2015.2.1「霊的成長 コロサイ2:6-12」

 イエス様を信じるなら恵みによって救われます。言いかえるなら、永遠の命を持ち、神の子になることができます。しかし、霊的に生まれたならば、成長の過程を歩まなければなりません。赤ちゃんの誕生はこの上もない喜びです。しかし、喜んでばかりいられません。赤ちゃんが健康に成長するためには、食べ物や様ざまなケアーが必要です。クリスチャンも同じで、神さまにしっかりつながり、教会という共同体の中で養育される必要があります。きょうは、『チェンジングライフ』のテキストを参考にしながら3つのポイントで学びたいと思います。これらの3つは順番ではなく、同時進行と考えるべきです。

 

1.キリストに根ざす

 

 コロサイ2:6-7「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」私たちは「イエス様は私の救い主です」と信じ、受け入れました。おそらく、救い主であると同時に「人生の主として受け入れます」と祈ったと思います。でも、「主」とはどういう意味なのでしょうか?簡単に言うと、「主」は神さまとか、主人、支配者という意味です。英語ではLordとかmasterと呼びます。イエス様を信じる前は、自分の人生の支配者は自分自身だったのではないでしょうか?しかし、イエス様を信じたら、その支配権をイエス様に渡さなければなりません。なぜなら、イエス様はあなたのためにいのちを捨てるほど愛しておられるからです。また、イエス様は全能の神であり、悪魔よりも力あるお方です。もし、あなたが人生のかしらになるなら、昔のように悪魔の策略にはまり、みじめな生活を送ることになります。客船やタンカーなどの大型船が港に着岸するとき、タグボートの助けを借りなければなりません。大型船の船長はあなたです。それほど自我は大きな存在です。小さなタグボートの船長はイエス様です。タグボートの船長はtake over(引き継ぎますか)?と聞きます。大型船は「いやです。私がやります」と断るならどうでしょう?自分ではうまく接岸できないでしょう。イエス様は紳士ですから、私たちに「あなたの人生の支配権を私にゆだねますか?」と聞きます。「はい、主よ」と言えば、イエス様は「わかりました。あなたの人生を守り、導きましょう」と答えて下さいます。

 パウロは「主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい」と命じています。まるで、イエス様に手を引いてもらっていくというイメージがあります。テキストには「あなたが罪から解放されるための唯一の方法は、あなた自身をキリストのしもべとし、キリストを人生の真の支配者になっていただくことです」と書いてあります。私は自分の信仰生活を振り返りますと、イエス様が人生の主となってもらう祈りをしたのは、洗礼を受けて半年後でした。それまでの友人とも関係が途絶え、会社も不正をしながら給料をもらいたくないと思うようになりました。このような賛美を聞いていた時です。「私は道で、まことでいのちと主は私に語りかけたー。主の道を歩く、愛と奇跡をこの身に受けながらー」。私はその場にひざまずき、「私はイエス様の弟子になりたいです。小さくても良いですから、あなたの弟子にしてください」とお祈りしました。その後、自我を取り返して失敗したこともありましたが、そのたびに主イエス様に従う決意をしました。ですから、イエス様は救い主だけではなく、「私の人生の主です」と改めて、告白する必要があります。そうしますと、悩みや問題に支配されることがなくなってきます。

パウロは霊的成長を植物や建物のようにたとえています。まず、「キリストの中に根ざし」とはどういう意味でしょう?植物でたとえるなら、キリストの中から水分や養分をいただくということです。具体的にはどうしたら良いのでしょうか?コロサイ3:16「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め」とあります。つまり、聖書のことばを読んで、それを自分の中に取り入れるということです。聖書のみことばには、乳のように柔らかいものもあれば、肉のように堅いものもあります。クリスチャンになりたての頃は、堅い「義の教え」は無理です。愛とか恵みにあふれたものは消化できます。Ⅰヨハネ2章には、霊的な子どもたちに「罪が赦されていることと、御父について知りなさい」と書かれています。信じる前は罪に対して全く無感覚でした。ところが霊的に誕生すると、自分がいかに罪深いか分かってきます。その時に、父なる神の無条件の愛と赦しを体験的に知ることが必要なのです。

