と家庭における責任を果たしませんでした。父親不在の家庭が続き、子どもがおかしくなりました。青年犯罪の多くは、家庭が壊れていたことが原因だそうです。残念ながら、教会も会社と同じように、業績を求めました。一生懸命伝道をして、教勢アップして、大きな教会堂を建てる。牧師は教会を大きくするために、家庭もささげました。妻や子どもたちを教会成長という偶像にささげたのです。ある有名な牧師の家庭ですが、お父さんは伝道牧会に忙しく、子どもの運動会や学芸会に一度も顔を出したことがないそうです。あるとき、子どもが病気をしたけど、その時も家にいないで伝道にでかけたということです。お父さんはご飯を食べるとすぐ書斎にこもり本を書いていました。子どもたちが大きくなって、正月に一緒に集まったそうです。牧師であるお父さんは何と言ったでしょうか?「さあ、長男から順番に証をしなさい」と言ったそうです。長男は「お父さん、教会の集会じゃないんだから、順番なんかどうでも良いじゃないか」と言ったそうです。ある牧師は、家にいるときも白いワイシャツ姿だったそうです。いつ何時、教会員が訪ねてくるかわからないからです。しかも、牧師館が教会とくっついていました。長女がすっかりぐれて、教会の前に立ち、「おまえらは偽善者だ」と言って礼拝を妨害したそうです。しかし、後から娘たちが「父の日」に、プレゼントしたそうです。袋をあけると甚平でした。お父さんは「こんなの着れるか!」と最初、思いましたが、お風呂上りに着てみました。娘たちが涙ながらに言ったそうです。「家には牧師がいたけど、お父さんがいなかった。やっとお父さんが戻ってきた」と。

みなさん、これが昭和に活躍した、大教会の牧師たちの姿であります。大教会になれたら、少しは報われるかもしれませんが、日本の教会の平均は30名前後であります。常磐牧師セルという集まりあります。常磐線沿線だけではなく、千葉とか会津の先生もいらっしゃいますが、ほとんどは2世であります。2世という意味は、牧師の子どもという意味だけではなく、昭和に活躍した大教会の牧師の弟子という意味です。みんなすばらしい恩師を持っています。私も大和カルバリーの大川牧師がいます。私たちは一様に口をそろえて言います。「教会を大きくすることだけが牧会じゃない」と。ある牧師は、「日本のリバイバルは家庭から」と言います。また、岡野牧師は教会を一度潰した牧師ですが、「クリスチャンが幸せになればなるほど教会は成長する」と言いました。何を隠そう、この私は業績思考で生きてきた人間です。ついこの間まで、韓国のチョー先生のように大教会を目指してきました。心のどこかに、「あっちよりもこっちが大きいぞ」みたいなライバル心がありました。本当、この教会に22年前赴任しましたが、教会を大きくすることばかりしか考えませんでした。「大きい教会は良い教会である」と思っていたからです。ですから、子どもたちにも律法主義的で、関係をあまり大事にしませんでした。子どもたちに「礼拝に出ろ」と言ったのは、礼拝人数に響くからです。まだ、牧師の子どもが礼拝に出ないと面子にも関わります。でも、だんだんと教会は会社じゃないということが分かってきました。教会は神の家族、愛の共同体じゃないかと分かってきたのです。インドネシヤのエディ・レオ師から「父の心」が与えられ、徐々にですが、律法主義から恵みに生きるように変えられてきました。創世記の時代、教会はありませんでしたが、みな家庭で礼拝をささげていました。ノア、アブラハム、イサク、ヤコブもそうです。教会は家庭、家族をイメージして作り上げるものです。大切なのは業績や奉仕ではなく関係だということです。会社のような死んだ組織ではなく、生きた愛の関係だということです。

2.家族のありさま 

コロサイ3:18「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい」。英国の聖書には、「妻たちよ、夫に従いなさい。それがクリスチャンの義務だ」と訳されています。女性解放者たちからは、「差別だ!」と抗議されるでしょう。19節「夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。」ここを読むと、女性たちから「アーメン」と聞こえてきます。でも、「妻は夫に従い、夫は妻を愛せよ」と書いてあるのはどうしてなんでしょうか?男性と女性は平等でありますが、機能が違います。コリント人への手紙11:3には「すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です」と書かれています。キリスト様も父なる神様も同等の神様です。でも、キリストのかしらは神様とはどういう意味でしょうか?ここでは、身分の違いではなく、機能の違いを言っています。「かしら」とは、もともと「源」という意味があるそうです。永遠の昔、父なる神様から御子が生まれました。また、最初は男から女が創造されました。そういう意味で、「夫は妻のかしらであり、妻は夫に従え」ということなのです。そして、かしらの機能とは何でしょうか?それは「リーダーシップをもって、責任を取りなさいよ」ということなのです。多くの場合、夫は家庭においてリーダーシップも、責任も取りません。その代わり、妻がリーダーシップを取っています。妻がリーダーシップを取らない場合は子どもが取ります。子どもが取らない場合は、犬がリーダーシップを取ります。男性は、かしら、つまり家庭の源です。源が良ければ、妻や子どもに恵みが行き届くということです。

