2008.11.09 贖いの意味 コロサイ1:13-14

キリスト教会では、「イエス様を信じると救われる」と言います。また、クリスチャンはよく、「私は救われました」と証しします。でも、私たちは一体、何から救われたのでしょう?これが分からないと、私たちはサタンにまんまと騙され、「本当は救いなんてないんだ!」とまで、思うようになります。きょうは、贖いの意味と題して、4つのポイントで学びたいと思います。4つのポイントと言うよりは、1つの主題を4つに分けるという方が妥当だと思います。コロサイ1:13-14「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」このみことばと同じことを言っている箇所が使徒の働きにもあります。使徒の働き26:18 「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」使徒の働き26章は、使徒パウロが救われたときの証であります。きょうは、これら2つの箇所を照らし合わせながら、贖いの意味を共に学びたいと思います。

①暗闇の圧制

 はじめに重要なことは、「かつて私たちはどこにいたか?」であります。かつて、私たちはどういう状態だったのでしょうか?コロサイ1:13「神は、私たちを暗闇の圧制から救い出し」とあります。圧制という言葉は、支配という意味です。これと同じ表現をしているのが、使徒26:28「暗闇から光に、サタンの支配から神に」とあります。暗闇の圧制とは、サタンの支配であります。かつて、私たちはサタンの支配のもとで苦しんでいたということです。「えー?私はサタンの支配のもとにあるなんて信じられません!」と言う人は、まだ救われていない人です。ほとんどのクリスチャンは、「ああ、救われる前は、本当に私はサタンのもとで縛られていたなー」と分かります。でも、生まれたときから、サタンのもとで生きていると、自分がどんなに束縛されているか分からないんです。綱を解かれてみて、「ああ、私は不自由だったんだ!」と分かるのです。皆さん、私たちはかつて、サタンの持ち物だったのです!サタンの国の中で、盲目にされ、やがて来る死を恐れ、かろうじて生きていたのです。

皆さん、サタンには国があることをご存知ですか?ルカ4:5-7「また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、『この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう』」。サタンは、国々の権力と栄光を持っていました。持っていたというよりも、かつては人間のものであったのを横取りしていたという方が正しいでしょう。でも、サタンは持っていたのです。その証拠に、イエス様は何と答えたでしょう?イエス様は、「サタンよ、嘘を言うな!すべては神様のものだ」とは答えませんでした。そうではなく、ただ、「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい」と聖書のみことばを引用して答えました。ということは、イエス様もサタンがこの世のものを所持していることを認めておられたということではないでしょうか?サタンは1つの国を持っています。国とは支配のことですが、この世に対して、サタンはかなりの部分を所持し、また支配しているということです。そして、サタンの国の中には、救われていない魂も含まれています。サタンはいずれ滅ぼされることを知っていますが、一人だけではなく、神様から造られた人間どもを巻き添えにしたいのです。人間どもを虜にしておけば、神様は自分に対する処罰を変えるのではないかと思っているからです。

サタンは私たちがこの世で食べて、飲んで、好きなことをすることを許しています。いろんな宗教、いろんな哲学、いろんな教育も許すでしょう。でも、たった1つ禁じていることは、イエス・キリストを信じて、自分の国から出て行くことであります。それ以外だったら、何をしても良いのです。音楽を聴こうと、旅行を楽しもうと、楽しい趣味を持つこと、何でもOKです。でも、その人たちをよく見たらどうでしょうか?霊的に盲目にされ、霊的な耳もふさがれています。つまり、聖書を読んでも分からない、神の御声も聞き分けられないようにされているのです。そして、人々はいつ来るかもしれない死に怯え、罪の呵責にさいなまされ、永遠のさばきを恐れています。へびが時々やって来て、「この世に真理とか救いなんかないんだ!キリストも偽者だ!そんなもの信じたら大変なことになるぞ!」と嘘偽りを並べています。私たちは、かつてそういうところにいたのです。暗闇の圧制の中にいたのです。私たちはこのことを知らないと、救いということが分からないのです。救われる前は、サタンの支配のもとにいたということです。ここで「ハレルヤ!」と言ってはいけません。「ああ、そうだった!」と胸を打つべきです。

