2008.10.05 ああ、十字架 ガラテヤ6:11-18

本日で、ガラテヤ人への手紙は終わりです。次回からはコロサイ人への手紙から続けて学びたいと思います。ところで、十字架には大きく分けて、2つの意味があります。第一は、十字架は救いのためにあります。主イエス・キリストは私たちの罪のために十字架に死んで、3日目によみがえられました。私たちは、このお方を救い主として信じるときに救われます。第二は、きよめられたクリスチャンになるためにも十字架があります。救われても、自己中心で、肉的に生きる場合があります。そのため、勝利がなく、この世の人たちとあまり変わりません。しかし、古い自分がキリストと共に十字架につけられ、死んだことを認めます。そして、キリストを信じる信仰によって新たに生きるということが大事です。

1.ああ、十字架

ガラテヤ6:15「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」「創造」ということばは、他の写本では、被造物と訳されています。この言葉と同じ意味のことばは、Ⅱコリント5:17です。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」「新しく造られた者」は、「新しい被造物」という意味です。クリスチャンは新しい被造物です。

ガラテヤの人たちは、「救われるためには福音を信じるだけではなく、割礼を受けて、モーセの律法を守らなければならない」と考えました。しかし、パウロは「そうじゃない。私たちは、福音を信じるだけで救われるんだ。割礼を受けるとは、行いによって救われようとする間違った道である」と主張しました。では、皆さん、福音を信じるとはどういうことなのでしょうか?私たちは何を信じて救われるのでしょうか?「イエス様を信じれば、救われるのでしょう?」と答えるでしょう。それでも間違いではありませんが、福音の内容が必要であります。それは、イエス様が私たちのために何をなしてくださったかであります。イエス様は私たちの罪の身代わりのために十字架で死んでくださいました。これを「あがない」とか「贖罪」と言います。本来は私たちが自分の犯した罪のために神からさばかれて当然だったのに、イエス様が身代わりにさばかれ、死んでくださったのです。ですから、「イエス様の十字架は、私たち、いや、私のためだったんだ!」と受け入れる必要があるのです。しかし、福音はそれだけじゃありません。イエス様は3日後に、よみがえられました。それは、私たちが新しく造られ、永遠のいのちを持つためです。ですから、イエス様の十字架と復活を信じる人は、だれでも新しい被造物になれるのです。

しかし、この世の人たちは、こうおっしゃるでしょう?「え、私がどんな悪いことをしたと言うんだ。警察のやっかいになるような悪いことはしていないぞ!人を罪人呼ばわりするとは、なんてひどい奴だ!」と言うでしょう。私もかつてはそうでした。「神なんかいるもんか。キリスト教は外国の宗教だろう!そんなの関係ない」と思っていました。そして、罪と欲のままに生きていました。でも、心の中は空しく、混沌としていました。心の中に、世の喜びや楽しみを入れても、入れても、一向に満たされないのです。罪とはギリシャ語で「的はずれ」という意味です。それは、神様から離れているために、霊的に死んだ状態です。楽しみや夢を持ったとしても、それは、ただ自分の腹を満たすためのものでした。あるとき、私は聖霊に示され「ダメもと」で信じたのです。「これまでの人生がこんなもんだった。これから先もこんな具合だろう。でも、この道を行ったら、聖書は永遠の滅びだと言っている。でも、イエスの道はどうもそうじゃないらしい。ダメもとでも良いから、イエス・キリストを信じてみようか?じゃあ、信じるよ。」こんな感じだったんですね。でも、それが新しい始まりでした。聖霊はイエス様を受け入れた私を新しく生まれ変わらせてくださいました。新しい命、永遠の命を私に与えてくださったんですね。救いの喜びは、今でも忘れません。あの時から、つまり受け入れた時から、ずっとイエス様は私と共におられます。ここにおられるクリスチャンは、私と同じ経験を持っているのではないでしょうか?

