2015.2.8「心の癒し イザヤ53:2-5」

 今から20年くらい前、「心の傷の癒し」ということが言われ始めました。チャールズ・クラフトというフラー神学校の教授が有名です。それからサンフォードのインナーヒーリングも日本に入って来て、それがエリヤハウスになっています。心の癒しは、キリスト教的なカウンセリングの世界を開きました。しかし、問題も出現したことも確かです。心の傷ばかりに目が行って、前向きな生き方ができなくなるということです。残念ながら、この地上において完全に癒されることはありません。たとい弱さが残っても、イエス様の恵みに満たされつつ歩むのが信仰だと思います。でも、救われたばかりの人には、ある程度の心の癒しも必要なことは確かです。

 

1.父なる神の愛を知る

 

 なぜ、父なる神の愛を知らなければならないのでしょう?Ⅰヨハネ2:14 「小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。」とあります。信仰を持ったばかりの人は、父なる神さまを知る必要があるということです。私たちはお祈りするとき、「天のお父様」とお祈りします。父という名前を聞くと、「ああ、もう一人いたなー」と地上の父を思い出します。日曜学校の先生が、子どもたちに「天の神さまは、あなたがたのお父さんのような方なのですよ」と教えました。そうしたら、次の週からある子どもが来なくなったそうです。その子は「そんな神さまだったら、いらない」と言ったそうです。地上の父が、愛があって優しいならば、父なる神さまを信じるのはそう難しくはないでしょう。ところが地上の父自身に、心の傷や葛藤があって、父らしく振舞えないのです。そのため、子どもたちが天の神さまに、悪いイメージを持ってしまうのです。

 

 サタンは、家庭を破壊して、人々が神さまのところに来ないようにしています。マラキ4:5-6「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」エリヤハウスはこのところから取られた癒しのミニストリーです。エリヤハウスについては、後で語らせていただきます。このところで言わんとしていることは、世の終わりは父と子との関係が悪くなり、両者に和解をもたらすエリヤの働きが必要だということです。だれが父と子の関係を悪くしているかと言うとサタンであり悪魔です。サタンは創世記3章で夫婦の関係を破壊し、さらに兄弟同士の関係も破壊するように仕向けました。罪の背後にはそれをけしかけているサタンがいます。世の終わりが近づくと、父親の権威がなくなり、良い模範も示すことができなくなります。多くの若者たちは本当の父を探し求めています。「私を本当に指導してくれる親みたいな人はいないか?」と探しています。残念ながら学校の先生にそういう人はほとんどいません。いるかもしれませんが、私は巡り逢いませんでした。カルト宗教に誘い込まれ、洗脳され、反社会的な生き方をする人もたくさん起こりました。世の終わりは、ルカ15章のように、放蕩している若者が大勢いる時代ではないでしょうか。

 

 テキストに「壊された父のイメージの例」としていくつかあげられています。第一は、厳格で独裁的な父です。第二は業績をあおり、ほめてくれない父です。第三はコミュニケーションを持たない無口な父です。第四は優柔不断でいい加減な父です。もし、地上の父親が厳格で独裁的であったなら、神さまも閻魔大王のように怖い目で睨んで、雷を落とすようなイメージを持つでしょう。インドネシアのある牧師はとても厳格で厳しい牧師でした。彼が家に帰ると、子どもたちは車の音を聞くだけで自分たちの部屋に入りました。その人がエディ・レオ師の集会に出たとき、自分の小さいときを思い出しました。彼はとてもやんちゃで、あるとき父親の豚を売って、その金で友達と遊びました。父親は烈火のごとく怒り、息子を木に縛り付け、木の棒で叩きました。息子は「お父さんやめて」と大声で泣きました。お父さんは「泣くな!」と言ってさらに叩き続けました。泣き止まないので、彼の片方の耳をナイフで切って「これを食え」と言いました。そんな父親を決して赦すことができませんでした。不思議なことに自分が大きくなったら、父親と同じようになっていたのです。彼は神さまの愛に触れて、自分の父を赦しました。不思議なことに3日後、父親がジャングルから息子が出ている集会にやってきました。そこで、二人が和解したということです。その時から彼は全く変わったそうです。

 

