2008.09.14 御霊の実 ガラテヤ5:19-24

秋は果物の季節です。私はあるところでアルバイトをしていますが、季節観が本当によく分かります。少し前までは桃でしたが、今は梨が主流です。ぶどうもそろそろ出てきました。この間は、栗が小さな袋に入っていました。もう少したつと、林檎や柿が出てくるでしょう。一番困るのはお米であります。一袋30キロもあるんですからイヤになります。失礼しました、お米は果物ではありませんでした。きょうのテーマは「御霊の実」ですから、果物と関係があります。果物は食べるところがあって、中には種があります。果物にとっては、この種をどこかに蒔いてもらって、子孫を増やしたいのであります。クリスチャンの人格は、いわば、果物の実であります。そして、種とは福音であります。私たちは無代価に人々を愛し、親切にします。人々は私たちの果実を食べるわけです。でも、私たちの願いとしては、福音の種を受け入れて欲しいのです。きょうは、御霊の実と題して、ガラテヤ書5章からメッセージさせていただきます。

1.肉の行ない

 御霊の実の前に、肉の行ないについてお話しいたします。これは、御霊の実とは全く反対のものであって、実ではありません。肉の行ないは、人間が持つ罪の性質とも言えます。使徒パウロは、ガラテヤ書で肉の行ないをリストアップしています。ライトフットという聖書学者は、15の罪の目録を4つに分類しています。最初の3つ、不品行、汚れ、好色は「性的な罪」です。不品行はギリシャ語では、ポルネイアで、正式な結婚によらない性行為全般を指します。ちなみに、ポルネイアはポルノの語源になっていることばです。イエス様はマルコ7章では「姦淫」をその中に加えています。性的な罪は、女性が被害者である場合が多いと思いますが、肉体だけではなく、心と、そして霊にまでダメージを与えてしまいます。多くの場合、隠されていますので、罪を明るみに出して、聖霊によって清められるしかありません。数年前、インドネシアの解放のキャンプを見させていただきました。その中で、最も、悪霊現象が伴ったものが、性的罪とそれから来る傷によるものでした。20歳前後の姉妹たちが、叫びながら体をもだえていました。告白した後、癒しと解放を得ていました。ジョン・サンフォードの『内なる人の変革』の本に書いてありました。アメリカで5人に1人の女性は、自分の家族の中の誰かによって性的ないたずらを受けている。しかし、今では4人に1人であり、さらに増加している。わが国は、まさに「恥ずべき情欲」(ローマ1:26)へと引き渡されつつあると書いてありました。

 第二のリスト、偶像礼拝と魔術は、「異教的な罪」です。十戒の第一番目と二番目は、「まことの神様以外を礼拝してはならない、偶像を造ってはならない」であります。神様の御顔とあなたの顔の間に、存在するものが偶像です。神様はあなただけを見ていたいのです。エディ・レオ師は「偶像の始まりは、私たちが思い浮かべる想像の世界」であると言われました。あなたは頭の中で何をイメージしているでしょうか? 4分間に1度、「トゥーン」と、頭に男性が浮かぶものがあるそうです。マルチン・ルターが言いました。「空のすずめが頭の上を飛ぶのを妨げることはできない。だが、すずめが頭の上で巣を作ることはやめさせることができる」と言いました。この世では、いろんな誘惑が脳裏をかすめます。でも、それはあなた自身のものではありません。頭の上を通過しただけなんです。でも、それを心の中にとどめて、思い続けるのはあなたの責任です。誘惑があなたの頭に居座ると、あなたは罪の一歩を歩み始めたことになります。

 第三のリストは、敵意、争い、しっと、憤り(怒り)、党派心(利己心)、分裂(不和)、分派(仲間争い)、ねたみ。※( )は新共同訳。全部で8ありましたが、これは「兄弟愛を破る罪」であります。人間関係を破壊する利己的な罪です。こういうものは、私たちの心の中に、子どものときから蓄積されています。何かそれと似たようなことが自分にふりかかると、ダーンと反応します。敵意、争い、怒りがそうです。しっとやねたみは、爆発はしませんが、「ねとーっと」ボンドのように、くっついて離れません。人の幸福や成功を素直に喜ぶことができません。「ある教会が大きくなりました」と聞くと、どこか喜べない心があります。逆に自分の教会が大きくなって、教会成長のセミナーを開いたとしても、しっとやねたみをかうかもしれないですね。党派心、分裂、分派は政治の世界だけと思いきや、人々がいるところではどこででも発生します。派閥とか仲間割れは学校のクラスにもあるのではないでしょうか?教会がそうならないことを希望します。

