2015.1.25「救いの保証 ヨハネ5:24,10:28-29」

 きょうから4回にかけて『チェンジングライフ』のテキストからメッセージさせていただきます。チェンジングライフは直訳すると「人生を変える」という意味です。イエス様を信じてクリスチャンになったはずなのに、生活が変わらないということがあります。なぜでしょう?福音の種を蒔いたはずなのですが、地表の下に石ころがあったり、いばらが植わっているかもしれません。人生を変えるためには、心の中の石ころやいばらを取り除いて、良い地にする必要があります。良い地になるばら、成長して多くの実を結ぶことができるでしょう。 

 

 1.救いの架け橋

 

 「救いの架け橋」は個人伝道や洗礼準備会のときに用いられます。前半はこのことをみなさんに説明したいと思います。いきなり、「人間の罪」から始めると、心を閉ざしてしまうかもしれません。だから、最近は「神の愛」から始めることにしています。第一は「神の愛」です。まことの神は、唯一であり、天と地を創造された神さまです。また、私たち人間をご自身のかたちに似せて造られました。だから、神さまは私たちを愛しておられます。聖書には「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたをしている」と書いてあります。

 第二は「人間の罪」です。しかし、人間は神さまから離れて堕落しました。聖書はこれを罪と呼んでいます。人間と神さまとの間には罪という深い淵があって渡っていくことができません。ローマ6:23「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」。報酬というのは、給料みたいに働いて得るものです。罪を犯して生きた人の報酬は死です。しかし、この死にもいくつか段階があります。肉体の死があります。その次に、神さまの前でさばかれます。最後は永遠の滅び(地獄)が待っています。図を見て、左側の生まれつきの人はどのような運命のもとにあるでしょうか?そのままですと、死、さばき、滅びがあります。しかし、右側の神さまのところには、永遠のいのちがあります。永遠のいのちは賜物、プレゼントというふうに書かれています。

 第三は「人間の空しい努力」です。人間は救いを得ようと様ざまな努力をしています。道徳、宗教、哲学によって神さまのところに達しようと橋をかけています。しかし、神さまのところに達することができません。なぜでしょう?ローマ3:23,24「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」。神さまは義なるお方であり、100%正しいお方です。聖書には、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」と書いてあります。「栄誉を受けることができず」は、栄誉を受けるに達しない、短いという意味です。私たちがテストで毎回100点を取れないように、完全無欠な人はいません。だから、人間の行ないでは、罪の淵を越えて、神さまのところには行けないのです。

 第四は「神の子イエス・キリスト」です。神さまは義なるお方ですが、同時に愛なるお方です。人類をさばかないで救うために御子イエスを地上に送られました。イエス・キリストは十字架で全人類の罪を負い、神からさばかれ、死なれました。Ⅰペテロ3:18「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。」と書いてあります。つまり、私たちの罪の負債を全部支払ってくださったのです。神さまはキリストの贖いによって、ご自分の義が満たされました。そして、キリストを死人のうちからよみがえらせ、救い主として立ててくださいました。イエス様はヨハネ14:6「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言われました。ということは、十字架と復活によって、罪の淵に橋が架けられたということです。

 

 第五「信じる」です。信じるには2つの意味があります。第一は、神からのプレゼントを受け取ることです。エペソ2:8「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」。恵みというのは、「私たちの正しさや行ないによらない。むしろ受けるに値しないものが受けるもの」という意味です。賜物は、報酬とは違い、一方的に与えられるものです。つまり、救いは行ないによってではなく、信じることによって与えられる神の賜物なのです。「信じる」の第二の意味は、イエス・キリストを救い主、また人生の主として心に受け入れることです。ヨハネ1:12「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」。

 

最後にこの図を見ていただきたいと思います。左側に生まれつきの人がいます。そのままですと死、裁き、滅びがあります。一方、右側には神さまがいらっしゃいます。神さまのもとには永遠のいのちと天国があります。イエス・キリストが十字架と復活によって橋をかけてくださいました。あなたはどちらにいたいでしょうか?このみことばは、あなたが信じるなら神さまのところに行けると教えています。ヨハネ5:14「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」あなたは、これまで福音を聞きました。「聞いて」半分のところまで行けます。でも、渡り切っていません。その次に、「信じて」神さまのところに行くことができます。どうでしょう?あなたはイエス様を遣わされた神さまを信じますか?アーメン。では、一緒にお祈りしましょう。「父なる神様、あなたがイエス様を遣わしてくださりありがとうございます。イエス様、十字架で私の罪を負ってくださり、感謝します。イエス様、あなたを救い主、人生の主として心に受け入れます。アーメン」。信じた人には3つのことが同時に起こります。第一は「永遠の命を持ち」と書いてあります。これは英語の聖書では現在形であり、今、永遠の命を持っているということです。第二は「さばきにあうことがなく」とあります。これはshall notという未来形であり、将来、神さまのさばきを受けないということです。第三は「死から命に移っている」と書いてあります。これは現在完了形であり、死から命に移されて、現在は命の中にいるという意味です。コロサイ1:13「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」アーメン、あなたは暗やみから移され、神のご支配のもとにいるのです。

