2015.1.4「自分はだれか? 創世記1:26-28」

 アイデンティティ(identity)は、ほとんど日本語になっていますが、日本語に訳しにくいことばです。自己認識、自己存在、自己同一性、どれもイマイチですが、「自分はだれか」ということです。「あなたはだれですか?」と聞かれると、多くの人は、職業を答えるでしょう。しかし、無職の人や定年退職した人は、どう答えたら良いのでしょう?年齢や、性別、職業に関係なく、「私は○○です」と答えられるアイデンティティとは何なのでしょうか?もし、何ものによっても、揺るがされることのないアイデンティティを持っているなら、平安で確かな道を歩めるのではないでしょうか? 

1.神のかたち

 

  そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記1:26-28

  神さまは人間をどのように創造されたでしょうか?創世記1章には、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう」と書いてあります。果たして、神さまはだれに言われたのでしょうか?天使に言ったのでしょうか?それともひとりごとでしょうか?「われわれ」とおっしゃっていますので、新約聖書的には、父なる神と子なる神と聖霊なる神さまと理解することができます。神学的には「われわれに似る」というのと「われわれのかたち」というのは、別物だという説もあります。「われわれに似る」とは、神さまの属性、神さまの性質に似せて、人を造るんだという解釈です。もう1つ「われわれのかたち」とは三位一体という関係だという説です。その根拠は、神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」というみことばです。神のかたちは、男と女の関係に現わされているということです。つまり、神さまは人間に三位一体のような愛の関係性を与えられたということです。普通、教会では「似姿」と「かたち」と2つには分けて考えません。神のかたちとは、神さまが持っておられる属性、つまり性質だというふうに理解しています。

  神さまはどんな性質をもっておられるでしょうか?神さまは聖、きよいお方です。私たちもきよさを求めます。毎日、洗濯したり、食べたお茶碗を洗ったりします。部屋もきたない所よりも、清潔な所が気持ち良いでしょう。しかし、聖書が言う「聖」とは、私たちが言う「きよさ」よりは、もっと深くて高い意味があるようです。また、神さまは義、正しいお方です。私たちは悪いことをすると後ろめたい気持ちがします。不正が行われているときは怒るでしょう。最近、学校では「道徳」が科目に入れるべきだという考えがあります。道徳は、相対的で人に迷惑をかけないことが基準かもしれません。しかし、「義」は神さまとの関係からでないと理解できません。また、神さまは永遠なるお方です。私たちは夜空の星を見る時どう思うでしょう?「ああ、人の命は何とはかないのだろう?永遠というのがあるのだろうか?」と思わないでしょうか?また、神さまは愛なるお方です。私たちは完全ではありませんが、愛する心を持っています。生物学者たちは、これらはみな本能であると言うかもしれません。もし、人間が猿から進化しただけの動物なら、万引きしたり、人を傷つけたくらいでどうして犯罪になるのでしょうか?日光の猿のことを考えると、そういうのは当たり前のことです。もし、そういう人がいたら、生物学的には「ちょっと進化が遅れているのかな?」と考えるべきでしょう。人間は動物とは違います。神のかたちに似せてつくられたので、正義を求められるのです。また、神さまは彼らを祝福し、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」と仰せられました。これは、「人間が神さまの代わりに、自然界や動植物を管理せよ!」ということです。人間は自然の一部ではなく、自然を正しく支配するように造られたということです。また、「生めよ。ふえよ。地を満たせ」とは、神のかたちを増殖せよということです。このように、人間には神さまからの祝福と権威が与えられました。

