2008.12.28 キリストによる自由 コロサイ2:11-19

今年、最後の聖日礼拝になりました。忙中閑ありでしょうか?年末のあわただしい中、神様の前に共に集うことは良いことだと思います。皆さんの中には、この一年、一回も休まないで聖日礼拝に出席しましたという方もおられるでしょうか?まるで、イエス様の足元でみことばに聞き入ったベタニヤのマリヤのようであります。しかし、同時にマルタのようにいろんな奉仕にあたった兄姉もおりました。とくに、「教会クリスマス祭り」ではご苦労さまでした。新しい方がたくさん来られ、すばらしい伝道の機会であったと思います。きょうのメッセージは『キリストによる自由』と題して、私たちクリスチャンは、3つのものから解放されていることを自覚したいと思います。

1.律法からの解放

 コロサイ2:11-14までの内容は、一口に言って律法からの解放であります。このことと同じことが、ローマ6-8章、がラテヤ2-5章にも書いてあります。神様は私たちを律法から解放するためにどのような恵みをお与えになられたのでしょうか?私たちはキリストにあって、一度死んで葬られ、キリストとともによみがえらされた存在です。バプテスマとは洗礼ですが、これは水の量ではなくて、キリストに浸かるということです。キリストの内に潜り込むことによって、どのようなことが起こったのでしょうか?2000前、キリストが十字架につけられたとき、私たちも一緒に十字架につけられたのです。そして、私たちの古い人は死んだのです。また、イエス様とともに葬られました。葬られたとは、完全に死んだということです。それは、御葬式であります。みなさんは、一度、御葬式をしたのです。さらに、神様はイエス様を死人の中からよみがえらされました。私たちがキリストの内にあるならば、私たちも一緒に、復活したのであります。このことをパウロは11節で、「肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです」と解釈しています。イスラエル人が割礼を受けたように、私たちクリスチャンは、バプテスマを受けます。そのことによって、古い人に死んで、新しい人として復活し、神の民に加えられたことを確認するのです。ハレルヤ!私たちの中には、過去のいろんな記憶はあります。でも、古い人は既に、キリストと共に葬られました。今、生きているのは古い自分ではなく、新しい自分なのであります。

 では、キリストとともに一度死んで、よみがえらされたクリスチャンにはどのような解放があるのでしょうか?このことは、13節の後半から14節にあります。「それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」律法の役目、あるいは目的とは何でしょうか?それは、私たちの罪を責め立てるということです。聖書には、モーセの十戒をはじめとする、様々な律法が記されています。パウロは聖書のない異邦人には、心の中に良心という律法が記されているとも言っています。この律法にかなう人は、だれ一人としていません。この律法が当てられたら、みな罪人であります。でも、1つだけ除外される人があります。それは死んだ人であります。律法は生きている人にだけ適用され、死んだ人には無関係であります。クリスチャンはキリストと共に死んだので、律法の適用は受けないのであります。その代わり、クリスチャンは復活し、キリストと共に結ばれました。私たちの主人は律法ではなく、主イエス・キリストであります。このお方は恵みに溢れたお方であり、私たちを律法のように、責めたりはしないのであります。「私が助けるから、一緒にやりましょう」と手を取ってくださいます。「イエス様!」と呼べば、キリストの御霊、聖霊が内側に働いて、正しいことを行うことができるようになるのです。ハレルヤ!これは律法ではなく、恵みの力であります。

