2008.11.23 十字架の血による平和 コロサイ1:19-23

クリスチャンの方はこのように思うのではないでしょうか?私はかつて神様と敵対していた存在だった。「神がいるなら見せてみろ!」とか言っていた。ところが、神様が一方的に和解の手をさしのべて下さった。今、思えばどうして信じられたのか不思議でたまらない。でも、はっきり言えることは、今、神様との平和があるということだ。…これが皆さんの感想ではないでしょうか?クリスマスが来月に近づいてましました。もう、あちこちのデパートや商店街は、クリスマス一色であります。でも、イエス様を信じている人とそうでない人とでは、クリスマスの祝い方がぜんぜん違います。救いを得ている人は、「ああ、イエス様は私のためにこの世に生まれてくださった。私のために十字架で血を流してくださったんだよな。感謝だなー」と、じんわり喜びが湧いてきます。ハレルヤ!きょうは、神様と私たちとの和解について、3つのポイントで学びたいと思います。ところで、きょうは高木慶太先生が書かれた『信じるだけで救われる』という本から多数引用して、メッセージさせていただきます。簡単に言うとパクリであります。

1.第一の和解

コロサイ1:20「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」ここに「和解」ということばが出てきます。和解はギリシャ語で「カタラソー」と言いますが、もとの意味は「変える」changeであります。チェンジというと、アメリカの大統領選でオバマ候補が言ったことばです。これから、どうチェンジするのか世界が注目しているところでしょう。でも、救いに関して大切な用語は「和解」というチェンジであります。では、何がチェンジしたのでしょうか?神様は決して変わることのないお方ですが、何が変わったのでしょうか?それは神の御前における人間の立場を変えてくださり、私たち人間をそれ以前とは違った見方で、神様が見てくださるということです。以前、私たちは罪の中にいたので、神の御怒りを受ける存在でした。しかし、キリストの十字架の血によって、神様はもう私たち人間を責めたり、罰したりしないということです。使徒パウロもⅡコリント5:19で言っています。「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」

 昔、「幸せの黄色いリボン」という歌がありました。リボンとは、細長い布切れのことです。これは実際にあったことを歌にしたものです。フロリダでバスに乗った学生が車中で一人の男性と知り合いました。その男性は刑期を終えた元囚人です。男性は学生に、「私は刑務所を出る前、故郷にいるはずの妻にこういう手紙を出したんだ」と告げはじめました。「もし僕ともう一度やり直せるのなら、街の入口の樫の木に黄色いリボンを一本巻いておいて欲しい。リボンが巻かれていれば、そこでバスを降り君のところへ帰るでも、君が結婚していたり、僕とやり直せないと思うならリボンは巻かないでいい。リボンが巻いてなければ、僕はそのままバスに乗り続けどこか遠くへ行き二度と戻らないよ 」。二人の会話は、車中のみんなにも知れ渡ることになりました。緊張しながら街の入り口にバスが近づいて行きます。バスが妻の家の前まで来ますが、男性は勇気がなくて、バスの運転手に樫の木を見てもらいます。リボンはあるのでしょうか、それとも無いのでしょうか?彼らが見たものは、樫の木いっぱいに結ばれた無数の黄色いリボンでした。男性も学生も乗客も、運転手も、おもわず大きな歓声をあげました。…これは夫と妻の和解の物語であります。その後で、山田洋次監督が映画化したものが、「幸せの黄色いハンカチ」です。高倉健と倍賞千恵子が主役で、さらに武田鉄矢、渥美清、桃井かおりが出演していました。そういうことはどうでも良いのですが、ポイントは和解のしるしです。歌や映画は黄色いリボンとかハンカチでした。しかし、神様と人間との和解のしるしは、十字架の血であります。

神様から人間に対する第一の和解は、人間がお願いしたのでもありません。2000年前、神様の方から一方的になされたものです。ローマ5:8「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」とあります。そうです。「まだ私たちが罪人であったとき」であります。榎本保郎先生が一日一章で語っています。先生はある人に「キリスト様があなたのために十字架で死んでくださったのですよ」と言いました。へその曲がったその人は、「えー?私が頼んでもいないのに、ですか?」と答えました。先生は「だから、すばらしいんじゃないですか!」と言いました。正しい人のために死ぬ人は、ほとんどいないでしょう。情け深い人のために、進んで死ぬ人は、あるいはいるかもしれません。でも、私たちが罪の中にいたときに、イエス・キリストが死んでくださったのです。それは、私たちを罪から贖い、神様との和解の道を設けるためでした。ですから、罪の問題は、キリストの十字架ですでに解決ずみなのであります。福音という本当の意味は、グッド・ニュース、「良い知らせ」であります。新約聖書を読むときに、こういうニュースが書いてあるのです。「神と敵対し、さばきのもとにある人たちに告げます。神の方から、一方的に和平の手が差し伸べられました。あなたはキリストにあって既に赦されています。神はもう怒ってはおられません。神の和解を受けてください」であります。

