2009.01.25 祈ってください コロサイ4:1-9

元旦礼拝で、私たちは霊的に、天のところにすわっているということを学びました。ですから、目をつぶり、すぐ隣にイエス様、さらに向こう側には父なる神様がおられる。そのことを想像しながら祈ることができるのです。しかし、目を開けると私たちの肉体は地上にありますので、いろんな悩みごとがどっと押し寄せます。でも、また目をつぶると天のイエス様の隣にいます。すると地上の問題が小さく見えてきます。いっそのこと目をつぶって生活したくなりますが、そういうわけにはいきません。きょうは、前半は祈りについて、後半はあかし伝道について学びたいと思います。

1.祈りの三要素

 祈りには3つの要素があります。第一は交わりの祈りです。2節に「目をさまして」とあり、その下には、「たゆみなく祈りなさい」とあります。「目をさまして、たゆみなく祈れ」とは、神様と交わる祈りであります。また、「目をさまして」とは、霊的に目をさますということです。霊的に眠っていますと、罪と誘惑に負けてしまうからです。ゲツセマネの園で、イエス様は「目をさまして祈っていなさい」と弟子たちに命じました。ところが、彼らは寝入ってしまいました。お祈りがお寝入りになったのです。イエス様はこのようにおっしゃいました。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、私と一緒に目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」(マタイ26:40-41)。ここだけを見ると、「1時間、ずっと続けて、祈れ!」みたいに思います。でも、みなさん、1時間、声を出して、祈り続けることができるでしょうか?昔、愛知県民の森で、毎年1月に教職者ゼミナールがありました。防寒服に身を包み、雪道を掻き分けで森に入り、5時半から7時くらいまで祈ったことがあります。とにかく寒いので、体を揺さぶりながら、大声を上げて祈ります。たまには良いけど、「あの時は、辛かったなー」という思いばかり残ります。みなさん、祈りは神様との交わりです。それなのに、「神様、あなたとの交わりは本当にしんどいです」と言ったら、失礼です。時には、雄叫びの祈りも必要ですが、祈りの基本は、神様との交わりです。ですから、そんなに、1時間もガンガン一方的に祈る必要はありません。こっちが話したり、神様の御声に耳を傾けたりという交互のやり取りが大事なのです。

 では、神様と交わってどのような効果があるのでしょうか?神様と交わると、神様のご性質をいただくことができます。モーセは主の前に出て祈りましたが、なんと、モーセの顔のはだが光を放っていました。神様と交わると神様の栄光が私たちに着せられるということでしょう。それはまた、神様が持っておられる聖さ、知恵、力をいただくことができるということです。エレミヤ33:3「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」とあります。また、詩篇139:23-24には、「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」とあります。神様と交わると、神様が私たちの心の深いところをチェックしてくださいます。私たちは行ないが正しくても、動機が汚れているときがあります。そういう場合、神様は、心の傷や罪を示してくださいます。今、預言喫茶というのが流行っています。多くのクリスチャンが、預言を求めて出かけます。気持ちはわかります。でも、自分自身が祈って、神様に聞くのが基本であります。自分はちっとも祈らないで、人が預言してくれるのを期待するのは、占いに近いことです。私は預言を信じますが、多くの場合は、チェックのためであります。「自分が神様から語られていたことが、やっぱり本当だった」と分かるからです。現代人は携帯電話で多くの人たちとひっきりなしに会話をしたり、メールのやり取りをします。人との交わりも良いですが、それはあくまでも水平的なものしか得られません。しかし、神様との交わりは垂直的です。神様は、人の理解を超えた知恵や解決、導きを与えてくださるからです。どうぞ、目をさまして、たゆみなく祈りましょう。