私たちはキリストにあって、既に赦しの中にあります。もう一度、お読み致します。「それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」私たちの罪を訴える証書は無効にされました。神様はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされたのです。ハレルヤ!この宣言を聞くと、私たちの心はどうなるでしょうか?罪責感が消えます。神様があなたの罪を赦し、その証書を釘付けされたのですから、あなたはあなた自身を赦すべきであります。神様が「赦す」とおっしゃっているのに、「いや、私は自分を赦さない」というのは、神様に逆らう罪です。キリストの血によって、私たちの良心の咎めが去り、良心がすすがれ、きよめられました。今度は、聖霊があなたの心に宿り、聖霊があなたを導いてくださいます。Ⅱコリント3章には「文字は殺し、御霊は生かすからです。…主は御霊です。主の御霊のあるところには自由があります」と書いてあります。私はこのことばが大好きです。子供のときは、親から、兄たちから、先生から、「そうではない。ああしろ、こうしろ」と言われてきました。私は、お説教は大嫌いなのであります。そういう言い方をされると悪い方に反応します。かえって、えこじになり、「ばかやろー、このやろー」と逆らいたくなります。でも、イエス様と出会ってから、「恵みの道」があることを知りました。私たちはすでに罪赦され、義の世界に生かされているのです。「○○しなければ受け入れられない」という世界ではありません。もう、イエス様がすべて全うされたので、何もしなくても良いのです。でも、恵みによって1つでも行うなら、ものすごい誉というか、ものすごく褒められるんですね。すると、次からは嬉しくて、もっとやりたくなる。義務ではなく、恵みなんです。嫌々じゃなく、喜びなんです。なぜなら、我が内におられるキリスト、聖霊様が、そうさせてくださるからです。これが律法から解放された人、御霊によって恵みの中を生きる人の生き方です。アーメン。

2.サタンからの解放

 コロサイ2:15「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」支配とか権威いう言葉は、エペソ人への手紙にもあります。この場合は、悪霊の階級を指しているようであります。黙示録12章には、「悪魔とかサタンとか呼ばれている古い蛇、日夜、私たちを神の御前で訴える者が投げ落とされた」と書いてあります。親分であるサタンが神様に訴えます。そして、その子分ある悪霊たちは、私たちの良心に「お前の罪は決して赦されないぞ!」と訴えるのです。しかし、イエス・キリストが十字架で贖いを完成してからは変わりました。まず、サタンが天から落とされたので、もう神様の前で私たちを訴えることはできなくなりました。さらに、すべての支配と権威の武装を解除され、サタンの国はバラバラになりました。ある悪霊たちは捕虜にされ、また、ある悪霊たちは未だにのさばっています。彼らは自分たちの終わりが近いことを知りながら、神の最高の被造物である私たちを苦しめ、地獄に道連れにしようとやっきになっています。

日本人は神様も悪魔も信じないので、悪霊にとって隠れて活動しやすい、格好な国であります。今、日本には精神的に病んでいる方がものすごく多くいます。2007年度の統計ですが、学校の先生の約5000人が、精神的な疾患で休職をしているということです。子供たちだけが学校に行けないのではなく、学校の先生までも、学校へ行けないという状況です。また、大勢の人たちが抗鬱剤とか安定剤を服用しながら、なんとか職場に通っています。精神科とか心療内科では、お手上げ状態で、一人ひとりをケアーしている時間がありません。私は2年間、丸屋先生のカウンセリングを学んでいますが、昔はノイローゼとか精神分裂症ぐらいでした。しかし、現代は、摂食障害、パニック障害、パーソナリティ障害とか様々な病名があります。クラスで、一番印象的に残ったのは、「こういうものは時間がかかる」ということでした。すべてが悪霊によるものだとは申しません。しかし、アダムとエバが罪を犯してから、死と病が入り込んだことは確かです。つまり、肉体だけではなく、精神(心)も病になるということです。でも、その背後には、サタンの束縛があることは確かです。私たちが神様に立ち返り、罪の赦しと、悪霊からの解放を得る、これはとても重要なことであります。インドネシアのエディ・レオ師によると、カウンセリングではあまり効果がなく、罪の告白と悔い改めによって、多くの人が解放され、癒されているそうです。現代は物事を複雑に考え過ぎています。しかし、聖書は「人間の根本問題は罪であり、神様から離れてしまっていることだ」と言います。