②解放

コロサイ1:12をもう一度見ますと、こう書いてあります。「暗闇の圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」とあります。英語の聖書をみるとよく分かるのですが、「救い出し」は、delivered となっています。Deliverとは、「配達する」というという意味です。これが古語になると「人を…から救い出す、救出する」という意味になります。主の祈りで、「我らを悪から救い出したまえ」の「救い出したまえ」が、deliverであります。つまり、何かに捕らえられていた者を、解放するという意味です。ランボーという映画がありましたが、敵陣にたった一人で乗り込んで捕虜を奪回するという痛快な映画がありました。まさしく、私たちはサタンの虜でしたが、私たちを解放するために、イエス様がこの世に乗り込んで来てくださったのです。また、コロサイ1:12の後半には「御子のご支配の中に移してくださいました」と書いてあります。私たちはサタンの圧制から解放されただけではありません。御子のご支配の中に移されたのです。「ご支配」という言葉は、ギリシャ語でバシレイアでありまして、国とか王国という意味です。言い換えるならば、サタンの国から解放され、御子の国に移されたということになります。つまり、救いというのは、サタンの国から解放され、御子の国に移されるということなのであります。そこで何が変わるのでしょうか?まず、王様が変わります。サタンではなく、イエス様が王様であります。また、暗闇の圧制ではなく、光の支配であります。愛の支配と言っても良いかもしれません。また、死と滅びの世界からいのちの世界に移されたのであります。あなたはかつて、沈没する豪華客船の中にいたのです。そこには高級レストランがあり、酒場あり、食べ放題、飲み放題でした。ダンスも音楽も、ギャンブルも楽しめます。でも、その船は浸水して、まもなく沈むことが分かっています。多くの人たちはそんなことを知らないで、楽しんでいます。でも、あなたは福音を聞いて、船を乗り換えたのです。そうです、救われるとは、まもなく沈む船から、沈まない安全な船へと乗り換えるということです。あなたが、船を乗り換え、イエス様の船に乗っている限りは、寝ていても大丈夫です。

 今、自分がどこにいるかということを理解することはとても重要です。私たちはサタンを恐れすぎてはいけません。サタンは確かに恐ろしい存在ですが、今、私は御子の支配、御子の国の中に住んでいるということを忘れてはいけません。国には法律があり、自国を守るための武力があり、保護があります。神の国も同じであります。ですから、勝手にサタンが乗り込んで、神の国の中にいる人たちを、傷つけたり奪ったりすることはできないのです。しかし、たった1つだけ例外があります。それは、その人が神の国の法律を守らなかった場合です。そのために、神様の守りから外れて、体の一部をサタンの攻撃にさらすときがあります。そのときは、結構、痛い目に合います。そのとき「ああ、これではいけない」と気づいて、神様のご支配のもとに、隠れます。そうすれば、もうサタンは追いかけてきません。詩篇のみことばにあるように、主は私たちの盾、巌、とりで、隠れ場なのであります。どうぞ、私たちが寝ているときも、主の守りがあることを覚えましょう。確かに、この世では戦いがあります。しかし、出ると入るとを守られる、主が共にいてくださることを信じましょう。

③血による贖い

 コロサイ1:14「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」しかし、NKJVを見ますと、 in whom we have redemption through His blood,となっています。「キリストの血による贖い」となっています。これはギリシャ語の原文にはないのですが、内容を補っているものと思われます。また、ここに書いてある贖いのギリシャ語は、アポリュトロシスであります。これは、「身代金を払って、奴隷(捕虜)を自由にしてやる」という意味です。神様がサタンのもとに売られていた私たちを解放するために、キリストの血がその代価になったということです。イエス様が十字架で「完了した(テテレスタイ)!」と叫ばれました。それは、当時の商業用語で、「すべてを支払った、完済した」という意味です。確かに、イエス様は十字架で血を流し、私たちのすべての罪を支払ってくださったのです。じゃあ、「その代価をサタンに支払ったのか?」というと、そうではありません。神様ご自身の義を満足するために、イエス様が身代わりに死ぬ必要があったのです。神様はイエス様の血をごらんになって、私たちのさばきを見過ごしにされたのです。でも、キリストの血が塗られていない人は、さばかれ、永遠の死に行くしかありません。「そんな馬鹿な?じゃあ、キリストを信じなかった私の父や母は地獄へ行くのか?」と文句を言う人が出てくるかもしれません。そのことに対して、ヨハネ3:18には「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」と書いてあります。だからこそ、私たちは生きているうちに、福音を伝える必要があるのです。

