2008.11.30 栄光の望み コロサイ1:24-27

先週は「神との和解」について学びました。私たち人類は、神様から離れ、神様と敵対していました。しかし、神様の方からキリストにあって和解の手を伸べてくださいました。その知らせが、グッドニュース、福音であります。その福音を聞いた人が、「ああ、そうですか。キリストによる和解を受け入れます」と手を差し出すことによって和解が成立します。その人は救われ、永遠の御国に入ることができます。そして、きょうはその後のことについて述べたいと思います。つまり、クリスチャンとはイエス様を信じて救われた「それでおしまい」ということではありません。キリストのからだなる教会に属することによって、成長し、また神様の使命を果たすということです。ですから、教会ということを理解しないと信仰生活は始まらないということになります。きょうは教会とは何かということを共に学びたいと思います。

1.教会とは

今読んだ箇所には「キリストのからだ」という言葉が2回、「教会」という言葉が2回出てきました。両者とも同じことですが、そもそもパウロが言う「教会」とはどういうものなのでしょうか?日本語で「教会」は「教える会」と書きますので、「何かありがたい教えを乞うところなんだろう」と連想するかもしれません。こういう状態を「ああ、教会やっているんだ」と思うかもしれません。また、ある人は「教会」と言うと、教会堂という建物を考えるかもしれません。「立派な教会ですね」とか、「あそこの教会へ行きましょう」と言うと、大体が建物を指します。また、ある場合は「教会」と言うと、宗教的な組織や団体を指すでしょう。残念ですが、いずれも聖書的には正しくはありません。では、教会とは何でしょう?新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、エクレーシアと言います。「神によって召し集められた民」という意味です。みなさんは、神様から「来なさい」と言われて集まった人たちです。

でも、これだけだとまだ分からないかもしれません。やはり、旧約聖書からイスラエルの民がどういう存在だったのかということを知る必要があります。彼らが神の民になるためには、いくつかの条件がありました。神様がイスラエルを神の民として選んだので、まずイスラエル人でなければなりませんでした。彼らは生まれたときから12部族の一員であり、また氏族の一員でありました。そして、男性ならば必ず割礼を受けます。そして、神との契約を交わし、十戒を始めとする律法を守ります。そして、幕屋もしくは神殿に出かけ、犠牲や捧げものをもって礼拝しました。年に何度か大きな祭りや聖会があり、それにも参加して、祈りや感謝を捧げました。バビロン捕囚後は、会堂で神のことばを学び、そこで礼拝しました。こういうことがあって、彼らは「自分たちは神の民なんだ」と自覚したのであります。彼らの指導者は祭司や預言者や王様でありました。でも、目には見えませんが、主なる神様こそ自分たちの父であり、すべての源であると信じていたのです。

 これが新約になるとどうなったのでしょうか?パウロは異邦人に遣わされた使徒でした。イエス・キリストはすべての人のために贖いを完成し、すべての人を神の国に招いておられます。ところが、イスラエル、後のユダヤ人は、自分たちは選ばれているけれど、異邦人はそうではないと反対しました。パウロは最初、ユダヤ人たちに福音を宣べ伝えましたが、ものすごい迫害を受けました。そして、パウロは神様の召命通り、異邦人に福音を宣べ伝えに行きました。小アジアやギリシャ、ローマにイエス・キリストを信じる群れができました。もちろん、パウロ一人で宣べ伝えたわけではありません。でも、パウロは「教会」とは何かという教えの基礎を築いた人であります。教会は、旧約のイスラエルの民と似ているところがありますが、そうでないところもあります。まず第一は血筋ではない、つまり生まれは関係ないということです。旧約の人たちはイスラエルの民だから自分たちは神様から選ばれているんだと考えていました。しかし、教会は、生まれではなく、イエスをキリストと信じる群れなのであります。そのしるしとして、私たちは信仰を告白し洗礼を受け、聖餐式を行います。肉体的な生まれではなく、聖霊によって新しく生まれた人たちの群れとも言えるでしょう。では、契約とか十戒にあたるものがあるのでしょうか?イエス様は十戒を神様を愛することと、隣り人を愛するという2つの戒めにまとめました。また、教会には、行って福音を宣べ伝え、あらゆる国民をキリストの弟子とする使命があります。

