2008.09.07 御霊によって歩め ガラテヤ5:16-18,24-26

ガラテヤ人への手紙もいよいよ佳境に入りました。5章の後半こそが、ガラテヤ人への手紙の山場と言っても過言ではありません。しかし、自分で言うのもなんですが、これまでも、良いところがたくさんありました。この手紙は、信仰を持った初期の段階で必要な教えかと思いましたが、さにあらず、私たちクリスチャンが陥りやすい律法主義からの解放がテーマでありました。そして、本日と来週、語ります5章の後半こそが、その積極的な解決策であります。前の方を忘れても、ここだけ学んだだけでも、良いわけですが、そういう訳にはいきません。「よくぞ、ここまで来たなー」と自分をほめるのではなく、神様の恵みに感謝したいと思います。

1.内なる戦い

 ガラテヤ5:17「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」この箇所と同じことを書いているのが、ローマ人への手紙8章です。ここも読むと、もっとはっきり分かります。ローマ8:5-7「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」クリスチャンになりますと、新たな戦いが内側に起こります。それは、肉対御霊です。クリスチャンになる前は、御霊の働きはなかったので、こういう戦いはありませんでした。あったとしても、自分の良心あるいは理性というものがかろうじて、肉と戦いました。「盗んじゃいけないよー」「飲んじゃいけないよー」「怒っちゃいけないよー」という声はだれでもあります。だけど、非常に弱々しくて、肉にはほとんど勝てません。「うるせぇー、良いんだよ、俺の勝手だ!」。そのうち、良心の声もほとんど聞こえなくなります。エペソ2章にあるように「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、・・・自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行なっていた」のです。つまり、霊的に死んでいたので、肉と心の望むままを行なっていました。

 しかし、イエス様を信じてクリスチャンなりますと、どうでしょうか?その人は霊的に生まれ変わります。その人のうちに神の霊が入り、その人の霊が新たに目覚めます。これをキリスト教では「新生」と言います。あなたの最も深いところに、神の霊が宿ります。ですから、クリスチャンの体が、神の神殿(宮)と呼ばれるのはそのためです。ガラテヤ書に「御霊によって」と度々書いてありますが、これは神の霊なのか、それとも人間の霊なのか分かりません。原文のギリシャ語では「プニューマ(霊)」としか書かれていません。日本語の聖書は尊敬の気持ちをこめた「御」という言葉がついています。でも、原文をみるとただの「霊」ですから、本当は区別がつかないのです。厳密に言うならば、神の霊が宿っている私たちの霊ということでありましょう。とにかく、イエス様を信じて新生しますと、御霊ががぜん強くなり、神の思いをあなたに語るようになります。御霊の思いとは、つまり神からの思いなんです。ヘブル8:10「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」とありますが、これは旧訳聖書の預言の成就です。たとえば、あなたの思いというテレビがあるとします。テレビには絵が見えるブラウン管と音が聞こえるスピーカーがついています。そして、テレビにはアンテナがあります。人間は霊的存在なので、霊的なものが入ってきます。そして、それがあなたの思いというブラウン管に表れてきます。どんな思いが現れてくるでしょうか?まず、自分の肉の思いです。その次は御霊の思いです。そして、ときどき悪魔の思いも入ってきます。また、他の人の思いも入ってくるでしょう。あなたの思いというテレビは、少なくとも4チャンネルあります。1チャンネルは肉の思い、2チャンネルは御霊の思い、3チャンネルは悪魔の思い、4チャンネルは人の思いです。2チャンネルはこの世では、あまり良くないかもしれませんが、あなたは「御霊の思い」にチャンネルをいつも合わせるべきです。

