2015.1.18「罪の赦し ヨハネ8:1-6」

 「赦し」は、「許し」と違います。前者は簡単には赦されないものであり、後者は条件がそろえば許されるという軽いものです。赦しの背後には、犠牲が伴います。神の小羊であるイエス・キリストが尊い血潮を流し、命を捨ててくださったので私たちは赦されるのです。ところが、世の中には、この赦しを知らないために、罪責感に囚われ、負い目の中で暮らしている人がいます。仏教は「罪の重荷を負いながら生きよ」と言うかもしれません。しかし、イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と言われます。

1.姦淫の場で捕らえられた女

イエス様は祈るためにオリーブ山に行かれたと思われます。翌朝早く、イエス様はもう一度、エルサレムの宮に入られました。民衆はみな、主のみもとに集まって来ました。イエス様はいつものように、座って彼らに教え始められました。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女性を連れて来てきました。人々の真ん中に彼女を置いてから、イエス様に言いました。ヨハネ8:4-6「『先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。』彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。」「朝早く」しかも、姦淫の現場でつかまえたのですから、生々しいというか残酷であります。おそらくはイエス様を訴えるために、普段から目をつけていたのかもしれません。本来なら男と女を捕えるべきですが、あえて、女性だけを捕えてひっぱってきました。イエス様を罠にはめるために、有効だったからでしょう。もし、イエス様が「彼女の罪を赦す」と言ったならどうなるでしょう?彼らはどう出てくるでしょう。おそらく、「モーセの律法を破るように教えて良いのですか?もし、そうなら神からの教師とは言えません」と訴えたでしょう。逆に、イエス様が「モーセの律法のとおり、石打ちにすべきだ」と答えたならどうなるでしょう?彼らは「あなたには愛がないですね」と言うでしょう。そうすると、愛を説いてきたイエス様の評判が落ちて、だれも言うことをきかなくなるでしょう。どちらを選んでも、不利な立場に立たされます。本当に彼らはうまく考えたものです。

 しかし、イエス様は身をかがめて、指で地面に何かを書き始めました。イエス様が書かれた文書があれば良いのですが、1つも残されていません。唯一、地面に何かを書かれたという記事がここにあるだけです。一体、イエス様は何を書いておられたのでしょう?ある人は十戒であると言います。あるいは、訴えている人たちの隠された罪を1つ1つあばかれたという説もあります。ある1枚の宗教画を見たことがあります。地面に書いた文字を一人の女性が、別の男性に「これあなたのことでしょう?」と言わんばかり、指をさしています。その男性も隠れて同じような罪を犯していたのです。そうなると、もう修羅場になってしまいます。宗教改革者ジョン・カルヴァンは、「身をかがめて字を書くことによって、あえて無視する態度をとられたのだ」と言っています。大和カルバリーの大川牧師は「それは視線の肩代わりであり、男たちのいやらしい目を、他の方に向けさせたのです」とメッセージしておられました。不思議なことに、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われた後も、再び、身をかがめて地面に何かを書かれていました。時間かせぎなのか、あるいは考える時間を人々に与えたのかもしれません。pauseポーズということばがあります。写真を撮るときのポーズではありません。このポーズは「小休止する」という意味のことばです。しかし、ポーズには他に「立ち止まる、思案する」という意味もあります。私は勢いで何かをしゃべったり、勢いで何かをやったりします。しかし、あとから「一呼吸おいて、少し考えてからやるべきだったなー」と後悔するときが良くあります。子どものときから「ヤス落ち着け」と言われてきました。仕事でもそうですが、根を詰めてやっていると行き詰まることがたまにあります。ちょっと、小休止して、一息つくと、良いアイディアが浮かぶときがあります。イエス様は彼らの勢いを止めて、「あなたも、ちょっと考えてみなさいよ!」と、時間を与えたのだと思います。