   さらに、人間は他の動物とは違うものが与えられています。それは何でしょう?創世記2:7「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息(霊)を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」動物や植物は神のことばで造られました。しかし、人間だけは神さま自らが土地のちりを練って、人を形作りました。そして、ご自分のいのちの息を鼻から吹き込まれました。「息」ということばは、「霊」とも訳せることばです。ですから、人間には霊があり、神さまと交わることができる存在だということです。動物には魂(知性、感情、意志)がありますが、霊はありません。そういう意味からも、人間は他の動物とは違うんだということです。他にも、神さまと似せてつくられたところがたくさんあります。私たちは真理や自由、平和、善を求めます。もともとそれらは神さまが持っておられたものです。この世の中には、性善説と性悪説というのがあります。もし、それらのことばを使うなら、人間は神さまから造られたときは、良かったので「性善説」です。創世記1:31「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。」とあるからです。人間は、神のかたちに似せて造られたので、神さまにとっては非常に良かった、つまり最高の傑作品だったということです。

 

 2.神のかたちの喪失

 

  創世記3:6-10「それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」

  エデンの園には見るからに好ましく食べるのに良い木が生えていました。ところが、1つだけ条件がありました。園の中央には、いのちの木と善悪の知識の木が植わっていました。主なる神さまは、アダムに言われました。「あなたは園のどんな木からでも思いのまま食べて良い。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:16-17)と言われました。エデンの園には、たくさんの果実のなる木がありました。そして、園の中央に1本の善悪の知識の木が植わっていました。善悪の知識の木は神さまの主権を象徴しています。その木から取って食べるということは、私が神になって、善悪を判断するということです。これは恐ろしいクーデーターです。人間が造られる前に、サタンは堕落していました。サタンは神のかたちに似せて造られた人間に嫉妬を燃やしていました。なぜ、エバを誘惑したかと言うと、エバは神さまから直接聞いていなかったからです。アダムはエバに「それに触れてもいけない。あなたが食べて死ぬといけないから」と基準を1段下げて伝えていました。エバが食べ、そしてそばにいたアダムに与えました。アダムは「やめろ!」と注意できる距離にいたのに、「エバが勧めるのだから良いか」と食べました。聖書には、「ふたりの目が開かれた」とあります。これは、霊が死に、魂が巨大化したという意味です。堕落する前は、神さまと交わりながら善悪を判断しました。しかし、神さまから独立して、自分の魂で善悪を判断する者になったのです。今も人間は、神さまから独立して、「神さまなし」の生活をしています。

  では、自分の目が開かれたために、アダムが失ったものは何でしょう?それは、神さまと共にあることの平安、充足感、安心感、神のいのちです。では、目が開かれて、神さまから独立したために、二人にやって来たものは何でしょう?恐れ、恥、不安、死(霊、肉体、永遠の死)です。このあとすぐ、二人は自分たちが裸であることを知りました。昨年、大川牧師の礼拝説教CDを車で聞きました。その前に、彼らが裸であったのに、なぜ、そのときは恥ずかしくなかったのか?先生は「神の栄光が裸の上を覆っていたからだ。堕落したために、二人から栄光が去ったのだ」とおっしゃっていました。「なるほどなー」と思いました。彼らは裸の恥をいちじくの葉で覆いました。それは、「ありままでは受け入れられないというアイデンティティの喪失」と考えることができます。堕落前は、神のかたちに似せて造られたので、神さまの栄光を表わしていました。神さまが持っている聖、愛、善、義、真理、権威、創造性、永遠性、自由を見ることができました。しかし、そのかたちが木端微塵に砕かれてしまったのです。みなさんは、鏡が粉々に割れた状態を見たことがあるでしょうか?鏡は鏡なんですが、どのように映るか見たことがあるでしょうか?ちっちゃな鏡が散乱しています。どこかの風景を映しています。自分の顔の一部も映しているでしょう?でも、それは不完全であり、部分的です。真理の一部は見えますが、全体像が見えないので、本当の目的がわかりません。子供たちが「何のために学校で勉強するの?」とか、「どうして男と女がいるの?」と聞かれても答えることができません。親は、結婚、仕事、生きる意味すら教えることはできません。なぜなら、自分も分からないで生きているからです。「どうして、刃物で刺しちゃいけないの?」「どうして、危険ドラッグ吸っちゃいけないの?」と聞かれても、「警察に捕まるから」とか「人さまに迷惑かけちゃいけないから」としか答えられないでしょう。本当は、人間は神さまのかたちに似せて造られた尊い存在なのでそんなことはしないのです。