 第四のリストは、酩酊(泥酔)、遊興(酒宴)です。これは、「不節制の罪」です。これは、異教の祭礼に見られるどんちゃん騒ぎのことでもあります。祭りでは乱行が一種のレクリエーションになっているということです。私は18才で建設会社に就職しました。そして、その冬、初めて「キャバレー(上野のボーナス)」というところに行きました。現場の所長さんが、みんなを招待してくれたんですね。「世の中に、こんなにすばらしいところがあるのか」と感激しました。私は宴会が本当に大好きでした。馬鹿をやって人を笑わせる。お酒も良く飲みました。もし、私がクリスチャンにならないで、ずっと遊び続け、飲み続けていたら、結構だらしない顔になっていたでしょうねー。相変わらず、きたない言葉を吐き、破廉恥なことをたくさんしていたでしょう。クワバラ、クワバラであります。

肉の行ないとは、私たちが努力しなくても、ついそうなってしまう罪の傾向性です。落ちるのは簡単ですが、昇るのは難しいです。私たちはだれから教えられなくても、人を憎んだり、いかったり、ねたんだりします。これはアダム以来、私たちが持っている罪の性質です。ですから、この世においては、不品行や争い、分裂分派は日常茶飯事です。でも、私たちは聖霊によって新しく生まれ変わった存在です。ですから私たちは、もはや肉に属する者ではなく、御霊に属する者となりました。私たちが罪を犯すのは自然なことではなく、もはや気持ち悪いこと、不自然なことになってしまったのです。これがキリストによって、救われていない人と救われている人の違いです。救われていない人は、こういう罪を犯してもなんとも思わないというか、むしろ気持ち良いのです。『恵みの歩み』を書かれた、スティブ・マクベィ先生がイギリスで、腎臓結石になったことがあるそうです。明日は招かれた教会で説教しなければならないのに、痛くて転げまわるような状態です。先生は、腎臓結石の痛みは、子どもを産むよりももっと大変だとおっしゃっていました。病院に行って、麻酔を打ってもらい、日曜日、教会で説教できました。アメリカに戻ってから、石を取り除きました。先生の体の中に何週間か石が存在していました。そのため、いろんな問題が起こりました。では、スティーブ先生は、体に石ころを持っていたので、「ミスター石ころ」となっていたでしょうか?先生の中に石は存在していましたが、それは先生自身ではありませんでした。同じように、私たちの中にも罪の力が存在しています。でも、それは私たち自身ではありません。私たちはキリストにあって義なる存在。罪人ではなく、聖徒であります。

 私たちは赦された罪人以上の存在です。なぜなら、私たちは神の目から義とされている存在だからです。「自分は神の子であり聖徒なんだ。もう古い人間じゃないんだ。全く、新しい存在なんだ!アーメン。」こう思って良いのです。なぜなら、それが事実だからです。私たちの中には肉の性質があります。この世に生きている限り、性的な罪、異教的な罪、兄弟愛を破る罪、不節制の罪がいつも隣り合わせでいます。万有引力の法則のように、だまっていれば、罪に落ちてしまいます。しかし、私たちクリスチャンには、キリストの命があります。これは御霊の法則とも言われ、罪の法則に打ち勝つことができます。落ちそうで落ちない。なぜでしょう。いのちである御霊の法則が私たちを持ち上げておられるからです。私たちは「罪を犯さないように」「罪を犯さないように」と罪に集中すると逆に罪に落ちてしまいます。そうではなく、自分が聖徒とされていることを自覚し、イエス・キリストを見上げて歩むのです。そうすると、私たち御霊の法則の中に落ちるのです。御霊は私たちを支え、引き上げ、義の道へと導いてくださいます。この世で生きている限り、罪は存在しています。だけれど、私たちは罪に支配されないのです。なぜなら、神の御霊が働いているからです。アーメン。