もう1つ、パウロは「また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし」と教えています。これは建物の基礎や柱や壁にたとえられています。もし、30歳でクリスチャンになったならば、物の考え方ができています。自分の好みやこの世の価値観でがっちり固められているでしょう。そこに、聖書的な考えや価値観が入って来たならどうなるでしょう?ある場合は従来のものを壊して、そこに新しいものを建てなければなりません。私の家内はテレビの「ビフォー・アフター」が大好きです。私は「全部壊して、新しいものを建てた方が安上がりだろう」と言います。でも、私たちの考えを全部壊して、新しくするのは不可能です。やっぱりリフォームになるのかもしれません。でも、大変な工事であることは間違いありません。「こんな不便な生活をよくしていましたね」と驚きのケースがよくあります。でも、すぐれた匠のわざによって、新築のような住まいになります。私たちもみことばよって考えや価値観を変える必要があります。また、神さまから、癒しと解放とリニューアルをいただく必要があります。ある場合は、人の手を借りなければなりません。自分の過去の傷をさらけ出すのは嫌かもしれません。床板をはがしたら、とんでもないものが出て来たということがあるでしょう。魂の匠であるイエス様に直してもらいましょう。日の当たらない、不便な生活を脱して、新築のような家にしていただきましょう。

2.交わりの中で成長する

 

コロサイ1:27「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」あなたがたとは、英語の詳訳聖書にはwithin and among youとなっています。イエス様は個人の中だけではなく、あなたがたの間にもいらっしゃるということです。つまり、信仰生活は神さまとの関係だけではなく、横の関係も必要だということです。特に生まれたてのクリスチャンは、交わりの中で成長する必要があります。赤ちゃんが一人で大きくなれないのと同じです。チェンジングライフの最初に「著者の言葉」があります。インドネシアのエディ・レオ師が書いたことばです。「あなたはイエス・キリストを個人的な救い主として、人生の主として受け入れたときに、霊的に新しく生まれました。生まれたばかりの赤ん坊が、両親から集中的な養育が必要なように、あなたもクリスチャンとしてしっかりとした土台を持つための養育を受けなければなりません」と書いてあります。さらに、「スポンサーから助けをいただきなさい」と書いてあります。スポンサーは広告のスポンサーという感じがします。しかし、キリスト教会においては「代父」「代母」という意味があるようです。最近は、コーチとかメンターという呼び名が一般的です。当教会でも、試みてきましたが全体的には行き渡っていません。でも、だれかが世話しないと、洗礼を受けた後、来なくなることが良くあります。特にクリスチャンになりたての頃は、小さな問題でも躓いてしまいます。赤ちゃんも歩き始めの頃、よく転びます。やがて簡単にはころばなくなります。それと同じで、信仰的に先輩のクリスチャンが傍らにいて、支えてあげる必要があります。

 私がクリスチャンになれたのは、増田さんという職場の先輩のおかげでした。彼がいろんなたとえ話を用いて福音を伝えてくれました。半年後、「英語をただで勉強できる」と言われて、アメリカ人が集まる東林間バプテスト教会のバイブルクラスに出席しました。年が明けて1979年2月、座間キリスト教会に誘われて、初めて礼拝というものに出席しました。年取った人のあと、若い人が出て来て早口でしゃべりました。人生論を語っているみたいで、引き込まれました。あることで、すぐ行かなくなりましたが、先輩が礼拝のテープを聞かせてくれました。2か月後再び行きました。祈祷会に出て証というものを聞きました。「恵まれました」「与えられました」「導かれました」と言うので、「ああ、自分の考えのない人たちなんだなー」と思いました。いつも、先輩にくっついて教会に行きました。6月10日、洗礼を受けた日に躓きました。お祝いの袋に、本と一緒に月定献金袋と会堂建築献金袋が入っていました。「ああ、教会もどこかの団体と同じで会費を取るんだなー」と思いました。翌日、会社で先輩が献金の意味を教えてくれました。しかし、受洗後に大きな試練がやってきました。その時も、先輩が助けてくれました。他の兄弟姉妹と交わり、なんとか独り立ちできるようになったのはしばらくたってからでした。副牧師がナビゲーターのテキストを使って信仰に関して教えてくれました。すぐ、CSの奉仕をやらされました。他に早天祈祷会、水曜祈祷会、聖歌隊、英語礼拝あらゆるものに出ました。気が付いたら、私も「恵まれました」「与えられました」「導かれました」と言っていました。