  

3.捜し求める神さま

 

   ルカ福音書15章には、失われた人を神さまがさがしているたとえ話が3つ記されています。その中の1つは、失われた銀貨のたとえです。ルカ15:8-10「また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」おそらく、その銀貨は宝物で、10枚で1セットのようなものであったと思われます。この世には、セットでそろわないと価値のないものがあります。たとえば、記念切手、ゴルフクラブ、お皿、漫画全集などでしょうか?私は『何でも鑑定団』をよく見ますが、コインや記念切手、お皿や壺、湯呑、絵画、額、おもちゃ、色んなものが出て来ます。中には昔の火縄銃を何丁も集めている人がいます。彼らにとっては、みな価値ある宝物なのでしょう?この女性は、大事な銀貨の1枚をなくしてしまいました。「あと9枚あるからいいじゃないの?」とは思いませんでした。あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜しました。当時の家は、土間であり、藁とか穀物、畑の道具とか水瓶そういうものが散乱していたと思われます。ランプを灯して、ほうきで掃いて、片づけながら1枚の銀貨を捜したのではないでしょうか?「あった、見つかった!」と、立ち上がったときは、腰が痛かったと思います。彼女はその喜びを、近所の女性たちにも伝えました。「なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください」と言うなんて、よっぽど大事だったのでしょう。

 ルカ15章には3つのたとえ話があります。いなくなった羊を捜す羊飼いは、イエス様のことです。そして、放蕩息子を待つ父は、父なる神さまのことです。そして、なくした銀貨を捜す女性は聖霊を象徴しています。この女性は、どのようになくした銀貨を捜したでしょうか?あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜しました。「なくした銀貨を絶対に見つけなければ」という、執念を感じます。神の霊であられる聖霊も、全世界を巡りながら、失われた人たちを捜しているのです。当時の銀貨は皇帝の肖像が刻まれていました。人間にはだれの肖像(イメージ)が刻まれているのでしょうか?それは、創造主なる神さまです。人間は神さまの作品であり、神さまが所有する大切な存在です。アンデルセンの「銀貨」というお話があります。ある英国紳士が海外旅行へ出かけした。その途中、彼の財布にあった1枚のシリング銀貨が、異国の地で財布からこぼれてしまいました。人々から「偽物だ、通用しない」と言われました。その銀貨は暗い所で人手に渡り、明るみで、またもや「偽物だ、通用しない」と言われました。銀貨は、「なんて僕は不幸せな銀貨なんだろう。僕のこの銀も、この値打ちも、この刻印も、どれも何の意味もないとしたら…」と憂鬱になりました。偽物を賃金としてもらった女性は、もう人をだますことのないように、銀貨に穴をあけました。辛い悲しい時代が過ぎました。ある日のこと、一人の旅行者が来ました。すぐだまされて、「通用しない!偽物だ」という声をかけました。やがて、その人は面々にほほえみを浮かべました。「おや、これはいったいどうしたことか?これは、私の国のお金じゃないか。穴をあけられ、偽物呼ばわりされているんだ。いや、これは愉快だ。しまっておいて国へ持って帰ろう」と言いました。銀貨のあらゆる苦労が終わり、喜びの人生が始まりました。罪人が悔い改める(方向転換して神さまのもとにもどる)なら、どのような喜びがあるでしょう?天の御使いたちに喜びがわき起こるとあります。見つけた神さまも喜ぶし、見つけられた人も喜ぶでしょう。

4.神の子ども

 

