2008.11.02 真の知識 コロサイ1:9-12

パウロはコロサイの人たちのためお祈りしています。普通、私たちは「健康で、すべてのことが祝されますように」などと祈ります。そういう祈りも悪いわけではありませんが、パウロは神様の側に立って祈っています。それは、信仰生活において根本的なものです。この4つをちゃんと守っていれば、結果的に健康ですべてのことに祝福が与えられるということです。9節から12節まで、4つのものがあると思います。9節は真の知識、つまり教理的なことです。10節は主にかなった歩み、つまり実践的なことです。11節は強くされるように、つまり内面的な強さです。12節は喜びと感謝、つまり礼拝の生活です。いつもは、2つのポイントですが、きょうは4つのポイントで学びたいと思います。

1.真の知識

 パウロは9節で「あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように」と祈っています。真の知識とは、教理的なことです。ときどき、「神様がどんなお方か全く分からない」という人がいますが、それは聖書を読まないからです。聖書は神様からのラブレターです。そこには、神様のみこころが記されています。その当時、コロサイには、ギリシャ哲学とか、神秘主義の影響がありました。ですから、ある人は信仰を観念的にとらえ、またある人は幻など霊的体験を信仰の土台にしていました。真の知識とは、神のみことばと聖霊の理解力とがマッチして与えられるものです。また、そこには必ずバランスが伴わなければなりません。キリスト教の歴史をみますと、様々な異端が出現しました。それは、どちらかの真理に極端に走って、他方の真理を捨て去ることから起こります。

近年のキリスト教界にあった極端とはどういうものでしょうか?昭和の初めは再臨信仰でした。やがて、この世は終わりを告げ、キリスト様が天から来られる。それは正しいことです。でも、同時に私たちは天国だけではなく、この世にも片方の足を据えなければなりません。地に足を据え、この世の中が少しでも良くなるように、働きかける必要があります。その次に起きたのが、癒しとか祝福であります。ある人たちは「それは御利益信仰だ」と全部否定しましたが、ある人たちはそれを第一に求めました。確かにアメリカの功利主義は問題があります。でも、私たちは神様に従うと、結果的に祝福がやってくるんだということを知る必要があります。また、最近は預言者とか使徒の回復の時代だと言われています。預言者は確かにいます。でも、突然、どこからやって来た預言者が「あなたの教会のここが悪い」とか、「牧師のここが問題だ」と言ったとしても信じないことです。なぜなら、牧師は教会を守るため、神様から権威が与えられているからです。ですから、聖書はバランスをもって理解する必要があります。

 私が信仰をもってから、大変、役に立ったのが良い信仰書であります。教会とか信仰の先輩が推薦する本をよく読みました。聖書を直接、読むのが一番なのですが、何らかのガイドブックも必要です。みなさんはお小遣いをどんなものに使っているでしょうか?キリスト教良書を買うために毎月、2000円くらいはかけても良いのではないでしょうか?キリスト教の本は発行部数が少ないので高いのが難点です。2000円でも2冊は買えないでしょう。とにかく、最初は正しい聖書理解を持つことが必要です。東京には、いろんなセミナーや大会がありますので、極端に走る場合があります。癒しや霊的体験も必要です。でも、聖書をよく学んで、正しい信仰を持つことがもっと重要です。ゴスペルクワイヤーの人たちが数年前、韓国のオンヌリ教会を訪れたとき、「聖書をもっと学びなさい」と言われたそうです。わぉー、すばらしいことですねー。ある人は、健全な信仰は健全な聖書理解から来ると言いました。そういう意味でも、この世の本や雑誌よりも、聖書をよく学び、バランスのとれた信仰を持ちましょう。

