2015.1.11「死後どこへ行くのか ルカ16:19-26」

 どの民族、どの国においても宗教があります。それは、人々が死後の世界を求めているからではないでしょうか?ギリシャの哲人は霊魂の不滅を唱えました。釈迦は解脱を説きましたが、死後の世界については解明していません。唯物論者は「死とは無になることだ」と言って、虚無の中で生きています。「生きているうちが花」と言っても、死後のことが分からないなら、毎日を楽しむことはできないでしょう。聖書は死後の世界のことだけではなく、「永遠をどこで過ごすべきか」ということも、私たちに啓示しています。

1.金持ちとラザロ


ルカ16:19-23「
ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。」聖書をざっと見て行きたいと思います。ある金持ちの生活ぶりはどのようなものだったでしょう?高価な着物を着て、働かないで、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。そして、目の前に貧しい人がいてもまったく顧みなかったようです。では、ラザロという貧しい人は、どのような生活をしていたでしょう?金持ちの玄関先で寝ていました。栄養失調のためか、全身おできができていました。彼は金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていましたが、かないませんでした。ラザロは死んでどうなったでしょう?御使いたちによって、アブラハムのふところに連れていかれました。「御使いたち」とありますので、両脇を抱えられてアブラハムのふところに連れていかれたのでしょう。金持ちはどうなったでしょう。金持ちも死にました。きっと盛大な葬儀であったと思われます。しかし、たったひとこと「金持ちも死んで葬られた」としか書かれていません。なぜか、金持ちの名前が記されていません。

 この後、死んだのちのことが描かれています。これはイエス様が作ったおとぎ話なのでしょうか?それとも、実話なのでしょうか?おそらく、イエス様はいろんな世界を見てきたので、実名はともかく、本当にあったことなのではないかと思います。つまり、イエス様は生きている世界と死後の世界が密接に関係していることを教えておられるのです。なぜ、二人の行先が違ってしまったのでしょうか?アブラハムは「金持ちは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていた」と言っています。これだけだと、金持ちが悪いような感じがします。確かに、この地上でのことが死後、報われるという考えはわかります。でも、それだけではないと思います。問題は、「ラザロ」という名前が記され、金持ちの名前が記されていないことです。このところには金持ちが「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」と書いてあります。毎日ですから、神さまと和解して、神さまを礼拝する時を持っていなかったのではないでしょうか?そして、神さまからいただいた富を貧しい人たちに施すべきだったのに、それもしませんでした。「これは私の富だから、私個人のために使って良い」と考えたのだと思います。彼は神さまを無視した生活を送っていました。その証拠に、金持ちは陰府の底から、「兄弟五人のところに、だれかを遣わして下さい。悔い改めるようにさせてください」とお願いしています。今の時代も、「私は神を信じない。いや神なんか弱い人間が勝手に作った妄想だ」と言っている人たちがいます。無神論者は「神を信じない」と言っているのですから、これも1つの信仰だと思います。一方、ラザロは貧しい身でありながら、神さまと和解し、神さまを礼拝していたのでしょう。だから、神さまから名前を覚えられていたのです。金持ちは生前、神さまを無視した生活をしていたので、神さまから覚えられていなかったのでしょう。そして、死後、神さまがいないところに行ったのであります。ある人が「地獄とは、神さまのいないところであり、神さまから見放されている所だ」と言いました。神さまを信じない人は、神さまが嫌いなのですから、そちらに行くのが合っているのかもしれせん。でも、死後の世界は、一方では豊かな報いがあり、他方では厳しいさばきがあることも教えています。

 

2.陰府の世界

 

ルカ16:24-28「彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』」人は死んだら無になるのでしょうか?陰府にくだった金持ちの感覚、記憶はどのようなものでしょう?このところでいつくか分かることがあります。まず、肉体は死んでも、魂は生きているということです。また、熱いとか渇きなどの感覚もあります。そして、生前の記憶もあります。ということは、生物学者や無神論者が言うような、死後は存在がなくなるとか無になるという考えはあてはまらなくなります。確かに、聖書が言うように、死んだ肉体は土に帰ります。でも、人間は肉体だけでできているのではありません。他に霊と魂があります。「霊魂」とまとめて言う場合もあります。しかし、霊魂という言葉を使うと、エジプトやアンデス、東南アジアの島々の宗教と同じようになってしまいます。彼らは、肉体は死でも、霊魂はどこかで生きていると考えているからです。『千の風になって』という歌がありますが、死んだ魂がどこかであなたを見守っているよという歌詞です。死んだら無になるんだと本気で思っている人は、そんなに多くないのではないでしょうか。