 私が亀有教会に赴任してまもなくのことですが、一人の兄弟が私にこのようなことを言いました。「世の中にはクリスチャンより正しい人がいっぱいいる。クリスチャンなのに、だらしがなくていい加減な人がたくさんいる。正しい人が救われないなんておかしい」と言いました。彼は非常にまじめで、多くの人たちからも尊敬されていました。お家を何度か訪問させていただきましたが、奥さんが金毘羅さんのお札をかざっていました。四国にわざわざ出かけたとのことでした。彼はクリスチャンにつまずいていたわけです。世の中にはクリスチャンよりも立派で正しい人がたくさんいることは事実だと思います。救いを受けるとき2つのことがとても重要です。1つは神の義と人間の義です。確かに非のうちどころのない仏様のような人がいるでしょう?でも、それは人の義であって、神の義には到達できません。太陽と月のように質が全く違います。人間の正しさや行ないでは救いは得られないということを知らなければなりません。もう1つは、恵みです。恵みとは働いて得るような報酬でありません。良い行ないで得るなら、それは報酬であって恵みではありません。恵みとは全く受けるに値しない人が、一方的に受けるものです。罪を犯して、失われている人間は神さまの恵みによってしか救われません。良い行ないやがんばりは、恵みを台無しにしてしまいます。神さまは私たちの良い行ないを必要とされません。だれも、神さまの前で誇ることがないためです。皮肉なことに、世の中で正しいと思われている人よりも、とんでもない罪を犯した人の方が、恵みによる救いがわかるのです。

 1月2日、菅原さんご夫妻が「教会で葬儀をお願いしたいのですが」と訪ねて来られました。ご主人が末期がんで余命がないと聞きましたが、「まだ存命中なのに?」と驚きました。先週19日、緩和ケア―病棟に入院され、その日の夜、訪問しました。前のときも、「どこへ行ったか分からない人の葬儀はやりにくいです。イエス様を信じてください」と伝えておりました。菅原さんにこの絵を見せながら福音を説明しました。救いは第一にプレゼントです、第二はイエス様を受け入れることです。菅原さんは信じますと答え、一緒にお祈りしました。その二日後、菅原さんは召されました。私は癌が治ってあと30年長生きするようにお祈りしましたが、その祈りはきかれませんでした。しかし、菅原さんは永遠の命が与えられました。救いを受け取って、神さまがいらしゃるところに行くことができたのです。ハレルヤ!

 

 2.救いの保証(その1)

 

私たちが、より良く成長するためには、救いの確信を持っていなければなりません。聖書は救いの保証については何と教えているのでしょうか。テキストに「救いの保証について聖書の概念とは?」と書いてあります。第一は、救いは一瞬であるということです。「救いは人間の働きによるものではなく、恵み(贈り物)です。だから、あなたは、ただ受け取るだけで良いのです。また、救いは時間をかけて移動するプロセスではありません。私たちは、信じたときに一瞬にして、死から命に移ったのです。救いはプレゼントです。これはあなたへの「プ、レ、ゼ、ン、ト、で、す、よ、-」と5年ぐらいかけていただいたら嫌ですね。あるいは、「聖書を全部読んだらあげますよ」「教会に定期的に来たらあげますよ」「教会の規則を守ったらあげますよ」というのでもありません。ところが、パウロが伝道していたときそうは思わない人たちがいました。彼らは「モーセの律法を守らなければならない」とか「割礼を受けなければ救われない」と言いました。パウロはガラテヤ人の手紙の中で、ものすごく怒っています。「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。」(ガラテヤ2:21-3:1)。救いは私たちの行ないで勝ち取るのではなく、恵みとしていただくものです。たとえば、正月、お年玉を子どもにあげるとします。たとえば、子どもに5000円あげました。「パパ、ありがとう」と子どもは受け取りました。しかし、3日後、「宿題もしないし、親の言うことを聞かない」ということで子どもからお年玉を取り上げる人がいるでしょうか?いません。救いも賜物、プレゼントなのであります。行ないで得たものではありません。だから、その後の、行ないが悪くても失わないのです。恵みによって与えられる救いに足したり、何かを加えたりすることは不要です。これは教会が陥りやすい害毒です。救いは神さまからの一方的なプレゼントであり、一瞬にして与えられるものです。

第二は、神の子としての身分は永遠であるということです。「キリストを信じて生まれ変わった私たちの身分は神の子どもです。たとえ、罪を犯しても、神の子としての身分は永遠であり、失うことはありません。」テキストにはイラストが描いてあります。神さまと私たちを結ぶ線は実線になっています。点線や破線ではありません、太い実線です。これは、神の子の身分はどんなことがあっても失うことがないということを示しています。地上では、悪いことをすると親から「もう親でも、子でもない」と勘当されることがあるかもしれません。しかし、天のお父様は放蕩息子の父親のように無条件の愛で愛しておられます。