ここで問題とされるのは、洗礼の問題です。ユダヤ人は救われるためには、割礼を受けなければならないと考えていました。同じように、クリスチャンになるためには洗礼を受けなければならないのでしょうか?確かに割礼と洗礼と似ているところがあります。イエス様はマタイ28章で、「父と子と聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい」と命じられました。でも、みなさん、洗礼と救われることは、イコールではありません。正確に言いますと、イエス様を信じて救われた人が洗礼を受けるのです。洗礼とは信じているということの外的証拠であります。人は洗礼を受けることによって、公にキリストの教会に属する者となるのです。別な言い方をしますと、信じていないのに洗礼を受けても神の国には入れません。洗礼は受けているけど、イエス様を信じていない人は、アメリカやヨーロッパにたくさんいます。そういう人たちは新生していません。つまり、キリストを信じていないので、新しい被造物になっていないということです。彼らは霊的に死んでおり、考え方もまったくこの世の人たちと全く同じです。当時のユダヤ人たちも、割礼を受け、モーセの律法を守ってはいたかもしれないけど、新しく造られた者にはなっていなかったのです。

ですから、このガラテヤ書を現代風に言うとこうなります。「洗礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」となります。洗礼は救われるための、儀式ではありません。救われた人が、「私はキリストのからだなる教会に属しながら、神の国の完成を待ちますよ」ということなのです。アメリカは個人主義の国です。日本にも悪い意味の個人主義が入ってきました。みなさん、キリスト教は個人主義ではありません。確かに、イエス様を信じるのは自分個人であります。個人的にイエス様を心に迎えなければなりません。でも、信仰生活はひとりでするものではありません。教会という神の家族の中で、霊的に成長するために、どうしても洗礼を受けなければなりません。皆さん、この世では、結婚式をしなくても、結婚はできます。婚姻届を役所に出せば良いでしょう。でも、結婚式は神と人々の前で、約束することであります。そして、「みなさん、どうか今後ともよろしくお願いします」ということでしょう。同じように、クリスチャンは一人で生きるのではなく、神の家族という共同体に属しながら、互いに祈り、互いに励まし、互いに愛し合って生きるのです。これは神様のご命令です。まだ、イエス様を信じていない人は、イエス様を救い主として信じましょう。そして、洗礼を受けて、神の家族である教会に属しましょう。聖歌399番に「カルバリ山の十字架」という賛美があります。「カルバーリ山の十字架につきて、イエスは尊き、血しおを流し、救いの道を開きたまえり、カルバリーの十字架、わがためなり、ああ十字架、ああ十字架、カルバリーの十字架わがためなり」アーメン。キリストの十字架を感謝します。

2.きよめの十字架

ガラテヤ6:14「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。このところに「世界」と書いてありますが、昔の口語訳聖書は「この世」です。私は「この世」という表現の方がぴったりすると思います。「この世」とは、神から離れている人間社会を指すことばです。使徒パウロは「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」と言っています。なぜでしょう?私たちは自分自身、自分がしたことを誇りたいという欲求が常にあるからです。だれしも、人から認められたい、ほめられたい、有名になりたいと思っているのではないでしょうか?牧師はそういうものから、きよめられたはずなのですが、やっぱりキリスト教会で有名になり、偉大な人だと言われたいという思いが心の奥底にあります。その証拠に、何かの大会会長になって壇の上に上ったり、名誉博士号をいただいたり、自分の記念誌を出したくなります。「先生」「先生」と人々から呼ばれて、喜ぶところがあります。でも、パウロは2つの方面から十字架以外に誇りとするものがあってはならないと教えています。

まず、パウロは「この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられた」と教えています。これはどういう意味でしょうか?世界、つまりこの世がまるで人格のあるように言われています。それは、この世の人たちが、「あなたはすばらしい。私たちの代表になってください」あるいは「名誉博士号を与えたいです」「教団の議長、大会会長になってください」と言うときです。気持ちはわかります。私も人から持ち上げられたら、悪い気はしません。この間、ゴスペルのレセプションに招かれたとき、一番最初に挨拶をさせていただいた時には悪い気はしませんでした。いやー、「ご招待」に弱いところがあります。しかし、この世がどんなに誘惑してきても、十字架につけて死なせるということです。同時にパウロは「私も世界に対して十字架につけられたのです」と言いました。これは、私自身が十字架につくということです。私たちはクリスチャンになっても肉(この世の欲)があります。人々から認められたい、この世で有名になりたい、人々から高められたい、権威と権力を持ちたいという肉があります。カルト的な教会の牧師は自分がさも偉い者のように言います。役員会をプッシュして、自分のために記念誌を発行させます。銅像は作らなくても、「できれば説教集とか著作集を出したい」とだれしもが思っているのではないでしょうか?