2.主にかなった歩み

 10節「また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。」第二番目は、主にかなった歩みです。それは、みことばの実践と言うことができるでしょう。ヤコブは「みことばを実行する人になりなさい」「信仰も行ないがなかったなら、死んだものです」(ヤコブ2:17)と言いました。キリスト教会の一番の欠点は、知識があっても行ないが乏しいということです。いっぱい学んで、学び過ぎて、頭が大きくなり、手足が小さいならばどうなるでしょうか?それは哲学的な信仰です。知識を得ることは大事です。でも、知識が増すとどうなるでしょうか?1つは恐れがやってきます。「まだ学びが足りない」と逆に自信がなくなります。神学ばかりやり過ぎた先生は、「こういう説もあり、またこういう説もあります。こう言った人もいます、ああ言った人もいます」と、結局のところ分かりません。恐れのゆえに、1つに定めることができないのです。もう1つ、知識は人を高慢にさせます。Ⅰコリント8:1「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てる」とあります。

 では、どうしたら良いのでしょうか?みことばを実践するということです。私たちはたった1つのみことばを実践するだけでも、ものすごく苦労するでしょう。『塩狩峠』の長野さんは、サマリヤ人のたとえから「隣人を愛する」ということを実践しました。会社の同僚を愛そうと様々な努力をするのですが、逆に自分には愛がないことに気づきました。みことばを実践してみて、「ああ、自分にはこれが足りないんだなー」と気づくわけです。ディボーションとは、日々、聖書を読み、祈ることですが、その中で大切なのが適用です。「今、聖書から教えられたことを、どう自分の生活の中で適用するか?」これがないと、自分の生活は変わりません。松戸の岡野先生が最近『ただ愛すれば良い』という分厚い本を出しました。その中にこう書いてありました。「クリスチャンは教会でみことばを学び、自分でも読んでいると思います。しかし、聞くだけ、読むだけではなく、みことばを守る人となることが大事です。キリストの弟子とは、主のみことばを守る人であり、弟子訓練とは、主のみことばを守るように教えることです」とありました。まことに、アーメンです。

 もし、私たちがみことばを守る生活をしていたならどうでしょうか?あなたの一番、近い人がそれに気づくはずです。あなたの夫、あるいは妻、あるいは子どもが「なんか違うなー」とあなたの内にキリストの姿を見るんじゃないでしょうか?「主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び」とあるように、かならず実が現れてきます。私たちの周りのノンクリスチャンたちは、私たちの言うことは聞きません。私たちがする行ないによって、何かをキャッチするようです。イエス様の家族や兄弟も、はじめはイエス様を信じませんでした。しかし、イエス様の行ないを見て信じたのです。だから、イエス様の兄弟のヤコブは信仰よりも、行ないを強調しているのではないかと思います。キリストの弟子とは、みことばを守る人です。なんと、単純でわかりやすい定義でしょうか?長い間、信仰生活をしても、まわりに影響を与えていないとしたら、それはみことばを実行していないからかもしれません。私などはみことばを教える機会が最も多い人です。だから、私が一番、言行一致が求められています。どうぞ、お互いに、みことばを守る人になりましょう。

3.強くされるように

11節「また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし」とあります。「強くされるように」とは、肉体的な強さではなく、内面的な強さです。パウロは、エペソ3:16で「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように」と書いてあります。内なる人とはどこでしょうか?それは霊と魂です。厳密に言うなら、神の御霊の支配を受けている、魂と言った方が良いかもしれません。クリスチャンになりたての頃は、霊的に生まれても、まだ肉の人であります。だから、何でも反抗したり、小さなことで躓いたりします。体は立派な大人なのですが、霊的にはまだ子どもです。先輩のクリスチャンは、そこのところを知って、ケアーしていく必要があります。私はクリスチャンになる前後の1年間は、ずっと金魚の糞みたいに、私を導いてくれた人の隣に座っていました。最初は教会の人たちの証を聞いて唖然としました。「なんと一人よがりなんだろう。それは神様じゃなくて、自然に起こったんじゃないの」と思いました。その次には献金、役員さんのお祈り、握手、副牧師の対応…躓く材料はいっぱいありました。でも、1つ1つを先輩がフォローしてくれたのです。それでやっと独り立ちできるようになったのです。

