2008.11.16 第一のもの コロサイ1:15-18

私たちは福音書などから、地上におられたイエス様をある程度知っています。しかし、この地上に来られる前、「イエス様はどういうお方だったのか」ということを知らなければなりません。なぜなら、信仰とはイエス様をどのように信じているかと非常に関係が深いからです。ある人は、「私は信仰が薄いんです」とか「信仰が弱いんです」とか言うかもしれません。どうしてでしょう?それは、イエス様がどういうお方なのか、よく分かっていないからです。もし、イエス様が人間と同じくらいの方であるならば、その人の信仰はどうしても小さくなります。でも、イエス様が偉大な神であることを知るならば、私たちの信仰も大きくなります。きょうは、イエス・キリストがどういうお方なのか、コロサイから4つのポイントで学びたいと思います。

1.御子は神のかたち

 コロサイ1:15前半「御子は、見えない神のかたちであり」と書いてあります。かたちとは、英語の聖書にはイメージと書いてあります。イメージはもう日本語になっています。ファミリー・レストランに行くとメニューがあります。きっとあれは日本だけかもしれませんが、料理の写真が載っています。写真を指差して「これお願い」と頼めば良いですね。あの写真はイメージです。また、かたちはギリシャ語で「エイコーン」と言います。これは、イコンあるいはアイコンのもとになった言葉です。これは、絵画や像、肖像という意味です。東方教会は神様や天国を想像できるようにイコンを用いました。イコンを見ると、目に見えない神様や天国が分かるわけであります。でも、反面、そのイコン自体を礼拝するようになり、弊害も出ました。また、アイコンというと、パソコンでファイルやコマンドなどを分かりやすい絵に置き換えて示したものです。その絵をクリックすると、ファイルがぱっと開かれるようになっています。もし、アイコンがなければ、複雑なコマンドを打ち込まなければなりません。便利なことに、小さな絵、アイコンを押せば、ぱっとファイルが開かれるようになっています。文字や数字よりも、目である程度、見えるというのはとても便利であります。イエス様は、目に見えない神様のイメージであり、アイコンなのです。

 旧約時代は、神様がどういうお方か、あまりよく分かりませんでした。また、旧約時代は、罪ある者が神を直接見たら、打たれて死んでしまいました。そのため、人々は「神様は近づきがたくて恐ろしい方だ」思っていたでしょう。でも、私たちの身近なお方として神様を啓示されたのが御子イエス様であります。ヨハネ14章を見ますと、ピリポという弟子がイエス様に「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」と言いました。イエス様は何と答えたでしょうか?「ピリポ。こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、あなたがたは私を知らなかったのですか。私を見た者は、父を見たのです」と言われました。また、ヨハネ1:18にはこうも書いてあります。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」ということは、神様は見えませんが、御子イエス様を通すと、神様のことが分かるということです。私が小学生の頃、何十年に一回かの日食がありました。そのときどうしたでしょう?ガラス板の下から、ローソクを炊きます。すると、黒いススがつきます。その黒ずんだガラス板を透かして、太陽を見るとどうでしょうか?太陽が欠けている様子がくっきり見えます。イエス様を黒ずんだガラス板に例えるのは、大変申し訳ありませんが、私たち罪人は、聖なる神様を直接、見ることはできません。しかし、私たちの罪を担って下さった、あがない主イエス様を通すと、私たちは神様を見、また神様を拝することができるのです。この世の宗教は、イエス様を無視して、あるいは除外して、神様に近づこうとします。そのために彼らはゆがんだ神様のイメージを持ち、不自由な宗教生活を強いられることになります。あがない主イエス様を通すならば、神様は父なる神様、恵み深い神様なのです。パソコンのように、イエス様というアイコンを押すと、ぱっと神様が開かれてくるのです。これが新約の恵みであります。どうぞ、私たちは神のかたちであられる、イエス様を通して、父なる神様に近づき、親しく交わり、何でもイエス様の名前で求めましょう。