 使徒パウロは今日の制度化した教会、あるいはカトリックの聖職者中心の教会を教えていません。パウロが示した教会とは「キリストのからだ」であります。かしらがキリストで、一人ひとりがキリストのからだだということです。別の言葉で言うなら有機体ということです。会社とか団体は機械的な組織体です。有機体とは、血が流れ、互いに連なり、いのちを共有している生き物であります。教会は生き物なのであります。こういう生きた組織、生きた共同体は他にはないのであります。でも、多くの人たち、また、クリスチャンでさえもこのことを理解していません。ある人たちは、洗礼を受けても、何か嫌なことがあったらぷっつり来なくなります。何かに躓いた、気の合わない人がいる、教会のやり方に問題がある。そういうことで教会を去り、来なくなります。おそらくそういった人たちは、教会をサークルとか、クラブ、同窓会ぐらいにしか思っていなのではないでしょうか?ある人は、教会には行かなくても、自分でイエス様を信じているから良いとまで考えています。しかし、教会は単なる集まりではなく、キリストのからだであります。みなさん、足の小指は必要でしょうか?ある人が何かの角に足の小指をぶっつけて、しばらく痛かったそうです。そして、足の小指がダメだとふんばりが利かないことが分かったそうです。もし、手足の指が、「私はからだには属したくない、ひとりで生きる」と離れたらどうでしょうか?指が独立して生きることができるでしょうか?指としての役割ができないだけではなく、まもなくその指は死んでしまうでしょう。

 ですから、キリストのからだなる教会につながるということは、神様につながるということなのです。また、神様は、キリストのからだなる教会を通して、この世に働きかけたいと願っておられます。たった一人では、神様の働きをなすことはできません。手足の指だけでは、その役目を果たすことができません。また心臓でさえも独立して生きることはできません。心臓が体から離れたら、どこに血液を運ぶのでしょうか?体を離れたら、空気を押し出すただのポンプであります。そして、その心臓でさえも体を離れたら死ぬのであります。教会がキリストのからだであるとは、私たちは他者を必要とするということであります。一人では生きてゆけないということです。この世の人と同じように、肉体的には生きていけるかもしれませんが、霊的ないのちがなくなり、いつしか信仰もなくなるでしょう。教会は単なる組織やサークルではありません。神によって召し集められた神の民です。キリストといういのちを共有し、キリストのはたらきを担う生きた組織です。ですから、キリストのからだなる教会を離れないようにしましょう。

2.教会の奥義

 使徒パウロは教会自体が神の奥義だと言っています。旧約時代において神様は、幕屋もしくは、神殿の至聖所に臨在していました。イスラエルの民たちは、その周りで生活し、ときどき礼拝にやってきました。でも、神様が共におられるという感覚はありませんでした。特別な人には神が共にいたかもしれませんが、すべての人にそうだったというわけではありません。では、主イエス・キリストが来てからどうなったのでしょうか?イエス様は「私は死んで三日後に神殿を建てる」といわれました。弟子たちはその意味がわかりませんでした。ヨハネ2:21、22「しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた」。弟子たちは、あとから、教会こそが神の神殿だと分かったのです。しかも、その教会というのは建物ではなく、キリストを信じている一人ひとりです。イエス様を信じている人の中にもキリスト様が生きておられます。でも、それだけではありません。イエス様を信じている人たちの間にキリスト様がおられるということです。