 祈りの第二の要素は、求める祈りです。マタイ7章に「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」とあります。また、ルカ18章には、やもめと不正な裁判官のたとえ話があります。裁判官は、神を恐れず、人を人とも思わない人でした。だが、そのやもめは、ひっきりなしにやって来て、うるさいので仕方なく、彼女のために裁判をしてあげました。イエス様は、そのたとえを用いて「失望しないで、いつでも祈りなさい」と教えました。神様は私たちの祈りを、一回で聞いてくれることもありますが、何回も何十回も祈ってから、聞いてくれることがあります。何故でしょうか?残念ながら、私にもわかりません。少しだけ分かることは、祈りと信仰が関係あるように思います。私たちは信仰がなくても、求めることができます。ただ、欲しいからとか、「そうなれば良いなー」ぐらいの淡い望みです。そういうふうに求めたものは、1,2回で消えてなくなります。その時は、「ま、いいか、神様に頼らなくても、自分の力でなんとかなるさ」と思うでしょう。でも、自分でも手におえないことがあります。しかも、それが絶対に叶えてもらいたいのです。そうすると、私たちは恥も外聞も捨てて祈るのです。祈るのです。祈るのです。そうするとどうでしょうか?私たちの中に、信仰が湧いてきます。また、聖霊の炎によってその祈りが聖められ、「これは神様に届いている」と確信します。神様は私たちの信仰が成長するように願っておられるのです。

 さらに、コロサイ4:2には「感謝をもって、たゆみなく祈りなさい」と書いてあります。祈りに必要なものは、感謝であります。感謝とは信仰があることの表れです。そうなる前から、神様にありがとうございますと言っているからです。イエス様がラザロをよみがえらせたとき、どのように祈られたでしょうか?ヨハネ11:41「父よ。私の願いを聞いてくださったことを感謝します。私は、あなたがいつも私の願いを聞いてくださることを知っておりました」と言われました。その後、「ラザロよ。出てきなさい」と大声で叫ばれました。大川牧師がよくメッセージでおっしゃいます。「祈りが聞かれた後は、だれでも感謝ができます。大切なのは、祈りが聞かれる前から、先取りをして、感謝をすることです」と。でも、みなさん、祈りがなかなか聞かれないと、感謝なんかできません。「主よ、どうしてなんですか。私がこんなに辛いのに、いつまでほうっておいているのですか?主よ、何とかしてくださいよ!」と自己憐憫に陥ってしまいます。しかし、悩みの底から、叫ぶと「ああ、感謝だったなー、感謝が大切なんだ!」と悟ります。しかし、また、感謝が消えて、絶望感に満たされます。「いや、そうじゃない。感謝が大切だ!主よ。信じます。主よ、感謝します。」正直、私などはこういう繰り返しが多いです。ピリピ4:6「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」とあります。このみことばは、交わりの祈りと求める祈りが、合体したものをささげよと教えています。詩篇のあちこちにも、最初は嘆きで始まり、最後は賛美と確信に終わっている箇所がたくさんあります。私たちも嘆きと絶望感を神様に訴え、その後、信仰をいただき感謝をもって祈るのです。求めの祈りは、戦いの祈りです。不信仰に負けてはいけません。ただ、ただ主にすがり、感謝をもって祈るのです。そうすると、祈りがまだ叶えられていなくても、主の真実にゆだねる信仰が湧いてきます。

祈りの第三の要素は、とりなしの祈りです。パウロは、「同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。・・・私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください」とお願いしています。とりなしの祈りとは、当人の代わりにこちらが祈ってあげるということです。当人自身も祈っているのですが、それではまだ足りないということです。あのイエス様ですら、ゲツセマネの園で、「悲しみのあまり死にそうなので、私のために祈ってくれ」と弟子たちに要請しました。使徒パウロも、ローマで福音が語れるように祈ってくれとコロサイの教会にお願いしています。出エジプト17章に、このような記事があります。アマレクがイスラエルの後方から襲いかかりました。おそらく後方には、行進についていけない弱い人たちがいたのでしょう。ヨシュアが先頭に立ち、彼らと戦いました。そして、丘の頂で、モーセが神の杖をもって祈りました。ところがどうでしょう?モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になりました。そのためモーセが石の上に腰賭け、手をあげました。そして、アロンとフルが、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえました。それでモーセの手は日が沈むまで、しっかりそのままでした。それゆえ、ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破ることができたのです。実際、アマレクと戦ったのはヨシュアと兵士たちです。しかし、丘の頂では、モーセとアロン、フルが祈っていたのです。これがとりなしの祈りです。