 しかし、聖書はもっと死後の世界を詳しく教えています。人は死んだらどこへ行くのでしょうか?旧約聖書を見ると、アブラハムのことが記されています。創世記25:8「アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた」と書いてあります。なんとなく、死んだ世界に自分たちの民がいるような感じがします。「陰府」ということばが最初に出て来るのが、創世記37章のヤコブのことばです。創世記37:35「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい」と言った。ヤコブはヨセフがいる陰府に、自分も下って行きたいと願っています。旧約聖書では、「良い者も悪い者も死後は陰府に行く」と書いてあります。しかし、聖書学者は「陰府は二階建てになっており、義人が行くところと、悪人が行くところに分かれている」と言います。たしかに、「陰府の淵」とか「陰府の穴」という陰府よりももっと深いところがあるように記されています。ルカ16章は、陰府の構造がかなり明確になっています。上の方には信仰の父アブラハムがいました。「アブラハムのふところ」とは、慰めと報いがあることを教えています。そして、はるか下には金持ちがいました。そこは、「ハデス」と書かれています。ハデスは陰府のギリシャ語で、死者の行くところです。しかし、ここは懲罰の場所でもあります。なぜなら、火炎が立ち上り、金持ちが「こんな苦しみの場所に来ないように」と願っているからです。よく誤解されますが、ハデスは地獄ではありません。地獄が来るのは、この世が終わって、人々が神の前に立って裁かれた後です。でも、ハデスはそこまで火が来ているので地獄の待合室であります。アブラハムがいるところと、金持ちがいるハデスの両者には大きな淵があり、そちらに渡ることも、そちらから越えて来ることもできませんでした。

 陰府にくだった金持ちの願いはどのようなものだったでしょうか?兄弟や親せきが自分と同じところに来ないことを願っています。また、だれかの助けによって救われてほしいと願っています。日本で伝道しますと、ある人たちはこう言います。「父も母もイエス様を信じないで死んだので陰府にいるのでしょうか?だったら、私だけ天国に行くのは申し訳ないので、父と母のところに行きます」と。現在、死んだ人がみんな陰府にいるとは限りませんが、この金持ちは、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」と願っています。ということは、陰府にいる人は「子供たちや子孫が、救われてほしい」と願っているのではないでしょうか?一方、ラザロがいるアブラハムのふところとは、どういうところなのでしょうか?そこは、同じ陰府でも、義人たちがいる天国の待合室みたいなところです。イエス様は死んで陰府に下りました。エペソ4:8「高いところに上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ」と書いてあります。イエス様が復活したとき、陰府の二階にいた人たちを引き連れ、パラダイスを造られたのでないかという説があります。ですから、主にあって死んだ人は、陰府ではなく、パラダイスにいるのではないかということです。パラダイスというのは、私たちがよく聞く、天国のことであります。ですから、クリスチャンが死んだら、陰府ではなく、パラダイスに行っていると考えるべきです。パラダイスと聞くと、キャバクラの名前みたいですが、そうではありません。私は現実にあると信じています。よく臨死体験をなさる人、つまり一度、死の向こうに行って、戻って来た人たちの体験談があります。未信者の人は真っ暗なところに行ったと言います。しかし、クリスチャンの場合は、「光の世界に入って、ペテロや肉親にあった」と言います。パウロは「私は第三の天、パラダイスに引き上げられたことがある」とⅡコリント12章で証言しています。パラダイスとは、まさしく御国の待合室です。死後の世界のことを科学的に証明することはできません。自然科学は目に見えて、量れるもの、実験可能なものです。しかし、霊は目に見えないし、量ることもできません。また、陰府やパラダイスにテレビカメラを持ち込んで、レポートすることもできません。だから、私たちは聖書のみことばから信じるしかないのです。イエス様やパウロ、ヨハネが証言しているのですから、信じて良いのではないでしょうか!

3.パラダイスに入った犯罪人

 

イエス様が「パラダイス」のことを証言している聖書箇所があります。同じルカ福音書の23章です。おそらく、この人はパラダイスに入った人の中で第一号ではないかと思います。言い換えれば、オープンしたばかりのパラダイスに入った最初の信仰者です。ルカ23:39-43「十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、『あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え』と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。『おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。』そして言った。『イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。』イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」片方の犯罪人はイエス様に悪口を言いましたが、もう片方の犯罪人は自分をどのように見ているでしょうか?彼は「自分が犯した罪の報いを受けることが当然だと思っています。つまり、罪を悔いていることが分かります。そればかりではありません。イエス様は悪いことは何もしなかったと言っています。どうして、そんなことが分かったのでしょうか?十字架にかかるような悪人は、罵詈雑言を吐き、神や人々を呪うでしょう。しかし、この人は「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」というイエス様の祈りを隣りで聞きました。その時から、この方は神の子、キリストに違いないと分かったのです。