 私たちを混乱させる悪霊に対して、2つの効果的な武器があります。1つは主の御名の権威を用いるということです。使徒2章に「しかし、主の御名を呼ぶ者は、みな救われる」と書いてあります。私たちクリスチャンは、改めて、神様から主の御名の権威をいただくべきであります。そして、イエス様や使徒たちが主の御名の権威を用いたように、病や悪霊に対して、主イエスの御名によって命ずるべきであります。イエス様は病に対して、お祈りしたことは一度もありません。イエス様は常に命じておられます。私たちの場合は、イエスの御名によって命ずることができます。もう1つは、御霊の祈りです。エペソ6:18「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい」と書かれています。御霊の祈りにはいくつかの解釈があります。1つは御霊に導かれる祈り、もう1つは異言の祈りです。私たちが知性でどのように祈ったら良いか分からないとき、「御霊ご自身が言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」(ローマ8:26)。心理学は病理を確定するために確かに助けにはなります。お話を聞いて状況を把握することはとても重要でしょう。しかし、実際に癒しを行うときは、私たちは御名の権威と御霊の祈りを用いるべきであります。エリヤハウスも1つのカウンセリングですが、世のカウンセリングと違うのは「祈り」を用いることです。途中で、神様に聞いてみる。ある場合は、その人にも祈ってもらう。神様があなたに何を示しているのか、聞いてみる。すばらしいことに、聖霊様がその場に臨在して、問題を解決してくださいます。私たちは「祈り」というすばらしい、道具(スキル)を持っていることを忘れてはなりません。サタンが一番嫌うのは「祈り」であります。「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい」アーメン。

3.宗教や儀式からの解放

 コロサイ2:16「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り・・・」宗教には、必ずと言って良いほど、「きまりごと」があります。何の根拠もないのに、食べ物や飲み物、日の良し悪しを規定したりします。また、神様に受け入れられるために断食したり、難行苦行を行ったりします。イエス様の頃、パリサイ人や律法学者、サドカイ人たちは言い伝えや、儀式をみことばよりも重んじました。そのため彼らの信仰は形骸化し、偽善的になりました。残念ながら、私たちの肉は、宗教性に傾きやすいところがあります。私は、自分で宗教をやっているとは思いませんし、宗教的なことは大嫌いです。しかし、長いことやっていますと、「こうすべきだ、ああすべきだ」という型ができてきます。そうしますと、それ以外のことをしたら、「バチが当たる」とは言わなくても、なんらかの罪になると思ってしまいます。福音書を見てみると、イエス様はことごとく、当時の宗教家たちと対決しています。彼らは表面的には神様を敬い、きよい生活をしていました。しかし、その中身は、汚れたものでいっぱいで「白く塗られた墓」のようでありました。イエス様は宗教的な慣習や戒めを破って、いつも聖書の本質に立ち返っていました。イエス様と一緒にいた弟子たちは、そういうものに縛られることなく、いつも自由でした。ですから、私たちも「イエス様は何と言っているか」、そこに焦点を当てる必要があります。

 また、もう1つ私たちが宗教と儀式から解放されるために、日々、イエス様と共に歩むことが大切です。私は、キリスト教は宗教ではなく、今も生きておられるイエス様と共に生活することだと信じます。ヨーロッパはものすごく長いキリスト教の歴史があります。宗教はあっても、命がありませんでした。しかし、最近、本当の信仰を求める人たちが、イギリスをはじめ様々な国に起こっているようです。たとえば、北アイルランドは長い間、紛争が絶えませんでした。カトリックとプロテスタントが争い合っています。これまでも数多くの血なまぐさい争いがありました。しかし、ベン・ウォン師から、今その国にリバイバルが起こっていることを聞きました。私たちは『今はエリヤの日』という賛美をしますが、その曲は「ベルファーストのリバイバル」というアルバムの一曲です。アイルランドは多くの試練を通った国です。アイルランド人たちは「自分たちはとても惨めだ」と思っています。度重なる内乱のために、社会はすべてが悲惨な状態だからです。でも、神様はアイルランドで、新しいことをなさっています。今、この時代に入って、アイルランドは世界で一番、経済成長の著しい国になりました。そして、アイルランドの教会もまた、リバイバルを体験しています。このアルバムで、ロビン・マーティンが、このように言っています。人々が言う。「アイルランドから、何か良いものが出てくるだろうか?」しかし、今、アイルランドですばらしいものが起こされている。なぜなら、神の時が来たからです。「今はエリヤの日、みことばを叫べ。今は、しもべモーセのとき、主の義がかえる。闇と飢えとつるぎ、そこにあっても、砂漠の中で声が叫ぶ。主の備えをせよ。見よ 来られる。雲に乗り。陽のようにラッパの音で。声を上げよ、ヨベルの年にシオンから救いが来る。」アーメン。