 がちょうやカモは、「刷り込み」という習性があります。刷り込みとは「動物の生活歴史のある時期に、特定の物事がごく短時間で覚え込まれ、それが長時間持続する学習現象の一種」だということです。クリスチャンも最初、自分を導いてくれた人や牧師、あるいは教会の影響を受けるのではないでしょうか?大体、自分が救われた時と同じことを他の人にもする傾向があります。私はカウンセリング的な個人伝道で救われたので、そういうことが好きです。岡野先生が牧会している松戸教会では「生活伝道」がさかんです。困っている人の世話をして、親しくなったら聖書を一緒に勉強します。その人が教会に来なくなっても、友達関係はずっと続いています。そうやって導かれた人は、次の人に「生活伝道」をします。昔は大きな会場で特別伝道集会というものをやりました。講師は「今晩、イエス様を信じる人は前に出てください」と招きます。洗礼を受ける人もいますが、教会生活が続きません。なぜでしょう?教会に友達がいないので、クリスチャンになる前の友達のところに帰っていきます。人から色々言われて、「あの時はキリスト教にかぶれていたんだ」と自分でも思うようになるでしょう。やはり、神さまとの関係だけではなく、教会の兄弟姉妹との関係もなければ霊的な成長は望めません。「交わり」とか「関係」は、仕事人間から見ると、生産的に見えません。しかし、赤ちゃんが家族の中で成長するように、霊的な赤ちゃんには、神の家族が必要なのです。確かに、人間関係において傷つくことがありますが、癒しや「建て上げ」もあります。教会では「互いに愛し合う」ということが最も大きな戒めの1つです。愛は相手が必要であり、単独では愛することができません。ですから、霊的に生まれたばかりの人は、神さまとの交わりだけではなく、人との交わりが必要なのです。ですから、本人も積極的に交わりを求め、信仰の先輩たちも交わりに加えるように努力したいものです。

3.バプテスマを受ける

テキストにはこのように書かれています。「水による洗礼(バプテスマ)とは、一つの選択(受けても受けなくても良いもの)ではなく、神を信じる一人ひとりが行うべき神からの命令です。」バプテスマ(洗礼)は教会の歴史の中で、物議をかもしたテーマの1つです。16世紀宗教改革がありましたが、幼児洗礼をしている教会が数多くありました。そういう人たちが大人になって、信仰のない教会員もいました。「それは問題だ」ということで、幼児洗礼を無効にし、浸礼によって再び洗礼を授けるグループが現われました。彼らはカトリック教会からもプロテスタント教会からも迫害を受けました。悲しい歴史はありましたが、現代では「信じた人がバプテスマを受けるべきだ」というところに落ち着きました。また、幼児洗礼を受けた人は、「堅信礼」という信仰告白をするようにしています。形式的には、水をかける滴礼のところもあれば、水の中にどっぷりつかる浸礼もあります。おそらく、どっぷりつかる方が聖書的なのかもしれませんが、設備の点で、頭に水をつけて「頭まで浸かった」と滴礼を施している教会もあります。

 

 では、バプテスマの本当の意味は何なのでしょうか?コロサイ2:12「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」同じことが、ローマ6章にも記されています。旧約聖書には「洗う」という意味もありましたが、洗礼は水で罪を洗い流すという意味ではありません。新約聖書的にバプテスマとはどういう意味でしょう?バプテスマはギリシャ語で、「どっぷり浸る」という意味です。同時に「キリストの死へ神秘的に結合される」という意味があります。パウロは「バプテスマによってキリストとともに葬られ」と言っています。これは私たちの古い人がキリストとともに死んで葬られたということです。言い換えると、アダムから伝わってきた罪と死の力が断ち切られたということです。その後、イエス様は神さまによってよみがえらされました。その時、私たちもキリストとともによみがえらされたのです。なぜなら、信仰によってキリストの中に入っていたからです。キリストともによみがえらされたので、以前の私たちとは違います。今度は、キリストのいのちと恵みが支配するようになったのです。つまり、バプテスマとはキリストと一緒に死んで、キリストと一緒によみがえるということを体験するためにあるのです。これを単なる宗教的儀式ととらえてはいけません。信仰によって、「洗礼を受ける前の古い自分は過ぎ去り、洗礼後は新しい自分になったんだ」ということを受け取るということです。私たちには昔の記憶がありますので、理屈通りにいかないかもしれません。しかし、そこに神の手によって、これまでの流れが断ち切られたことを信じるのです。ともによみがえることによって、エネルギーの転換もなされました。以前の罪と死ではなく、キリストのいのちと恵みが自分を支配しているということです。