しかし、福音書を見ますと、イエス様は有名になりたいとは思っておられないことが分かります。あるとき、イエス様は耳が聞こえず、口のきけない人を癒しました。その時、イエス様は「このことをだれにも言ってはならない」と命じられました。しかし、人々は「口止めされればされるほど、かえって言いふらした」とあります(マルコ7:32-37)。イエス様はらい病人を癒したときも、少女を生き返らせたときも、「このことをだれにも言ってはならない」と命じました。私だったらクリスチャンの新聞に電話して、「ぜひ、取材に来てください」というかもしれません。ということは、私たちはイエス様と逆のことをしようとしているということです。旧訳聖書で、バビロンの王、ネブカデレザルは高さ約30メートルの金の像を造りました。そして、人々に「この金の像を拝め」と命じました。そのあとに、神からの預言がありました。「あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、天の露にぬれます」と。ネブカデレザルの髪の毛は鷲の羽のようになり、爪は鳥の爪のようになりました。そして、7年後、理性が戻ってきました。その時、彼はどうしたでしょうか?「私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。その主権は永遠の主権、その国は世々限りなく続く。地に住むものはみな、無きものとみなされる」(ダニエル4:34-35)。神様は私たちにすべてのものを分かち合うお方です。しかし、栄光だけは別です。栄光は神様のものだからです。アーメン。

私たちは聖書のみことばを頭で信じていますが、自分の価値観になっていないところがたくさんあるのではないでしょうか?私は子どもの時、父から立身出世を説かれました。「人を利用してでも良いから偉くなれ!」と言われました。昔は、卒業する時に「仰げばとうとし」という歌を歌いました。「仰げばとうとし、わが師の恩…身をたて、名をあげ」という歌詞です。「身をたて、名をあげ」は、まさしく立身出世です。そういう価値観を持ったままクリスチャンになるとどうなるのでしょうか?教会が大きくなることが、自己目的になります。「リバイバル、リバイバル」と祈りながら、「俺を馬鹿にしたやつら、今に見ておれ!」と思っていたら、おかしいですね。教会が大きくなって、自分が有名になる。そして、セミナーや講演会に招かれる。本でも出版して、老後は悠々自適に暮らす。これは、私が思っていたことですが、やっぱりどこかおかしいですね。使徒パウロやイエス様は全く反対の生き方をしていました。私は「リバイバルは何か」ということをずっと考えてきました。「リバイバルとは大ぜいの人々が救われて、教会が大きくなることだ。クリスチャンが10%以上、増えれば、世に対して影響力を持つことができる」と考えていました。みなさん、これだったらどこかの学会と同じであります。ケニヤでは90%がクリスチャン、大統領もクリスチャン。でも、政府の汚職は、はなはだしいということです。アフリカのある国では、午前中は教会に集まって、神様を礼拝する。でも、午後になると敵対する部族を殺しに行くそうです。たとえリバイバルが起きても、こういう教会だったら、何にもならないですね。私たちはただ、数に頼るのではなく、旧約の預言者たちのように、神様の前に真実であることを求めたいと思います。