姦淫は夫あるいは妻以外の者を愛するということです。それでは、神によって造られた私たちは、神以外のものを恋慕ってはいないでしょうか?霊的な意味から言うと、この世の人はだれでも、神の前で姦淫の罪を犯しているということにはならないでしょうか?イエス様は福音書で「悪い、姦淫の時代だ」(マタイ12:39、16:4)と何度かおっしゃっています。時代というのは、ギリシャ語でゲネァーです。ゲネァーは「子孫、種族、世代」という意味で、時間とは関係ありません。生まれつきの私たちはアダムの子孫であり、罪の家系で育ちました。だから、十戒で言われているようなことを全部犯しています。イエス様は実際に行わなくても、「人を憎んだり、情欲を抱いただけでも罪である」と言われました。そうだとしたら、殺人や姦淫、盗みをだれもが行っているということではないでしょうか?つまり、「誰一人として正しい人はいない。みんな罪を犯している罪人だ」ということです。このことが分からないと、この記事を「ああ、汚れた女性もいるものだ!」と第三者的に見てしまいます。私たちがその場にいたら、彼らと同じように、石を取って、それを女性に投げつけるだろうということです。本当は、この女性は私たちの代表であり、いつの日か、私たちの罪も神の前で白日のもとにさらされるということです。だから、ちょっと小休止して、「このことは何なのだろう」と考える時間が必要だということです。

 

 2.罪のない者が石を投げよ 

ヨハネ8:7-9「けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。」彼ら、つまり律法学者とパリサイ人たちは、自分たちのことをどう思っていたのでしょう?彼女のような罪は犯していない、自分たちは正しいと思っていたのです。ところが、イエス様が「罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われました。そして、イエス様がもう一度身をかがめて、地面に何かを書かれました。ポーズ、小休止です。その間、神の霊が彼ら一人一人の心を行き巡りました。まるで、コンピューターのハードディスクに欠陥がないか調べるように、神の指が彼らの心をなぞったのです。神の霊にさぐられ、自分にも同じような罪があることに気がつきました。するとどうでしょう?石がボトン、ボトンと地面に落ちる音が聞こえました。そして、年長者から先に去って行きました。なぜでしょう?長い人生経験を踏まえ、自分は律法を守っていない罪人であることが分かったからです。同じ罪人が、他の人の罪をさばくことができないと悟りました。鈍い若い人たちも、まもなく石を捨てて、去っていきました。

 キリスト教会では「認罪」ということばがあります。このことばは広辞苑にはありません。ルターは「罪の自覚の深まるところには恵みもまた深まる」と言いました。しかし、「罪」という概念そのものが日本語にはありません。一般に私たちは「何か悪いことをした」ということで罪を意識します。極端に言うと、悪いことをしていなければ罪はないということになります。ある人たちは「人に迷惑をかけていないから良いんだ」と言います。あるいは、「社会的に悪いことをし、法律を犯したら罪なんだ」と言うかもしれません。これらはすべて、人間対人間、人間対社会であります。相対的に「私の方があなたより正しい。人と比べて自分はそんなに悪くはない」となります。しかし、認罪というのは聖なる神、絶対者なる神の前に立ったとき、覚えるものです。私がクリスチャンになる前、職場の先輩がこんなたとえ話をしてくれました。あるところに「私が洗ったシーツはどのお家よりも、真っ白だ」と自慢している主婦がいました。12月に入ったある日、いつものように縁側の物干し竿にシーツを干していました。お昼時、居間でうとうとして眠ってしまいました。ぶるぶるっと震えて、目をあけると、庭先に一面に初雪が積もっていました。物干し竿の方を見たら、何やら灰色の物体があるではありませんか。何だ、薄汚いと思ったら、自分が洗った自慢のシーツでした。何と言うことでしょう?今しがた降った初雪とくらべたために、シーツが灰色に見えたのです。これが認罪であります。