 とにかく、クリスチャンになりますと内側に戦いが起こります。この戦いは、良いものであり、必ず起こるんです。ちょっと精神的に病んでいる人がクリスチャンになったとします。そうしますと、分裂気味になる場合もあります。その人が混乱して、精神科医あるいは心療内科に行ったとします。医者のほとんどは未信者なので、恐らくこう言うでしょう。「しばらく、教会に行くのはやめなさい。聖書を読んだり、祈ったりするのも良くないですねー」なぜでしょう?御霊の思いという、別の思いが入って新たな混乱が起こるからです。でも、恐れる必要はありません。御霊の思いに、いつもチャンネルを合わせていくなら、大丈夫です。しかし、初めの頃は、どれが肉の思いで、どれが御霊で、どれが悪魔なのか検討がつきません。まず、一番、良く分かるのが悪魔の思いです。悪魔からの思いは、破壊的であり、その場限りの欲望を満たすものです。「今、怒りを爆発しなさい」「今、これをして楽しみなさい」「今、これを手にしなさい」しかし、それらは、破壊的であり、刹那的(その場限りのもの)です。神を信じないこの世の人たちは、みんなこれでやられています。では、御霊の思いとはどういうものでしょうか?そこには、平安と喜びがあります。あなたが聖書を読み、神様と交わっていると、あなたの霊が強くなり、御霊の声も大きくなります。でも、あなたが聖書を全く読まないで、ポルノ、推理小説、テレビやビデオ、漫画ばかり見ているどうでしょう。それは肉に栄養を与えているようなものです。肉が横綱みたいに肥え太り、霊はヒョロヒョロです。そこへ誘惑がやって来たら、まったく立ち向かうことができせん。どうぞ、肉に栄養を与えないように。ふだんから霊に栄養を与えましょう。

 Ⅰヨハネ3章には、子どもたち、若い者たち、そして父たちと3種類の人が出てきます。これはクリスチャンの成長の度合いです。子どもたちとは、御父、つまり神様を知った人たちです。若い者たちとはどんな人でしょうか?Ⅰヨハネ2:14に「あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです」とあります。やはり、神のみことばを心に取り入れ、神のみことばに従って生きると成長します。悪い者とは、心の中にやってくる悪魔の誘惑です。でも、悪魔は私たちの肉の思いを用いて、私たちを誘惑します。あなたの中に怒りや憎しみがあるなら、あるときドカンと爆破します。あなたの中に情欲や好色があれば、あるとき不品行を犯すでしょう。あなたの中にむさぼりや悪い考えがあるなら、あるとき不正を犯してしまうでしょう。悪魔にやられないためには、まず、内なる戦いに勝利していなければなりません。つまり、肉の思いを捨てて、いつも御霊の思いが支配している状態が安定したクリスチャンであります。もちろん、肉の思いが勝って、誘惑に負け、罪を犯すこともあるでしょう。でも、神の子は、倒れたままではなく、再び立ち上がるのです。なぜなら、御霊のいのち、キリストのいのちがあるからです。Ⅰヨハネ3:9「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです」(新改訳第三版)。罪を犯さないとは、継続的に同じ罪を犯さないということです。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。神の種とは、神の霊とか神のいのちでありましょう。最初のころは、躓いたり、ひっくり返ったりします。でも、だんだんと強くなります。たとえ、怒っても罪を犯さない。汚れたことを思い続けない。あるもので満足するようになる。若者とは、信仰が安定している人です。倒れることは恥ずかしいことではありません。再び立ち上がれば良いのです。「倒れても立ち上がる」「倒れても立ち上がる」。これが良いのです。するとあなたはだんだん成長し、若者になり、そして霊的父になることができるのです。

2.御霊によって歩む

 後半は、肉に対してどう勝利していくのかをもう少し詳しく学びたいと思います。ガラテヤ5:24、25「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」ローマ8章にも同じようなことが書かれています。ローマ8:13 「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」前のポイントでも学びましたが、肉に対して効力があるのは御霊です。この世は、肉に対して何の力も持っていません。いろんな規則を設け、罰則を厳しくしたとしても、犯罪はなくなりません。前にも学びましたが、律法は肉に対して肥やしをやるようなもので、さらにもっと罪を犯すようになるでしょう。律法ではなく、御霊を歓迎し、御霊に従うようにする。すると、御霊ご自身が肉を押さえ込み、神様に従うことができるようになるということです。オリンピックの柔道の試合をご覧になったでしょうか?押さえ込みという寝技があります。たて四方とか、けさがためとか…。相手は上から押えられると何もできなくなります。あれと同じで、肉は存在しているのですが、御霊に押さえ込まれて何もできない。これが良い状態です。神様を知らない人たちは、意思の力だとか認知行動療法が良いと言います。それらが悪いとは言いませんが、御霊にゆだねるのが一番です。自分の意思ではなく、御霊にやってもらうのが一番です。