私たちが贖われるためは、キリストの血が必要でした。イスラエルの民がエジプトから解放されたときはどうだったでしょうか?エジプトのパロはなかなか、イスラエルの民を解放しませんでした。主はモーセによって9つの災いをエジプトに下しました。それでも、パロは心をかたくなにして、解放しません。ちなみに、パロはサタンの象徴であります。10番目の災いは何だったでしょうか?それは、「過ぎ越し」であります。1歳の羊の血を柱とかもいに塗った家は、主の怒りが通り過ぎるという奇跡であります。エジプト人は血を塗らなかったので、その家の中に住んでいる長子という長子がすべて打たれて死にました。奴隷から王様の息子まで、家畜までもです。その夜、大きな叫びがエジプトの家々に起こりました。パロはこれはたまらんとばかり、イスラエルの民が出て行くことを許しました。そのとき、決め手になったのが、羊の血でありました。イエス・キリストが十字架にかかって死なれたのは、ちょうど過ぎ越の祭りの最中でした。イエス様はご自分が、神の小羊であることをご存知だったのです。どうぞ、覚えてください。私たちはキリストの血によって贖われたのです。サタンは私たちを訴えますが、キリストの血を示すときに、彼は去るしかないのです。

そのことを歌っている聖歌があります。聖歌425番です。「罪重荷を除くは、血のちから、主の血は、悪魔のわざをこぼつ奇しき力なり、力ある主イエスの血、受けよ、受けよ、力ある主イエスの血受けよ、今受けよ。雪より白くするは、血の力、主の血は、罪のしみを抜き去る、奇しき力なり、力ある主イエスの血受けよ、受けよ、力ある主イエスの血、受けよ、今受けよ。」現代のある教会は、キリストの血のことを言いません。気持ち悪いとか、現代的じゃないと言って、退けます。その結果どうなったでしょうか?人々はサタンにやられ、いろんな病気で苦しんでいます。すべての自殺がそうだとは言いませんが、サタンは神のかたちに似せて造られた人間を攻撃していることは確かです。悪魔、サタンの一番の武器は何でしょうか?それは罪ある者を訴えることです。多くの人たちは、罪の呵責でさいなまれ苦しんでします。しかし、解放者イエスがやって来られ、ご自身の血によって、私たちを買い取ってくださったのです。もう、牢屋には鍵がかかっていません。「完了した」という御声を聞いて、そこを出れば良いのです。

④罪の赦し

 コロサイ1:14「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています」。「贖い、すなわち罪の赦しを得ています」と書いてありますので、贖いと罪の赦しは同じだということです。前のポイントでも申し上げましたが、キリストの血は神の義を満足させました。同時に、サタンはもう贖われた者たちを訴えることはできません。罪の赦しは、キリストを信じて救われた者がいただく恵みであります。でも、14節に「この御子のうちにあって」と条件付きでそうなのであります。逆に言いますと、御子のうちにない場合は、さばかれ、サタンの攻撃を受けるということです。「さばかれる」といっても、それは地獄へ行くというさばきではありません。傷とか被害を受ける、ひどい場合は肉体の死もありえるということです。でも、その人は既に救われていますので、天国には行けます。私たちは時々、キリストのうちから外れ、自分勝手にふるまうことがあるのではないでしょうか?それは、私たちが神の法を犯すときであります。神様は愛でありますが、この世に対して法則をも与えました。神が定めた法則を破るならば、クリスチャンであろうとなかろうと、その法則の結果を刈り取るしかありません。私はクリスチャンですが、ビルの上から落ちても大丈夫でしょうか?詩篇91篇には、「御使いたちが、その手で支え、あなたの足が石に打ちあたる当たることのないようにする」と書いてあります。でも、神様を試したらダメです。大怪我をするか、死ぬかどちかです。