2.第二の和解

 第一の和解、つまり神様は人類に対する見方を変えました。神様は和解の手を私たちに差し伸べておれられるのです。第二の和解は、人間が神からの和解を受け入れるということです。つまり、人がキリストを信じるとき、その敵対関係が取り除かれ、完全な和解が成立するのであります。コロサイ1:21,21に何と書いてあるでしょう。「あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。」アーメン。彼らはかつてどうだったのでしょうか?「かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあった」ということです。では、今はどうなったのでしょうか?「今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。」和解を受け入れたことによって、どうなったのでしょうか?「聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立つ」ことができるということです。ハレルヤ!これは、和解が成立した状態であります。なぜなら、コロサイの人たちは、キリストを受け入れたからであります。つまり、和解には2つあるんです。1つは神様がキリストにあって人類になされた和解です。「和解した」という動詞はアオリスト形で、過去において一度なされたことが、今も有効であるということです。もう1つは、人が神様の和解を受け入れることによってなされる和解です。この和解が、これから一人ひとりになされることを神様は願っておられるのです。

 使徒パウロはⅡコリント5章でこう述べています。Ⅱコリント5:20「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」さらに、Ⅱコリント6:1「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。」パウロはキリストの使節として、「キリストに代わってあなたがたにお願いします。神がなしてくださった和解を受け入れてください」と、人々に懇願しています。伝道とは何でしょうか?私たちが神からの大使として、人々のところへ行ってこのように懇願することです。「神様の方からすでに和解をなしてくださいました。どうか、神様の和解を受け入れてください」。わかりやすく言うなら、「救われてください」であります。なんと、さきほどのみことばには、神様も一緒に懇願しておられると書いてありました。あの神様が「私の和解を受け入れてほしい。さもないと、キリストの十字架が無駄になるから」と懇願しているのです。みなさん、懇願って分かるでしょうか?ひざをかがめて、「後生だから」とお願いすることです。

私がこの亀有教会に赴任して、間もない頃です。中野兄弟のお父さんが肺がんの末期だということを聞きました。早速ご自宅にお見舞いに行って、お祈りをしました。二回位行った後だったでしょうか?下町のとっても頑固な畳屋さんで、次からはもう来なくて良いというのです。「あんたがいくら拝んでも治らない。うちの賢二も教会にやらない」と言うんですね。何が気にさわったのか分かりませんでした。その後、お父さんは病院に入院しましたが、何も言わないでお花だけを持っていきました。あるとき、教会の長老さんと一緒にお見舞いに行ったら、面会謝絶の札がかけられていました。私たちはその札を払いのけるように、病室に入りました。お父さんは、酸素吸入をしておられました。「ああ、これは危ないなー」と感じました。私はベッドの脇にしゃがみ込みこう言いました。「中野さん、一生のお願いです。どうかイエス様を信じてください。そうすれば、天国に行くことができるんですよ」。お父さんは「うん」とうなずいてくれました。次の日、中野兄から電話がかかってきたので、私は「お父さんがイエス様を信じたんだよ」と言いました。中野兄は、その晩、仕事を終えて10時頃、お父さんの病室を訪れたそうです。お父さんが、何も言わずに、人差し指を天に向けたあと、手を組んだということです。「ああ、なるほど、そうだったんですか」と彼は喜びしました。中野さんは銀行員でうちの教会のメンバーの戸叶長老と山崎長老と取引がありました。それぞれ会社の社長さんです。ある年のクリスマス二人から、こんなお願いをされたそうです。「今年のクリスマス、だれも洗礼を受ける人がいないんじゃ。どうだろうか、中野さん、クリスマスに洗礼を受けてくれないだろうか?」。洗礼をたのまれたんですね。彼はそれで仕方なく洗礼を受けたのです。それまでは礼拝にはほとんど出ず、クリスマスの時だけ来て、ギターで歌うという信仰生活でした。ところが、お父さんが救われ、その次におばあちゃんが救われました。両方とも、亡くなる数日前です。二人ともすべりこみセーフです。それから中野兄弟の信仰は本物になり、毎週、礼拝に出るのはもちろんのこと、礼拝の賛美、日曜学校の奉仕、土曜日も来てあらゆる奉仕をしてくださいました。私は中野兄のお父さんのために、一生のお願いをすでに使ってしまったので、もう使えません。でも、使って甲斐があったなーと今でも思っています。

ですから、伝道というのは、私たちが新たに何かをするということではありません。罪の問題はキリストの十字架によって解決済みです。唯一残された問題は、「救い主をどうするか」ということです。このキリストをどうするかによって、永遠のいのちにあずかるか、それとも永遠の滅びに至るかが決まるのです。ヨハネ3:18「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」と書いてあるとおりです。私たちは救われるために何もすることはありません。今まで犯したすべての罪を告白し、きれいさっぱりとした生活をしなければ、受け入れてもらえないというのは福音ではありません。私たちはあわれみを乞う必要はありません。すでに神様はキリストにあってあわれみ深い神様なんです。私たちが受け入れられるのは、ただキリストの血潮のゆえなのです。どうぞ、キリストにあって完成した、神の和解を受け入れてください。