 もし、業績をあおり、ちっともほめてくれない父親だったらどうでしょう?神さまが天から「もっとできるはずじゃないか。なまけているんだろう」と言っているよう思えます。私も少し前まではそうでした。「使徒パウロはあんなに伝道したのに、お前は何だ。歯がゆいぞ!」と背中から水をかけられているような感じがしました。私は恵みを知るまでは、業績志向の塊でした。また、コミュニケーションを持たない無口な父だったらどうでしょうか?「お父さん、きょうテストで100点取ったよ」「うん」と言っただけで新聞を読んでいます。「お父さん、きょう運動会で1位だったよ」「うん」。もし、そのようなお父さんでしたら、お祈りするのが大変でしょう。2,3分祈っただけで、もう祈りが途絶えてしまいます。神さまは何も答えてくれない無口な方だと思っているからです。また、自分の父が優柔不断で、いい加減な父だったらどうでしょうか?お酒を飲み、ギャンブルにお金をつぎ込み、家庭をちゃんと治めることができない。子どもたちからもお金をせびるような父でした。その子どもがクリスチャンになったらどうでしょう?「ああ、神さまに頼っても仕方がないな。自分でやるしかない」と独立的な生き方をするでしょう。独立することは悪くはありません。その人は父を軽蔑したために、世の中の権威ある人さえも尊敬しなくなるでしょう。

 

 私の父は国鉄で働いていた時はとても子煩悩だったようです。集団解雇になってから、おかしくなり、毎晩酒を飲んでは暴れるようになりました。板金工をしていましたが、雨が降ると仕事がないのでよく魚釣りをしました。収入が少ないので、兄や姉のかせぐお金がたよりでした。父はお酒が入ると顔つきが変わり、母をよく殴りました。私たち子どももよく怒られ、火箸を振り回して追いかけられました。子どもたち同志もよく喧嘩し、父はそれを治めることができませんでした。父はプライドが高く、他の人たちのことを批判していました。私には「人を利用しても良いから偉くなれ」と言いました。私は家内から文句が多くて批判的だと言われるのは父の影響を受けているからかもしれません。家庭を経済的にも道徳的にも正しく治められない父でした。そういう家庭で育った私はいつも不安と恐れがあり、身を落ち着ける場所がありませんでした。学校は大嫌いでしたが、家よりはましだったので、不登校にはなりませんでした。25歳でクリスチャンになりましたが、「父なる神さまの愛」については、ぼんやりしていました。2000年インドネシアから来られたエディ・レオ師の集会に行きました。愛知県の蒲郡、そしてジャカルタにも行きました。亀有から8人くらい連れて、札幌にも行ったことがあります。ある時、エディ・レオ師が集会の最後にビデオを見せてくれました。このような内容です。

 

 ハワイにスポーツ・トレーナーのお父さんがいました。彼には息子がいましたが、生まれたときから、歩くこともしゃべることもできず横になっているだけでした。この子が大人になったある日、手話で「お父さん、ボクには夢があるんです。ボクはトライアスロンのレースに参加したいんです」と伝えました。お父さんは涙を流しました。そして、彼は祈りました。「神様、どうぞ、道を開いてください。私の息子がレースに参加できるように道を開いてください」。そして彼は何年もかけて準備をしました。ある日、ハワイでトライアスロンのレースがありました。そのトライアスロンは水泳3㎞、自転車130㎞、長距離走30㎞と3つの種目を合わせたとても過酷な競技です。委員会の人たちは「どうやってハンディを負っている人が、このレースに参加できるんだ」と反対しました。お父さんは説明しました。「私の息子は泳ぐことができません。でも、私は長い間かけて、彼のために小さなボートを用意しました。私がそのボートを引っ張りながら泳ぎます。私の息子は自転車に乗れません。この自転車の前に椅子を取り付けて、彼をそこに乗せます。私の息子は走れません。でも、私は彼を車椅子に乗せて、私が彼を押します」。委員会の人たちはそれを聞いて涙を流して許可を与えました。レースが始まり、水泳と、自転車と、マラソンをしました。日没前にみんなゴールをしました。人々は、このお父さんと息子さんがゴールするまでずっと待ち続けました。8時間たってお父さんが車椅子を押して来ました。最後のゴールでは、ほとんど死にかけていました。エディ・レオ師は、「これが父の愛です。これが父の心です。父の愛を体験していただきたい。」と言いました。私たちはこの息子さんのようにハンディを負った人のようです。自分のレースを走りぬくことができません。しかし、私たちの天の父が、私たちを最後まで運んでくださるのです。お祈りいたします。「天のお父様、あなたの愛を感謝します。あなたの無条件の愛を感謝します。私たちはあなたの愛を受けるに価しません。でもあなたは本当に私たちを愛してくださっています。お父さん、あなたの愛を感謝します。あなたの愛を感謝します。私たちに触れてください。私たちの人生を変えてください。」