2.御霊の実

 イエス様を信じて従って行くと、つまり御霊によって歩んでいくと、私たちの内側にイエス様の品性が生まれます。これを御霊の実と言います。御霊の実は、私たちの性格と関連しています。御霊の実は、聖霊の力によってもたらされる、イエス様の品性であります。私たちがイエス様のようになるなんて、なんとすばらしいことでしょうか!エペソ4章には「完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」とか「あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができる」と書いてあります。キリストに似るということが、私たちの目標であります。これは私たちが努力してそうなるというのではなく、「実」であります。もちろん、努力も必要だとは思いますが、自分で力んで生み出すものではありません。私たちの功績ではなく、神様の恵みであります。世の中では「人徳ですね」「人徳ですよ」なんて言いますが、そうではありません。神様ご自身が、聖霊を通して、私たちのうちに実現されるのです。アーメン。

御霊の実はここに、9種類あげられています。でも「御霊の実」は単数形です。ある人は「御霊の実とは愛であり、愛が喜びとか平安、寛容として、具体的に現れるんだ」と言います。確かにⅠコリント13章では、愛が最も大切だと書かれています。そして「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたまない」と書いてあります。愛こそが肉の行ないに打ち勝つ御霊の実であるということです。もう1つは、御霊という1つの実の中に9つの、房があるんだという「有機的な一体」という考え方です。もうすぐ、みかんの季節ですが、みかんの皮をむくと、たくさんの房がつまっています。横から輪切りにすると、よくわかります。愛、喜び、平和…自制と9つの房が詰まっているのを想像したら良いと思います。ビリー・グラハムは、9つの御霊の実を3つの部門に分けました。最初のグループは、愛、喜び、平安です。これは、特に私たちが神へ向かっての関係を物語っています。第二のグループは、寛容、親切、善意です。これは特に人間関係、つまり対人間に見られます。第三のグループは、誠実、柔和、自制です。これは内面の関係、つまり内面の自己の態度と活動にみられるということです。これらは、全部が相互に関連して、全部が私たちの生活の特徴となるべきです。「私には喜びはあるけど、愛がない」とか、「誠実はあるけど、自制がないのよ」などとは言っていられません。もちろん、これらの中には時間がかかるものあるかもしれません。でも、神様は、1つ1つの房がまんべんなく詰まった1つの実として育つことを願っておられます。
週報にもお書きしましたが、1つ1つの特徴を簡単に学びたいと思います。これはビリー・グラハムが書いた『聖霊』という本を参考にしたものです。あの本は、とっても、バランスのとれた本だと思います。まず、第一は、愛です。愛は感情だけではなく、意思や行動が含まれるということです。みなさん、愛が感情だけだとしたら、どうなるでしょうか?感情は絶え間なく変化します。「愛したい!」と感情が湧きあがるときもあれば、「何が愛だよ!」と愛のひとかけらもないときがあります。もし、感情に支配されていたら、ジェットコースターのような信仰生活になるでしょう。それも、スリルがあって良いかもしれませんが、周りの人は大変です。この愛は、アガペーの愛であり、無条件の愛です。ですから、まず、私たちはこの愛を神様からいただく必要があります。そして、この愛を意思と行動をもって隣人に現わしていくのです。ある人が天国でイエス様とお会いしたような夢を見ました。そのとき、祈ってないのでごめんなさい、ささげてないのでごめんなさい、妻を愛さないのでごめんなさい、とさんざん謝った。だけど、イエス様はこうおっしゃいました。Did you learn to receive My love? 「私から愛を受け取ることを学びましたか?」と言われた。愛がないなーと思う人、イエス様から愛を受けてください。

2番目は「喜び」です。この喜びは、幸福や楽しみとは異なり、環境に左右されません。聖書には「幸福を求めるべきだ」とはどこにも書いていません。幸福とか祝福は神様に従っていくときに、与えられるボーナスであります。幸福はおまけであります。楽しみは一時的です。デズニーランドのアトラクションのようです。でも、喜びは人生の最悪の状況にあっても、奥深くに存在し、留まるものです。これはビリー・グラハムの表現なので少しキザです。私はキリストにおける救いを思ったなら、どんな環境の中でも、喜びが湧きあがってきます。たとい、この世ですべてのものを失ったとしても、永遠のいのちにまさるものはないからです。