2.御子は先に生まれた方

 コロサイ1:15後半「御子は、造られたすべてのものより先に生まれた方です」。御子は、永遠の昔、父から生まれたのであります。起源4世紀頃、アリウスは「御子は父によって創造され、父よりも劣る」と主張しました。しかし、後のニカヤ会議でその説は退けられ、「御子は、父よりただ一人生まれたる者、神よりつくられず、父と同質なるお方である」という信条が作られました。このアリウス派の流れを汲むのが、エホバの証人であります。彼らは「御子は父によって造られ、父より下位の存在である」と主張します。彼らにはこう答えればよいのです。人間から生まれた子どもは人間です。猿から生まれた子どもは猿でしょう。では、神から生まれた子どもはだれでしょう?神様でしょう。イエス様は神の独り子であり、神様から造られたわけではありません。このことはとても重要です。ヨハネ1:1,2「初めにことばがあった。ことばは神のともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた」と書いてあります。ですから、御子イエスは、永遠の昔から父なる神とともにおられた、子なる神なのです。

 もうすぐクリスマスです。多くの人たちは、クリスマスはイエス・キリストの誕生日だということを知っているでしょう。でも、イエス様がこの地上に生まれる前にどこにおられたのかは知らないでしょう。クリスマスの前、イエス様には肉体はなかったのです。霊として父なる神様と共に、天におられたのであります。その天からお降りになって、人間の肉体をとって生まれたんです。だから、降誕、「天から降りて誕生した」と書きます。では、「イエス様はクリスマスの前には、全くこの地上に来られたことはなかったのか?」というと、そうではなさそうです。イエス様は霊によって、あるいは御使いの姿をとって、アブラハム、モーセ、ダビデに現れているようです。あるとき、3人の御使いがアブラハムを訪れました。しかし、その中のお一人はThe angel、受肉前のキリストではないかと言われています。ヨハネ8:56「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです」と書かれています。それに対して、ユダヤ人たちは「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか」と反論しました。しかし、肉体をとってこの地上に現れたのは、アブラハムの時から1800年後のクリスマスであります。イエス様は父なる神様と同じ、永遠のお方なのであります。イエス様御自身は、ヨハネ黙示録で「今いまし、昔いまし、後に来られる方…わたしはアルファーであり、オメガである」と書かれているのはそのためです。

 御子が永遠の方だということを知るならばどうでしょうか?イエス様は私の過去にもおられたということであります。自分のいまいましい過去、「なぜ、あんなことが起きたんだ」と記憶から消したいような過去。でも、あの場面にも、あの場面にも、イエス様はおられたのです。「じゃあ、なぜ、あんなことを許されたのですか?」と文句を言うかもしれません。イエス様は神様ですが、罪の世の中に介入することには限度があるのではないかと思います。でも、あなたが滅びないで、今日まで生きて、また救いをいただいたということは、特別なあわれみがあったということではないでしょうか?過去の事実は変えられません。しかし、イエス様は私たちの過去の心の傷やトラウマを癒してくださるお方です。あの苦しい、まっくらな状況を思いうかべるとどうでしょうか?私たちはしばしば、「ああ、あそこにイエス様の御目があった」ということを発見できるでしょう。私が悲しんで泣いていたとき、イエス様も涙しておられた。イエス様も私のことを気の毒に思っておられたんだ。そのことがなんと大きな慰めになるでしょう。また、イエス様は「アルファーであり、オメガ」ですから、あなたの将来をもご存知です。明日を知っておられるイエス様が共におられるのですから、思い煩うことはありません。「明日はどんな日か私は知らない。どんな道筋が先にあるかも。だけど私は心配しない。イエスがおられる私のそばに。明日は私にはわからないけど明日を守られるイエスがおられる」アーメン。