 イエス様がおっしゃっておられます。マタイ18:20「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」そうです。教会の最小単位は、ふたりか三人であります。教会を組織や制度と考える人は、このことに反対するでしょう。でも、イエス様を信じる、ふたりもしくは三人が教会になりえるとしたらどうでしょうか?教会は家庭でも、学校でも、職場でも、マクドナルドでも存在できるということです。あなたが行くところどこでも、教会になりえるということです。どうぞ、教会を固定した場所として考えないでください。パウロはコリントの手紙でこのように語っています。Ⅰコリント3:16「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」ここでは、「あなたがたは」と複数形になっていますので、個人だけではないということです。イエス様を信じる群れこそが、神の神殿であり、そこに神の御霊が宿っているということです。ある伝統的な教会に行きますと、この礼拝堂をサンクチャリーと呼びます。サンクチャリーとは、旧約聖書で「聖所」でという意味です。この礼拝堂を聖所と呼ぶなら、あなたは旧約時代に生きている人です。もちろん、この場所は公に神様を礼拝するところではありますが、聖所ではありません。聖所とはどこなんでしょうか?それは、私たち一人ひとりの体であり、また私たちが集まるところが聖所なのであります。ですから、新約の聖書は移動式であり、変幻自在なのであります。イエス様はヨハネ4章でどう言われたでしょうか?ヨハネ4:21「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。」ハレルヤ!今がそういう時代です。どこにおいても、霊とまことをもって礼拝すれば、そこが教会になりえるのです。どうぞ、考え方を変えてください。ある人は、「教会に来なければ祈れない」とか言いますが、そんなことはありません。台所でも、あなたの部屋でも、電車の中でも祈ることはできます。新約の聖徒たちは、そのように色んなところへ出かけて、教会の群れを作っていったのであります。

 使徒パウロはこのコロサイ書でなんと言っているでしょうか?コロサイ1:27後半「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」「あなたがたの中」とは、ある英語の聖書にはamong youと書いています。amongとinとでは少し意味が違います。amongは、辞書に「通例三者以上の場合に用いる」と書いてあります。先ほどから言っていますように、複数のクリスチャンのただ中に、イエス様が臨在しておられるということです。でも、イエス様がそこにおられたら、どうなるでしょうか?ただ、おられるだけなのでしょうか?パウロは「栄光の望みのことです」と言っています。リビングバイブルは「栄光を実現する唯一の希望」と訳しています。つまり、私たちの間に、イエス様がおられるならば、何かすばらしいことが起こるということです。私はベニー・ヒンに全く賛成ではありませんが、ベニー・ヒンの集会に行くとすばらしいことが起こります。彼はただ賛美し、お祈りしているだけです。ある集会では、数万人も集まっているわけですから、ベニー・ヒンが一人ひとりに何かできるわけではありません。でも、人々が賛美し、祈っている間に、奇跡が起こるのです。なぜでしょう?その集まりの中に、イエス様がおられみわざをなしておられるからです。

神様は共同体の神様です。父、子、聖霊なる神が互いに愛し合って1つになっているからです。そして、神様は私たちをも共同体で生きるように創造されました。それが家庭であり、教会であります。もし、私たちが互いに赦し合い、互いに愛し合っているならばどうでしょうか?三位一体の神様は「私と同じだ。私はその中に住みたい」と思うでしょう?でも、反対に私たちが裁き会い、争い合うならどうでしょうか?サタンがそれを見て、「ああ、私が好む集団だ。私はその中に住みたい」と思うでしょう。そこには悪霊が住みついて、さらに悪くなるでしょう。でも、私たちは悔い改めて、そこから悪霊を追い出すのです。そして、互いに赦し、互いに愛し合う。すると、神様が戻って来られます。そこに神様がおられるならどうなるでしょうか?栄光が実現するということです。救いのみわざ、癒し、解放、様々な祝福が訪れるということです。ですから、教会をどう運営したら良いか、あまり難しく考えない方が良いです。キリスト様を歓迎し、認め、キリスト様に従えば良いのです。私たちの中におられるキリストこそが栄光の望みだからです。

3.教会の目的(使命)

