2008.12.07 知恵と知識との宝 コロサイ2:1-7

救われたばかりの人というのは、赤ん坊と同じで、とても不安定です。こちらは、「早く、信仰によって歩むことができるように」と願います。が、しかし、この世の中で、これまで生きてきたので、切り替えがそう簡単にできるものではありません。信仰が大切だと思いながらも、自分の考えや経験に従ってついつい行動してしまいます。使徒パウロは、キリストを信じて救われた人たちに2つのことを願っています。第一はキリストを知るように、第二はキリストに根ざすように願っています。そのようにしてくなら、やがて信仰が確立され、感謝にあふれた生活ができるということであります。

1.キリストを知る

コロサイ2:2-3「それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」パウロは、「神の奥義であるキリストを真に知るように」と願っています。奥義とは、ギリシャ語でミュステーリオンと言いまして、私たちがよく聞く「ミステリー」であります。この意味は奥義ですが、他に「秘密の儀式」という意味もあります。その当時は、密儀教という異端があって、恍惚状態になり、神秘的な体験を通して、深い知識を得るという宗教がありました。彼らも、同じ「奥義」という言葉を使ったのであります。しかし、パウロは神の奥義とはキリストそのものであると教えています。また、もう1つの異端は哲学的なものです。8節では「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれもとりこにならぬよう、注意しなさい」と教えています。哲学者たちは知恵(ソフィア)を求めます。その知恵はギリシャ哲学から来たもので、観念的であります。多くの場合、魂は善であるが、肉体は悪であると考えました。そのため、ある者は禁欲主義に走ったり、またある者は快楽に走ったりしたようです。パウロは「それらは幼稚な教えであって、キリストに基づくものではない」と注意しています。現代のキリスト教にも両極端ありまして、右端は、神秘的な体験を求めるものです。霊的な体験はもちろん大切ですが、体験ばかりを求めると罠にはまります。また、左端は、聖書を人間の理性で捉えるリベラルの人たちです。彼らの神学はもはや哲学であります。私たちは両端の溝にはまらないで、バランスを取る必要があります。

パウロはキリストこそが神の奥義であり、「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです」と言いました。すごいですね。みなさんは、キリストのうちに、知恵と知識の宝のすべてが隠されていると信じるでしょうか?「ちょっとオーバーじゃないの」と本当は思っているのではないでしょうか?しかし、みなさん、福音書のイエス様をご覧になったらどう思うでしょうか?パリサイ人や律法学者たちは、次から次へと難問をふっかけました。あるとき、「カイザルに税金を納めても良いでしょうか?」と聞いてきました。「収めよ」といえば、イスラエルがローマに屈服していることを認めることになるので、人気がガタ落ちになります。「収めるな」と言うなら、ローマに反逆する者としてイエス様を訴えるでしょう。どっちにも答えることができません。そこで、イエス様は「税に納めるためのデナリ銀貨を見せなさい」と言いました。そして、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」と言われたのです。彼らはぐうの音も出ないまま、立ち去って行きました。他にもそういうことがたくさんありました。周到な準備をして、ことばの罠にかけられるわけですから大変です。でも、イエス様は、それに対して即座に答えたのであります。イエス様は神の知恵の衣をまとっていたというか、知恵そのものだったのです。箴言1章には、「知恵は、ちまたで大声で叫んでいる」と書かれています。知恵自体が、まるで人格のあるように、「私を求めなさい」と叫んでいるのです。でも、多くの人たちは神の知恵を憎み、侮っています。すばらしいことにイエス様という生きた知恵が私たちと共にいらっしゃるのです。「キリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されている」のだったら、求めたら良いのではないでしょうか?