3.御子は創造者

コロサイ1:16,17 「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」簡単に言いますと、御子は天地万物の創造者であり、また万物を保持しておられる方だということです。しかし、このところを読むと、「えー、本当にそうなの?」という新鮮な発見がいくつも出てくるのではないでしょうか?まず、16節の冒頭には、「万物は御子にあって造られた」と書いてあります。その次は「万物は、御子によって造られ」となっています。さらにその次は「御子のために造られた」とまで書かれています。つまり、この万物が創造されたとき、御子も参与されていたということです。あなたは、「万物は父なる神様が創造したのではないでしょうか?」と言うかもしれません。では、創世記1章は何となっているでしょうか?1日目に、神様が「光よ。あれ」と仰せられました。すると光がありました。2日目に、神様が「大空よ、あれ」か言葉を発せられると、大空ができました。この神様が発せられたことばこそが、御子ご自身ではないかと思います。その証拠に、ヨハネ1章には「ことばは神であった。…すべてのものは、この方によって造られた」と書いてあるからです。私たちはどうしても、地上におられたイエス様のことしか考えません。でも、イエス様が父なる神様とご一緒にすべてのものを創造されたのならどうでしょうか?あるとき、ガリラヤ湖が荒れて舟が沈みそうになりました。そのとき、イエス様は風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われました。すると風はやみ、大なぎになりました。弟子たちは、あまりの驚きで、あごがはずれたままになりました(私訳)。自然界に対してそのような権威があるのは、イエス様が創造者だからではないでしょうか?

さらに、この箇所を見て行きますと、イエス様が造った万物の中に目に見えないものも含まれていることがわかります。「見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです」とあります。これはどういう意味でしょうか?コロサイの地域には、いくつかの異端がありました。彼らは天使や諸霊を礼拝し、ある者たちは「イエス・キリストは天使の長である」と信じていたようです。ここに書かれている「王座、主権、支配、権威」は、天使の階級を指していることばです。イエス・キリストがそういう目に見えない、霊的な存在を創造したということは、天使の一人ではなく、神様だということです。あるクリスマスソングの中に“Jesus is king of angels”という歌詞があります。イエス様は天使長ではなく、天使らを従える王様だということです。天使の中には、堕落した天使、サタンも含まれています。ですから、イエス様はサタンと対等なのではなく、神としての権威と力を持っているということです。なぜなら、御子は万物の創造者だからです。

Ⅰヨハネ5:12「御子を持つものはいのちをもっており、神の御子を持たないものはいのちを持っていません」と書いてあります。クリスチャンは御子を持っており、その結果、永遠のいのちをも持っているということです。讃美歌で「イエス様は私のポーション、分け前です」という歌詞があります。永遠のいのちを持っていることもすばらしいですが、御子を持っているということを瞑想したらどうなるでしょうか。私は子どもたちの学費のために、お金が本当に必要だなーと思った時期がありました。今は、おかげさまで山は越えましたが、お金の問題は、切実な問題です。確かに、お金も欲しいですが、私が御子イエスを持っているということはどうなるでしょうか?御子イエス様は万物を創造し、万物を所有し、万物を保っておられるお方です。ということは、イエス様を持っているということは、お金を含む、万物をも持っているということです。「ああ、なんと私の信仰は薄いんだろなー」と思いました。イエス様は「天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの」も造られたのです。イエス様の中には何でもあるんです。イエス様が答えなんです。どうぞ、イエス様に見えるものも、見えないものも求めましょう。

4.御子は教会のかしら

 コロサイ1:18「また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。」神のかたちであり、永遠なる方で、万物の創造者なる御子イエスであっても、教会のかしらにすぐなれたわけではありません。人間になって死者の中から最初に生まれる必要がありました。天におられたイエス様は霊であり、肉体は持っていませでした。でも、2000年前、天からくだり肉体を取りました。そして私たちのすべての罪を負い十字架にかかって死なれました。それから三日目に復活しました。つまり死者の中から最初に生まれたのです。それからイエス様はどうなったでしょうか?天に昇られ、神の右に座られました。では、イエス様のからだはどうなったのでしょうか?からだはなくなったのでしょうか?そうじゃありません。教会こそが、キリストのからだなのであります。私たち一人ひとりが組み合わされ、キリストのからだなる教会を形成しているのです。そしてイエス様は御自身のからだなる教会をとおして、2000前、地上でなされた救いのみわざをなさろうとされているのです。ある人はイエス様の目、ある人はイエス様のような口、ある人はイエス様の手のような役割して人々に仕えること。これが神様のみこころです。