でも、なぜ、「妻は夫を愛しなさい」ではなく、「夫は妻を愛しなさい」なのでしょうか?これもやっぱり、かしら、リーダーシップと関係があります。「かしらとして、夫の方から愛しなさいよ」ということなのです。夫は「妻の方から愛してもらいたいよ」と思うかもしれませんが、そこには順番があるようです。夫が妻を愛するならば、後から、妻が夫を愛するようになるということでしょうか?しかし、またもう1つ疑問があります。「夫は妻を愛しなさい」という命令形になっていることです。何故、命令なのでしょうか?もし、これが感情的な愛について言われているなら不可能です。感情は勝手に上がり下がりしますので、命令には決して従うことができません。でも、聖書が言う愛は、意志とか決断に関係しています。この間、本郷台でセルの集会がありました。あるセッションは、「隣人を愛する」というテーマで、私が司会でした。最後に私が祈りの中で、「神様、私たちには、愛することができない人がいますが、どうか愛せるように助けてください」と祈りました。次のセッションで、ベン・ウォンが先ほどの鈴木先生の祈りについてどう思うかということになりました。「私たちが愛することができないと決断しているのに、神様が私たちの決断を無視して、愛せるようにしてくださるのだろうか?日本人の中には、そういう神学があるのだろうか?」また、ややこしくなりました。結論的にはこういうことでした。「愛しなさい」は神の命令であり、もし、愛せないと言うならば、不服従になるということです。「愛します」と私たちが決断するとき、神様が愛せるように助けてくださる。私たちが「愛せません」と言っているうちは、神様はどうすることもできないということです。神様が「愛しなさい」と命令を与えるのは、もし従うならば、愛する力も与えるという保障が背後にあるからだということです。「妻を愛します!」と決断するならば、愛せるようになるということです。ハレルヤ!男性は待っていてはダメなのです。かしらとして、愛においてもリーダーシップを取るように造られているのです。アーメン。

最後に親と子どもの関係について学びたいと思います。コロサイ3:20、「子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。」子どもに対して、「すべてのことについて、両親に従いなさい」と言われているのは、両親が神様を敬い、神様に従っているという前提があってのことです。自分が神様に全然、従っていないのに、「子どもに従え」というのは無理な相談です。でも、頭ごなしに「親の言うこと聞け!」やることが多いのではないでしょうか?それはたぶん、親が子どもを生んだので、偉いんだという考えがあるからかもしれません。普通の親は、「子どもは神様から与えられたもので、全く別の人格が宿っている。両親は神様から任せられた子どもを正しく育てるのが義務である」などと全く、考えません。自分が生んだんだから、自分の所有物であるとか、自分が果たせないことをやる分身のように考えています。そうなると、人格と人格の正しい境目、バウンダリーがありません。「自分の子どもなんだから」とぐりぐりと、ねじ伏せても言うことを聞かせようとします。そうするとどうなるでしょうか?子どもたちの心の中に怒りが生まれてきます。20節に「子どもたちを怒らせてはいけません」と書いてありますが、口語訳には「子どもたちをいらだたててはいけない」と書いてあります。

 岡野先生が『どうしたらいいかが分かる子育ての本』の中でこう述べています。子どもは、どのようなときに、怒るのでしょうか?人格を否定、あるいは見下げるような態度、言動を取られたときです。たとえば、大人が一方的に接してくるときがそうです。子ども本人に関わることを、何の話もせず、親が一方的に決めることがあります。あれをしろ、これをしろと、ふだん親が子どもに対して使っていることばが、一方的になりがちです。子どもが学校から帰ってくるなり、勉強しなさいと言われたら、腹も立ちますし、親を嫌いにもなることもあるでしょう。塾も、子どもが自分で行きたいと言うならいいのですが、親が無理に一方的に行かせ続けるなら、いつか爆発するのも無理はありません。子どもは、勉強マシーンではありません。人格を持った一人の人間です。一人の人間として扱ってもらえないゆえに、子どもは、大人に反発するのです。・・・私たちは、子どもを親の思い通りにしようとするのではなく、一人の人間として接することが大事です。どんな小さな子どもでも、子どもは、神様によって、人格を持った尊い存在として造られたものであることを、忘れないようにしたいものです。

 どうでしょうか?私たちの父や母は、親として良い模範を示してくれたでしょうか?良い模範がないと、自分たちも、なかなか良い親にはなれません。 また、自分が子どもたちに対して、良い模範となったかどうかも、はなはだ疑問です。私などは一代目のクリスチャンですから、ひどいものがいっぱい詰まっています。両親から受けた傷とか怒りを、そのまま子どもにぶつけてきました。もちろん、聖書の教えに従って、軌道修正しましがが、後手後手という感じでした。やっぱり、二代目、三代目のクリスチャンホームにならないとダメなのでしょうか?きょうの箇所を学ぶと、反省すべきところがたくさんあります。でも、まとめをさせていただきますと、家庭が共同体の基盤だということです。教育も、人間関係も、価値観も、そして、信仰すらも家庭が基盤なのかもしれません。私たちは、教育は学校に任せ、信仰は教会に任せてきました。確かに知的な面は、学校や教会が優れているかもしれません。でも、子どもたちへの模範は両親です。両親の価値観、両親の人間関係、両親の信仰が子どもたちに対して一番影響を与えるのかもしれません。「かもしれません」と力のない表現なのは、「果たして自分はどうなのだろうか?」という疑問があるからです。子どもは親の言うことはなかなか聞きません。でも、親の行動は良く見て、真似をします。主の憐れみによって、私たちは言うことを行なうことを一致して行きたいと思います。また、主の恵みによって、教会にいるときの顔と家庭にいるときの顔も一致して行きたいと思います。神様はどこにでもおられます。私たちが心から神様を恐れ、敬うならば、そのことが子どもたちにも伝えられていくと信じます。互いに愛し合い、主の居心地が良い教会、主の居心地が良い家庭を形成していきたいと思います。主がそこにおられるならば、喜びや感謝、すばらしいことが必ず訪れます。アーメン。