 神さまは私たちに罪があるということが分かるように、聖書のことば、律法を与えました。律法に照らされると「ああ、自分には罪がある」と分かります。それでも罪が分からない人がいます。そのために、神の霊である聖霊がその人の心に触れてくださいます。イザヤという人は、神殿で主を見たとき、「ああ、私はもうだめだ(もう滅びるばかりだ)」と言いました。潔白で正しいと言われたヨブも主を見たとき「私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています」と言いました。何か悪いことをしたということも罪ですが、自分の存在そのものが罪深いと分かったのです。確かに私たちは神さまの目から見たら高価で尊い存在です。しかし、同時に私たちは、神さまの恵みとあわれみがなければ、生きていけない存在なんだということも知らなければなりません。それでも、多くの人たちは「そんなのいらない。私は私のやり方で生きて行く」と言うでしょう。でも、私たちが救いを得るためには、自分には罪がある、このままでは神さまの前には立てない存在だという「認罪」が必要です。イエス様はパリサイ人や律法学者にこのように言われました。マタイ9:13「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」ということは、自分は正しいと思っている人には、キリストの救いは不要だということです。「私には罪がある、私は罪人です」と心から理解している人が、神さまから救いをいただくことができるのです。では、救いとは何でしょう?ここにおられた、山崎長老さんは「救いとは罪の赦しである」と言いました。私は若かったので、いや、「他にも意味があるよ」と思いました。でも、信仰生活を送るにつれて、「ああ、救いとは罪の赦しだなー」と心から思えるようになりました。使徒パウロは晩年、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。…私はその罪人のかしらです」と告白しました。ハレルヤ、「心の貧しい人は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」。

 

 3.あなたを罪に定めない

 

 ヨハネ8:10-11「イエスは身を起こして、その女に言われた。『婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。』彼女は言った。『主よ、だれもいません。』そこで、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』」原文には「主よ」という言葉が入っていますので、入れて読みました。イエス様は彼女が犯した罪を見過ごしたのでしょうか?あるいは軽く扱ったのでしょうか?そうではありません。彼女が罪を犯したことは事実であり、少しも軽く扱っていません。だから、「今からは決して罪を犯してはなりません」と言ったのです。では、この女性はいつ罪を認め、いつ罪を悔い改めたのでしょうか?律法学者やパリサイ人はイエス様を「先生」と呼びました。「先生」とは、「ラビ」のことであり、律法の教師という意味です。でも、この女性は「主よ」と呼びました。明らかに、信仰から来たことばです。彼女は自分が犯した罪を知っていました。同時に、イエス様は自分の罪を赦してくださる主(救い主)であることを信じていたのではないかと思います。「いつ信じたのか?」と言われるとそれも困りますが、ポーズ、沈黙の間だと思います。回りの人たちは、自分を見下し、自分を刺すような視線を向けていました。でも、目の前のイエス様は自分を咎めて、見下すような目ではありませんでした。むしろ、彼らの視線を別のところに向けてくださいました。人は罪を責められ、咎められたからと言って悔い改めません。そうではなく、赦しが備えられているので、罪を悔い改められるのです。

イエス様は、「わたしもあなたを罪に定めない」と宣言されました。そのことばの根底には、どのようなものがあるのでしょうか?「わたしも」ですから、まず、他の人たちは彼女を責めることをせず、石を置いて、一人残らず去っていきました。イエス様だけが、そこにおられたのは、イエス様だけが、彼女の罪をさばくことができるということです。その最後のお方であるイエス様が「わたしもあなたを罪にさだめない」とおっしゃったのです。ということは、どんな人たちも、そして、神さまも彼女を罪にさだめないということです。しかし、ただでそんなことが可能なのでしょうか?人の罪をただで赦せるイエス・キリストとは何者なのでしょうか?イエス様は福音書において自分が何のために来られたのかおっしゃっています。マタイ20:28「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」つまり、イエス様は「この女性の罪を贖うためにも、私は十字架で死ぬよ」ということを決意しておられたのではないでしょうか?この世では、「前払い」とか「前倒し」ということばを使います。イエス様が彼女をただで赦したのは、「私が彼女の分まで、代価を払いますよ」ということなのだと思います。