 でも、皆さん「肉」とは私たちのどこにあるのでしょうか?パウロはクリスチャンを3つに分けています。内側から言うと、霊、魂、肉体です。肉というのは、肉体と同じではありません。聖書では肉体は悪だとは言っていません。肉とはアダム以来の堕落した性質です。ある人たちはそれを原罪と言います。これは天国に行くまでつきまとう、というのが一般的な考えです。でも、肉がどこにあるのか分かりません。私はおそらく、魂と肉体の境目にあるんじゃないかと思います。だからこの肉は、魂つまり心に対して働きかけますし、また肉体にも働きかけます。ガラテヤ5:19-21には、肉の行ないにはどんなものがあるか、15ぐらい上げられています。おそらくそれらの半分は魂に関することであり、また半分は肉体に関することです。私たちが死ぬときは、この肉体を脱ぎます。そして、霊と魂になります。おそらくそのとき、肉体と魂の境目にあった、いわゆる肉が剥ぎ取り去られ、天国にスパーッと入るんじゃないかと思います。今の話は「おそらく」という「注」がはいっていますので、はっきりとは分かりません。でも、わかるのは、肉、つまり肉の性質がクリスチャンになった後も残っているということです。これを「…してはいけない」と律法で押さえつけようとすると、逆に肉が暴れ出します。心理学者たちは肉は自然のものだと肯定するでしょう。しかし、聖書は御霊によってそれを殺しなさい。そして、御霊によって歩みなさい。そうすれば肉の欲望を満足させることはないと言っています。

 では、御霊によって歩むとはどういうことなのでしょうか?歩むとは「生活する」ということです。また、歩むとは「一歩、一歩継続的に」という意味もあります。この世に生きている限り、肉があるわけですから、「いつも、御霊に聞いて、御霊に従いなさいよ」ということです。ベン・ウォン先生が今年の春、百合丘教会に来られてこのようなお話をされていました。大半のクリスチャンは外側から内側へという方向で生きている。その状況に影響される。私たちは肉的な存在である。だれかがあなたを殴る。「あー、うー。私は怒っているんだ」。「なぜ、あなたは怒っているんですか?」「あなたが叩いたからですよ」それは本当だろうか?いいえ。それは相手に叩かれたから怒っているのではない。あなたは怒りたいと思っているから怒っている。怒らないということを決めることができるだろうか?イエス様は「右の頬を打たれたら、何をしなさい」と言われただろうか?「こっちもどうぞ!」それはできるだろうか?では、いま、隣の人にやってみてください。これはできる。怒ったり、復讐しなくて良いのである。イエス様がそのとおりにされた。十字架でイエス様は「父よ、彼らをお赦し下さい」と祈られた。赦すこともできる。だから、外側の状況に左右されないように。周りの状況にいつも反応してしまのは、肉的な存在だから。しかし、今のあなたは肉的な存在ではない。あなたは霊的な存在である。だから、外側の状況に左右されないように。周りの状況にいつも反応してしまうのは、肉的な存在だから。しかし、今のあなたは肉的な存在ではない。あなたは霊的な存在である。肉ではなく、霊に従って歩む。だから、反応するのはやめましょう!自分の霊に耳を傾ける。あなたの霊は新しく生まれたのである。その霊に従っていく。そのようなクリスチャンはすばらしいクリスチャンである。外側に反応するのではなく、自分の霊に耳を傾けて、その霊に従って歩む。そうすると自然に、霊の実を結んでいくことができる。