 この間のイブ礼拝、全く宗教臭くありませんでした。でも、ある女性の長い髪の毛に、ローソクの火が引火して、焦げ臭い香りはありました。子供たちのお笑い芸人ばりの降誕劇。そして、衣装を脱いだら、ぱっとブレーク・ダンスに早変わり。すごかったですねー。その前のゴスペルコンサートも、明るくて、教会でやっているとは思えませんでした。また、リードする人(ディレクター)がよくしゃべる。「大川先生だったら、きっと怒るだろうなー、でも、一体、誰に似たんだろうなー?」と考えました。「ああ、俺か!俺のDNAだなー」と思いました。宗教はヘンになると、カルトになります。人々はカリスマ的な人物を崇拝し、すべてコントロールされてしまいます。洗脳され、ある決まったことしか考えられなくなります。しかし、うちの教会はそんなことが全くありません。もっと、私を崇拝して?いや尊敬してもらいたいのですが、牧師も体の一部分だなーという感じがして、とても良いです。

 最後に、私たちが律法やサタン、宗教から解放され、キリストにある自由を得るための大事なポイントについて述べたいと思います。コロサイ2:19「かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。」このみことばを逆に言えば、私たちはかしらなるキリストに堅く結びつくことが大切だということです。さらに、からだ全体である私たちが、「関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです」。アーメン。つまり、私たち一人ひとりは、だれにつながっているのか、ということです。だれにつながっているのでしょう?「牧師につながりなさい」と言いたいところですが、そうではありません。かしらなるキリストにつながっているのです。かしらなるキリストから命令を受けて、動くわけです。しかし、それだけだと個人プレーになる恐れがあります。私たちはキリストにつながっているとともに、「関節と筋によって養われ、結び合わされる」必要があります。つまり、一人ひとりが連結し、助け合うということです。不思議なことに、一人ひとり、賜物も違うし、性格も違います。同じような人はいますが、全く同じという人はいません。中には、合わないなーという人もいます。でも、キリストのからだ全体から考えると、そういう人も実は必要なのであります。「自分だけが一生懸命やって、あの人はやっていない」と思うときがあるかもしれません。でも、体のことを考えると手足も大事ですが、静かな臓器がより大事であります。たとえば、「すい臓」はどうでしょうか?すい臓が働かなくなると、糖尿病になって、体全体が機能しなくなります。とにかく、私たちはキリストにあって、どんな人でも必要な存在であると認識すべきです。

 きょうは、キリストによる自由ということを学びました。第一は律法からの解放であります。ある人は律法主義に陥って、隣人をさばいているかもしれません。どうか、自分が神様から赦されているように、隣人をも赦しましょう。第二はサタンからの解放です。悪霊はからすやねずみのように生ごみをあさります。私たちの中に告白していな罪や心の傷がある場合、悪霊の足場になります。どうぞ、熱心に悔い改め、キリストの御霊に満たされましょう。第三は宗教や儀式からの解放です。「人はうわべを見ますが、主は心を見ます」(Ⅰサムエル16:7)。人が見ようと、見ていまいと、神様の御目のもとで暮らせば良いのです。どんなときにもイエス様の恵みによって、歩めば良いのです。神様からいただいた、キリストにある自由を心から感謝します。