   ヨハネ1:12-13「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」もし、キリストを受け入れる(信じる)なら、どのような特権が与えられるのでしょう?また、それはこの世のどのようなものと関係がないのでしょうか?この方とは、イエス・キリストのことであります。イエス様を信じた人々には、神の子どもとされる特権が与えられると書いてあります。「特権」という意味をご存じでしょうか?英語の詳訳聖書には、authority, privilege, power, rightなどという風に訳されています。これらを、どう説明できるでしょうか?旧約聖書にヨセフという人物のことが記されています。彼は、ヤコブの11番目の子どもでした。ヤコブはイスラエルですから、ヨセフも12部族の先祖になりえます。ところが、兄弟たちから妬みを買って、エジプトに奴隷して売られました。主人のため一生懸命働いていましたが、彼の妻に訴えられ、投獄されました。ある時、パロの献酌官の夢を解き明かしてあげました。「私は無実の罪で捕えられているのです。だから私のことをパロに進言して下さい」とお願いしました。ところが、献酌官はコロっとそのことを忘れました。2年後、パロが不思議な夢を見ましたが、だれも解き明かすことができませんでした。献酌官は「ああ、そういえば、夢を解き明かせるヘブル人が牢獄にいる」と思い出しだしました。早速、ヨセフはパロのもとに連れ出され、その夢を解き明かしてあげました。ヨセフのおかげで、エジプトは大ききんから救われることになりました。パロはどうしたでしょう?ヨセフにエジプト全土を支配させました。そのため、自分の指輪をはずして、ヨセフの手にはめ、亜麻布の服を着せ、その首に金の飾りをかけました。そして、自分の第二の車に乗せ、人々に彼の前で「ひざまずく」ように命じました。この箇所を英語の詳訳聖書で読むと、authority, privilege, power, rightなど、全部入っています。ヨセフは奴隷から、王の息子となりました。王の代わりに国を治める権威と力が与えられました。これらが、神の子となる「特権」という意味であります。 

  使徒パウロも同じことを述べています。ローマ8:17「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」相続人とは、神さまのものを自分が受け継ぎ、神さまとともに治めるということです。かつて、人間は地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」と命じられていました。堕落した人間は支配権を失い、サタンがそれを横取りしました。私たちは自然界の猛威、台風、地震、津波、火山噴火を恐れています。癌をはじめとする数えきれない病気があります。インフルエンザ、エイズ、エボラ、ウィルスも人間に逆らっています。世の中に、戦争、犯罪、事故、天災、難病、不条理があります。人間だけが悪いのではなく、背後にこの世を支配しているサタンの存在を否定することはできません。だから、私たちには神さまの権威を持つ神のこどもになる必要があります。今でもイエス様は全宇宙の王です。私たちは「御国(神の支配)が来ますように」と祈ります。しかし、王なるイエス様は、ご自分と一緒に治めてもらいたいのです。

 どのようにしたら、私たちは神の子どもになることができるのでしょうか?それは、救い主イエス様を受け入れること、信じることによってであります。生まれや努力や頑張りとは関係がありません。現代訳聖書には、「決して先祖や親の身分や地位によるのではなく、人間の願望や意志によるものでもない」と書いています。つまり、どんな境遇で生まれた人でも、神の子とされるチャンスがあるということです。私のように8人兄弟の7番目でも可能でした。私はいつも「おみそ」にされてきました。「おみそ」とは、一人前ではない、ついでという意味です。正月やお盆はいつもさびしい思いをしてきました。兄や姉の伴侶がきて、食卓を囲んでいました。私は恥ずかしくて家のどこかに隠れていました。食卓には私のポーション(食物の一人前、分け前)がなかったからです。私は自分が誰か、自分の価値が全く分からないで育ちました。ところが、イエス様を信じて、私は神の子という身分をいだたきました。みなさんは、神の子の特権がどれくらいすばらしいかご存じでしょうか?天地万物を造られた神さまのものを全部相続できるということです。あなたのアイデンティティはどのようなものになるでしょうか?神さまが王様なら、息子は王子、娘は王女という身分になります。あなたは、王子であり、王女なのです。「天のお父様、あなたから離れていたので自分がだれなのか分かりませんでした。聖霊様、あなたが私を見出してくださり感謝します。私はイエス・キリストを救い主、人生の主として受け入れます。そして、これからはあなたに属し、御国の価値観を土台にして生きたいと願います。イエスさまのお名前によってお祈りします。アーメン。」