 

2.イエスは私の癒し主

 

テキストにはこのように記されています。「主イエスは、あなたの心の傷を癒したいと願っておられます。これまでの生涯の中で起こった病や傷は癒されなければなりません。では、どのようにして、主からの癒しを得ることができるでしょうか。」キリスト教会では、人々に「罪を悔い改めなさい」と言います。しかし、被害者の面がほとんど扱われません。イザヤ書53章のみことばを読むと、とても驚かされます。なぜなら、加害者の罪だけではなく、被害者としての傷や恥、悲しみを扱っているからです。イザヤ53:2-5「彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」これは、イエス様の十字架を預言したみことばです。イエス様は私たちの恥、悲しみ、病、痛みを担ったと記されています。もちろん、私たちの罪を負ったゆえに罰せられました。それだけではなく、恥、悲しみ、痛みという被害者の面も負ってくださいました。

 

 神さまは、私たちの加害者の面だけではなく、被害者の面も扱ってくださいます。これに対して、長い間、キリスト教会は盲目だったような気がします。それは、西洋回りの「神、罪、救い」の伝道法のためだったと思います。彼らは「あなたには罪があります。悔い改めなさい」と迫って来ます。もちろん、私たちには罪があり、悔い改めなければなりません。でも、半分は被害者であり、傷を受けて痛んでいます。また、日本は罪の文化ではなく、恥の文化です。神のあわれみによって恥が取り去られると、罪が分かってくるのです。では、なぜクリスチャンになっても愛の人になれないのでしょう?それは、被害者の部分が贖われていないからです。心の深いところで、「この恨みを晴らしたい。失ったものを取り返したい」と思っています。私はテレビの大岡越前とか、必殺仕置き人、東山の金さん、水戸黄門が大好きでした。なぜでしょう?悪人がちゃんとさばかれるからです。家内は単純すぎると笑います。でも、私は家内が好きなサスペンスとかホームドラマを見ることができません。必ずそこには人をいじめて、不当な扱いをする人が出て来るからです。私は心がドキドキして見ることができません。しかし、勧善懲悪ものだったら、最後の5分で片が付くので安心して見られます。

 

 私たちにはどのような心の傷があるのでしょうか?ふだんは社会的な体裁や理性によって覆い隠されています。男性の場合は「感情的になってはいけない」と教えこまれているので、感情を殺しながら生きています。本当は傷が膿んでいる状態です。それを表面から包帯で覆って、傷がないようなふりをしているのです。あるデーターによると、日本人の10人から15人に一人は鬱病を経験すると言われています。もちろん鬱にはいろんな原因があります。でも、その大きな原因は、怒りや悲しみを抑圧しているために起こると考えられています。つまり、感情に蓋をして生きているため、精神的な疾患にかかりやすいということでしょう。テキストには「心の癒しの自己診断」という表があります。自分でチェックできるようになっています。前半は「否定的な考え」です。このような項目があります。「自殺願望、すぐ諦める」「罪悪感、罪責感、自分をすぐ裁く」「劣等感、恥意識、孤独感」「拒絶されることへの恐れ」「苦々しい思い、恨みを抱く」「平安がない、疑いやすい」などがあります。また、後半には「過去におけるトラウマ」です。このような項目があります。「お母さんから堕胎されかけた」「拒絶された」「強姦、いたずら」「恐ろしい経験、災害」「孤立」「過去における失敗」などがあります。すぐ分かる人もいれば、あんまりわからないという人がいます。心の傷とずーっと付き合ってきたので、麻痺しているかもしれません。でも、分かる方法があります。それは「どんなとき過剰な反応を起こすか?」ということです。よく、「あの人の地雷を踏んだ」ということがあります。つまり、言ってはいけないこと、やってはいけないことをしたために、怒りが爆発したということです。あるいは、ひどく落ち込んで、部屋から出てこない場合があります。なぜかと言うと、癒されていない傷のところに触れたからです。私たちも怪我している部分を突かれると飛び跳ねるでしょう。でも、その時、初めて、「ああ、この部分が癒されていないんだなー」と自分の傷に向き合うことができるのです。ですから、自分や人の過剰反応は宝の山であると考えるべきです。

 