3.和解の内を歩む

 コロサイ1:23「ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。」イエス様を信じるのは1回です。でも、信じ続けるということもまた大事なんです。つまり、信仰というのは点であり、また線でもあるということです。だから、パウロは「あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません」と言っているのです。かなり前になりますが、ビリーグラハム国際大会という1万人以上も集まる伝道集会がありました。ビリーグラハムが最後に「今晩、イエス様を信じる人は前に出てきなさい」と言って人々を招きます。すると大ぜいの人たちが、前に出てきて、イエス様を信じる祈りをします。では、彼らが教会につながる率はどのくらいでしょうか? 5%いるか、いないかだということです。「信じます」と100人出てきても、5人くらいしか残らないということです。もちろん教会につながることイコール、救いだといっている訳ではありません。でも、信仰の決断をした人たちの信仰はその後、どうなったんでしょうか?パウロが一番心配しているのはこのことです。「一度は福音を信じたけれど、その後、彼らの信仰がゆさぶられ、教会を去ってしまうのではないだろうか?間違った教えを受けて、福音の望みからはずれてしまうのではないだろうか?しっかりとした土台に立ち、信仰に踏みとどまってほしい。」そのために、書いたのがこのコロサイ人への手紙です。赤ちゃんがこの世に誕生することは大きな喜びです。でも、これからその赤ちゃんがちゃんと成長することもまた重要です。いつまでも、誕生だけを祝っておられません。誕生した直後から、すくすくと健康に育つように、いろんなことが必要です。これは霊的な誕生にも言えることです。

 私たちクリスチャンは、キリストにあってなされた神の和解を受け入れました。その次に、神様は私たちに対してどのように思っておられるのでしょうか。皆さん、和解とは神様との関係が回復したということです。でも、和解の後は、神様との交わりを建て上げていく必要があるということです。つまり、自分が神様の子どもとして成長し、神様の息子、神様の娘になるということです。では、どういう人が神様の息子であり、神様の娘なのでしょうか?それは、父なる神様のみこころを知り、そのみこころを行なう人になるということです。そのため、父なる神様は私たちのためにたくさんのものを用意しておられることでしょう。地上の両親も同じように、子どが成長し、自分の賜物を発見し、神様から与えられた使命を全うできるように願っています。父なる神様も、私たち一人ひとりに対して、ご計画があり、幸いに満ちた信仰生活を送ってもらいたいと願っておられるのではないでしょうか?みなさん、神様との和解は一点ではありません。和解したのち、神様と共に生活する。これがなければ、本当の信仰生活ではありません。でも、どういうわけか、これから父なる神様との関係が始まるときなのに、断念してしまう人がいらっしゃるということです。父なる神様は、「この人と共に交わっていきたい。この人に私がもっているすべての良きものを与えたい。そして、一緒に神の国を建て上げて、喜びを分かち合いたい」とそのようにお考えになっている。これから信仰の実を結んでいくという矢先に、神様のもとを去っていくとしたら、なんともったいない話でしょう。

 イエス様もヨハネの福音書でおっしゃっています。ヨハネ15章で「わたしにとどまりなさい」と何度も言われました。さらに15:16でこのようにおっしゃっておられます。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」イエス様は、あなたに結んでもらいたい実があるのです。そして、その実が残るように願っておられます。アバラブ教会のテキストに、「キリストの弟子が生きていく中で結ぶ3種類の実」が書いてありました。どのような実でしょうか?第一は聖化の実です。私たちはガラテヤ書5章で、愛、喜び、平安と9つの御霊の実が結ぶことを学びました。それは、私たちがイエス様の似姿に変えられて行くという、人格的な成長のことです。第二は救霊の実です。私たちが福音を伝え、失われた魂を勝ち取るということです。言い換えれば、私たちが「神の和解を受け入れてください」と懇願する神の使節となるということです。使節とは、神の国の大使という意味です。クリスチャンとは神の国の全権大使なのです。ハレルヤ!あなたのバックには、神の国の権威があるんです。第三は奉仕の実です。生涯私たちは神様と人々に仕え、実を残すということです。奉仕とは、教会の建物の中で活動する奉仕だけではありません。私たちが遣わされている家庭、職場、学校、地域社会において、主の御名によってなすことは、みな奉仕であります。奉仕というと「ただ働き」という意味合いがありますがそうではありません。本当はミニストリーという意味であり、イエス様がこの地上でなさっていたことであります。ルカ4章にあるように、主の御霊に満たされ、癒しと解放と回復のために人々に仕えるということです。そのようなことが仕事をしながら可能なのでしょうか?家事をしながら可能なのでしょうか?可能です!生きがいとは何でしょうか?多くの人は生きがいを求めています。私は神様と人々に仕えることによって、本当の生きがいが与えられるのではないでしょうか。私たちは神様からの和解を受けて救われました。どうぞ、これから神との和解の内を歩んでいきましょう。父なる神様はそのために、たくさんの良きものを備えていらっしゃいます。