しかし、私たちが罪を犯すことによって失うものがあります。それは、神との交わりです。右側の神さまと私たちの線が遮断されています。どうしたら良いのでしょうか。私たちは悔い改めて罪を告白するとき、神との交わりが再び回復されます。「悔い改める」とは、「ああ、悪かったなーと思いを変える」ことです。そして、犯した罪を神さまの前で、そのまま告白するのです。Ⅰヨハネ1:9「私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」ある人たちは、このみことばを「イエス様を信じるときの聖句」として用いています。「このみことばでイエス様を信じました」という人がたまにいます。悪くはありませんが、「信じるためには個々の罪を悔い改めなければならない」と誤解されてしまいます。でも、この第一ヨハネの手紙はクリスチャンに宛てられた手紙です。「神さまとの交わりがあると言っていながら、闇の中を歩んでいるなら、罪を悔い改めなさいよ」と言っています。つまり、神さまとの交わりがあった人、つまりクリスチャンのことです。でも、罪を犯して交わりが遮断されてしまいました。この手紙は、「罪を告白したなら、その罪がきよめられ神さまとの交わりが回復する」と約束しています。ある人は「そんなに簡単に罪が赦されたなら、味を占めて、何度も罪を犯してしまうんじゃないですか?」と言うかもしれません。しかし、それは「罪の赦し」を知らない人です。

クリスチャンは既に生まれ変わっているので、好んで罪を犯しません。Ⅰヨハネ3:8-9「罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」アーメン。もし、人が悪魔の支配下にあるなら、罪を犯しても何とも思わないでしょう。しかし、神から生まれた者は、罪を犯しません。このみことばは「罪を犯し続けない」という継続的な意味があります。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。「神の種」とは何でしょう?今風でいうならDNAでしょうか?J.B.フィリップは「神の性質」と訳しています。リビングバイブルはとても分かりやすいです。「新しく生まれた人には、神さまのいのちが宿っているので、もはや罪を犯す習慣がありません」。アーメン。ある姉妹が、「私は何遍も罪を犯してしまいます。私は救われていないのではないでしょうか?」と牧師先生のところに来たそうです。牧師先生がその人に聞きました。「あなたはイエス様が必要ですか?それとも必要じゃありませんか?」その姉妹は泣きながら、「私にはイエス様が必要です。イエス様なしでは生きて行けません」。牧師先生は「それじゃ、あなたは救われていますよ」と答えたそうです。神の子には神の種が宿っているので、罪の中を歩み続けることはできないのです。

3.救いの保証(その2)

 

テキストには「神があなたの救いを保証してくださる」と書いてあります。そこにいくつか、みことばが記されています。最初はヨハネによる福音書からです。ヨハネ10:28-29「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」「だれも」と書いてありますが、ヨハネ10章には盗人である悪魔のことが記されています。悪魔は「盗み、殺し、滅ぼす」ことを専門にしています。あるいは、神に敵対する反キリストかもしれません。でも、イエス様は「だれも私の手から」「父の御手から彼らを奪い去ることはありません」と言われました。このコインが私のいのちだと過程します。もし、このコインを私がぎゅっと左手で握ったならどうでしょうか?だれかが私からコインを奪い取ろうするかもしれません。私は右手で必死に反撃するでしょう。もし、私ではなく、神さまの御手の中に私たちのいのちが握られているならどうでしょうか?悪魔が神さまを倒すことができるでしょうか?また、ヨハネ10章にあるように、イエス様は逃げたりせず、命をかけて私たちを守ってくださいます。それに、イエス様も父なる神さまも、悪魔よりはるかに強いお方です。ハレルヤ!使徒パウロはローマ8章で「死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」と断言しています。アーメン。

もう一か所、聖書を引用したいと思います。エペソ1:13-14「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」テキストには「聖霊はあなたが信じたときに、証印を押してくださいました。証印とは贖いの日までの保証を意味します」と書いてあります。昔、王様が大事な手紙を書くとき、閉じた合わせ目に蝋を垂らし、そこに指輪で証印を押しました。その手紙が宛名の人の手元に届くまでだれも開封することができません。もし、途中で封を開けたらその人は死刑に処せられます。なぜなら、王様の証印が押されているからです。私たちも神さまのもとへ行くまで、聖霊によって封印されています。だから、どんな被造物も私たちから救いを奪い取ることができないのです。私たちクリスチャンは神さまのもの、神さまの子どもなのです。ハレルヤ!私は疲れて休むとき、意識がもうろうとして眠りに落ちるときがあります。一心不乱と申しましょうか?「死ぬときはこうなのかな?」と思います。でも、大丈夫です。私のいのちは神さまの御手の中にあります。年取ってぼけて自分がだれか分からなくなったとしても、死の淵であえいで、だれにも自分の気持ちを伝えられなくても大丈夫です。イエス様を信じている人は滅びることがありません。イエス様が私を離さず、死の向こうまで一緒に行ってくれるからです。御子を送ってくださった父なる神の愛、十字架で罪を贖われたイエス様の恵み、私たちにいのちを与えてくださった聖霊の交わりに感謝します。