3番目は「平安(平和)」です。これは英語のピースよりも、ヘブライ語のシャロームがふさわしいと思います。つまり、単なる抗争がない状態ではなく、満ち足りた安定した心の状態です。ある先生は、高回転しているコマに例えています。コマはまるで眠っているようですが、そうではありません。高回転しているので、そう見えるのです。その中には、エネルギーが充満し、そして安定性が保たれています。聖歌に、「すべてやすし、御神ともにませばー」という歌があります。たとえ世の終わりが来ても、神が共にいれば平安だということです。

4番目は「寛容」です。これは苦しみや試練を乗り越えるときに与えられるものです。ある英語の聖書に、寛容はlongsuffering、「長く苦しむこと」と書いてあります。何故、長く苦しむことが寛容なんだろうと思ってしまいます。全世界でもっとも寛容な方とはだれでしょうか?私は神様だと思います。全人類の罪を長い間、ご覧になって我慢しています。本来なら、人類をノアの洪水のように滅ぼしても良いのですが、立ち返るように、いと長く忍耐しておられます。父なる神様は本当に寛容です。だから、父なる神様の心を持った人は、寛容になるのではないかと思います。ほうとう息子が帰ってくるのを待っていた父親の心です。

5番目は「親切」です。これは、困っている人に対する優しい態度ではないかと思います。親切は「優しさ」とも置き換えられるものです。多くの人は優しさを求めています。でも、自分がたくさんの心の傷を受けてきたため、意地悪や憎しみが出てしまいます。子育てしたことのあるかたはご存知かもしれませんが、「どうして子どもに優しくできないんだろう?」と悲しくなるときがあります。それは、自分が子どものときに、虐待を受けたからではないでしょうか?イエス様は本当に親切です。自分を裏切ったペテロを愛して、受け入れて、赦してあげました。

6番目は「善意」です。善意は英語で、goodnessと言いますが、「神様のような」という意味があります。マタイ5:45「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」と書いてあります。ですから、神様のように、分け隔てなく、良いものを与えたいという心です。物ごとを善意で取る人もおれば、何でも悪意に取る人がいます。心にレンズがあるとすれば、とてもゆがんだ人です。もし、善意の心のレンズで見るならば、お互いに、敵対して争うこともなくなるのではないでしょうか。

7番目は「誠実」です。英語では faithfulnessです。これは、忠実とか忠誠とも訳せる言葉です。日本語の誠実は正直という意味合いがありますが、人ではなく、神様の前における誠実さです。「真実なる神様が確かにおられる。神様は必ず報いてくださる。」そのことを本当に信じている人は、誠実な歩みができます。クリスチャンは「たとい人から認められなくても、神様がご存知である」と信じています。ですから、自分自身に対する葛藤が少ないです。自分自身を神のことばで慰めることができます。

8番目は「柔和」です。私たちは「柔和」と聞くと、弱くて頼りなさそうな感じがしますがそうではありません。これは制御された活力、力強さ、気力、活気のことであります。聖書には「モーセは地上のだれよりもまさって柔和であった」(民数記12:3KJV、口語訳)と記されています。しかし、40歳の頃のエジプトの王子であったモーセは、自分の知恵と力に頼る人でした。モーセは馴らされていない野生の馬のような、気の短い男でした。彼が完全に神の支配化に置かれるまでは、荒野での40年が必要でした。

9番目は「自制」です。自制は英語で、self-controlと言いますので、自分の意思で抑圧するような感じがしますがそうではありません。抑圧するといつか、あるところで爆発します。これは、恵みによって、自分の感情や欲望を制することです。自制は他の聖書では、「節制」とも訳されています。ビリー・グラハムがおっしゃっています。「食物の摂取における節制は適量を守ることである。アルコールに関しての節制は習慣的飲酒に陥らぬことである。」

では、どうしたら、御霊の実を結ぶことができるのでしょうか?ヨハネ15章でイエス様は言われました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」キリストにとどまるときに、私たちは御霊の実を結ぶことができるのです。キリストにとどまるとはどういう意味でしょう。①イエス様と親密な関係を持つこと、②イエス様に従うということ、③イエス様により頼むことです。そうすれば、イエス様のいのちが私たちの内から溢れてくるのです。自力で御霊の実を生み出そうと頑張ると逆に無理です。力む必要はありません。りんごの枝が「んんんー、実を結ばなければ」とプルプル震えているところを見たことがありません。そうではなく、主と親しく、従順に、頼り切っていれば良いのです。