私は学校の成績はあまりよくありませんでした。秋田では「どぶろくを飲むと、頭の悪い子どもが生まれますよ。だからどぶろくを飲まないように」と言われていました。でも、家ではどぶろくを作って飲んでいました。畳を開けて、床板を何枚かはがすと、かめがありました。父親がそれを飲んでいたので、私は頭があまりよくなかったのでしょうか?最終学歴は大学ですが、通信教育で10年もかかり、やっと卒業できました。ある人は計算がよくできたり、ある人は記憶力がとても良いです。ある人はうらやましいくらい、とてもシャープ(スマート)です。でも、みなさん、私はクリスチャンになってから、知恵の賜物が与えられているのではないかと思います。Ⅰコリントの12章に御霊の賜物が9種類のっかっています。その中の知恵の賜物です。その知恵は、努力とか生まれつきの知恵ではなく、聖霊が超自然的に与えるものです。みなさんは「なんて傲慢な奴だ!」と思うかもしれませんが、もちろん神様に栄光を帰しますが、聖霊様は知恵をくださいます。また、御霊の賜物の「知識」は、この世の知識とは違います。勉強したり、調べたりしなくても、一瞬にしてわかるというか、あるものが見えるのです。直感と似ていますが、それは神からのものです。イエス様もサマリヤの女がどういう素性の人なのか、パッと分かりました。また、沖に漕ぎ出して、舟の右に網を落とすなら、たくさんの魚が捕れることも知っていたのです。そういう知識も、神様は私たちにくださいます。

でも、その知恵と知識はイエス様御自身の中にあるのです。Ⅰコリント1:30「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました」と書いてあります。ビジネスをするにも知恵が必要です。子育てや家事にも知恵が必要です。日本の学校教育は知識をつめこむような教育ですが、この知恵を育てることがほとんどありません。この知恵は、神様から来るもの、イエス様によって与えられるものです。日本の政治家が神を恐れ、イエス様から知恵を求めるならば、ソロモンのように国を豊かにすることができるでしょう。ソロモンはただ1つ、民を治めることができる知恵を求めました。そうすると神様は知恵だけではなく、求めなかった富と誉れまでも与えてくださったのです。ハレルヤ!日本のクリスチャンは確かに少数です。でも、私たちが主の民として、神様からの知恵を提供し、これを用いるならば、この日本にも将来があるのではないでしょうか?ロシアのキエフにサンディ・アデラジャという伝道者がいます。彼はアフリカのナイジェリアの出身です。彼はたった12年間で、霊的に死んでいたヨーロッパにおいて200万人を救いに導き、600の教会を建てました。それだけではありません。彼は政治やビジネスの世界にも神の国をもたらすように人々を訓練し、送り出しています。彼らは町を勝ち取り、国にも影響を与えています。サンディには「こういう分野にこういう人を派遣しなさい」と神からの啓示が与えられるそうです。もちろん、神の知恵も与えられます。おお、どうぞ、私たちも神からの啓示、神からの知恵を求めましょう。私たちは、お金がないのではないのです。力がないのではないのです。資源がないのではないのです。神からの知恵がないのです。私たちの一番そばにおられる方はどなたでしょうか?この宇宙万物を父なる神といっしょに創造された、イエス・キリストではないでしょうか?「神の奥義であるキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」どうぞ、キリスト様から、知恵と知識を求めましょう。

2.キリストに根ざす

コロサイ2:6,7「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」使徒パウロは、主イエス・キリストを受け入れた後、どのような生活をすべきかを教えています。大きくわけて2つのことが言われています。第一番目はキリストの中に根ざす、第二番目はキリストにあって建てられるということです。前者は生物的なたとえ、もう1つは建築物のたとえであります。まず、「キリストに根ざす」とはどういうことか学びたいと思います。リビングバイブルには「キリスト様に根を深く下ろし、養分を吸収しなさい」と訳されています。信仰に入りたての頃は、非常に不安定です。人を見て躓いたり、教会の方針とか、牧師のことばでも躓くことがあります。でも、パウロは人や教会ではなく「キリストの中に深く根を下ろして、霊的ないのちを吸収しなさい」と教えています。4つの種のたとえには、岩地にまかれた種がありました。「すぐに芽を出したが、日が上ると枯れてしまった」とあります。その解説があとにあります。マルコ4:16,17「岩地にまかれるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞くと、すぐ喜んで受け入れるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます」。おお、洗礼を受けたときはハネムーン期間のように喜びでいっぱいです。しかし、1年もたたないうちに困難や迫害がやってきます。そのときに、キリストに根ざすか、それとも「やーめた」と離れ去るか分かれ目であります。