とりなしの祈りは、霊的戦いのときは欠かすことができません。親が子どものためにとりなす必要があります。また、牧師は信徒のために、信徒は牧師のためにとりなす必要があります。Ⅰテモテ2:1「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」とあります。先週はオバマ大統領の就任式がありました。ジョセフ・ラウリー牧師が祝福の祈りをしました。インターネットに翻訳が載っていましたので紹介いたします。「主よ、既に休まれた全ての聖人の思い出により、さらに、新しい時代の始まりの歓びにより、その日のために私たちが働くのを助けてください。黒い人が後に入れと言われない日、茶色い人がそこに留まる日、黄色い人が栄える日、赤い人が成功できる日、そして、白い人が正しいことを受け入れる日。正しいことを行い寛容を愛するすべての人はアーメンを唱えます。」全世界の人々を色で分けてたのは興味深いことです。おそらく、数え切れないほどのアメリカの人たちが、オバマ大統領のために祈っているでしょう。でも、麻生首相のために祈っている日本人はどれだけいるでしょうか?「あんな漢字も読めないのか!」と批判しているかもしれません。大川牧師は早天祈祷会で、天皇陛下とそのご家族のためにも祈っていました。私は、高い地位にある人たちのために祈っていないことを告白して悔い改めます。活動的な人はあまり祈らない傾向があります。そうすると、霊的な守りが欠如して、穴があいてしまいます。ですから、教会の一致のために、またその働きのために祈りが必要です。祈りは年をとって、体があまり動かなくなってからもできます。とりなしの祈りをあなどってはいけません。教会で奉仕をする人も必要ですが、背後でとりなしの祈りをする人も同じくらい重要です。どうぞ、困難の中で闘っている兄姉のために祈りましょう。また、人々が救われますように、教会の必要が満たされますように、どうぞお祈りください。

2.あかし伝道の三要素

 「あかし伝道」って何ですかと、疑問に思う方もおられるかもしれません。でも、これはとても聖書的です。マタイ24章は世の終わりのときのしるしが書かれています。マタイ24:14「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられ、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」と書かれています。福音が宣べ伝えられるだけではなく、あかしされることも必要だということです。つまり、あかし伝道とは、私たちの生活とことばを通して、福音を伝えるということです。コロサイ4:5-6は、あかし伝道の三要素について教えています。第一は、懸命なふるまいです。5節「外部の人に対して賢明にふるまい」となっています。リビングバイブルでは、「彼らとは、いつも賢く慎重に接しなさい」と訳されています。「外部の人」とはだれでしょう?パウロはローマにおいて、牢に入れられていました。何故でしょう?福音を語ったために、捕らえられていたのです。今の私たちの時代では、捕らえられることはなくても、多少の迫害はあるでしょう。私たちは毎日、多くの未信者と接しています。彼らのほとんどは、一度も聖書も読んだことがなく、福音を聞いたこともない人たちです。そういう中で、私たちは福音に生かされている者として、行動すべきです。旧訳聖書でヨセフという人物がいます。ヨセフは奴隷としてエジプトに売られましたが、主がヨセフと共におられたので、ヨセフを栄えさせてくださいました。そのためヨセフはポテファルの家でも、監獄の中でも、み栄を現わすことができました。気張る必要はありませんが、主が私たちと共におられることが、自然と現われてくる、そのような生き方をしたいと思います。ある人が「私たちはこの世の人たちのための小さなキリスト、小さな聖書である」と言いました。人々があなたを通して、神様のみ栄えを見ることができますように。

 第二は、機会を十分に生かすということです。リビングバイブルはこのように訳しています。「与えられた機会を最大限に生かして、あなたがたも、この良い知らせを人々に伝えなさい」。機会というものは、ぼーっとしていると、逃げ去ってしまいます。「どうか、あの人に福音を語るチャンスを与えてください」と祈っていると、機会がやってきます。チャンスというのは、人が困っているときです。何か必要を覚えている、病気だとか、問題に直面している。そういうときに、福音の愛で愛するのです。岡野先生は「福音の愛で愛するとは、その人が信じようと信じまいと愛することです」と定義しています。「あなたが信じてくれたら愛します」とか、「教会に来たら愛します」ではありません。しかも、教会の集会に来てくれる人はあまりありません。私たち自身が教会であり、その人のところに、出かけているわけです。私たちは動く教会です。そのように考えると、チャンスというのはいっぱい広がってきます。そのためには自分の福音の提示法を1つか2つ持っている必要があります。伝道用の本やパンフレットがあります。また、手作りのものも良いでしょう。私は福音を分かり易く書いた紙芝居のようなものを持っています。今度からは、A4サイズのパウチにして、それを見せて伝道しょうかと思っています。戦争にでかけるには武器が必要です。同じように、自分が使い慣れた、福音の提示の仕方を持つべきです。おいおい、そういうものを紹介しながら、コーチしていきたいと思います。でも、福音を伝えるチャンスはそこいら中、いっぱいあるということを覚えておきたいと思います。