私たちの内なる人で、一番やっかいなのが、魂であります。アダムとエバが食べてはならない木から取って食べた時、霊が死に、その代わり魂が以上に発達してしまいました。それ以前は、霊によって神様の御声を聞ききつつ従っていました。だが堕落後、人は「自分は神様なしで生きてゆける」と魂が独立宣言したのです。この傾向は、クリスチャンになってからも続きます。いわゆる「我が強い」とか「我まま」「不従順」「反逆の霊」…こういう性質があるんですね。だから気にいらないことが起こると「プイ」となる。信仰がないわけではないのですが、相変わらず肉が支配している状態です。このままの状態の人を神様は用いることはできません。では、神様はどうするのでしょうか?ヘブル12章にありますように、主は愛する者を懲らしめ、訓練します。ヘブル12:11「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」主は、出来事を通して、環境を通して、あるときは人々を通して、その人を訓練します。人によっては、そのまま教会を離れる人もいます。長い間、試練の中を歩んで戻って来る人もいますが、そうでない人もいます。でも、主の訓練を耐え忍んだらどうなるでしょうか?その人には、平安な義の実が結ばれます。義の実とは、忍耐と寛容という品性であります。忍耐と寛容は、すぐに与えられる実ではありません。何年もかかって、ある場合は何十年もかかって、身についてくるものです。もし、その期間を短くしたいなら、従順ということを学ぶことです。従順こそが、このレッスンの最短コースであります。

父なる神様は、「ああ、この人にはこういう方法で魂を砕いたら良いなー」「この人には、こういう方法で訓練したら良いなー」と一番よくご存知です。石を割るときには、割り方があるそうです。ちゃんと、線があるそうです。その線のところに、ノミを入れると綺麗に割れるそうです。あるときは、神様は、不条理というノミであなたを懲らしめるかもしれません。また、あるときは、ノンクリスチャンの配偶者を用いるかもしれません。「それでもクリスチャンか?」とあなたに厳しい言葉を浴びせるかもしれません。また、あるときは、人々から忘れられ、何の脚光も浴びないという期間を過ごすかもしれません。やっても、やっても、結果が出ない。「あー、なんでなんだー」。まるで、金を精錬するように神様は私たちを火の中を通します。火の中を通すと、表面に灰汁が浮かんできます。それをすくって、また火の中を通します。そのように試されて、やがて純金になるのです。主の訓練を軽んじてはなりません。神様は私たちを子として扱っておられるのです。私たちの内なる人は強くなり、忍耐と寛容さが身につき、神様の御用に間に合うことができるのです。もはや、小さな子どもではなく、神様の息子であり、娘であります。

4.喜びと感謝

12節「また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。」神への喜びと感謝とは、礼拝の生活であります。日曜日、教会に来るときだけが礼拝ではありません。「日々、神様に礼拝をささげる。そんなことが一体、可能なのでしょうか?」多くの人たちは、礼拝とは、どこかに集まって、順番どおりにささげる儀式だと思っています。礼拝には説教とか讃美歌が必要なのでしょうか?もちろん、そういう礼拝もあります。しかし、公の礼拝だけが礼拝とするならば、もったいない話です。そうではなく、私たちは日々、自分の生活の真中で、主と交わり、礼拝することが可能なのです。もし、私たちがそういう生活をするならば、どんな時でも主が共にいて助け、導いて下さるでしょう。では、どのように日々、礼拝をささげることができるのでしょう?多くの場合、「それはディボーションをすることです」と答えるでしょう。もちろん、朝とか夕べに、聖書を開いて、瞑想し、祈る。こういう個人的な礼拝は大切です。また、夫婦や家族で心を合わせる家庭礼拝もあるでしょう。セル集会においても、礼拝の要素があります。しかし、礼拝は、道を歩いているとき、電車に乗っているとき、あるいは仕事をしているときも可能です。エディ・レオ師は誘惑にあったとき、「ハレルヤ!主よ」と礼拝できると言いました。特に男性は一日、何度も性的な誘惑を受けるので、その度ごとに主を礼拝できるということです。私は日中、ひょんなとき、過去のイヤーな出来事を思い出すときがあります。過去の失敗、悲しい出来事、惨めだった時の思いが「ふっ」と前触れもなく出てきます。そのとき、私は手を合わせて「おお、主よ。あなたは私の盾、砦、隠れ場です」と礼拝します。すると、嫌な思いが一瞬に消えてなくなります。それはサタンが私を落ち込ませるために、持ってくるものかもしれません。でも、私はその機会を、主を礼拝する時に変えています。