先週、ある方と話したら、「洗礼を受けたあと、ほとんどの友達が去って行ってしまった」と言っていました。なぜなら、「自分がキリストを信じてこんな体験をした」と証ししたためです。友達は「ちょっと、気がおかしくなったんじゃないか」と、思ったようであります。日曜学校のお楽しみ会とかクリスマス会に、子どもたちが結構やってきます。子どもたちは、「教会でこんなことを聞いたんだよ」と喜んで話す。でも、それを聞いたご両親は「子どものときから宗教に染まると、心が狭くなる」と思って、日曜学校に行かせなくします。そうすると、子どもの信仰はもう育ちません。根を張りたくても、張れないわけです。ですから、キリストに根ざすということは、簡単なようで難しい。特に日本は、クリスチャン人口が少ないので、なかなか理解してもらえないようなところがあります。ですから、この時期に大切なのは、フォローアップです。バスケットで、ボールをシュートしたとき、かごに入らないでポロっと落ちそうなときがあります。チームの他のメンバーが落ちかけたボールをもう一度、かごの中に入れてあげることをフォローアップと言うようです。ですから、まわりのクリスチャンが、信仰に入りたての兄弟姉妹を助けるということがとても重要になります。作物の苗とか、樹木の苗木は、囲いとか添え木が必要であります。成長してしっかり、根が張ると一本立ちすることができます。信仰も同じで、本人がキリストにしっかり根付くまで、周りのフォローアップが必要です。私たちもかつては、だれかの世話になったわけです。ですから、今度は霊的な父もしくは母として、お世話する側に回りたいと思います。

第二番目のキリストにあって建てられるとはどういうことでしょうか?信仰を建築物にたとえるならばどうでしょうか?建物は、まず、土台があります。その上に柱、梁、屋根があります。それから外壁や間仕切りの壁があります。窓とかドア、階段も必要です。では、柱とか梁、壁とは、信仰生活においてどんなものなのでしょうか?私はライフスタイル、生活様式だと思います。私たちは「自分はこのように生きる」という価値観もっています。定まった考え方、習慣、性格、行動パターン、好み、癖、こだわり…そういうものがあるでしょう。多くの場合は、クリスチャンになる前に、すでに私たちの体や頭にインプットされています。ですから、クリスチャンになったからといって、すべての生活様式や価値観が変わるわけではありません。ですから、クリスチャンなったならば、ある部分を解体して新しく作り直す箇所も出てくるでしょう。つまり、改修工事をしなければならないということです。もしも、5,60歳代でクリスチャンなったならば、果たしてどれくらい変えられるでしょうか?もう、その人の生き方や考え方が大体、決まっていますので容易ではないかもしれません。ですから、伝道者の書で、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」(伝道者の書12:1)と言っているのであります。でも、みなさん私たちの霊が生まれ変わりますと、今まで繋がっていなかったところが繋がれ、今まで活動していなかったところが活動しますので、「もう、年だ!」と諦める必要はありません。

では、私たちはどういうところが最も、建て直される必要があるのでしょうか?ここが変わったなら、後の部分はぼちぼちと、というものは何でしょうか?気質とか性格的なものはなかなか無理でありますが、何が最も大切なのでしょうか?私は週報の表に「亀有教会のビジョン」という絵を描きました。これはクリスチャンのあり方やビジョンを神殿にたとえています。土台ではどういうところを直さなければならないでしょうか?それは主導権をキリストに明け渡すことだと思います。言い換えるならば、王様の座を、自我からキリストに明け渡すこと、つまりキリストの弟子になるということです。イエス様がみことばを通して、「そうじゃないよ、こっちだよ」と言えば、「はい、わかりました。あなたの仰せのとおりにします」。こういう姿勢がとっても重要であります。その上には4本の柱があります。第一は聖書を読むということです。ただ読むだけではなく、ゆっくり瞑想しながら読む。みことばは、するめのように、噛めば噛むほど、味が出てきます。コロサイ3:16「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」とあります。多くの場合、私たちは律法主義で生きています。でも、キリストのことばは、恵みのみことばです。これを、私たちのうちに住まわせる必要があります。第二は聖霊信仰です。私たちが信仰をもって生きるためには、聖霊の導きと助けが絶対に必要であります。聖霊はキリストの御霊ですから、両者は同じ方です。聖霊は私たちに霊的な賜物を与えて神と人々に仕えることができるようにしてくださいます。また、あなたの生来の賜物が、聖霊の賜物によって支えられるならば、考えられないような働きができるでしょう。私は子どものときから、声が大きい方でした。「自分がここにいるぞ」と主張しなければ生きてゆけませんでした。今その声が、用いられていることを感謝します。