第三は、親切で、塩味のきいたことばです。リビングバイブルは、「あなたがたの会話が、良識的であり、善意にあふれるように心がけなさい。そうすれば、相手の一人ひとりに適切な答えができます」と訳しています。私は23歳のとき小さな貿易会社で仕事をしていました。銀行に提出する書類はお金の問題がからんでいるので1字間違ってもダメです。私はタイプを打っていると、突然、「あー」と叫びます。打ち間違えたんですね。すると、クリスチャンの先輩は、「鈴木君、たかが仕事じゃないか。仕事よりも大切なものがあるよ」と言うんですね。あとから、それが信仰だということがわかりました。普通だったら、「ちゃんと打てよ。大事な書類だぞ」と叱られるでしょう。でも、そうじゃないんですね。いろんな出来事を、福音に対して飢え乾きを覚えるような、会話に持っていけたらなんと幸いでしょうか。私たちが話す「ことば」はとても重要です。多くの人たちのことばは、否定的で、ぶっきらぼうです。もし、私たちも同じように否定的でぶっきらぼうに返したら、ますますひどくなります。そういう場合、親切で、塩味のきいたことばとは、どういうことばなのでしょう?エペソ4:29「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」とあります。悪いことばとは、人を刺すようなさばきのことばです。そのことばによって人々が傷つきます。反対に、人の徳を養うのに役立つことばを話す。そして、聞く人に恵みを与えるということです。人を壊すのではなく、人の徳を建てるようなことば。いやー、これは私にとっても課題です。生まれてこの方、こき下ろすことば、否定的なことばをたくさん浴びせられてきました。クリスチャンになって30年もたちますが、人の徳を建てるようなことばを使うのはなかなか難しい。昨年の秋、常磐セルで李光雨先生が住んでおられる軽井沢に行きました。中軽井沢のおそばやさんで、一緒に食事をしていました。ある婦人牧師が、李先生に「私はカウンセリングに興味があって、ずっと勉強してきました。でも、私はカウンセリングするのが苦手なんです」と言いました。李先生はにこにこ聞いていましたが、私がひとこと言ってしまいました。「先生は、しゃべりすぎるからカウンセリングは向かないよ」と。実際、そうなんですね。でも、その婦人牧師は、カウンセリングを勉強しているんだから、どこかで、そうなりたいと思っているんですね。何か、別の言い方はなかったかなーと反省しています。「ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」。アーメンです。

あかし伝道とは、生活伝道です。それは人間関係を基盤にした伝道です。昔、教会は特別伝道集会やコンサートに人を誘って来るのが伝道だと考えられてきました。もちろん、そういう機会を用いることも大切ですが、ふだんから、その人と良い人間関係を構築している。そして、その人が暮らしているステージで福音を証する。その方が、ずっと効果的であります。今年も1月が過ぎようとしています。この1年間、教会員全員が、少なくとも3人の人に福音を証したいですね。みんなが、そうすると、教会は5%成長するというデーターが出ています。その前に、救いを得ていただきたい10名の人たちの名前をノートに書いて、祈りましょう。そうすると、神様が福音をあかしするチャンスを与えてくださいます。この年、自分を通して、新しい魂が救われるように、神様に期待しましょう。

祈り:愛する主よ、あなたは私たちが語りかけるのを待っておられます。また、私たちの祈りが届いてないように思えるときがありますが、あなたはいつも聞いておられます。そして、時にかなった助けを与えてくださるすばらしいお方です。また、私たちのことばが親切で、塩味のきいたことばでありますように。どうか、あなたの福音を一人でも多くの人たちにあかしできるように私たちを用いてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。