 あるときベン先生が家に向かって歩いていました。その当時、先生の家は丘の上にありました。家に入るまで、かなりの傾斜の丘を登り、100以上の階段を登らなければなりませんでした。そして、その家(マンション)の3階に住んでいました。ある夏のとても暑い日、家に帰ってきました。急な丘を登り、長い階段を登り、家に帰ってきました。「ピンポーン」、奥さんが玄関のドアを開けました。彼女は何と言ったでしょうか?「ああ、ダーリン、お帰り。もう、疲れたでしょう。」そうではありません。「タオルで汗を拭いてください」そうではありません。「冷たい水でも飲みなさいよ」ではありません。では、彼女は何と言ったでしょうか?「お米がないのよ。坂の下に行って、お米、買ってきてちょうだい」。「お米1パック?」、スーパー・マーケットは坂の一番下にあります。突然、怒りがこみ上げてきました。「うーうう」発作が起きてきました。先生はこう言おうかと思いました。「これを知らないの?これは携帯電話と言うんだよ。携帯電話は、携帯するものだから携帯電話と言うんだよ。電話をしてくれたら、買って来れたのに…。私は家に向かって丘を上がる前に、スーパー・マーケットの横を通ったんだ。」そのとき、突然、「御霊に聞きなさい」という言葉を思い出しました。「ちょっと、2分くらい休憩させてくれないか。ちょっと部屋に戻っていいかな?」先生は自分の部屋に戻り、自分の霊に耳を傾けました。「…はい、そうです」。その後、奥さんに言った。「こういうふうに私を扱ってくれたけど、まだ、君の事を愛しているよ」。そして、お米を買いに行くために、坂を下りて行きました。先生は、ご自分で「自分の霊に耳を傾けるという、愚かな実例を話しました」と言われました。でも、これはとても大事なことです。このようなことは私たちの日常生活にたくさんあるからです。

 ABシンプソンという人が「御霊によって歩むとはどういうことか」をある本で教えています。5つのポイントが書いてありました。①御霊によって歩むとは、私たちの中に臨在され、宿られるお方として御霊を認識することである。御霊は山や火の柱からではなく、幕屋から、私たちの心の奥の至聖所から語られるであろう。②御霊によって歩むとは、まさかの時にも常に御霊を信頼し、これにより頼むことである。肺を開けば空気が入ることを期待し、明朝になれば日の出を見ることを期待するように、聖霊が私たちの必要に答えられることを期待しなければならない。③私たちが御霊によって歩もうとするならば、聖霊に相談しなければならない。④私たちが御霊によって歩みたいと願うなら、御霊の語られる時に従わなければならない。⑤御霊によって歩むとは、聖霊と語調を合わせて歩むことである。そして私たちの従順は、極めて敏速でなければならず、御霊より一歩遅れたり、追いつけないほどの距離をおいてついて行くようなものであってはならない。まとめて言いますと、①は認識、②は信頼、③は相談、④は従順、⑤はペースということでした。私たちは「マイペース」「マイペース」と言って、あせらないように自分に言い聞かせます。それよりも聖霊のペースがもっと良いわけです。外部からプレッシャーをかけられるようなときがあっても、「聖霊のペース」で歩むならなんと幸いでしょうか。自分の人生を振り返るときに、「ああ、なんて無駄なことをしていたんだろー。時間ばかり食って」と後悔するときがあります。なかなか、教会も自分が思い描いていたように、右肩上がりでは伸びません。逆に、尻つぼみと申しましょうか、減少気味です。これは、私だけではなく、日本の教会の多くの牧師たちが感じているんじゃないかと思います。でも、神様には神様のペースがあるのかもしれません。いつも収穫が多いと良いのですが、そうでないときもあります。きょう学んだように、外側の出来事に反応しないようにしたいです。むしろ、内側におられる御霊に耳を傾ける。神様の時間割りはちょっと、違うかもしれません。私の内におられる御霊がこのように語っておられます。ハバクク2:3「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」そして、3:17,18「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」神様のみこころは、はっきりしています。外側の状況がどのようであれ、「私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぶ」ということです。どんなときでも、御霊によって歩みたいと思います。使徒パウロはコロサイ1章でこのように言っています。「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:27)あなた自身の中に、希望があるということです。それはキリストの御霊、聖霊であります。