 ですから、みなさんも礼拝を日曜日の午前中に限定するのではなく、日々、どんな時にも礼拝ができるんだと考えを変えましょう。そのためには、もっと神様との関係を楽しむというか、喜ぶ必要があります。日本人は神様というと、高いところに祀り上げるみたいなところがあります。でも、私たちの神様は、「アバ、父よ!」と呼べるほど親しい方です。ある人は「イエス様」とか「聖霊様」と呼ぶ人もいます。「主よ」でも良いです。とにかく、礼拝とは神様との親しい交わりだと考えるべきです。四六時中、お話しても神様は文句を言いません。今、携帯ではいろんなサービスがあります。家族同志はタダとか、話し放題というのもあります。神様との電話は無料です。しかも、話し中ということがありません。請求書も来ません。神様と話せば話すほど、私たちは信仰に満たされ、聖い者とさせられます。そこで、一番大切なことは、喜びと感謝であります。私たちはただ祈るよりも、そこに「感謝」を加える必要があります。ピリピ4:4「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」。ピリピ4:6「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」とあります。感謝をもって祈るとどうなるか?神様の平安が私たちを支配してくれます。

 コロサイの地域は、エペソと同じように、偶像礼拝はあるし、人々は快楽や物質を求めていました。哲学的な考えや神秘的な宗教があり、イエス様が神であることが、低くされていました。時代は変わっても、日本と同じであります。だから、パウロはコロサイに群ができたことを、聞いてから、絶えず彼らのために祈り求めました。その祈りの内容が、きょう学んだ4つのことであります。真の知識が与えられ、主にかなった歩みをし、内なる人が強くされ、喜びと感謝をささげるようにということです。このことは、私たちにもあてはまることではないでしょうか?とうじイエス様と一緒にいた弟子たちはどうだったでしょうか?イエス様によって、真の知識が与えられ、主にかなった歩みをし、内なる人が強くされ、喜びと感謝をささげたのではないでしょうか?私たちは目でイエス様を見ることはできません。でも、今、イエス様と同じ、聖霊様がいらっしゃっているのですから、同じことが可能です。今は、アメリカも日本も経済的にどうなるか分かりません。一世帯3万円数千円もらえるのはありがたいですが、それで解決できるのでしょうか?3年後に消費税上げられたら、そちらの方が辛いかもしれません。テレビを見てもお笑い番組だらけであります。私たちはこういう場合、2000年前の弟子たちのように、イエス様を囲んで、共に生活をすべきなのではないでしょうか?政府やお金に解決を求めてもダメです。みことばと今も生きておられるイエス様に解決を求めるべきであります。あらゆる情報が目から入ってきますが、時には目を閉じて、父なる神様と交わるべきです。そうすれば、神様からの解決が平安とともにやってきます。私たちは父なる神様という偉大な資源を持っていることを忘れてはいけません。使徒パウロが生きていたら同じように祈るでしょう。「神のみこころに関する真の知識が与えられ、主にかなった歩みをし、内なる人が強くされ、喜びと感謝をささげることができるように」と。アーメン。