 教会の目的あるいは使命とは何でしょうか?教会は何のために存在しているのでしょうか?韓国のサラン教会の元牧師、玉ハンフム牧師は4つ提示しました。第一は、教会は神のために存在しています。私たちは神様のため何ができるのでしょうか?神様を愛することです。その1つの表れが、礼拝をささげるということです。旧訳聖書ではきよい動物をいけにえとして、神様のもとにささげました。しかし、イエス・キリストご自身が1回で永遠のささげものになりました。ですから、もうそのようないけにえは不要です。では、何をささげるのでしょうか?ローマ12:1「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」罪から贖われた私たち自身を生きた供えものとしてささげる。これが本当の礼拝です。もちろん、礼拝の中には、賛美やいのり、みことばが含まれます。献金もあります。でも、一番大切なささげものは何でしょう?私たち自身を神様にささげるということです。ハレルヤ!そして、この礼拝は日曜日の公のときだけではありません。家庭や小グループ、そして個人のディボーションの礼拝がとても重要です。個人で神様と親しく交わり、神様を独り占めできる。これもすばらしい特権です。

 第二は、教会は教会自体のために存在しています。私たちは兄弟姉妹として、またキリストのからだの器官として、互いに交わります。それは互いに励まし、互いに祈り、互いに助け、互いに戒め、互いに罪を告白し、互いに教え、互いに愛し合うためです。そうすることによって、私たちは霊的に成長し、信仰を維持することができます。多くの人たちは人間関係で傷ついています。教会に来てみたらどうでしょう。その人たちは「教会こそが理想的な愛の人たちだと思ったのに、そうじゃなかった」とがっかりして去ってしまう人がいます。大変、申し訳ありませんが、私たちは天国に行くまではみな工事中です。愛を学んでいる最中です。でも、批判する人たち自身はどうなんでしょうか?完全なのでしょうか?イエス様はヨハネ13章で「あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」とおっしゃいました。「あんたの足はくさい、汚れている」と言うのではなくて、互いに足を洗い合う。互いに罪を赦し合うべきなのではないでしょうか?

第三は、教会はこの世のために存在しています。それは福音宣教であり、この世における奉仕です。この世にはまだまだ、救われていない人たちがたくさんいます。そのために福音を宣べ伝え、キリストを証する必要があります。父なる神様は「すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」(Ⅰテモテ2:4)。神様は私たちに福音をゆだねておられます。伝えるのは私たちで、救ってくださるのは聖霊様であります。でも、みなさん教会の務めは福音宣教だけではありません。神の国をもたらすということです。これまで私たちの福音は天国に行くためだけの福音でした。しかし、イエス様もパウロも「神の国の福音を宣べ伝えた」のであります。この間、エディ・レオがそのことを話してくれました。2日間の集会が終わって、一緒に焼肉を食べているときです。教会をエクレーシアというが、それは単なる神の民ではない。当時のことばでは、王様がその国を建てあげていくため、重要な人々を集めることである。王国は英語で、キング・ダムと言うが、それはking(王様)とdomain(領域)の二つの語が合わさった言葉である。つまり、イエス様が私たちを集めたのは、この世の様々な領域に私たちを遣わして、神の国をもたらすことなんだ、ということです。その領域とは、ビジネス、政治、教育、芸術、医療、さまざまなところであります。私はその話を聞いて、とても興奮しました。

最後の第四は何でしょうか?第四のこととは、第一の礼拝、第二の交わり、第三の福音宣教や奉仕ができるように、救われた人たちを訓練するということです。だまったままでは、礼拝も交わりも、福音宣教や奉仕もできないということです。だから、パウロはコロサイ1:28,29でこのように語っています。「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」これこそが、弟子訓練です。私を含め、弟子としての訓練を受けなければ、何もできません。弟子訓練のない教会は弱い教会です。みなさんは強い教会を建て上げたいでしょうか?それならば、一人ひとりがキリストの弟子となり、これら3つのことができるように自他共に訓練を受けるということです。「すべてのことが訓練なんだ」と思うならどうでしょうか?この世では、嫌なこと、辛いこと、さまざまな困難が起こります。でも、それらすべてがキリストにある成人として立たたせるための訓練なのです。ハレルヤ!自分を苦しめてくれる人にありがとうと言いましょう。自分に嫌なことを言ってくれる人にありがとうと感謝しましょう。神様は人々や環境を通しても訓練してくれるからです。でも、私たちの内には何がおられるのでしょうか?自分のうちに力強く働くキリストの力があります。秘訣は何でしょう?私たちの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。