 第三は聖徒訓練です。なぜ、聖徒と言うかというと、私たちはイエス様を信じた瞬間から聖徒なのであります。しかし、残念ですが中身はまだ、まだ聖徒でないところがたくさんあるでしょう。だから、中身も聖徒になるように整えられる必要があります。すべてのことが訓練であると思うならば、どんなことが起こっても平気です。ローマ5章には「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出す」と書いてあります。前もって、「苦しみは良いことだ!」と思っているなら、たいていのことは乗り越えられます。第四は聖家族です。スペインにガウディで有名なサクラダ・ファミリヤ教会というのがあります。200年たっても未だ完成していません。まだ、工事中です。サクラダ・ファミリヤを日本語に訳すと「聖家族」であります。これは、神の共同体、コミュニティを意味します。私たちはこれまで血縁関係、もしくは利害関係で生きてきました。それが今度は全く違って神の家族が与えられたということです。あまりにも急なもんですから、神の家族に馴染めない人もいます。私自身、牧師であっても関係よりも、業績の方を重んじて生きてきました。それがこの2年間、ベン・ウォンによって「関係が大事だ、関係が大事だ」と言われ続け、今頃やっと軌道修正しているところです。ですから、一度建てられたものを、作り変えるというのは大変なことなのです。

天国に行ったらいっぺんで完成されるのですが、あえて神様はこの地上において変えるべき箇所を残しておられます。一体何故でしょうか?私は最近、それが分かってきました。それは、私たちが変えられるとき、主の栄光が現れ、人々がキリストを見るからです。だから、あえて地上で私たちがもがきながら、紆余曲折しながら、変えられて行く。その過程(プロセス)を神様は用いてくださいます。だから、変えられたという結果も大切ですが、それまでの過程(プロセス)も大事だということです。キリストに根ざすとか、キリストに建てられるとは、すべて根本的なことであります。きょう明日やったからといって、すぐ結果がでるというわけではありません。私たちはあまりにもインスタントリーな世界で生きています。コインを入れたら飲み物が出てくる。カードでものが買える。電話やインタネットで物を頼むと翌日に届くものさえあります。しかし、信仰に関するものは、一夕一朝ではできません。私たちは目に見えるものではなく、もっと根本的なもの、価値観とか動機、考え方に目を留める必要があります。先日、船堀チャペル主催のクリスマス・コンサートに招かれました。4つか5つのクワイヤーが参加し、結構豪華でした。船堀にもクワイヤーがありまして、宮坂姉が指導しています。若木先生とちょっと話しました。昨年の一時期、メンバーがぐっと減って、消滅寸前まで行ったそうです。若木先生はクワイヤーの発起人にひとこと尋ねたそうです。「このクワイヤーは何のためにやっているのか、動機は何なのかもう一度祈ってみるように」と言いました。すると、何かが解けたようであり、クワイヤーがいのちを吹き返したそうです。そのうち、タクシーの運転手さんたちがクワイヤーに入りました。彼らは夜、勤務して、そのまま寝ないで午前の練習に参加するそうです。ステージを見たら、30名近くの人たちが元気に賛美していました。ですから、目先の方法論でなく、目に見えない部分、動機とか、価値観、考え方に目を留める。そこを変えていくなら、近い将来、確実に実が実っていくということです。

あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。