 また、バプテスマを受けるということは伝道の終わり、救いの完了と言うこともできます。もちろん、私たちは完全に救われていません。肉という罪の性質がきよめられなければなりません。また、この肉体が死んだならば、やがて復活して栄光のからだに変えられる必要があります。そこで初めて救いが完了したと言えるのです。でも、罪の赦し、新しく生まれ変わった、神の子どもになったという意味では、救いの完了ということができます。なぜバプテスマという救いの完了が必要なのでしょうか?それは、公に宣言することによって、この世と悪魔が「ああ、この人は神さまに属しているんだな」と知ることができます。世の中には「隠れキリシタン」がおります。イエス様を信じてはいるのですが、公に自分はクリスチャンだと宣言していない人です。もちろん、バプテスマも受けていませんし、教会にもつながっていません。そういう人は救われていないのでしょうか?私はイエス様を信じているなら救われていると思います。しかし、この世から、また環境からも救われていません。マルコ16:16「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」とあります。これはどういう意味かと言うと、信じるならばバプテスマを受けるのが当然だということです。信じるとバプテスマがワンセットだということです。中には「神さまの命令に逆らって、信じるけどバプテスマは受けない」という人がいるでしょう。その人はどうなるかというと永遠のいのちはあっても、この世から、また環境から救われていないと考えられます。どういう意味でしょう?つまり、あなたは公に宣言していないので、この世と悪魔があなたに付け込んでくるということです。例えて言うなら、婚姻届を区役所に出してはいるけど、結婚式をあげてみんなに公表していないということです。もし、結婚指輪もしていないならば、誘惑の機会がぐっと増えるでしょう。私たちは信仰の旗印をこの世に向かって明確に上げなければなりません。「私はクリスチャンです」と言うなら、会社でも一目置かれ、変なところに誘われることもなくなるでしょう。その時、さびしいと思ってはいけません。この世に対して、線引きをすることが必要です。

 あなたがバプテスマを受けてクリスチャンになったということを聞いて、去っていく友人も出るでしょう。しかし、気にしないでください。神さまはあなたに、新しい友人を与えてくれます。それまでの友人は本当の友人ではなかったのかもしれません。さびしいので一緒にいただけの関係だったかもしれません。これからは本当の価値観を分かち合える神の国に属する本当の友人を求めましょう。私も洗礼を受けて親友と恋人をいっぺんに無くしました。毎週、礼拝で泣いていました。あいつらを殺してやりたいと思っていました。しかし、先輩は「復讐は主にゆだねなさい」と勧めてくれました。その後、私は献身し、現在の家内と結婚し、子どもたちも与えられました。結婚式や葬儀のとき「いつくしみ深き」を必ずと言って良いほど賛美します。その中に「世の友われらを棄て去るときも」という歌詞があります。その時、辛かったあの時を思い出します。でも、本当に信頼できる友はイエス様なんだということです。私たちにはクリスチャンになる前の記憶はあります。傷もあるし、トラウマもあるかもしれません。でも、バプテスマによって古い流れは断ち切られたのです。今はキリストと共によみがえり新しい流れの中で生きています。新しい流れとは、神さまの豊かないのちと恵みです。昔の記憶はあります。夢も見るかもしれません。私たちの潜在意識はとても鈍感です。霊的には新しく生まれ変わっているのに、心が全部生まれ変わっていません。だから、昔の夢を見たり、過去の出来事がたまにちらつくのです。しかし、惑わされないでください。あちらの方が幻影であり、聖書の言うことがリアルなのです。キリストに根差し、バプテスマを受け、教会の交わりに連なりましょう。そして、霊的な幼子から、霊的な大人へと成長の過程を歩みましょう。