では、イエス様のからだはありますが、かしらはだれなのでしょうか?これが問題です。教会のかしらはだれなのでしょうか?起源4世紀、キリスト教がローマの国教になってから、だんだんおかしくなりました。教会のかしらはペテロであり、またペテロの後継者であると言い出しました。やがて教会のかしらは教皇であるとし、これがローマカトリックの間で、今も続いているのです。しかし、聖書に教会のかしらは、イエス・キリストであるとはっきり書いてあります。かしらとは、イエス様に最高の権威があるということです。それは人間のものでも、教会という組織のものでもありません。イエス・キリストが教会のかしらなのです。私たち一人ひとりがキリストのからだです。そして、かしらはイエス・キリストです。では、どうなるでしょうか?何か問題があったらどうしたら良いでしょうか?あなたが何か奉仕をしたいと思ったらだれに聞けばよいでしょうか?あなたがだれかと結婚したいと思ったらだれに聞くのでしょうか?牧師に聞くのでしょうか?ま、牧師もある程度、答えてくれるでしょう。でも、あなたがからだの一部であったら、かしらなるイエス・キリストに聞くべきです。そうです「イエス様に聞いてください」。隣の人に言いましょう。「イエス様に聞いてください」。

私たちのイエス様は「私が神様だから、教会のかしらになるんだ」と言われたのではありません。天の御座から降りて来られ、ナザレのイエスとなられました。30年間、家族に仕え、仕事もしました。30歳からは公生涯を始められ、御国の福音を伝えて歩きました。病人を癒し、貧しい人を助け、悪霊に縛られている人を解放しました。ご自分が神の子であり、キリストであることが公になると人々はどうしたでしょうか?イエス様を捕らえ、裸にし、鞭を浴びせました。人々はつばきをかけ、さんざん馬鹿にし、平手やげんこつで叩きました。なんと、万物を創造された御子イエス様が人間どもに最低の扱いをされ辱めを受けました。何も悪いことをしていないのに、です。ただ、ご自分が「神の御子である」と認めたためであります。人々はさんざん嘲弄したあげく、十字架にかけて殺したのであります。しかし、聖書を見ると十字架にイエス様をかけたのはユダヤ人でもローマ人でもなく、私たちの罪であると書いてあります。私たちが犯した罪のゆえに、イエス様は身代わりに神に打たれ、死なれたのであります。つまり、イエス様の死はあがないの死であります。罪を解決されたイエス様を父なる神様が3日目に、よみがえられました。御子イエス様は、今度は「主イエス」になったのです。前からも神様でしたが、死んで復活されてからは、教会のかしら、主イエス・キリストになったのです。

私たちはこういうイエス様を礼拝しているのです。私のために死んで、よみがえられ、今も生きておられるイエス様を礼拝しているのです。では、イエス様は「私を礼拝しろ」とふんぞり返っているかというとそうではありません。今も、イエス様は聖霊によって、キリストのからだに臨在し、救いのわざを継続しておられるのです。イエス様は私たちを必要とされています。なぜなら、私たちがイエス様のからだだからです。イエス様が2000年前、人々に仕え、福音を宣べ伝えたように、私たちもこの世にあってそうすべきなのです。その力はどこから来るでしょうか?かしらなるイエス様からすべての力とすべての必要が与えられるのです。どうぞ、かしらなるキリストにつながって、イエス様の心を心としましょう。