イエス様が彼女の罪を赦すことができたのはもう1つ理由があります。これはとても大事なことです。イエス・キリストはどのようなお方でしょうか?神の子イエスだけが、人の罪を赦す権威を持っておられるということです。「え?何様?」と言いたくなるかもしれません。あるとき、イエス様のところに中風で歩けない人をかついでやってきた4人の友達がいました。人々が戸口まであふれているので、彼らは友人をかかえて屋根の上に登りました。そして、人の家の屋根をはがして、彼を寝かせたままその床をつり降ろしました。その時、イエス様は何とおっしゃったでしょう?中風の人に「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われました。彼は病気を治してもらうために来たのです。その場にいた律法学者たちは「神を汚しているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」と心の中でつぶやきました。イエス様は「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることをあなたがたに知らせるために」と言われて、中風の人に「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」言われました。そうすると、彼は起き上がり、すぐに床をたたんで、みんなの見ている前を出て行きました。目には見えませんでしたが、罪の赦しを宣言したとき、彼の罪は赦されていたのです。病の癒しは罪の赦しがあったことのしるしでした。このように、イエス様は人の罪を赦す権威をもっておられる神さまであるということです。ハレルヤ!神であられるイエス様が「あなたを罪に定めない」とおっしゃるなら、そうなるのです。神さまが赦されたのなら、もうだれも文句を言うことはできません。

 

 4.罪が赦される根拠

 ヘブル9:26-28「しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」イエス・キリストは私たちの罪を取り除くために、どんなことをされたのでしょうか? ご自身をいけにえとして(多くの人の罪を負うために)、ご自身をささげられました。私たちの罪を負って、私たちの代わりに罰を受けて死なれたということです。キリストが多くの人の罪を負うために一度、ご自分をささげられましたが、「多くの人」の中にあなたが含まれていることを信じるでしょうか?私たちは信仰によって、罪の赦しをいただく必要があります。十字架の贖いはもう完成された出来事です。もう、あなたの罪の代価は十字架で支払われているのです。唯一必要なのは、信仰の手を伸ばして、「私もあなたから罪の赦しをいただきたいです」と願うことです。

 最後に私たちは神さまが赦してくださったのですから、自分自身を赦す必要があります。詩篇103:8-12「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」あわれみ深い主は、私たちの罪に対して、どのように扱われるのでしょうか?私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもありません。キリストの贖いのゆえに、私たちの罪に対して怒っておられません。では、主はどれくらい私たちの罪を遠く離してくださるのでしょうか?東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離されます。この意味は、神さまは二度と私たちの罪を思い出さない。完全に忘れてくださるということです。

 あるご婦人が「私の罪は大きすぎて、神様も赦してくださらないでしょう」と言いました。牧師先生は彼女に「今から、目をつぶって想像してみてください。深い湖へ、ボートに乗ってでかけましょう」と言いました。「今からボートに乗りますが、その前に、大きな石と小さな石を1個ずつ持ってください。持ちましたか?…今、ボートを漕いで、湖の真中辺に来ました。さあ、最初に小さな石を湖に投げ捨ててください。…どうですか?」「はい、チャポンと音がして、小さな波紋が立ちました」。「小さな石はどこへ行きましたか?」「はい、湖の底です」。「それから、どうなりましたか?」「はい、もとの静かな湖になりました」。「次に、大きな石を湖に投げ捨ててください。…どうですか?」「はい、ザブンと音がして、大きな水しぶきが立ちました」。「大きな石はどこへ行きましたか?」「はい、湖の底です」。「それから、どうなりましたか?」「はい、もとの静かな湖になりました」。牧師先生が言いました。「小さな罪は小さな被害を、大きな罪は大きな被害を与えました。しかし、神さまはどちらの罪も赦してくださいます。神様の前では、大きな罪も小さな罪も関係ありません。」