2004年にインドネシアからエディ・レオ師が当教会に来られました。そのとき、先生はこのように言われました。「私はたくさんのいろんな国々を訪れたが、いろんなすばらしいリバイバルが起きている。そして、リバイバルについてのいろんな話を研究してきた。そして私はことのことを発見した。ほとんどのリバイバルが30年間、40年間続いてからしぼんでいく。一番大きなリバイバルの1つは韓国で起きているリバイバルである。しかし、私は何度も韓国を訪れているが、韓国のクリスチャンたちは『エディ先生、韓国のために祈ってください。私たちの教会は今、減少しています。若者たちは教会から去って行ってしまった。もう彼らは日曜日教会に来ようとしない。彼らはディスコに行ってしまう。この世的なことをやっている』。韓国は離婚率ということでは世界でアメリカに次ぐ第二位の国になった。そしてまた、中絶に関しては、世界で一番多い国になってしまった。私たちの技術は今、最先端のところに行っている。私たちに知識が足りないからではない。それは、人々の道徳の低下のゆえである。そして、聖書はそのことを預言している。Ⅱテモテ3:5「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい」。このことこそが、リバイバルを失っていかないために支払わなければならない代価である。大抵の場合、教会はリバイバルを経験する。「ああ、もう燃えている。ああ、すごく霊的になってきた。」しかし、その後、人々は敬虔の力を失ってしまう。敬虔さから生じる力を失ってしまう。見かけは、敬虔かもしれない。しかし、その人たちの生活をよくよく調べてみると、その敬虔さの力というものがない。」

 敬虔さとは、どういう意味でしょうか?英語では、godlinessと言います。その意味は「神様のようである」ということです。神様のようになって行くということです。それは簡単です。それは、イエス様のようになって行くことです。私たちの目標(ゴール)はイエス様のようになって行くことです。しかし、今日の教会の目標はイエス様のようになるということではありません。私たちの目標は他のことに向かっています。多くの教会にとっての目標は何でしょうか?教会が大きくなることです。力のあるダイナミックな教会になることです。でも、敬虔さの力には欠けています。今日の教会の目標は何でしょうか。栄えることです。「イエス様を信じなさい。あなたはイエス様を信じるなら、お金持ちになりますよ」。「イエス様を信じなさい。あなたの問題は自動的に解消されますよ」。「あなたは人生を楽しめますよ」。「すばらしい人生が待っていますよ」。このような福音を語ります。しかし、イエス様のようになるというところにフォーカスが向けられていません。私たちの教会は、「イエス様のようになる」という目標を持っているでしょうか?みなさんのセルグループはどうでしょう?「イエス様のようになる」ということに焦点を当てているでしょうか?もし、私たちがイエス様のようになるということに焦点を合わせるならば、リバイバルが起こるでしょう。そして、そのリバイバルは消えてなくなることはありません。ですから、みなさん、イエス様のようになりましょう。アーメンです。

私たちはイエス様を信じていると言いながらも、この世の価値を十字架につけようとしません。「イエス様も信じますけれど、この世でも楽しく暮らして、できたら有名になりたいです」。聖書はこういう人たちを「二心の者たち」と言います。私たちの心の中になぜ安定がないのでしょうか?それは神様を愛し、同時にこの世も愛しているからです。神様からも認められたいが、同時に人々からも認められたいのです。しかし、それは不可能です。イエス様はこのようにおっしゃいました。マタイ6:24「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」アーメン。私たちはどちらかに死ぬしかありません。神に対して本当に生きるためには、この世に対して死ぬかしかありません。実は、この世に対して死ぬならば、信仰生活はとても楽になります。既に、死んでいるんですから、あなどられても、馬鹿にされても、痛くもかゆくもありせん。おだてられても、ほめられても、高慢になりません。でも、実際は、馬鹿にされたら腹が立ちます。ほめられたら、嬉しくなります。みなさん、これが肉なんですね。この肉は天国に行くまで治りません。常に私たちに付きまとうのです。ですから私たちは「日々、自分の十字架を負って」イエス様に従っていくしかないのです(ルカ9:23)。この十字架とは他の人のためではなく、自分がつけられる十字架です。まさしく私たちは、「この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです」ということを告白していくしかないのです。十字架は私たちを罪から救う力があります。また、同時に十字架は私たちを罪から解放する力があります。どうぞ、十字架をいつも身におびて、行きましょう。私たちの生活に、十字架を適用するならば、同時に新しい創造、新しいいのちが生まれるからです。アーメン。