 悔い改めた犯罪人は、イエス様に対してどのように願ったでしょうか?「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言いました。彼は口はばったくて、「救ってください」とは言えませんでした。ただ、「私を思い出してください」と願っただけです。でも、彼はイエス様の復活と昇天、御国の王であるという信仰を持っていました。これまでさんざん悪いことをしてきたので、その時には「私を思い出してください」としか言えなかったのです。イエス様は彼に何と答えられたでしょうか?「今さら、何を言うのか?虫が良過ぎはしないか」とは言っておりません。「聖書読んで、教会に行って、良いことをして罪を償った後に来なさい」とも言っておりません。もうすぐ死ぬのですから、良い行ないなどできません。イエス様は「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と言われました。「まことに」は、アーメンであります。イエス様は明日ではなく、「きょう、私とともにパラダイスにいます」と言われました。何と言う恵みでしょうか。ここに、福音のエッセンスがあります。人が救われるためには、良い行ないが必要なのでしょうか?人が救われるためには、これまで犯した罪を全部告白し、償わなければならないのでしょうか?答えはノーです。この人は十字架にかかって手足を動かすことができません。時間もなく、死を待つばかりの状態です。福音の力とはどういうものでしょう。救いを得るために良い行いは必要ではなく、イエス様を信じるだけで救われるということです。

4.キリスト教来世観

 ある人たちは、「死んでから永遠のいのちをいただくのだ」と考えています。また、ある人たちは死んだら、魂になって、天国というところで永遠に暮らすのだと考えています。また、ある人たちは「もう天国行きが決まっているんだから、死ぬまで好きに暮らそうじゃないか?」と救いを生命保険みたいに考えています。そうではありません。私たちは、聖書から正しい来世観をもたなければなりません。Ⅰヨハネ5:11,12「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」質問をいたします。どのような人が永遠のいのちを持っているのでしょうか?そうです。「御子を持つ者が永遠のいのちを持っています。」日本語ではわかりませんが、この「いのち」はギリシャ語で「ゾーエ」であり、神のいのち、永遠のいのちを意味していることばです。御子を持つとは、イエス様を心の中にお迎えしている、信じているということです。では、どのような人が永遠のいのちを持っていないのでしょうか?御子を持たない者、つまりイエス様を信じていない人です。ここで両者が分かれます。キリスト教は万人救済、すべての人が救われて天国に行けるとは言っていません。現代は、天国が安売りされています。テレビで芸能人の葬儀が行われているのを見るときがあります。だれかが弔辞で「天国でも歌を歌ってね」とあいさつします。私はそのとき、「天国じゃなくて、陰府だよ」とテレビに向かって言うときがあります。だれでもみんな天国に行ったら、天国はこの地上と同じになり、何の魅力もありません。そうではありません。本日の聖書箇所にあるように、死んだ魂は、陰府かパラダイスに行くのです。

 でも、それだけではありません。ヘブル9:27「そして、人間には、一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている」と書いてあります。その後、神さまの前に立たなければなりません。では、イエス様を信じた人も、神のさばきを受けるのでしょうか?私たちはキリストが代わりにさばかれたので、神さまの前に立つ必要はありません。しかし、Ⅱコリント5:10「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」イエス様を信じている人は地獄には行きませんが、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けるのです。パウロは「神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走る」(ピリピ3:14)と言っています。神さまの前には、義の冠、命の冠、あるいは朽ちない冠が用意されているようです。つまり、この地上でどう生きたか、御国に行った先に、大いに関係があるということです。イエス様の隣りにいた犯罪人はパラダイスに入りましが、報いや冠は得ることはできなかったでしょう。それでも、すべりこみセームで、永遠のいのちを得たのですから感謝なことです。

 この教会に赴任したばかりの時、役員会で「あなたは救われていますか?天国に行けますか?」と聞いたときがあります。ある人は「私は分かりません」と正直に答えました。その人は、キリスト教だけではなくて、仏教も信じているとおっしゃっていました。家には仏壇があり、亡くなられたお父さんやお母さんの位牌がありました。「ああ、この人は確信がないんだなー」と思いました。4,5歳の子どもに「あなたは生きていますか?」と聞くとどう答えるでしょう?「うん、生きているよ!」と胸を張って答えるでしょう。理屈では説明できないけど、本人は生きていることがわかります。クリスチャンも同じです。「あなたに永遠のいのちがありますか?」と聞かれたら、「はい、あります」と答えることができます。もし、はっきりしないなら救われていないと思います。救われていたなら、あなたの霊と内におられる聖霊があなたに教えてくれるからです。もし、それでもはっきりしないなら、「イエス様を信じたら救われると聖書に書いてあるので、私は救われています。」と告白してください。そうすれば、確信がやってきます。救いを得ることは、そんなに難しいことではありません。救われるための手立てはイエス様が十字架上で全部やってくださいました。私たちがすべきことは、イエス様を救い主として信じることです。お祈りいたしましょう。「イエス様、私は永遠のいのちをいただきたいです。ラザロのように、また十字架で悔い改めた犯罪人のように、イエス様、あなたを救い主として信じます。あなたが私をパラダイスに入れてくださることを信じます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」