 同じように、私たちは「御子のうちにある」ならば、安全なのであります。これはとても重要なことです。だから、私たちは主の祈りで、「私たちを試みに会わせず、悪より救い出したまえ」と祈るのです。では、どのような時、私たちは御子のうちから外へ出て、失敗するのでしょうか?多くの場合は、祈らないで「まあ、いいか」と行動した場合です。私は車を運転する場合、出発する前に祈るのですが、最近は「アーメン」とひとこと、ある場合は「ン」ぐらいで出ていました。案の定、数週間前、ぶつけてしまいました。いやー、ひどい目に合いました。人と会うときも、やっぱり数分、祈ったら良いと思います。すると、ある場合は、みことばが示され、「こういう話になるんじゃないかなー」と前もって分かるときがあります。仕事をする前に、手を組んでひとこと祈る。それは、「自分には手に負えないこともありますので、あなたが助けてください」という祈りです。すると、私たちはこの世にあっても、御子のうちにあるので、神の守りを確実にいただくことができるのです。この世は相変わらず、サタンが支配しています。私たちは救われたといっても、この世の中で暮らしています。ですから、絶えず、神の守りと導きが必要です。

 でも、ここで一番、知っていただきたいことは、私たちのすべての罪は赦されたという事実です。私たちはこれを額面通り受け取る必要があります。ある人は、「この罪だけは赦されない。一生、償っていくしかない。私は幸せになってはいけない存在なんだ」と思っています。もし、そんなことを思っていたら、サタンの罠にまんまとはまっていることになります。神様にとっては、小さい罪も大きな罪もありません。ある人たちは、罪責感のため、肉体的にも精神的にも病んでいます。その状態も、御子の外にあるということです。「あの罪は赦されたかもしれないけど、この罪は赦されない」と区別をつけるなら、その分だけサタンの攻撃を受けてしまうでしょう。チョー・ヨンギ先生のもとにひとりのご婦人がやってきました。長い間、過去の罪にさいなまれ、精神的にボロボロの状態でした。「イエス様が十字架の上で、あなたの罪の負債を全部支払いましたよ」と言っても納得がいかない様子でした。それで、チョー先生は彼女にこう言いました。では、目をつぶって想像してみてください。私たちは今、湖のそばに立っています。そこにはボートが一そうあります。あなたは岸辺から、大きな石と小さな石を一個ずつ拾ってください。さあ、その石をもって、ボートに乗ってください。私がこぎます。私たちは湖の真中にやってきました。この湖はとっても深い湖です。さあ、さきほど持ってきた小さい石を湖に投げ捨ててください。どうですか?「はい、ちゃぽんと音がしました。そして波紋が広がりました」。その後どうですか?「はい、水面はもとのように穏やかになりました」。では、こんどは大きな石をボートの外に投げ捨ててください。どうですか?「はい、ざばんと大きな音がして、水しぶきもあがりました。大きな波紋が広がりました」。その後、どうですか?「はい、水面はもとのように穏やかになりました」。では、小さな石と大きな石は、どこへ行ったのですか?「はい、湖の底、深くに沈みました」。見えますか?「もう、見えません」。そうです。小さな石は小さな罪です。そして、大きな石は大きな罪です。大きな罪は人々を巻き込み、ひどい状態になります。でも、神様の前には大きな罪も小さな罪も関係ありません。同じように赦してくださいます。あなたはすでに赦されているのです。

詩篇103:12,13「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。」父なる神様は、ほうとう息子の父のように、ひとことも咎めず、私たちを無条件に赦してくださいます。本当は条件があったのです。ただでは、罪は赦されないのです。でも、御子イエスが、私たちの罪の身代わりに死んでくださいました。私たちの代わりに裁かれたので、私たちはすでに赦されているのです。キリスト様が血を流して贖ってくださったのです。もう、私たちは悪魔から訴えられる必要はありません。自分で自分を責めることもありません。私たちは御子のうちにあって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。また、私たちはこの世にあって、この世で生きていません。神様が、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。私たちは神の国という御子のご支配の中にいるのです。主は私たちの盾、巌、とりで、隠れ場なのです。アーメン。