 心の傷の癒しには、いろいろな方法があるので「これしかない」と言ってはいけません。時間をかけたカウンセリング的なものもあれば、解放のキャンプのように荒療治的なものもあります。例えて言うと、漢方のようにじわじわ直す方法から、外科手術のように短時間で行うものまであります。しかし、大切なのは、その人との信頼関係がなければなりません。人の心に、いきなり踏み込んで「あなたの心の傷はこれです。これを直さなければなりません」と言う事があります。「そんなことあんたから言われなくても、百も承知だよ」と反発されるでしょう。心理学では「共感」が何よりも大事だということを学びます。でも、中途半端に心理学を学んだ人に話すと、「あきらかに共感しているなー」と分かります。しかし、私たちが理解できなくても、イエス様がその人のところまで降りて分かってくださいます。また、その人の声に耳を傾けながら、聖霊様が何とおっしゃっているのか聞くことも重要です。昔のカウンセリングは「はい、そうですか、そうですか」と95%ぐらい聞く作業でした。なぜなら、その人自身が答えを持っているという前提があったからです。最近の認知行動療法などは、その人と共同作業をしていくというやり方です。

 

私はかつて、蒲郡の解放のキャンプにも何度か参加しました。良いところもありますが、知恵がもっと必要ではないかという点もありました。最初に、心の蓋をあけて、心の叫びをぶちまけるというところがあります。自分の父や母、あるいは先生、友人、牧師に対する怒りをぶちまける。「こうして欲しかったんだ」と叫びます。確かにダビデは詩篇を見ると、心の悩みや怒りをぶちまけています。しかし、それは神さまの前です。解放のキャンプでは、スポンサーという世話人に告白します。もちろん、自分に負えないものはスポンサーに告白して祈ってもらったら良いでしょう。でも、せっかく半分くらい直っていたのに、古傷を開けて、「私は辛かったんだ!」と言わせるのも問題です。そして、キャンプを終えてから、父や母、友人、牧師に「あのことを赦します」と言います。こちらはそうは思っていなかったのに、「え?そうだったの?」と驚くことがあります。ごみを出す日でないのに、ごみを出されたようなものです。先輩のクリスチャンがそういう時にすべき大事なことは何でしょう?その人が神さまの前に出られるように、手助けするということです。心の傷を癒すのは人ではなく、イエス様であり、聖霊様だということです。

 

最後に心の傷の癒しにおいて、最も大事なことが記されています。それは加害者を赦すということです。私たちは過去において親もしくはだれから被害を受けました。自分には傷が残り、加害者に対するうらみがあります。加害者の首には私たちがかけた首輪がつけられています。自分の手首と加害者の間には「うらみ」という鎖がつながっています。こちらには被害を受けた痛みがあります。加害者には「悪いことをしたな」という罪責感があるでしょう。でも、どちらの痛みが大きいのでしょうか?案外、加害者というものは被害を加えた人の痛みなど覚えていないものです。自分だけが、「あの時、あんなことをした。私は決して赦さない」と恨んでいるかもしれません。その恨みと憎しみが自分に毒を飲ませているとしたらどうでしょう?「相手を簡単に赦したら、私が受けた痛みはどうなる?損するじゃないか?フェアーじゃない」と思うかもしれません。しかし、加害者を赦すのはその人のためではなく、実は自分のためなのです。イエス様の助けを借りてその人を赦しましょう。そして、その人の首から、首輪を取り除きましょう。これは感情ではありません。イエス様が「私のゆえに赦してあげない」と言っているから従うだけなのです。では、自分が失ったものはどうなるのでしょうか?加害者ではなく、イエス様がその分を弁償してくださいます。弁償とは失った分と同じではなく、少なくとも2倍です。ハレルヤ!

 

イエス様は私たちが人生で受けるすべての苦しみや痛みを負ってくださいました。十字架につけられる前にローマ兵や宗教的指導者からさんざん嘲弄されました。ひげを抜かれたり、つばきをかけられたり、平手で叩かれました。ローマ兵から鞭で打たれた後、十字架を背負わされ、ゴルゴタの丘まで行きました。聖画では腰布が付けられていますが、本当は素っ裸で十字架につけられました。道行く人たちは「十字架から降りてみろ、そうしたら信じる」と馬鹿にしました。イエス様は人々からだけではなく、父なる神さまからも捨てられました。「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか」と叫ばれました。私たちがもっとも傷つくのは親からの拒絶かもしれません。まさしく、イエス様は拒絶を経験し、地獄に叩き落されました。だから、イエス様は私たちのことを理解できるのです。イエス様は十字架で、私たちの恥も、悲しみも、病も負ってくださいました。だから、私たちの心の傷を癒してくださいます。あなたのすべての悲しみ、すべての悩み、すべての痛みをイエス様にゆだねましょう。